銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

大原光孝という人物の背景と悪辣さと自信を語る為に、ご登場頂く、浜田知明、本多隆彦、水沢勉、酒井忠康、柄沢斉、シロタ画廊

2020-07-08 06:32:27 | 政治

最初日本語入力ができなっかたので、英語で、書き始めました。こういう事は慣れていて、驚きもしません。それだけ、重要な真実を書いて居るわけで、驚きもしません。

 で、おととい初稿を書き、昨日、推敲した、副題1~6を読み返していただくのは、申し訳ないので、新しく書く部分(副題7)からを最初に持ってきます。しかし、その部分は、先に書いた、副題1~6に続いてこそ、意味を成すのだと、お考え下さいませ。ともかく、続きを書くのをお待たせして居たのは、お詫び申し上げます。

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副題7、『私は、大原光孝という人物を、どう考えるかについて、一段と、深化した、考察を、開示する方向へと舵を切った。それは、彼の変化が始まって、15年もたっているし、攻撃量が、多大になったので、より真実に近いことを書いても、天がお許しくださると、信じて居るからだ』

 それでね。私は、もう結論付けてしまったのですよ。・・・・・なんと、結論づけたかというと、大原光孝という人間は、見かけ上の素敵さとは、全く異なった、裏の顔を持っているという事を。それは、相当に、ずるくて忌まわしいものですが、全く反省の色が見えないのは、彼が、このブログを読んでいないからだと、ずっと、考えてきました。 しかし、ちょっと違うかもしれないと、何時か思い始めました。が、見えているのは大原光孝本人だけなので、書き方を変えなかったのですが、ごく最近では、もう、そういう書き方は、止めて、より深い真実に近づこうと、方針を変換しました。それが、結論付けてしまったのですよと、言う表現の中身です。

 実は美術界の大物である酒井忠康氏達のお墨付きをもらっていると、考え始めています。それも15年以上前から。それで、ふてぶてしく、ふるまって居て、全く反省をしないのだと、考え始めました。
 で、裏にいるそれらの大物たちは、一応防波堤としての大原光孝がいるので、おお助かりであって、それで、かれを、ちやほやちやほやと、持ち上げているとみています。で、彼は、自信満々であって、何を、私に、書かれても反省をしないという態度を取っているのでしょう。で、私は、汚い事だけを書き続けないといけないので、このブログの世界を嫌う人も出てきているでしょうから、大損をしているというわけです。
 しかし、いったん書き始めたテーマから去って、違うテーマで、書き始めると、それもまた、新たな攻撃を招くので、この我が家への、泥棒と大原光孝の関係というのは、相当な所まで、書きあげないと去ることができないテーマなのです。しかし、嫌なことを書いて居ても、物事は必ずフェイフティフィフティであって、酒井忠康氏の実像に、ぐんぐん迫っているわけですね。大原光孝が飛んだり跳ねたり、ちゃらちゃら動くたびに、ひたすらに、柄沢斉とか、酒井忠康氏の、影が、見えてくるからです。それが、ラッキーだから、彼を自由に、そして、やりたいように、泳がせているとも言えるのですよ。だって、彼は、舞い上がって大得意ですが、酒井氏あたりは、ピリピリしていると思いますよ。大原光孝みたいな、背伸びして、インテリぶっているフェイクなインテリと違って、真のインテリだし、頭がいい人だからこそ、怖がるでしょう。やって居ることが汚すぎるから。

 小学校時代を思い出してみてください。公立の小学校だったら、クラスに、3人から5人の頭のいい子がいたと思います。しかし、そのうちに何人かは、いじめっ子から、いじめられていたでしょう。怖がっているのを、感じ取って、さらに虐めるという悪循環を傍から、見ないといけなかったのではないですか。これは、ほとんどの人が経験している事実だと、思います。

