銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

野ねずみと、モグラと、曲がった大根の話

2009-03-15 00:53:12 | Weblog
 以下の文章は、初稿として2006年の6月の25日に書いております。

 その日の朝日新聞の投書に<<<ねずみの赤ちゃんを見つけて家へ持ち帰ったのに、『捨てなさい』と言われた>>>話がありました。

 投書者によれば、『ねずみの赤ちゃんは私たち姉妹にとっては宝物だったのに、場合によってはそうは言えないときがある』事を知ったと、・・・・・

 実は我が家の主人がある日、野ねずみの赤ちゃんの思い出を語ってくれた事があります。主人が小学校のころ、山へ友達と遊びに行って、野鼠をとってきたのだそうです。もちろん、大人ではなくて、子ども=赤ちゃんです。とても可愛くて、男の子特有の狩りと蒐集の本能を刺激されたのでしょうが、「今思うと、残酷なことをしてしまったなあと思う」と主人が言います。

野鼠の赤ちゃんといえども、当時(1950年代)の日本では、普通の家庭では、飼いきれない時代でした。だから、死んでしまったと思います。ハムスターを飼うかごとか、ペレットが売っている時代ではなかったからです。大人になってよく考えてみれば、野鼠は、生態系の中で、何かの昆虫を食べているわけですから天敵として、大切な一環でありました。それに、野鼠の親にとって、妊娠をして、出産をして、子育てをするというのは人間に比較しても大変な重労働であり、それを、横取りしてしまったのは、主人が今悔やむように、残念至極なことでした。