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副題8、『私は大原光孝が、50号程度の絵を、唐草模様の緑色の風呂敷に包んで、山の外へ持ち出しているのに出会った。で、私に姿を見られたからか、彼は、「春季院展に入選した」と、言った。この入選だが、裏から、中島千波氏がサポートをしたのが、見え見えである。というのも、三越で、開かれる、春季院展に展示をされている作品すべてと比較をすると、あまりにも異質だったから。まず、テーマが剽窃だった。マチエールの非常に複雑な油絵を描く、本田和博さんのテーマと全く同じだ。総計美術学校の同窓で、本田さんの方が年下だと、思う。その上、春季院展は、偉い人が、売るために、展示する場所だと、思うのだけれど、べニア板に、アクリル絵の具で、書いて居て、手製の額に入ったそれは、その点単会を見にくるお客の、好みには全く合わなかったし。中島千波さんは、鶴岡八幡宮のぼんぼりまつりに、出品をしていて、しかもちゃんと、ぼんぼりまつりを、見に来る人なのだった。ああいう偉い人が来る場合、八幡宮は、社務所に上がってもらって、お茶ぐらい接待をすると思う。そこへ、酒井忠康氏も、近代美術館・旧本館の、職員用、事務室から、呼ばれて、一緒に歓談する可能性が高い。で、30分ぐらいすると菓子を変えましょうとなって、今度は、美術館内の、応接室、又は、会議室で、歓談が始まると、推察して居る。だから、中島氏は、他の、ぼんぼり献灯者(有名な洋画家、や、日本画家)より、酒井氏と、親しさが、高いと考えられる。

 そうなると、「来る春季院展に、大原光孝が、この様な絵を出品するので、必ず、入選をさせてください」と頼むのなど、簡単だと、思う。その依頼だけど、神奈川県立近代美術館応接室で、柄沢斉、酒井忠康、大原光孝、伊藤玄二郎、井上ひさし、等が集まって、協議し、そこへ酒肴が出れば、大原光孝は、舞い上がってしまうだろう。ところで、その場所だが、私は、伊藤玄二郎が、自由自在に使える川喜多記念館でもいいし、彼の社屋の、会議室でもいいし、もっと、素晴らしい場所として、旧里見頓邸が、使われたとも推察をしている。そうなると、大原光孝は、極上レベルで、舞い上がってしまうだろう。で、何故、本田和博さんの絵の剽窃だったかというと、その人の個展を、奥野ビル一階で、見た私が書いた、文章が極上の美術評論になっていたからだ。

 私の文章は、文体が易しい。誰もがわかる、口語体で、難しい語彙は使わない。しかし、頭が悪いわけでもないし、教養がないわけでもないし、感性が足りないわけでもない。ので、大変な人気を博していたらしい。

 元、exibit Live and Moris のオーナーだった、森さんが、「川崎さん、月刊ギャラリーの連載をしていた時期にいくら稼いだ?」と質問をしてきたので、きょとんとしていると、「2000万円は稼いだでしょう」と、彼は言う。私は、本当に驚いて、息をのんだ。月刊ギャラリーの連載は、それこそ、一年間で、20万円程度の原稿料をもらっただけで、登場した作家からは、一銭ももらって居ない。

 ただ、美術評論家というのが売文業であるという事を推察した。::::::::ここで、スピンオフに入るが、月刊ギャラリーの連載が、たった、一年で終わってしまって、私は大恥をかいた。私の前の担当者、日陰ゲン氏など、スペインで、食べているスパゲッティが何とか、勘とかという文章で、728回も連載しているのに、私は、たった、12回だ。本当に大恥をかいた。

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副題9、『ここで、本多隆彦さん、及びその奥様との、エピソードを二、三、語らせていただきたい。こちらも水沢勉氏と同じで、今では、全く交流がないのだが、ある時期は親密な時代もあったのだった。で、それが、又、世間を騒がす問題(=バター不足)へつながっていくので、私の周辺は、どこもかしこも、政治だらけなのだが。そして、本多さんは、のちに渡辺幸子さんとか、岸田淳平氏を、特集するのだが・・・・・という事は、私は、同じ、国際キリスト教大学卒の、渡辺幸子さんとは、一時期非常に近かったし(心理的な意味で言って居る。同じ鎌倉住まいだが、家・同志の距離は、2キロぐらい離れて居るはずだ)、岸田淳平氏など、(それがペンネームだから、ご近所人間は知らないかもしれないが)、住まいは、お互いに、10メートルとは離れておらず、斜め真向かいの位置に在るという近さなのだ。だが本田さんは、美術系作家としての私の特集を組むことはなかった。ニューヨークでの高い評価など、無視、無視となっていく。

 しかし、保田晴彦先生やら、水沢勉先生との間柄も、深く書いたこの章だ。一種の遺書として、本多さんとの関係も書かせていただきたい。

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副題10、『本多隆彦さんに、交渉事としては、二回ほど、出会った。一回目は、銀座の古いカフェ・パウリスタで。二回目は、我が家で。いや、反対だったかもしれない。2005年の事だった。本多さんとのアポは、電話でしているので、パウリスタのキッチンに、盗聴装置が仕掛かられていたと、推察される。

 で、その時見せた、【敷石を磨く男】が、とても出来がよかったので、(ただし、本多さんは、別にほめなかったが)、のちに伊藤玄二郎達は、瓜南直子さんに、全日本アスハガレンと、言う組織を立ち上げさせる。だから、盗聴をされていたと、見る。そして、それに関する投稿を毎日行わせた。それが、激しい攻撃にあたるのだった。 

 敷石を磨く男とは、小町通りのある商店の旦那さんだ。わたくしは、鎌倉への買い物は夕食後にする習慣で、毎日そこを九時過ぎに通るのだったが、毎日道路を水と、たわしで磨いてる人がいた。当時そこは赤と白の御影石のモザイク模様で、作られた美しい歩道だった。私の子のエッセイが原因で、そこが、アスファルト変更をされてしまったのだった。毎日汚れるのに、どうして磨くのかしら?と、不思議でならなかったが、彼の厳粛な雰囲気に気おされて、質問をすることはなかった。

 同じ這いつくばる姿勢でも大原光孝が天に叱られた日の、みっともなさったらなかった。そちらは、2016年7月18日に放映をされたテレビ東京のドリームハウス内の、劇的な一場面として、登場した映像だったが、台風でも雨でもない普通の日に、さして大木とも思われない樹木が倒れて、しかも斜めに倒れて、大原光孝が作った掲示板を直撃したのだった。その掲示板に貼ってあるものが警察の脅かし用ポスターだけだし、その上、大原光孝が、やって居る数々の恐ろしいことがたまっていたので、そういう風になったと、私は考える。そういうみっともない姿ではなくて、非常に厳粛なオーラを放ちながら、しゃがんで、無駄なことこの上ない事をやって居る。でも、ある日突然に、気が付いた。彼は、哲学をしているのだと。・・・・・もし彼が東大教授で、本が大ヒットした養老先生だったら、何もしないで、ぼんやりしていても、誰も、不思議には思わない。先生は、ものを考えて居るのだと、して、許容されるだろう。しかし、さほど、おおきな立場がない人が、天空を見つめて、ものを考えて居ると、異様な人だと、誤解をされる。だから、家の外へ出て、敷石を磨いているのだ・・・・・と。

 その日、パウリスタで、もう一つ私は、鋭いことを言った。それで、本多さんは、私を採用することにしたのだろう。それは、「本多さん、本多さんの会社って、かくかくしカジカの、予算で回っているでしょう」と。それが、図星だったらしい。本多さんは、その通り。どうしてわかるの?」と聞いてきたので、「いえ、だいたいの勘で言ったのよ」と答えた。普通の場合だったら、編集者の方が生殺与奪の件を握っているので、怒ってしまうところだろう。『お前を採用してやるか、やらないかは、こっちが決めるのだ。なんでためぐちを利くんだよ』と内心で思って。で、ここらあたりは、魚心あれば水心ありの典型で、私は本多さんに感謝したからこそ、こう続けた。「本多さん。私は、月刊ギャラリーの連載と、同時並行して、婦人公論でも連載ができる様にうごくつもりよ」と。