もし、その頃、既に、ペーターラビットが、日本へ導入をされていて、広島県の呉のせめて小学校の図書室にでも、置いてあれば、主人たち、悪童(?)連中も、それを見つけてもそっと、元に戻して家へ帰ったはずです。小さくて、小さくて、3~4センチでもきちんと、毛が生えていて、ちょろちょろ可愛く動くもの・・・・・魅力一杯なもの・・・・・でも、もって帰らなかったと感じます。
~~~~~~~~~~~~~

この小さな命を最上に生かすという件について、少し場面が変りますが、三十年以上前のエピソードを、ここに記させてくださいませ。

昔よこすか時代に、我が家の猫がきれいこと極まりない、モグラの一種を取ってきて、それが生きているので、困りました。人間(たとえばうちの子とその悪童仲間)がとってきたのなら、「元のところに返してきなさい」と、いえますが、猫では、それを命令することも出来ません。何とか、大切に生かしたいと思いました。で、教材として、息子に幼稚園に持って生かせたら、

  先生方が、きゃあーと言って、『捨てなさい』と叫んだそうです。
西原理恵江子さんに告げ口したいほど、単純な発想だと私は思います。『男の子を、自由に育てる、長い手綱の人』と当時は言われていた私としては、残念極まりない、現象でしたが。

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 今、日本では青少年が起こす新しい形の事件が頻発をしております。それの一因ですが、命、を、大切にする発想がまるでないということも問題なのじゃあないでしょうか? お葬式を家で執り行わなくなりました。ともかく、亡くなるのもたいていは、病院です。

 そして、食品もスーパーできれいなパックに入れられたものを、さっと簡単に手に入れるシステムになってしまっております。

 この間、農学・関係の大学生さんたちが、地方のおばあちゃん(私が若い人が、熟年である他人を、おかあさんとか、おばあちゃんと、呼ぶのは反対ですが・・・・・まあ、この場合は許すとして)たちと、連帯して都会で、形が悪くて市場に出せない落ちこぼれた野菜を東京の街中で、テントを張った臨時店舗で、売っています。小さな試みですが、正しい方向です。このグループは、田舎会社(?)東京支店と言うのですって。がんばれ、がんばれ・・・・・

  2009年3月14日      雨宮舜 (川崎 千恵子)
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無印良品、W.モリス、UNION(デザインとビジネス)

2009-03-13 23:39:56 | Weblog
 09-3-12日のことです。新橋で地上の電車に乗り換えて、上野へ向かいました。普通は丸の内側の窓を見るのが常ですが、その日はたまたま、東側を見ていると、有楽町で奇妙な形の大屋根があるのに、気がつきました。あっという間のスピードで電車は通り過ぎるわけですが、無印良品と屋根に書いてあるのに気がつきました。

 その時にぴんと来るものがありました。『無印良品の経営感覚はまだ、確かですね』と言う意味での安心です。

今から12年前、私がパリやニューヨークへ行った頃、この会社の商品が欧米でも高く評価をされているということを知り、一日本人として誇らしく感じたものです。

しかし、最近では、・・・・・鎌倉駅周辺でこそ、出店が無いものの、大船駅の駅中にもあるし、あそこにもあるし、ここにもあるし、と言うわけですし、お菓子を、売りはじめていて・・・・・、会社設立当初の、優良なデザインを社会に広めるという趣旨よりは、儲け志向が高まっているのではないかと案じておりました。

でもね、有楽町と言う一等地で、簡略な建物を作って、商売をしているセンスはなかなかのものです。土地を借りているのか、買ったのかは寡聞にして知りません。だけど、そこに大ビルを新築したら、その投下資本が経営を圧迫すると思います。もしかすると以前はソフマップだったかもしれないビルですが・・・・・

私はそこで、毎週一回花を買います。花は好きで、あらゆる街のあらゆる花屋を試していますが、その有楽町の無印良品の花売り場の、よいところは、(イ)一本、一本、値札がきちんとついていること。(ロ)多量には仕入れていないこと。(ハ)花束をたくさん作らないことなどで、新鮮なお花を買い求める事ができるからです。

ここで、脇へそれますが、花とは市場で箱に入って売っているもので、それを出したては茎が相当長いのです。お花屋さんはブリキの缶に入れて、毎日、茎の下を、5センチ程度水切りをして二週間程度、商品としての質をもたしていると、私は想像いたします。そして、短くなった見切り品を、ホトケさま用のお花に転換しているわけです。または、最近おお流行のブーケ(花束)ですね。それから、ご家庭向けの400円から800円程度にまとめられた花束の類です。

私は自分が画家ですから、自分で選別をしたいです。で、一本、一本新鮮な花を買うことが出来て、しかも、千円以内の買い物でも店員さんが嫌な顔をしないお店を選んでいるわけですが、この無印良品・有楽町店はそれが可能な場所で、私以外のお客もいかにも花好きなOL等が多くて、質素な買い物の中に、充分に日常生活を楽しんでいることをうかがわせます。

そうなのです。私はいかにも貧乏話ばかりしているようですが、知識の習得とか、精神の慰安に関しては、相当なお金を使っている人間でもあります。指輪や時計、そして洋服には凝らないけれど、心の満足に関しては、お金を惜しまぬ、贅沢な人でもあります。だから、瞬間的に私と接する人は別として、長時間私と接することとなると、その一面で私を嫌う人が出てきます。それが、また、五冊目のテーマともなっておりますが・・・・・人間の嫉妬は、『この人より自分の方が上よ』という先入観が覆されたときに、かえって大きくなったりするものでした・・・・・

さて、元に戻れば、いつも道路側からそのお店を見上げるので、その建物がこんなに、簡略なビルだったとは今まで気がつきませんでした。でも、とてもよい発想だと感じます。

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 上野公園は、三月から四月にかけて、ケヤキが芽吹く頃がとても美しいです。私は都・美術館のARTS アンド CRAFTSと言う展覧会を見に出かけました。私は普通は、美術館・博物館より画廊を優先します。銀座の画廊、ニューヨークの画廊、そこでは、出来立てほやほやのもっとも新鮮な作品を見ることが出来、作家さんも意欲に溢れた発言をします。それに比べれば作家が没故作家であり常駐はしていませんし、ガラスケースをすかしてみる、やや古びた作品に接することには、それほど、喜びを感じないからです。

 でも、そのイギリス、ウィーン、日本のデザイン器具(民芸というか、実用に供された当時の最新デザインのもの)を見に行ったのは、なぜでしょう。それが、アートではないから? それともNHKで放映された白州次郎、正子のドラマに影響を受けた(?)、

 実は、白州夫妻のドラマはまだ見ておりません。いろいろ私の方に考えがあって。

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 都・美術館の催し物は、満足できるものでした。その後ですが、私は神田駅に出たのです。日本橋の画廊に行こうと思って。ある四つ角で、高野理科器具店と言う大ビルを見つけ、『ああ、ブンゼンバーナーを欲しいとおもって居たが、ここへ、買いに来ればよいのだわ』と納得をして嬉しくなりました。神田から浅草、日本橋、京橋にかけては、江戸時代からの職人の街でもあり、それが、発達をした名店(と言うか、今では会社)があるのです。創業が1928年と言う高野(株)さんは、学校が主な取引先でしょうから、五時には閉店してしまっていて、バーナーを買う事はできませんでしたが。

 ところがですね。その次に、出遭ったのが、美しいショールームです。何と、ドアノブ専門の会社でした。そこから派生した関連商品も置いているのですが、モダンなものから、クラシックなものまで、広いフロアーに美しく展示をされていて、私は感嘆しました。この会社のショールームなのだそうです。パリのBHV(ベーアッシュヴェー)で、こういうものの、商品数が多いことには驚嘆したと、以前述べております。それと、同じぐらいの数のデザイン商品が、より広いスペースを使って、美しく並べられていました。売ることが目的ではないので、スペースが充分にとられているのです。鑑識眼のとても高いと自負する私の目にも充分に耐える、美しい空間で、思いがけない眼福を得ました。この会社の名前は、UNIONと言います。

 努力の限りを尽くしてよいものを作っている会社が、ここ神田に存在していました。ほっと、安心致しました。日本はまだまだ大丈夫でしょう。

  2009年3月13日      雨宮 舜 (川崎 千恵子)
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受粉用の梅とは、おしべの数が多いのですか?

2009-03-12 22:35:47 | Weblog
 08年の2月に曽我の梅林へ出かけました。梅林の中におかれた簡易テーブルに座っておでんを食べていると、曽我小学校の三年生だと言う男の子がやってきて、梅干と梅エキスと本をくれて、その上で「あそこのバイオトープ(生態系を見せる植物園)で、梅の研究発表をするから、聞きにきてください」といいました。

 で、2時15分にそれが始まりました。生徒は二十人ぐらい。聴衆は木曜日(平日)ですから、引退後の老人を中心に、三、四十人。久しぶりに暖かく、しかも完璧な晴天。すばらしい野外劇場でした。

 こどもたちは、四人ずつがふたグループ、痛々しいほど真剣になって発表をしました。梅の種類、特に実を採るための梅が紹介をされました。

 その中に受粉用梅というのがありました。私はその発表が終わったとたんに、「受粉用梅とはおしべが多いのですか?」と質問をしました。

 するとごく近所から「あら、いやだ」という女性の声と「く、く、く」っと笑う声が数箇所から聞こえ、主人がしゃがんでいる私の後ろから、バックパックをつついて、「へまをするんじゃあない」と注意をしました。

 私はそのときは、何も口には出しませんでしたが、心の中で『あら、いやだ。私は純粋に科学的に質問をしているのよ。受粉用というからには、何か特徴があるわけでしょう。その特徴とはおしべの数が多いか、花粉の量が多いかのどちらかでしょうに。いやねえ。わらった人たちは。人間のセックスと、すぐ連想させるのだから』と思いました。

 でも、人の誤解は誤解として私はくじけずに、その発表会を、純粋に理科+社会科の発表として集中をして楽しみ、耳を傾け続けました。そして、もう一回別の新しい質問が思い浮かびました。

 今度は「受粉用梅とは、二十本(大体が、二十本ぐらいで、ひとつの畑となっているから)に一本ぐらい植えてあるのですか?」と質問をしたのです。
 曽我の梅林とは、大倉山の梅林などとは違って、純粋に梅の実を取るために、栽培をされている所を、観光用に開放しているので、一つの畑、(昔の言葉で言う一反だろうか?今の言葉でいう三百坪だろうか)、1000平米くらいで、区切られています。その中に20本ぐらいの背を低く仕立てられた梅の木が植わっている形式です。

 その畑の中心に一本の受粉用の梅が植わっているのか、それとも、五本に一本ぐらいの割合で植わっているのかは、興味の尽きないところでした。

 すると聴衆がざわざわし始めました。そして、子供たちはもじもじとし始めました。後ろから男性の聴衆が、「割合のことだね」といいました。でね、私はやっと場の全体の人が私の質問の意図とか拠って来るところを正しく認識してくれたのを知り、子供たちに向かって「それは、まだ調べていないのですね。ぜひ、おじさんたち(梅林の持ち主を指す)に後で聞いておいてください」といいながら、次の質問を浴びせました。

 「ええと、さっき、受粉用小梅の話をしたでしょう。あの小梅を白加賀(主に、梅酒に使う中粒で、曽我の梅林には多い種類)の畑に使えるのですか」と。

 これは生物学的にはとても重要な質問です。受粉用によく使われるのは、小さい実の梅だそうです。しかし、大きな実のなる、白加賀と言う売り物になる品種に、違う種(つまり小梅)の花粉をつければ、ハイブリッドになって、うまくいかないのではないか、または、新種ができてしまうはずなのです。

 でも、江戸時代から研究をされている梅栽培技術のことです。もしかしたら、白加賀の畑に、なんとか小梅という、受粉用種木を一本だけでも、植え込むのかもしれません。本当に答えを得たい質問でした。

 だけど、聴衆がさらにざわざわとし始め、「こどもには難しすぎるよなあ」という声も聞こえ始めました。そうです。私は九才のこどもの研究発表とはいえども、絶対に尊敬をしているのです。一流の学会並みの質問をぶつけたいのです。研究の内容を深めたいのです。

 ただ、そうはいっても、この最後の質問に、いま目の前にいるかわいい子どもたちが、答えられないのは、もちろん充分に推察できました。でも、将来、その質問の意味がわかってくれるときが、きっとくる、と信じているのです。

 数十秒たったときでした。さきほど、「あら、いやだ」という声が聞こえたあたりから、女性たちが席をつめてくれる気配が伝わってきて、しゃがんでいる私に、すぐ右側のベンチに座っている人が、「どうか、お座りください」といってくれました。私はいわゆる空気の読めない人です。この講演会には難しすぎる質問を、連発をしました。でも、質問があるということが科学の第一歩です。それは、聴衆の大人たちがわかってくれたでしょう。

 席を詰めてくれるという親切さの発露に、自分が名誉挽回をした事が判りました。私は子どもたちを軽蔑しているのではなく、からかっているわけでもなかったのですが、それが、聴衆の大人たちにも、ちゃんと、伝わったみたいです。なぜか、いつでも、真面目であることを軽蔑する雰囲気が今の日本にはありますが、私は、KYなんか、吹っ飛ばせと言う勢いで、自らが、信じるところを実践しております。いつでも、どこでも。

  では、2009年3月12日    雨宮舜 (川崎 千恵子)
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「鬼子来了」は、50年後は、中国を代表する映画となるでしょう

2009-03-11 13:47:44 | Weblog
 映画『鬼子来了』については、このブログで、ずっと、書いてきました。最後にあげたのは、2月5日のようです。はるかに昔となりました。次から次へと新しい現象に発想が移動してしまっています。

 その後、4回前の『渋谷の居酒屋』と言う項目でも、渋谷の居酒屋のスタッフさんがこの映画を知っている事を知り、嬉しくなったと簡単に触れています。
 ところで、今日上げます文章は、8回前の、3月2日にあげた『風と共に去りぬ』を描いたその、同じ日に描いておいたものなので、導入がそれに続きます。
もし、このブログに新しくお入りになった方があれば、そちらも、ご覧を頂きたく。

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 前報で、『風と共に去りぬ』がアメリカを代表する作品の一つだと述べました。で、中国を描いた映画で、その国を代表するものは何であろうと考えると、50年後は、『鬼子来了』であるような気がします。

 今、現在の中国には矛盾が一杯あります。最近、戸籍の移動が自由になったそうです。これは、大きな問題なので、別項で述べたいと思いますが、ともかく、今は、中国自身が、自信を持ち始めている最中で、この自信が真に定着したら、あの国も、鷹揚になるはずなのです。国内のクリエーターの中で、真に天才的な発想をする人間の、表現の自由を認めるようになるでしょう。

 今は、この映画『鬼子来了』が、一般庶民向けに公開されたかどうかさえ、私には判りません。中国政府が嫌がるのは、あまりにもリアルに、農村の、貧しさが描かれていたり、国共内戦の事実が、それも、リアルに描かれていて、共産党の権威確立に、マイナス要因となると、考えていることが、主な原因だと感じます。

 でも、共産党そのものの、一党独裁が、崩れたりして、思想信条の自由が確保されたら、この映画に描かれている世界など、ごく、普通のこと、又は、当たり前のこととして、政府にも国民にも、受け入れられると思います。

 日本映画で、比較すると、『七人のさむらい』に似ています。白黒映画ですし、貧しい農村を舞台にしています。そして、活劇があります。ちゃんばらではなくて、鉄砲を使う段階の白兵戦ですが、追いつ追われつの恐怖は、大きなスリルとなっていて、娯楽作品の要素も一杯あります。何よりも笑いのセンスさえあるのです。

 ボードビルではないんですよ。日本のお笑い芸人の発するお笑いでもない。ただし、真剣にうごめいている人間が、そこはかとなく、かもし出すユーモアが一杯あります。

 ところで『七人のさむらい』には、戦後の民主主義の実践的、啓蒙と言う側面もありました。今、見るとそこが、一種の『くさい』ところとなっています。今、現在の日本人はそんなに、素直ではありません。ちょっと、引いてみる姿勢で生きています。だから、貧しい庶民の味方が、ヒーローであると言うこと自体が、信じられなくなっています。ウエブ・サイト上では富裕層をもてはやす記事も、いまだに、多いですしね。

 ところで、香川照之演じるところの、敗残の日本兵(多分、二等兵で、小野田さんみたいな将校ではない)は、ヒーローではないのです。めっちゃ、くちゃに、リアルな敗残兵を演じています。そして、農民も、貧乏極まりなく、国民党と、共産党の、兵士や将校も、えげつなかったり、ずるかったりして、それも、リアルすぎる設定です。だから、中国政府が、完成当初、公開を許可しなかったのでしょう。

 でも、そこが、また、スーペリアーポイントとなっているのです。海外の映画祭で、大賞を取ったという意味では、共通していても、いきの長さと言う意味では、こちらの方が長いかもしれないと思うほどです。思想信条の押し付けがありません。観客は恐怖に震えたり、笑ったりしながら、しかも、何かを学び、感動して映画館を去ります。

 世界各国には、フィルムセンターと言う、一種の図書館があるでしょう。そういう場所に保存をされていた、フィルムから復刻をされて、50年後に再公開をされて大ヒットをするという予測を、私は立てます。そこに至るまでの時間の長短は、中国と言う国家の成熟如何で左右されるでしょうが・・・・・そこを信頼する事が、自分も創作をする人間としての、生きがいなのです。それを、信じて、私たちは苦労に耐えているのですから。

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 ところで、上のような大胆な予測を、ここで、披露してしまったわけは、私が少数ながら過去に見た、中国映画、または、中国を題材にした映画のどれよりも、感動と学びの両方を与える作品としては、『これが、上だ』と思うからです。

 作品の圧倒的なレベルの高さゆえに、この中に登場する、日本刀を使った、斬首の場面に違和感やら、反感を抱きません。文脈がちゃんとしているので、不都合なく、見ていられるのです。
 
 まあね、皆様もよくご存知であろう、『赤いコーリャン』『ラストエンペラー』、『覇王別記』『非情城市(これは、台湾映画ですが〕』ほか、結構いろいろ、映画館で見ています。でも、一番優れていました。

 ところで、最後になりましたが、この映画の製作現場で書かれた、日記〔無印良品の何の変哲も無いノートだそうですが〕をベースにした、香川照之さんの著作(キネマ旬報社刊、タイトルは『鬼子魅録』もすばらしいと、繰り返し読みながら思います。

 その中の37頁に直立不動で、「担え銃」、「捧げ銃」の訓練をしている写真があるのですが、別の日にはただ、直立不動で、微動だにしないように、八時間、炎天下で立たされたそうです。それが、日本兵のリアリティをかもし出すために必要だとされたようです。

 たしかに、最近でも、終戦記念日の前後には、戦時中を再現したドラマや、映画が企画されますが、長髪、で、演じている俳優〔大泉洋〕がいたりして、「だめよ。あなた、それではリアリティが無い。ご自分の生活優先では俳優ではないでしょう」と感じてしまいます。こちらの、『鬼子来了』は、全く違います。

 制作費は、少ないみたいです。画面は小さいと思いますし、先ほども言ったように、白黒です。制作、監督は、『赤いコーリャン』に主演した姜文〔チァン・ウェン〕。そちらの映画の成功で得た報酬をすべてつぎ込んだでしょう。偉いです。

  2009年2月28日 
送信は、3月の11日に。      雨宮 舜(川崎 千恵子)
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英語を学びたい母に慰められる、今日の憂さ

2009-03-10 01:39:32 | Weblog
・・・・・母は94歳なのに、英語を学ぼうとしています。その気力に、今日与えられた意地悪な処置を忘れる事ができました。・・・・・

 今日の私は、思いがけず、突然お墓参りに行くことにしました。そこで、とんでもない女の意地悪の対象となってしまって、大いに気分が壊されました。ただ、帰宅したのが夜の12時です。だから、いつもと順番を変えて、因果関係のうち、最後の方の、慰めを得られた美しい話の方を先に書かせてくださいませ。
~~~~~~~~~~