 これは、単純に聞くと、私が大変な欲張りに思えるだろう。しかし、本音は違って居た。私は、ひそかに敵がいることに気が付いていて、敵への、対策として、数社、同時並行的に、連載を持った方がいいと、考えて居た。でないと本多さんが、困ることになるだろうと考えて居た。それは、秋に入って証明をされることとなる。4月に連載が始まってから、たった、6か月以内だった。浜田知明氏との懇談を本多さんは断られたのだった。それを本多さんは、熊本からメールで知らせて来た。

 「僕は今、熊本にいます。飛行機で、熊本に来たのに、浜田知明に面会を断られました。今、熊本名物の馬刺しで、お酒を飲んでいます」と。この個人メールは、本当に大きな衝撃だった。この時、本多さんは、本当に悔しかったのだと、思う。そして、私が原因だと知って、恨みのメールとして、これを送ってきたのだろうか? いや、それなら楽である。かえって楽である。そうではなくて、たまらないほどにやるせない思いを、誰にぶつけるかを本多さんが、考えた時に、私が頭に浮かんだのである。ただ、単に、自分の雑誌に連載をさせてやると、言う間柄だったら、私には甘えてこない。だけど、私は、27歳も年上の母にさえ、甘えられていた存在だ。男性からも女性からも甘えられる。しかし、私には体力がない。で、体力的に負担が、大きくなりすぎると相手を切る。こちらから縁切りを申し出でる。

 本多隆彦さんが私に甘えてきたのは、たった一回だった。それに背景を考えると、十分すぎるぐらいに気の毒だった。国会議員とか、国公立の、美術館の学芸員だと、出張費は、税金で賄われる。心理的負担が軽い。ところが、本多さんの飛行機代は、彼が汗水たらして稼いだ、自分のお金だ。

 しかし、私が、大きく、大きく混乱に陥ったのは、『もしかしたら、水沢勉先生が、阻止したのではないか?』と考えたからだった。

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副題11、『これから先、いったん受諾した浜田知明が、熊本に来させたうえで、ドタキャンした裏に、誰がどういう助言をしたのでそうなったのかを解いていきたい』

 大変ないじめだった。私が、直接意地悪を受けたわけではないが、ぐし、ぐしと、私の心を刺した。順当に考えると、戦後最大の、CIAエージェントであり、北久里浜における、地籍変更届の、秘密を全部知っていて、(それは、実質的な大詐欺事件でもある)其れゆえに、実質的な、主犯である、益山夫妻は、私を殺そうとして、その結果、反対に重夫氏が死んだのだった。それを恨んだ智恵子夫人に同情した、重夫氏の親友だという、瀬島龍三が、一連の動作を行ったと考えるのが正しい解釈であろう。

 奥さんの智恵子さんが、1978年の10月11日、私を轢き殺そうとしたのは、午後四時の事だった。私は、午後五時に東京の弁護士さんに自宅の電話、及び公衆電話の二つで、このことを知らせた。盗聴をしている重夫氏は、奥さんが帰る前に、急死した可能性が高い。自殺か、心筋梗塞か、脳溢血かは知らないが、午後の、九時には、医者の死亡診断書は、既にできていて、夜の10時には、葬儀屋が来ていて、彼等は、夜の11時には談笑しながら帰って行った。

 私の北久里浜の家は、木製の雨戸を閉める形なので、その葬儀屋は、見えない。玄関を開けても、目の前は、高いブロック塀となっていて、道路が、間知石何個分か、下がっているので、見えない。しかし、私には声だけで、真実がわかった。数十年のち、因縁の土地にルネ北久里浜(売り出し時の名前・ソラヒルズ)が、竣工した時点で、(又は、工事に着工した時点で)、益山智恵子さんが、鎌倉の雪ノ下のこの家に、罵りの電話をかけて来た。又は、恨みの電話というべきか? 何をやって居るのですか? 馬鹿者め!と、相手にもしなかった。

 そのころも、それ以前も、私は創作者として、自分の実力を高める事へ、集中をしていたのだった。しかし、そのころ、益山智恵子、仲野通巳吉(智恵子夫人の実弟)瀬島龍三などは、そこでの、実質的なぼろもうけ(濡れ手で粟の大収入)を得ながら、一方で、私が、そういう悪に目をつぶりただひたすら追い求めていた、創造者の世界へも魔手を伸ばしていたのだった。なんという強欲な事か? そして、1978年当時、彼等に協力したので大出世をした、杉本俊一正子夫妻、彼等は、横須賀市の税金を大量に島田章三に、注ぎ、島田章三は、それを愛知芸大に注いだ。はいはい、忖度に次ぐ忖度の連続の世界だ。週刊文春が取材に来ないので、かれらは、のうのうとしている。

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 ここで、午前五時過ぎになったので、以下はメモだけ書いておきます。

副題12、『もし、浜田知明に本多隆彦さんへのドタキャンを、命令したのが、水沢勉氏だったら、私には、衝撃が過ぎるのだった』

 浜田知明に本多隆彦さんへドタキャンをする様に命令をしたのが、水沢勉氏だったら、それは、非常に深い衝撃である。しかし、私は水沢勉氏から、「僕は、本多隆彦と、本江邦夫は、嫌いです」という言葉を聞いている。それは非常によくわかる。水沢氏は、エスタブリッシュメント中のエスタブリッ主メントで、一般の言葉でいう上流階級の人だ。一方で、本多さんは、美術界では、成り上がり者である。学閥はない。自分の感性と、エネルギーで、のし上がってきた人だ。カラーが違う。私が、安野夫人を嫌う流れと似ている。

 本江氏の方は、成り上がりものではない。東大卒で、立派な職業がある。しかし、水沢氏と年齢が近いだけに、ライバル心をお互いに抱いた可能性もあり、本江氏が、水沢氏に挑んだり挑発的論戦を仕掛けた可能性もある。しかし、本江邦夫さんの羽田空港での急死を、私は、不自然な事だと、考えて居るので、こちらもなかなか、複雑だ。

 ここで、もし、瀬島龍三が、浜田氏に、本多さんとの会談をドタキャンする様に依頼をしらのだったら、それは、盗聴とかハッキングを利用したという事となる。しかし、おぼっちゃま中のおぼっちゃまである、水沢氏が、そんな汚い事をするはずはない。でも、浜田氏の方から、水沢先生に電話がかかって来て、「本多隆彦という人物から、取材のもうしこみがあったのですが、どういう人物でしょう」という電話が、本多さんが、飛行機に乗ってしまった時点で、かかってきたとしたら、水沢先生の、低い評価が浜田知明に伝わってしまうわけです。

 これは、2006年の九月だったと、記憶して居ますが、私は、水沢先生には、交誼を切られていたものの、一時期大変親切な事もしてもらっていたので、身を切る様につらかったのです。本多さんとは、まだ、関係がよかった時期です。で、このつらさがあったので、本多さんから、月間ギャラリーの連載を何の連絡もなく切られても、仕方がないと諦めたのでした。

 その切る行為は、瀬島龍三、伊藤玄二郎、酒井忠康、柄沢斉、シロタ画廊、本多隆彦という流れで、実行されたと、思います。

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副題13、『エフゲニーオネーギンの中の、有名なアリア【青春は遠く過ぎ去り】ではないが、本多夫妻との、楽しかった日々の事を思い出そう。そこから、又、大原さんの悪辣さが浮き出してくるからだ』

 何が目的だったかは、忘れたものの、本多さんが、急に、我が家を訪問すると、言いました。で、私はありあわせの材料で、八宝菜を作り、五時ごろ来る本多さんにご馳走しようと考えました。それを【たち吉】の青緑色の深皿に乗せ、居間のテーブルに乗せました。本多さんは、忙しい人だから、ここで、五時から六時の間に、一食・食べて、夜11時ごろ、もう一回食べればいいでしょう。で、私はよそのお宅でもさらっとお食事を出してもらえる人間だから、同じことをしたかったのです。