 そろそろ、ホワイトデーが近いので、デパートの入り口近辺には、チョコレートの出店が集中をしています。ゴディヴァもあれば、私がいまだ名前を知らない、しかし、とても高級そうな、ブランドもあります。ただ、94歳を越える母には、歯で割ることができないので、一粒が小さい事が必要です。で、メリーのファンシーと言う直径が1.5センチぐらいのラインのものを買い求めました。

 老人ホームに到着すると、母が「うわー、きれいね」と男性向けの青い包装紙を喜んでくれます。それで、先日持って行ったお菓子がまだ残っているのですが、このチョコレートも今日のうちに封を切ることにしました。ファンシーと言うラインは中に何も入っていない粒で、硬いのです。それで、母に、「ちょっとの間、なめていて頂戴ね」と頼みながら、二人で四方山話をしていると、母が突然、「ファンシーって、なあに?」と質問をしてきます。それも、きちんとFの部分を、下唇を噛みながら。

 私は、「きれいとか、素敵と言う意味よ」といったんは答えて、さらに、四方山話を続けていると、今度は、「フィネストって、なあに?」と聞いてきます。私は、フィネストって言う英語が、あったかなあと、いぶかしげな顔をすると、母が、ここよと言う感じで指差します。すると、FINESTと書いてありました。

 その時に、すぐ、ファインの最上級で云々と言う説明は頭に浮かびましたが、母が94歳であることを思い出して、そういう説明はすべて取り去り、「とっても、上等なと言う意味よ」と、答えました。そして、それにも母はすぐ頷いて納得をしてくれました。すごく素直になっています。昔だったらローマ字読みをして、「あら、Fの次は i なのに、どうして、ファイネストと読むの」などと、質問をしてきたはずですが、私の省略した言い方にも頷いてくれて、子ども帰りをしてきたのがわかります。

 でも、ふとですが、箱をもう一回見直してみたのです。さっきの、ファンシーがカタカナで書いてあるのか、英語で書いてあるのかを確かめたくて。すると、アルファベットで、書いてあるだけだったのです。びっくりしました。うろ覚えで発音するなら、cy は、キーと発音をしてもよいのです。私は母が、カタカナを読んで、意味だけを質問をしてきたのだと最初は思い込んでいたので、『ええー、驚いた。ちゃんと、英語を読んでいて、その意味の方だけを質問をしてきているのだ。何と旺盛な好奇心であろう。そして、向学心であろう』と、ちょっと感動をしてしまいました。
 
 老人ホームの居間でよく漢字のドリルをしていますが、それも、すべて100点で、本当にそれには、感心していましたが、英語にも興味があるのにも驚きました。母は、ほぼ、70年強前の、下関の女学校を出ただけで、その学校に外人の先生がいたとは思えません。
 私の方は、12歳の頃から、学校にアメリカ人の先生がフルブライトの交換生として滞在していたので、F,TH,Rなどの、発音が身についたわけですが・・・・・

 ちょっと感動して、「お母さん偉いわねえ」などと言いながら、さらに四方山話をしていると、「メリーはね。二番手だけどね」と言うのです。確かに、メリーチョコレートは最近大変向上していて、お使い物にしてもおかしくないブランドとなっています。でも、私が母と一緒にデパートへ買い物に行った、50年前は母の言うとおりで、モロゾフなどの方が上でした。そういう社会現象についても、ちゃんとまだ、正しく判断できる母には、再び驚きました。

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 さて、母のそういう前向きな姿を見る喜びによって、やっとそこから、回復した私の傷とはナンだったでしょう。倒置法でこれから、それを描きます。

 問題は墓前用の花にあります。鎌倉霊園は、辺鄙なところにあるので、花屋さんは独占企業の常で、全く努力をしておらず、花が悪いこと悪いこと、そして高いこと、極まりないのです。で、私は必ず、鎌倉の町で事前に買い求めていくのですが、今日は突然、主人が「早く出て行けば、」と自分の外出を犠牲にして与えてくれた時間を利用したので、お花の用意がありませんでした。

 しかもバス停で、後一分でバスが来るとのこと。で仕方なく、霊園で買うことにしたのです。街の花屋だったら、1500円もすれば、きれいな一対のお花を手に入れられます。でも、鎌倉霊園だと、2000円でも、しおれたカーネーションが、一番前に挿してあるような、恐るべき低品質のものを売っているのです。これは、職員がサラリーマン感覚だから、一週間売れなくて捨てても、個人的には損をしないからなのでしょう。

 それに、花を扱うというのは、冷たい水を使う重労働なのですが、それを嫌がっているらしくて、なんら、手当てをしていないのです。一週間以上、手桶の水を交換していないし、水切りもしていないと思われます。だから、惨憺たる有様です。しかも、いつも、「お線香をいかがですか」と、質の悪いお線香に200円をぶんだくられて、それを、注文しないと嫌な顔をされます。毎月一回行っていますが、いつも嫌な思いをしていました。

 ところが、今日はそれ以上の仕打ちを受けてしまったのです。お財布を開けるとお札が入っていなかったのです。これは、昨日、9000円以上の食料品を買ってしまって、年金暮らしでは、だいたい、一回の外出で、一万円を越えない買い物に抑えていますから、一枚目の、お札が消費されつくしていて、そこに新しいものが、入っていなかったのです。バスの利用は小銭で済みますから、その売店前までは、お札が入っていないことに気がつきませんでした。

 もちろん、銀行のカードは持っていて、本当なら駅まで行って、お金を下ろして、花も普通の花屋さんで買ってから霊園に行こうと思っていたのですが、たまたま、八幡宮前のバス停で時刻表を見たために、『あ、後一分で来るのだから、そのバスを利用しよう』と思いついたので、それが、わざわいをして、お金が入っていないお財布に気がつかず、朝比奈峠と言う、コンビニ(ATM)も何も無い鎌倉のはずれへ、到着してしまったわけです。

 私は普通ですと、ものすごく素直な人で、「あ、ごめんなさい。このお花返します」と言う人です。しかし、普段から、この売店の女性たちが、意地悪なのを知っていますので、それが言えずに、もたもたしながら、ふと、「カードが効きますか?」と聞いてみたのです。すると、カードは効くんですって。これは、勿怪の幸いでした。さすが、大・西武不動産(株)経営の霊園だと、ありがたく思ったのです。

 たまたま、隣のお客がアーモンドチョコレートを買っていたので、私もそれを追加しました。いつも疲労困憊なので、甘いものは常に、ハンドバッグに入れておくほうです。それで、合計2210円となりました。すると眼鏡をかけて髪をひっつめにした女性が、「一回払いで、いいですか?」と聞くのです。

 私は繰り返して述べているように、馬鹿ではありません。すぐ、相手の意地悪に気がついて、つぶやくように、こういいました。「あら、あなたって、女の意地悪のスイッチが入っちゃったのかしら。普通の感覚なら二千円ぽっちの支払いを、分割するわけはないでしょう」って。続けて「ともかく、あなたは霊園のスタッフにはふさわしくない」とも。

~~~~~~~~~~~

 霊園におまいりに来る人は、謙虚な気持ちで、静かな雰囲気の人ばかりです。売店を牛耳る彼女らの意地悪ムードにも、今まで抗議をした人はいないでしょう。そして、女の意地悪って本能的なものです。ハゲタカみたいに獲物を見つけると、さっと襲い掛かるのです。

 また、そういう人間は、怖いので、回りが甘やかします。この売店の雰囲気が前から『とても、悪いなあ』と気がついていましたが、朱に交われば赤くなるで、彼女が源泉となり、みんなが意地悪ムードに染まっていたのでしょう。

~~~~~~~~~

 でも、海外では、私が同じ指摘をすると、すぐ、相手が顔色を変えるか、言葉あるいは、態度で謝ってきます。つまり、本能の段階でやってしまったことでも、言葉と言う論理の世界に移行すれば、その当事者もすぐ、論理(又は、理性)の世界へ入るのです。だけど、日本人の、特に中年の主婦は違います。自分の身近な人、または、上司には迎合し意地悪など抑えるでしょう。でも、眼に見える範囲で、利害関係のない(と、彼女が考える)人間に対しては、謝罪をする事がないのです。

 大いに嫌な気分にさせられました。が、六時間後、母の素直な向上心に接して、すっかり心が洗われました。

   2009年3月10日    雨宮 舜 (川崎 千恵子)
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ペレリマン博士の仙人度・指数

2009-03-08 13:30:22 | Weblog
9日夜放映予定のNHKスペシャルについて。

 主人が、昨日の土曜日に、「ペレリマン博士の再放送をNHKが予告をしていたよ」と教えてくれました。それで、ケーブルテレビの冊子を見ると、09-3-9(月)の夜10時から1チャンネルで、『100年の難問はなぜ解けたのか~天才数学者失踪の謎~』が再・放映されることがわかりました。

 この番組と言うか、この天才については、既に、くどいくらいお話をさせて頂いております。だけど、もう一回、切り口を変えてお話をさせてくださいませ。

 私は50年前高校一年生の頃テレビを買ってもらいました。今はその嗜癖は消えておりますが、最初はテレビを見たくて見たくてたまりませんでした。そんな50年間の視聴経験の中で、この番組を最高のものだったと考えているほどです。民放や、デジタル放送の番組すべてをあわせても、『これが、一番感銘を受けたなあ』と感じるほどです。

 で、例のストレート主義で正直に言ってしまえば、まだ、ご覧になっておられない方には、見ていただきたいと願います。で、それを、妨げない文章で、書いていくつもりですが・・・・・