 そのたち吉のお皿ですが、何を入れても映えるのです。で、同じ物をもっと数をそろえたいと、行ってみても、どこのでパートでももう売っていないのでした。その五枚揃いのお皿が、今では、2枚しかありません。割れたり盗まれたりしているのです。

 一枚か二枚は、盗まれていると、思います。ほかにも見事な食器があるのです。化粧品と同じく、すべて、プレゼントです。結婚した時そろえたものはノリタケと、志野風の和食器で、そちらは、すでに亡くなっても、変ではないと思うのですよ。結婚後53年たっていますから。しかし、こういうプレゼントの特別いい食器が、すみだけ、ちょっと欠けて居たり、静かにひびが入って居たりするのを、大原さんがやって居ると、考えて居ます。特に、2019年年以内までは、そうなのです。

 どうしてそう考えるかというと、オープンハウスをした時に、もう、すっかり縁が切れている彼が、訪問をしてきて、美しい銀食器に目をやったのです。カナッペがのっているさらに、添えて、取り皿と、菓子用フォークと、菓子用、スプーンを置いていたのですが、かれがそれに目をやった以降、箱ごと動いたり、数も減って行ったのでした。

特に、ひどいのは、フォークの先を左右に分離的に、曲げている事情でした。

植木鉢の罠というものとか、ひどいことをやられて続いているのですが、そのリンク先を、+++++罫線以下に、一つ二つ置いておきます。いったん寝たら、整理します

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副題14、『私が、クッキーづくりに凝っていたころで、29人分ぐらいの手作りクッキーを月刊ギャラリーに送った。すると、本多夫人から個人的にメールが着て、私もこういう事をする主婦になりたかったのです。でも、主人の仕事を手伝っているので、できません。でも、一番下の子が風邪で、そういう時に、会社を早退して、こういう事(お菓子作り)をして、一緒に過ごしたいと思います。川崎さんレシピを教えてくださいませんか」と書いてありました。で、私が、プロのクッキーと比べると、どうしても固いです。でも、口の中で、溶けてくるし、子供が「これって、究極のスローフードだね」と言って、喜んで食べてくれます。と書いて送りました。

 これは、バターの箱が、225グラムだった時代のレシピですが、バター幅4㎝、粉大カップいっぱい,砂糖、小カップ一杯、卵一個、ヴァニラエッセンス少々、が、基本です。これに、梅酒か、リキュール類につけておいた干しブドウや、砕いた、クルミを入れると、さらにおいしくなります。と、

 するとバターの箱が変わったのでした。で、そういう箱だと、少なくとも、幅五cm以上、使わないと、おいしくありません。

 その上バターが払底してというニュースが繰り返し流されることとなりました。特に鎌倉駅そばの東急(スーパー)で、ひどいのです。違う街の違うスーパーでは、充分においてあるのですよ。その上、業界向けには、充当されていると思います。それから、本当にお菓子作りが好きな人は、ショートニングと、生クリームを併用すればほぼバターの代用品となるので、とっくに実行をしているでしょう。

 さて、そういう状況下で、すべてを聞かされている大原光孝は、夜、石段を追い抜いていく際に、

「川崎さん、ワインが割れて惜しかったねえ」と、しわがれ声で、からかいながら、通り過ぎました。その当時の私は銀座の画廊巡りを終えると、赤白の、一本千円ぐらいのワインを、新橋駅近くのハナマサという安売りスーパーで、買って帰るのを習慣としていました。そしてそのころはそれを寝酒として使って居ました。そろそろ体力が落ちてきていた時期で130段の石段を、他の重いものと一緒に其れをもって上がるのがつらくて、途中で休みました。すると、石段が砂岩という柔らかい医師でできていて、既に、欠けているところがいっぱいあったので、レジ袋に入れてあった、赤ワインの方がころころと石段を下って行き、どこかで割れました。あたりにポリフェノールのにおいが強く漂いました。

 これから先は後で、書きます。既に、24時間以上起き続けているので、さすがに、78歳ですね。これ以上は、無理です。

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