 この番組は、ミステリー仕立てになっております。で、ネタをばらすのはルール違反です。が、お勧めしたい理由は、『数学の番組なのに、思いがけずな程度で面白い』ということと、『画面が美しい』、そして、『叙情的な意味での、深い感銘を最後にもたらす』と言う三つです。芸術家にも役に立ちます。
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 私はこの番組に影響を受けて、自分の五冊目の本を、実体はエッセイなのに、順番だけをミステリー仕立てにしたほどです。<元気極まりなかった版画家が、私がニューヨークを去ったすぐ後に、孤独死してしまったのは、なぜなのだ>と言う流れで作り上げました。真実の記録、いわゆるノンフィクションでさえ、切り口によっては、ミステリーになりうるのでした。

 制作サイドがどこなのかを知りませんが、二番目の『美しかった』というのは、登場される数学者のインタビュー場面と、重要な拠点の風景の画面が、静謐で、しかもカラフルだからです。

 日本の学者、および有名人への最近のインタビューは、判で押したように、書棚の前でマイクに向かうという形です。しかしこの番組内では、数学者たちはご自分の普段の書斎を全方位角度で見せながら、お話をされます。窓のそとには、季節感溢れる庭木が見え、風の行方さえ画面から察せられます。

 圧巻はプリンストン大学(?)の大階段教室の場面です。そこだけは画質が悪いのです。と言うのは、そこに参集した人たちは、100年にもわたる難問が、その日に完璧に解決をされることを予期していなかったからです。照明の光度は充分でなく、カメラの解像度も低いのです。ズームアップも技術力は定かではありません。

 ただ、私は、その両翼四面(?)縦四段(?)の大黒(緑)板に、チョークで次々と、数式を書いていく、ペレリマン博士の、痩せた姿型と、風のような実体感の無さに打たれたのでした。神々しい領域に入ってしまった人と言うのは、そういうものなのです。人間であることを越えた領域に入ってしまった人と言うのはそういうものなのです。日本に昔からある言葉で言えば、仙人です。

~~~~~~~~~~

 私は皆様も既にご存知のように、人間に大変興味を抱いております。それで、つい観察してしまいます。観察につぐ観察を重ねながら、66年間も生きてまいりました。すると、自慢ではないが(ふ、ふ、ふ)その人の神仙度・指数みたいなものが読み取れるのです。X軸の左側に、人間的欲望の深さを置き、右側に、仙人に近づいている指数を上げていくグラフを持っていて、相手と具体的な接触があったときに、<もし、違和感を感じれば>、そのグラフを、すぐさま心の中に思い浮かべ、相手が表出している指数を計ります。

 特にいじめに近い失礼な処遇を受けたときなど、瞬間的に相手の指数を計り、『あ、非常に貪欲な人だ』などと感じれば、その受けた傷がさっと霧消しますので、大変便利なシステムなのです。この際の欲と言うのは、食欲、金銭欲、性欲、それから、自己存在証明への欲求など、さまざまな分野でのそれです。が、ペレリマン博士は、ここに上げたすべての欲を捨て去り、ただ、頭脳を働かせることへの快楽だけに、自らを投じた模様です。

 少年時代の映像はそうではありません。普通の体格です。顔立ちも「別に」と言う感じです。しかし、この<誰もそれまで解けなかった>難問を解く過程で、彼は仙人といえるほどにまで肉体を消耗し尽くし、精神の方は昇華させ尽くしてしまったのです。ちょっと涙が溢れてくる映像です。では。
  2009年3月8日        雨宮舜 (川崎 千恵子)
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渋谷の居酒屋にて、(やはり、日本一の文化的な街だ)

2009-03-07 00:08:27 | Weblog
 この週の月曜日(09-3-2)には、渋谷を、徘徊させられ抜いてしまいました。最近、新しい小型の映画館がたくさん出来てきていて、渋谷にも、私が知っている限り、その手の映画館が、四つあります。しかし、この『TOKYO!』 と言う前衛映画を見た渋谷アンジェリカには、過去に訪れた事が無くて、しかも、渋谷駅方面から言ったら、ちょうど、北斗七星のように、四角く、四角くと、三度も曲がらなくてはならないので、迷いぬいてしまったのです。

 しかも、この手の小型映画館には、外に看板を設置していないところが多くて、実際には、10メートルぐらいの傍まで行っていたのに見つけられず、ほぼ、こ一時間、さまよい歩いてしまったのです。今日は私の一種の失敗談ですが、それでも、東京、特に渋谷と言う街のそれなりの、ある一面を切り取っておりますので、どうか、読んでやってくださいませ。

 56年前から東横沿線(日吉)に住んでいたのです。青山方面には画廊もあるから慣れていますし、BUNKAMURAとか、東急ハンズにもよくいくし、それらに向かう通りの東側にラブ・ホテルやライヴ・ハウスがあるのも、知っています。ただ、道玄坂の西側は今まで、あまり通ったことがないのです。で、よく判りません。

 道玄坂上には、タワーと言う大ビルができていて、その豪華なエントランスに若者が吸い込まれていきます。それから、雑居ビルの類もいろいろ、改築をされていて、セルリアンタワー(東急系の大ホテル)も出来ているし、

 以前(たとえば、東電OL殺人事件の舞台と成ったころ)よりは明るい繁華街になっていると思います。ただね、渋谷の中ではもっとも、居酒屋系の飲食店が多い一帯でしょう。東側の、一帯は、若者向けの食事どころと言う感じですが、こちらは中年おじさん族用の飲み屋街だと思えます。

~~~~~~~~

 私自身は、居酒屋と言うものを見直しております。老後、もし、自分が未亡人として残されたら、時々、遠くの町の居酒屋に行って、知らないひとと、とりとめの無いことを話して、カラオケでも、2、3曲歌って、帰って来ようと考えているほどです。一回につき、二、三千円を消費する。それで、優しさとか、気心の交流をして帰ってくる、これは、とても、安全な、健康・保持の役割を果たすでしょう。人は幾つになっても肉声による会話が必要だと思います。今までですと、そこは男社会でしたが、元気をもてあます老・女性が出入りをしてもよい場所となると、グッドです。

~~~~~~~~

 さて、その様に好感を持っているので、居酒屋で、道をよく聞きます。もちろん、雰囲気を壊さないように、気をつけながら。

 その三月二日の月曜日に、道を聞きに入った居酒屋には、常連さんらしいサラリーマンが一人いるだけでした。そのお客が即座に「それは、渋谷東宝タワーでしょう」と言います。「あそこには、二階に喫茶店もあったよ」とも。私はもとより、さっきから探し回っていて、渋谷東宝タワーにはない事を知っております。

 それに、『喫茶店』と言うキーワードが不思議で、そこを質問をし直してみました。すると、「だって、待ち合わせでしょう」と、その男性が言うのです。

 それほど、私は息を切らせて、真剣な様子だったのでしょう。何事にも真面目ですから、朝、メールに書いた映画を見るという目的に、猪突猛進をしていたわけです。それが、普通の人から見ると、<誰か大切な人と待ち合わせをしていて、それに遅れそうな人間だ>と見えたわけです。

 私は内心でおかしくなってしまいました。が、ちょっと、嬉しくもありました。このごろ、消耗しております。すごく、やつれております。それなのに、これから、デートをする人間だとみなされた事が面白くて。

 それに実年齢は66歳のおばあさんだと、見抜かれていたら、こんな、誤解も起こらないでしょうから、『やはり、まだ、若く見えるんだ』とも思ってね。海外にいた10年前には、外人から30代だとみなされていましたので、それもふっとですが、思い出して。

~~~~~~~~

 だけど、そんな答えを貰ったのでは、役に立ちませんので、「いえ、そんなことではなくて、『トウキョウソナタ』を見たいのです」と答えると、その人が「何、それ?」と、聞いてきます。で、私は、文芸映画とか、芸術作品の持つ、命のはかなさを再び、味わうのです。大衆社会に、受け入れられていないことの、悲しみ。そして、前衛絵画と言う、前衛・映画よりもさらに、少数の人間が携わっている仕事をしていることの悲しみ。

 でも、一瞬にして気を取り直し、「あのね、映画なのです。香川照之が主演する」と答えました。するとその男性が、再び「香川照之ってだあれ?」と質問をしてきたのです。これには、あっけに取られました。が、今度はその男性を軽蔑する意識は起こらず、『ああ、日本の男性って、相当、大変なのだなあ。忙しいんだ。うちのだんなも、風と共にさりぬを見られないぐらいだし、文芸映画を見ている余裕が無いんだ』と思って。

~~~~~~~~~

 これは、とても、重要なことです。その男性は、40代と見えました。つまり、『トウキョウソナタ』で、主役を張るお父さんと同じぐらいの年齢です。『トウキョウソナタ』の主題は、お父さんが、お母さんとしっかりと、気持ちが交流していなくて、それゆえに、リストラされたことを自宅で告白できず、それゆえに、家族がばらばらになっていく物語なのですから・・・・・

 このときに、お店のスタッフが、二人揃って、助け舟を出してくれました。「香川照之って、浜木綿子のこどもで、すごくうまい俳優ですよ」って。しかも、若い女性の方が、「中国の映画に、出たんですよね」っとも。

 私は、その瞬間に、以前から思っていた『渋谷が、日本で一番文化程度の高い繁華街である』と言う認識を、きちんと実例で、裏付けられたような気がしました。もちろん、銀座もそうです。だけど、テーストが違った意味で、また、違った分野の文化と言う意味で、渋谷は日本一の繁華街なのです。銀座の酒場、または、クラブのホステスも話題豊富でしょう。だけど、そこは、社長族とかを相手にする場所です。それなりに、大金がかけられていて、覚悟をして勉強している女性の場所です。

 しかし、その渋谷の居酒屋にいた二人の女性は、年配の人が和服で、若手(40代に見える)の人が洋服でしたが、まるで、普段着みたいに地味な服装で、そして、薄化粧でした。お店に出ているために、夜には、テレビは見られないと思います。外見は、極く普通のひとの感じです。が、それでも、日本の文化状況に、ちゃんと接していて、すべてを判っている。・・・・・すごいことですが、別に構えているようには見えません。多分、それが、平均的な渋谷人の姿なのです。

 もしかすると姉妹です。又は、お母さんと娘かな? 上品な顔の二人です。私は簡単なお礼を言ってそこを辞しましたが、こころから、嬉しかったのですよ。<『鬼子来了(邦題、鬼が来た)』を、正しく認識している人がいる>ことがわかって。そして、渋谷の素敵さもあらためて認識できて。そして、日本の女性のすごさもあらためて、認識できて・・・・・

 実は『トウキョウソナタ』も、お母さん(小泉今日子)が、重要な役割を果たす映画だったのです。その後、木曜日(5日)にそちらも目黒で、見る事ができました。

2009年3月6日   雨宮 舜 (川崎 千恵子)
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私は12歳でも、馬鹿でもありません。

2009-03-06 15:45:43 | Weblog
・・・・・映画『TOKYO!』―――4・・・・・


 たまたま、下書きをとして書いていた文章の、公開用への変更の順番を間違えてしまったために、この映画にたいして、褒めてはけなし、もう一回褒めてはけなすという、おかしな文章となってしまいました。私は、第一部と、第三部を褒めた後で、この第二部に触れるつもりでした。どうも、失礼致します。今日は、レオス・カラックスの映画の続きです。一回目をお読みになっていない方は、どうして、私がこれほど、怒るのかをご理解不可能でしょう。どうか、二日前のブログを再検討してくださいませ。勝手ですが宜しくお願いを致します。

~~~~~~~~~

 さきほど、goo映画で、この『TOKYO!』の項目を引いたら、<暗喩に充ちている、しかし、解釈は個人に任せられるであろう>と書いてありました。そのとおりです。そして、短い解説の中で、<メルド(第二話の主人公)は、人種差別主義者である>とも記載をされております。 

 私は自分自身が文章を書くときに暗喩を用いません。『私の文章を読んでいただく方に、余計な時間を使わせてしまうのは失礼だ』と思っているからです。非常にストレートに書きます。もし、書く事ができない領域で、しかも書きたいときは、「これから、以下は口にチャック」と書いておきます。そこに、秘められた思いが、隠されていることを、示唆するだけで、文章を終わらせておきます。

 しかし、皆様に、そして、L.カラックス監督に、それから、この映画を見たであろう世界中の人に告げたいことは、「私は、暗喩は理解できますよ」と言うことです。普通の日本人の一人として、この映画の第二話に込められた痛切な悪意を含む暗喩は、もちろん理解ができるのです。あのね。それを、すぐには、口外しませんが、別に馬鹿ではありません。

~~~~~~~~~~~

 私は幸いにして、パリに滞在していた事があります。それで、この第二話内でちらりと見せられるパリの風景のよさは、ちゃんと理解できます。古くて歴史のある建物を生かしているパリの風景を、監督が大切に思い、<東京を、別に高く評価なんかしていませんよ>と言うメッセージも、受け取ることは、充分出来ます。しかし、問題はそこに在るわけではありません。

 ふざけきって、荒唐無稽はお話を展開しているようで、監督は最終場面まで用意周到で、<メルドは、ニューヨークでも出現するであろう>と言うテロップが、最後に流されます。しかし、私は、ニューヨーク版は作られるはずがないと考えております。

 この映画で最も重要なことは、「日本人とは、好戦的な民族であり、みなさん、注意なさい。第二次大戦を忘れてはいけませんよ」というメッセージが世界中の若者に届けられ、批判力もまだ充分ではなく、歴史認識もない若い人々が、それを、素直に受け取り、洗脳をされることなのです。悲しいと思います。今の日本人は、手も足も出ない、平和な国民です。自分たちの防衛さえ、基地に駐屯しているアメリカ軍にゆだねています。だから、アメリカに逆らう事ができません。

 それなのに、そういう現状ではなくて、60年以上前のことを、繰り返し思い出せと迫られ、それを知らない若い世代に、繰り返し埋めこむ作業が行われます。この映画の出資者が、もし、日本人であったら、(たとえば国際交流資金が出資をしたのなら)、何と言う悲劇でしょう。矛盾に満ちた悲劇です。『そこまで、日本と言う国は、馬鹿にされなくてはならないのか?』とおもえば、暗澹たる気分となります。

 日本は島国であり、攻め込まれることも少なかったが、国民一人ひとりにとって、簡単に逃げ出せる場所ではありません。そういう場所に住んでいる人間の一人として、『こんなに、悪意あるメッセージを世界中にばら撒かれる』ことの、悲しさは、言うに言われません。

 庶民は簡単には渡航ができず、しかも観光旅行、特にパック旅行では、現地の人々の意見や考えに触れることが少ないので、世界の人々が日本人を嫌っているなどと、夢にも思わず、安寧な日々を送っているわけですが、世界中の人々、特にインテリが、恐ろしい先入観を未だに抱いている可能性があるのです。それを、さらに助長する役割をこの映画は果たしています。

 もし、賢明なる鑑賞者が、そのポイントをついて、この映画を批判したら、「主人公メルドは、人種差別主義者なのです。かれは、日本人が嫌いなのです」と軽く逃げるための伏線として、監獄内の奇妙奇天烈なメルド語のやり取りの場面は展開します。しかも、その部屋は天井が高くて暗く、テレビのミステリー番組の監獄とは、まるで、違った建物ですが、どちらが現在の監獄かといえば、多分、テレビのミステリー番組内の方が、正しいと感じます。

 この『メルド』内の監獄は、中世のヨーロッパを模したフィクションであるような気がします。ともかく、おどろおどろしく、暗い設定で、しかも、短編の中なのに、死刑執行の場面が、延々と続きます。気分が暗くなること、おびただしいです。

~~~~~~~~~

 プログラム内で、プロの映画評論家である、川口敦子さんは、この第二話に、17%の分量を割き、しかも最後に載せております。もちろん、業界内部人間同士の仁義として悪口が書いてあるわけではありません。

 次に登場する、青山真二映画監督も同じです。悪口が、映画館で売られるプログラムに書いてあるわけもない。しかし、一行だけ、<そしてこの夏、私たちはレオス・カラックス監督に手ひどい不意打ちを食らうことになる>と書いてあります。

 手ひどい不意打ちと言う表現に、カラックス監督の暗喩に対する、日本人側のせめてもの暗喩が表出しています。つまり、カラックス監督の、『ポンヌフの恋人』の余韻に浸って、それの、再現を期待して来場した鑑賞者は、たしかに、手ひどい不意打ちを食らうのです。私はそれを、前報で、『裏切られた』と表現をしたわけですが、日本人で、日本で暮らしているからこそ、この暗喩に内包された悪意を、「これは、事実ではない」と、笑って見過ごすことが出来ても、日本を知らない世界中のインテリに与える影響を考えると、空恐ろしくなります。

 もし制作費が日本国内から出ているのだとしたら、踏んだり蹴ったりです。映画『靖国』の制作費が、一部分でしょうが700万円ほど、文化庁から出ていたとは、驚きですが、こちらは、本当にどうなっているのでしょう。どこにも製作サイドの記載がない。プロデューサーも出資母体(日本だったら、最近では、テレビを含む映画会社との共同体が、母体になるケースが多いし、独立系でも航空会社等のメセナを仰いでいることは、外部には容易に、洩れる情報のひとつです。しかし、それ)が、全然出てこない。不思議極まりない映画です。

 第二話のフランスサイドの、スタッフ・キャスト以外、第一話と第三話の関係者、および、日本国内の鑑賞者すべてが、だまし討ちにあったような感じを受ける映画です。これを、日本国内の誰も問題にしないとは、不思議な国ですね。この日本と言う国も。ただ、これでは、私たちは自分の生活を守ることが出来ないでしょう。「日本人よ。危機感に目覚めよ」と、申し上げたいです。

 メデイアは、そのポイントを問題にすべきであります。映画評論家は、駄目ですね。ご自分の生活の糧の方を、優先なさるから。ちゃんとした発言が出来ないのです。だから、私が発言をしました。

 なお、表題の12歳とは、敗戦直後に、誰か(外人)が、「日本人の精神は12歳程度である」と発言したことが流行語になった現象の、裏を、暗喩(?)深・読みして使っております。
      2009年3月4日        雨宮 舜 (川崎 千恵子)
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NY物の換骨奪胎なのに、大成功している第一話

2009-03-05 23:18:09 | Weblog
・・・・・前衛映画『TOKYO!』―――2・・・・・


 すみません。こちらを先に公開しなければならないのに、反対に、2,3を反対の順序で公開してしまいました。ごめんなさい。こちらでは、褒めてあります。ミッシェル・ゴンドリー監督の第一話を。キャスト陣も熱演だと最後の方で申し上げております。ともかく、今日は、映画を見始めた瞬間に戻らせてくださいませ。


 私は、最初の画面から、『これは、違うわ。さっき電話で問い合わせたら、映画館の人はトウキョウソナタを、やっていますと言ったのに、どうしたのかしら?』と思いました。それで、見続けるか、帰るか大いに迷ったのですが、こぎれいで面白いせりふが出てでて、それに引かれて第一作を見続けることにしたのです。

主人公は、ボーイフレンドのわがままに振り回されている、かわいそうな女の子です。そのボーイフレンドは若手の映画監督で、地方で制作した自主・制作・映画を、首都で上映することを夢見て上京するのですが、お金がないので、高校時代の同級生のアパートに転がり込みます。

そのアパートは、横が二間、縦が三間半ぐらいの(つまり、40平米以下の、五万円ぐらいで借りられる)小さなアパートで、田舎から出てきた二人は、びっくりしてしまいます。それに対して、迎える側の女の子が、「東京では、大きな会社に勤めている人は、比例して小さなアパートに住むことになるのよ」と言うのです。それで、田舎者の二人がさらにびっくりすると、「いえ、私の会社は、実は小さいのよ」とジョークだったことを明かすのです。

 ここだけは、後で、プログラムを読んで、この原作が、ニューヨークが舞台のコミックで、若いアメリカ人女性の手になるものだと知ると、頷けるストーリーです。アメリカ、特にニューヨークではお金のない若者は、まず、友達のアパートに同居させてもらうケースはよくあるのです。しかし、お金を払うわけでもないので、持ち主としては、大迷惑なのですが・・・・・日本人は、実際には、こういうずうずうしさをもっておりませんね。・・・・・
よく考えると、そこにも違和感があったし、主人公二人の、親密さ(これは、プログラム内の表現で、下世話な言葉で言えば、いちゃいちゃしすぎるところ)も、日本人としては、平均を、超えたものでした。そこに、違和感があったのは確かです。それで、余計、私は、家へ帰りたくなったのでした。

 しかし、冒頭であげた・こ・じゃれたせりふに、引かれて見続けるうちに、主人公へ、だんだん感情移入をしてき始めます。『かわいそうだなあ。この子、このわがままな芸術家の卵に振り回されていて』と思い始めます。3万円ぐらいで借りられるアパートを探そうと思うのですが、うじがわいているような、ひどい物件ばかりです。しかもボーイフレンドは、家主の女の子にちょっかいを出しかねない軽い態度です。

 お金はどんどんなくなるし、誰も信頼できなくなって、追い詰められます。

 主人公がにっちもさっちも行かなくなって、絶望をしていると、突然、体が変化してきて、一部分ずつ、木になっていってしまいます。ここがこの第一部も、前衛映画になっている由縁で、そのSF的な過程はドキッとするし、ヒヤッとするし、かわいそうでたまらなくなります。

 ヒロインは、私としては、初めてその映像を見る、藤谷文子(あやこ)さんと言う若手女優が演じます。で、全裸で、街を走りぬけたりする、体当たりの演技です。だけど、エロスの発揚と言うよりも、かわいそうで、かわいそうでたまらない若い女性と見えてきます。

 と言うのも、彼女の体は、一脚の椅子に、変形してしまうのです。それで、彼女の衣服は、路肩に置かれた椅子に掛かっている、捨てられたものとみなされ、ホームレスに持っていかれてしまうので、彼女は全裸になったわけです。しかも時と場合によって、椅子になったり、人間になったりするので、人間になった時は、全裸で、街を逃げさまよわなければなりません。

 『恐ろしいストーリーだなあ』と震えていると、やがて救いが訪れます。主人公が椅子に変形している時に、ある上品な、男性が拾って、家へ帰るのです。その男性は、古楽器の演奏を趣味とする、知的な雰囲気を持つ男性で、ちゃんとしたマンションに住んでいます。昼間、彼がいなくなると、ヒロインは椅子から、人間へと変化して、ゆっくりと食事をしたり、お風呂に入ったりして、リラックスができるし、本を読んだりして、人間の基本的な尊厳(髪や肌を清潔に保つことなど)を回復します。

 主人公は、部屋の持ち主が帰ってくると、必ず椅子に変形してしまうので、二人の間には、新しい愛(特に性愛)が芽生えるわけでもないのです。で、結論としては、荒唐無稽の話と言ってしまえば言えるお話です。が、人物の造型が、すべて、こういう人間はいるわよねと言う部分を持っているし、何よりも街の描写にリアリティがあり、総タイトルが、『TOKYO』となれば、『そうですね。これは、東京を描写しきっているでしょう』と、感じますから、鑑賞後の後味は悪くないのです。

 しかし、余韻に浸るまもなく、恐るべき、第二話が訪れますので、後味のよさも何も吹っ飛んでしまいます。この部分も第三部と同じく、独立した短編として、上映したら、大いに人気を博すると思いますのに、残念なことです。

 私のささやかなオマージュの顕現として、スタッフ・キャストについての、説明をここに付記します。この第一話のタイトルは、『インテリアー・デザイン』といいます。監督はミッシェル・ゴンドリーと言うフランス生まれの、ミュージシャン出身の人で、ミュージシャンの映像を取ることから始まり、現在はニューヨークへ移住して、コマーシャルとか、劇映画の分野にも手を伸ばしている逸材のようです。

 キャストは、なべて、好演、熱演です。ヒロインを振り回す、未熟な若者は、加瀬亮という、これも私は初見の若手男優ですが、07年に主演男優賞を数多く取った実力派らしい人が演じています。助演陣もヒロインが駐車違反の罰金を払えないために、車をスクラップにされる場面の、係員を演じる、『でんでん』とか、最後に安住の地を提供する、知的な紳士を、演じる大森南朗(NHKドラマ・ハゲタカ主演)など、すべて、はまっています。特に現在NHK大河ドラマの主役を演じている妻夫木聡も出ているはずですが、気がつかないほど、キャストは自らの名声に、甘えず役に没入しています。

 原作者は、ちらっと、プログラムに顔を見せていますが、ガブリエル・ベルと言う目の大きくて可愛い若い女性です。

 さあ、次回では、アンファン・テリブル(恐るべき子どもたち)と呼ばれる世代の代表、レオス・カラックス監督の、それこそ、(私が)震え上がってしまった、このオムニバス映画の第二部について、お話をさせて頂きましょう。

              2009年3月4日     雨宮舜 (川崎 千恵子)
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L.カラックス監督には、手ひどく裏切られた

2009-03-05 00:24:39 | Weblog

・・・・・映画『TOKYO!』―――3・・・・・

 このAOLメルマガ、(もしくは、グーブログ)の読者の中には、『あれ、(雨宮舜=川崎千恵子)って、ライターとしては、やっぱり素人だなあ。映画評論を書く場合、筋を明かすのはタブーですよ』と仰る方は多いでしょう。

 私は自覚をして、敢えて、その手法をとりました。と言うのも、最初に宣言をしたとおり、この文章の読者の皆様には、その映画をご覧にならないで欲しいからです。

 でも、それでは、第一話と、第三話のスタッフ・キャストが気の毒すぎるので、そちらだけは、全うな形でご紹介をしておきました。第一話と第三話の監督は、一種の『だまされた』と言う感覚をお持ちなのではないかしら。『これは、全体像としては、後味の悪い作品に成ってしまっているなあ』と、お感じになったはずです。出演者たちも完成作品を見れば、『あれ、』と思ったはずです。

 先日、大変褒めた、プログラムには、どうしてか、製作者(つまり、お金を出した人物、又は、組織)の名前が出ておりませんでした。そこにも大きな謎が秘められております。ミッシェル・ゴンドリー監督と、ボン・ジュノ監督の名声は、第二話に秘められている、深い悪意を、カモフラージュするために、利用をされたと感じるほどです。

~~~~~~~~~~~~
 レオス・カラックス監督は、知能指数が抜群に高い方でしょう。でね、私がこれから、展開するような批判を避けるために、用意周到な準備がなされております。

 まず、タイトルが『メルド(フランス語、日本語訳は、くそ、=うんち)』となっております。ケイオス(混乱のきわみ)を提供されるので、それが、くそなのかと、最初の段階では思いました。しかし、そうではなくて、日本人の野蛮さと、残酷さと、そして何よりも好戦性を、暗喩としてスムーズに表現するために、主人公をくそまみれになった、無国籍なホームレスとして、設定をしているからです。

 主人公(メルドと呼ばれる、他者との通常な意味でのコミュニケーションが取れないホームレス)は、ポンヌフの恋人に主演した、ドゥニ・ラヴァンが16年ぶりに監督と競演するという形で演じています。しかし、この立派なつくりのプログラムにどうしてか、彼だけ肉声を寄せておりません。そこにも、私の、推定を強める、証左を見つけえしまいます。
 私の推察・・・・・この映画の目的の最たるものは、日本人観客の心を打ちのめすこと。それから、世界の若者に、潜在意識の中での反日感情を植えつけることである。・・・・・と、言うポイントを、フランスから監督が連れてきた、スタッフ・キャストは飲み込んで、監督をサポートしていたと、私は考えるからです。

しかし、日本側のスタッフとキャストは、その監督の本当の意図を推察していたかどうかを、私は危ぶみます。3週間で撮影が敢行されているから、あっという間の出来事で、結果として、後味の悪い作品に出てしまったということになるのではないでしょうか? 石橋蓮司さんなど、名優なのに、残念です。この映画は、それなりの大金をかけていると思いますし、新聞をはじめとするメディアのサポートは大きかったのに、ヒットしなかったのは、観客の感想が悪かったこともあるでしょうが、内側からの、喜びの声も上がらなかったせいでしょう。

~~~~~~~~~~~

 私のこの推察を、論証するために、また、丁寧にこの映画をたどって行きたいと思います。主人公メルドは、徐々にその暴力性を高めていきます。銀座四丁目から一丁目までの、西側の歩道を疾走するシーンで、随伴音楽として、有名なゴジラのテーマを使っています。で、なんとなくですが、メルドの破壊への衝動を、観客は納得をさせられてしまいます。それが不思議でないという設定を、知能指数が高い監督は用意しているのです。

 メルドの暴力は、渋谷の歩道橋で、手榴弾を、次々と炸裂をさせ、日本人を多数殺傷することで頂点に達し、警察に捕らえられることとなります。ここも用意周到なる伏線として生きています。この映画は暗喩として、日本人の残酷さを、世界に知らしめるところがあるのですが、まず、主人公が度肝を抜く暴力を振るうので、それが眼くらましになっていて、大切なメッセージが、一見すると見えてこないのです。『サブリミナル効果を狙っている』と、でも、言うのかなあ?

 しかし、徐々にその暗喩が見えてきます。主人公は、一文字菊(皇室の紋章として使われている)と、お札しか食べないという設定です。これは、お金を尊重し、かつ、皇室を尊重する、日本人をからかっている場面です。

 しかも彼が用いた手榴弾は、戦時中、日本軍が、地下の下水道に隠した、武器であると言う暗示もなされております。大きな、暗渠内に、どうしてか、戦車が保管をされており、その車体には真新しいペンキで、旭日旗(日本軍の象徴)が描かれています。もし、60年以上、そこに武器が保管をされていたとしても、旭日旗は、これほど、鮮明に残っているはずが無いのですが・・・・・そこを荒唐無稽なお話として突っ走っていくのです。

~~~~~~~~~~

 しかし、悪意はもっと、深いところへ向かっていきます。メルドは結局捉えられ、裁判にかけられるのですが、その法廷の場面が東京裁判にそっくりなのです。プログラムの32頁には、監督自身が、その連想を、肯定した事が記されています。(無署名の記事ながら)

 そして一番ショックを受けるのは、監獄内の描写とか、死刑執行の場面です。これも人を食ったような設定で、メルドが、メルド語と言う世界で三人しか、理解を出来ない言葉を発するし、死刑執行後、その死体が、消え去るという・・・・・敢えて好意的に表現すれば、奇想天外な結末が訪れ、この映画を、全うな論議の場へのせるのを、避けさせているのです。

 しかし、プログラムにさえ、ぽろ、ぽろ、ぽろっと監督の真意が見えるところがあります。12頁に、日本側の人材に対して「皆さん、とても、寛大だった」と言う言葉が見えます。また、31頁にはこの企画のために来日、初日の打ち合わせで「脚本を読んで、おかしいと思ったところはありませんか」と日本側スタッフ・キャストに質問をしています。と、なると、彼は、俳優を騙して乗せた・・・・・わけではなくなります。何から何まで用意周到です。

 この映画(メルドの部分)については、もっと、もっと、語るべき事がありますが、今回は、ここまでで、ストップを致しましょう。次回へ論議を持ち越します。

            2009年3月4日      雨宮舜(川崎 千恵子)

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前衛的・オムニバス映画『TOKYO!』、・・・・・1

2009-03-03 22:11:24 | Weblog

 一昨日は、二、三の、自他共にまつわる偶然が重なって、映画『トウキョウソナタ』ではなくて、外人監督三人による、前衛的・オムニバス映画『TOKYO!』を見る羽目に陥りました。

 この映画の第一話と、第三話は、結構面白いです。よく出来ています。しかし、第二話に大きな疑問を感じるので、皆様に「ご覧になってください」と、お勧めする気は毛頭ありません。劇場で若い人が、見ていましたが、映画を見た感激とか、感動が浮かんだ顔をしていませんでしたし。

 ただ、メディアは、この映画に関して、大量の情報を流していました。広告ではなかったのですが、結局は広告に当たったと思うほどの、大宣伝をしていました。そして、毎週二回は私がそこを通る、銀座の和光から田中貴金属までの歩道が、大きな舞台になっていますし、渋谷や、杉並でも撮影されているのです。だから、本当ならわくわくさせられる面白さを感じるはずなのですが・・・・・『あに、はからんや』と、いう結果になる、映画でした。

 しかし、外国の著名な監督が、三人も集まって作られた映画ですから、例の、私がいつも文句を言うプログラムは、さすがによく出来ていて、充分にデータとして役に立ちました。そして、後に、残せるものとなりました。

~~~~~~~~~~~

 さて、これは、何とか、プロジェクトの一貫として、制作をされた映画らしくて、撮影は、2007年の8月、第三話から始められました。監督は韓国のボン・ジュノ氏で、国際的な評価が高い監督です。『グエムルー漢江の怪物ー』他の作品がある方です。

 筋は、純愛が完成する瞬間が、地震が大きな引き金となったという設定です。その純愛の表現がいかにもアジア的なテーストに彩られていて、そこは、『ああ、やはり、韓国人も日本人もアジアの人間なのだ』と、感じさせられました。すぐ体に手を回したりしないのです。眼と眼だけで見つめあう恋愛。

 主人公は、香川照之演じる11年間も引きこもりを続けている青年です。その引きこもり生活の描写が延々、十五分近く続くのですが、全く観客にあきさせないで、単調な画面を持たせる、彼の演技の質と、監督の力量には感心したし、引きこもり部屋の装置もすごくいいです。引きこもりの部屋と言うと、宮崎勤の部屋(漫画と、ビデオが、満載の部屋)を想像しがちですが、全く違うのです。完璧に整理整頓をされた部屋で、しかも壁には宅配ピザの箱が、整然と積み重ねてある、その異様さと滑稽さと、・・・・・

 このピザと言うことは、納得です。私はニューヨークのホテル・チェルシーで、「あなたの隣の部屋の人が、日本人でしかも引きこもりなのですよ」と聞いて以来、どうやって、その生活が成り立っているか、不思議でならなかったのですが、この映画を見て納得をしました。

 つまり、この映画では、その収入源は親からの仕送りとなっています。なるほど。そして、生活必需品はすべて、電話による配達で、持ってきてもらうという設定です。一週間に一度だけ、宅配ビザを取る。なるほど。なるほど。毎日ではピザは飽きてしまいますし。野菜が少なそうで、病気になりそうですが、外へ働きに出る必要が無くて、読書だけをしている生活なら、ビタミンが足りなくてもやっていかれるのでしょう。本はトラックに二台分を古本屋からもってきたそうで、箱入りの豪華本やら、全集が一杯です。美術スタッフが監督の考えどおり、鍛え抜かれた装置を作り上げています。

 そのピザ配達人として、蒼井優が現れるのです。彼女は清潔な、しかも、とても柔らかい表情を出せる若手女優さんで、テレビ放映で、『フラガール』を見ましたが、こちらの、役では、主人公をとうとう引きこもりから世の中に引き出す役目を担うのです。が、かといって、前向きな活発な性格でもなくて、今現在ありがちな、思春期の問題も抱えていそうな、人格・設定です。

 それは、その<<<内部からの張りを見せる>>>美しくて若々しい肌に、これまた、美しい彫り物をしていることでも察せられます。それは、小さなボタンで始まる英単語です。そのボタンはさまざまなデザインで、一個、一個違うのですが、最後の場面で、主人公が、彼女を追って、家を出て、愛を告白する際に、love と、いう単語のボタンを押すという設定になっています。これは、新鮮でかつ夢のある素敵な設定です。

 もし、この第三話だけを独立した短編映画として公開したら、人々が、後味のよい映画だった。もう一回見たいと願う種類の、傑作となったでしょう。

 しいて難点を言えば、主人公の引きこもり青年が、これまた、引きこもり状態になってしまったと聞かされた少女を追いかける場面が、ちょっとですが冗長であります。また、少女を、彼女の引きこもりから状態から引き出す、三回目の地震の場面でも、町の人々の、フリーズ状態の描写の場面が、冗長です。

 それは、その二つの場面では、香川照之の、表情描写が少ないからでしょう。それほど、彼の演技力は高い。

 ここで、挿入となりますが、・・・・その難点のあると、私が言う・・・・場面でも、撮影手法自体には、びっくりします。東京の街、特に渋谷のスクランブル交差点に、誰も人がいない時間帯に撮影しているから。・・・・・『多分、夏の早朝、四時半か五時に、少し交通制限をして撮っているのだろう』と感じます。

 これは、東京の人がすべて、引きこもってしまったという設定だから、こうなります。渋谷以外にも、いろいろな街角で、人も車も誰も通らない白日の下の撮影と言うのが、あって、そこが、この古典的なラブ・ストーリーを前衛映画たらしめている由縁でしょう。

~~~~~~~~~~

 この映画のキャストは、監督がすべて選んだそうですが、竹中直人、松重豊をはじめ、端役に至るまで、演技レベルは高いです。『この一篇は、この、オムニバス映画の中に組み込まれてしまっている事が惜しいなあ』と思うほどのできです。

 しかし、これからは、私独特の推理ですが、この映画の製作目的が、第二話のメッセージをサブリミナル効果として、観客に埋め込むことにあると思いますので、この第三話、もしくは、第一話を独立した、作品として公開するのは、無理なのでしょう。

 では、長くなりますので、いったん、ここで、切らせていただきます。

2009年3月3日            雨宮舜 (川崎 千恵子)

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南部(風と共に去りぬ)の惨状は、敗戦国のそれ

2009-03-03 10:17:33 | Weblog
 最初に小さなお断りを入れさせてくださいませ。以下の文章は、3月2日の日本時間0時から10時間程度さらしております。しかし、朝日新聞記事との関連から、別の文章を先に入れましたので、これを、引っ込めました。それで、時間帯によっては、ご覧いただけなかった方もあるやと、かってですが、感じて再び、お送りをさせて頂きます。よろしく。

 09-2-27日のNHK解体新ショーを見ていたら、終わりのころに、『風と共に去りぬ』のラスト・シーンが出てきました。これは、涙の分析の一部分で、大泣きをすると、突然地平が開けて、まったく、違ったステージにその泣いていた人が立ち、泣く前に苦しんでいたのなら、その苦しみから脱却できることの例として、挙げられていたのです。

 ちょうど主人と一緒に見ていました。彼が、この映画を見た事が無いのを知っていましたので、思わず、私は解説に乗り出していました。特に、この場面は知らないだろうと感じましたので。ラストですからね。それ以前の場面は、広告とか、映画のテレビ放映の予告として、彼も見た事があるでしょうが、ラストを広告に使う例は、あまり、ありませんので。

 「あのね。これは、夫婦喧嘩を長く遣っていた夫婦なの。それが、この最後で、奥さんの方が折れるのね。すごくわがままな奥さんだったのだけど、<これからは、だんなさんに寄り添おうかな>と思うのね。でも、本当に悲劇なのは、奥さんが折れた途端、だんなさんは去っていくのよ。<もう、お前とは一緒に暮らせない>と言いながら。心がちょうど、すれ違いになるの。そして、奥さんは、街に暮らしていたんだけれど、タラ(農場)へ帰っていくの。農場は田舎にあるのよ」と。

 まあね。クラーク・ゲーブルを、だんなさんなどと言う田舎っぽい表現をしてしまったら、皆さんに怒られるでしょう。男性としての一つの理想を体現しているのですから。そして、あのもっとも輝いていたころのヴィヴィアン・リーを、これまた奥さんなんて表現しても叱られるでしょう。でも、66歳同士の夫婦の会話なのです。そして、この映画には、主人が思っているよりも、静かな側面があり、人生の終盤に見たとしても、見ごたえがあるであろう事を伝えたかったからです。そのためには、こういう庶民的な表現が、よかろうと、感じたからでした。

 よおく、「でしゃばっているよ。余計なおせっかいだよ」と反発してくる主人が、黙って聞いていてくれました。

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 私はこの映画を、最初期の上映のころ、親に連れられて、今は無くなってしまったイセザキ町の大きな映画館で見ました。それから、リヴァイバル時にも、映画館で見たと思います(?テレビだっただろうか)。で、子どもの頃よりも、全く違った側面に気がつきました。それは、こういう夫婦間の微妙なやり取りの、含蓄の深さもその一つですが、

 何よりも、南北戦争の、特に負けた後での、描写が優れていることに、気がつきました。こどものころは、カーテンをドレスに作り直すエピソードぐらいにしか、注目をしなかったのに、さまざまな苦しみを負って、ひとりで奮闘するスカーレットの、勇気や、エネルギーレベルの高さに気がつかされました。『さすがに主人公だわ』と、なって、彼女には、圧倒をされました。特に死体を隠すエピソードなどには子どもの頃には、何も気がつかなかった敗戦者側の必死さが、よく現れています。

 でね、将来主人に語りたいのは、この場面の意義なのです。『アメリカは自国が戦場になった事が無い。だから、傲慢なところがある』と思っていますが、南部の人々にとって、自国が敗戦の憂き目を見て、人々が食うや食わずで、苦しみ、筍生活と言うか、金目のものを売りながら、食料を得ようとする姿があったのですね。そして、それは、敗戦後の日本のそれと、大体おんなじでしょう。だから、敗戦後の日本で、この映画は、大ヒットを記録したと思います。人々は自らの姿にこの映画を重ねたのです。

 戦後の日本の廃墟の中から、なり金と言う種族が出たりしたわけで、それは、この映画の中盤にもよく出ています。大家族を養うために、必死の思いではじめた商売が、いつの間にやら、スカーレットのビジネス意欲を掻き立て、彼女が人間性を失っていくわけです。が、小説ですから、見事なプロットがあって、彼女は、その商売を捨てることとなります。

 そして、マッチョで、女性を、リードする男性の典型的なタイプである、レッド・バトラー(クラーク・ゲーブル)の奥様として現代で言えば、富裕層マダムとなるわけですが、そこに、収まらない、スカーレットなのでした。そして、現状に感謝するなどの、ムードもまるでなくて、<<<一種の、馬鹿といえば言えるのですが>>>、また、そこが、とても可愛いのですね。で、彼女が可愛いからこそ、レッド・バトラーは我慢に我慢を重ねるのです。が、結局は、じゃじゃ馬のスカーレットを振り切って、去っていくのです。やっと反省してプライドを振り捨てて<<<和解を申し出でたのに>>>です。かわいそうに。そして、農場経営者として、生きていく事になるのでした。

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 ところで、実生活の上では、マーガレット・ミッチェル女史は、反対の選択をしたらしいのです。伝記『タラへの道』を読んだ限りでは、彼女は、アシュレータイプの、知的で、サポーターに徹するご主人と、結婚をして、(落馬の後遺症に悩みながらも)、あの大作を完成するのです・・・・・彼女には、過去に、レッドバトラータイプの男性との付き合いがあり、それが、基礎となってあの小説を書く事ができました。ところが、書いた後で、それが、元の恋人、(やくざなところもあったらしい)に知られるのを極端に怖れ、また、その恋人が目の前に現れるのをも、極端に怖れていたそうです。そちらが、事故死(または、自殺の可能性もある)した後で、やっと、安心したが、いつも悩みの多い人だった・・・・・というのは、なんとなく、推察できるというか、頷けるポイントです。

ところで、小説では、スカーレットには、子どもが、数人ある設定になっていますが、映画では、レッド・バトラーとの間の子どもだけが登場しますね。それが、映画の脚本の妙と言うものでしょう。

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 私は時々それを考えるのですが、アメリカを代表する一本の映画を選ぶとしたら、この映画になるのではないかなあと。アメリカがヨーロッパに勝る覇権主義へ、突入していく、第二次世界大戦後を、予見しているほど、豪華な映画です。

 ただ、主人が今まで、見ようとしなかったのは、恋愛が、主テーマの映画だと考えていたのでしょう。女性向の映画とも。特にクリノリン型の鯨骨で膨らませたペチコートを乳母に穿かせてもらいながら、「18(または、16)インチにして」と叫ぶところなどが、よく予告編に使われますから。

 これは、センチに直すと、45センチから40センチですから、桁外れのサイズです。普通の健康な女性だったら、だいたい、60センチ前後でしょう。若い女性で、ひきしめても、54センチにはなると思います。その手のけたたましい少女時代を経て、人生を疾風怒涛のごとく、生き抜く、スカーレットに仮託して、アメリカのある、一面が見事に捕らえられている、映画で、ゴッド・ファーザーより、重みがあるのではないかなあ。?

  では、今日はこれで、2009年3月1日   川崎 千恵子〔雨宮 舜〕
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映画『トウキョウソナタ』を、フランス人が、分析する

2009-03-02 10:50:59 | Weblog
・・・・今朝(09-3-2)日本へ配信されたローマ法王のお言葉と、朝日新聞の同じく今朝の記事から分析したこと・・・・・

 朝日新聞(朝刊)、09-3-2・・・・・あ、そういえば大変です。今年もお雛様をまだ、出していない。明日が三月三日だったなんて、それも、自分の文章を書くために、新聞の最上部、日付を見て、気がつくなんて。今の私は、めちゃくちゃに、追い詰められているのだなあ、どんなに、余裕があるような時間配分にしてもと思いますが・・・・の11面、『地球観察』と言うところで、フランス人ジャーナリストが、大変意義がある、文章を寄せておられます。

 どうしてか、この連載が今回で終わりと言うことで、それは、残念至極です。と言うのも私は、今日初めて、このコラムを読んだからです。

 以前のものも、よい記事だったかもしれないと、思い当たり、残念です。
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 さて、私は、このごろ、アップロードの少し前に、原文を作っておくようにしているのですが、ちょうど、今日、このメルマガと、グーブログで、久しぶりに、香川照之主演の、
『鬼子来了』について、開示する予定でした。

 ご本人も著書内で言っていらっしゃるけれど、この『鬼子来了』以前の香川照之と、それ以降の香川照之は全く違う平地に立たれているそうで、それは、大変よく判ります。彼は、それ以前は、渋い脇役だったのですが、あの『鬼子来了』以降は、主役映画や、主役ドラマが企画されるようになって、

 『トウキョウソナタ』も、その一つです。この東京ソナタは、私はまだ、見ておりません。グーグルで検索をすると、渋谷と、目黒で、今でも上映中だそうです。この朝日新聞の記事を見て、ご覧になる方が増えるとよいと思います。

 私は常日頃、朝日新聞の悪口を言っております。が、このコラムには、もろ手を挙げて、賛同しました。が、その著者は、日本人、特に朝日の記者ではなく、フランスのクーリエ・アンテルナシオナル誌編集長だそうで、お名前をクロード・ルブランと仰います。

 文章を寄せられたきっかけは、トウキョウソナタが、この3月25日から、フランスでようやく公開をされることになったのを、祝して、その分析をされているのです。

 最後の節を、コピーさせて頂きます。朝日新聞を取っていらっしゃる方は、そこをご覧頂きたいのですが、別紙をお取りになっておられる方のために、ここに、再録をさせて頂きます。
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 国境の問題が、再び多くの議論を引き起こしているのは驚くには当たらない。だからこそ私は日本やフランスの友人に、国境を含め手がかりとなる指標の必要性を強調した「トウキョウソナタ」を見るように勧めている。人間が完全に指針を失い、対応不能の状態に陥らないために。

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 これは、非常に重要な提言です。今朝、09-3-2の衛星ニュースでも、ローマ法王が、「この経済危機に対して、各国が、保護主義の体制を取らないように」と仰って、サルコジフランス大統領が、早速に、呼応した、処置を発表なさったのですって。

 『あれーっ。嫌だなあ』と、私は思います。賢明な人々は既に気がついておられますが、経済のグローバル化とは、実は、欧米の一部の大資本家に、有利なことであり、普通の庶民にとっては、世界規模で、収入が減ることでしょう。まあ、日本では資本家および、経営者でさえ、巻き込まれていると、私は考えております。

 こういうときは、政治家は、自国を守る体勢に入らないと駄目です。『鎖国も、ある点では、いいもんだ』と思います。でも、そこまでするのは、極端ですが、ともかく、国境内で、解決をする、・・・・・はっきり言えば、自分を守る・・・・・指標と言うか、指針を持たないと駄目ですね。実は先日、その人生がすばらしいと申したドトゥール会長も、「日本を、指導する立派な政治家の出現を期待して、それらの候補者に対する支援を惜しまないようにするために、銀座にサロンを持った」と、最終回で仰っておられます。

私は常日頃、自分は経済には、詳しくないと謙虚に出ております。「文化と、美術が専門だ」と申し上げております。

 でも、現在世界を覆っている、状況は、あに、美術の分野を、痛めつけるだけではなく、私たち、普通の日本人の状況をさんざんに痛めつけております。それは、将来の年金生活さえ、脅かしております。『まあ、あと十年ぐらいはもつでしょう』なんて、言う甘い予測が突然ひっくり返るかもしれないのです。

~~~~~~~~~~~

 もし、この私の小文が原因で、3月25日からのその映画のフランス公開が、中止になったら、自分は、自分のジャーナリストとしての、使命感に、さらに目覚めるでしょう。小さな世界から始まりました。そして、私自身、とても、小さな存在です。

 でもね、下世話な、自分の生活をさらけ出しながら、実は、その結果、相当、大きく世の中を分析しているつもりです。文章に修飾さえありません。いつも必死であり、せわしなく、書き下しております。でも、それが判り易い言葉で、大切なことを伝えるのに、適宜だと信じているのです。

 このフランス人ジャーナリストは、お若そうですが、既に、なかなかの地位があるジャーナリストです。一方の私はなんらの、バックも無い、個人、(収入の面から言えば専業主婦)です。取材のために使う、時間も費用もありません。だから、二次資料を利用して、物を申し上げるだけです。

 だけど、天が常に、必要なこと、最善の事を、お示しくださいます。昨日NHK教育テレビで、『一人と、一匹たち』と言うせつな過ぎる番組が放映されました。多摩川の河川敷で暮らす、ホームレスのおじさんと、おじさんたちが世話している猫たちのお話です。これも、将来、また、述べますが、うかうかすると、あれは、私たち、日本人すべてに当てはまる未来像となりえます。がんばらなくてはなりません。しっかりしなくてはなりません。ひとりひとりが、です。政治家本人、または、政治評論家などの、既存のプロだけに任せていてはなりません。

 『東京ソナタ』は、文芸映画です。決してプロパガンダ映画ではありません。私は予告編を映画館で見ました。香川照之が、お父さん、そして、小泉今日子が、お母さん役です。お父さんはリストラされるし、長男は、アメリカ軍の傭兵を志願するし、・・・・・平和そのものに見えた、日本の中流階級家庭が激変するお話です。そして、多分、それなりの決着点・・・・・心がすがすがしくなるはず・・・・・を見出すお話でしょう。

 私は今でも少なすぎる時間を、雑巾のように搾り出しながら、新しく作り出して、見に行くつもりです。

   2009年3月2日        川崎 千恵子 (雨宮 舜)

 なお、昨日の深夜から、今朝まで、10時間あげていた、『風と共に去りぬ』に関するエッセイは、この上の文章を、二十四時間上げたあとで、残り、14時間明日再び上げさせてくださいませ。恐れ入りますが、そんなに、たくさんの文章を作る能力もありませんので。
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