銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

小さな後悔、人には、それぞれに違った習慣や、技法があるのだけど。

2015-12-07 23:39:40 | 政治

  最初に、写真の説明をさせてくださいませ。これは、この章の、副題5に関連する写真ですが、蜷川幸雄さんが、開成の制服を着て川口の街を歩くのが、とても、微妙だったという話と関連付けて、アップしている写真です。ただ、写真を、トップに置いた方が、ブログが華やかになりますので、ここに置いてあります。なお、これは原画は、日本画だと思います。坂内青嵐と言う作家が描いたものです。こんなところに役に立つとは思わなかった絵葉書の一枚で、だいぶ前に購入したものです。

副題1、『子供の頃の思い出に、ふと、入っていくのだったが』

 今、お茶碗を洗っていた時です。急に思い出したことがあります。それは、60年以上前の想い出でした。母が忙しい人なので、わが家には、大昔からお手伝いさんが居ました。その人物ですが、日吉には、家政婦紹介所などは無くて、またあっても、母はそういうところには頼まなかったと思います。 

 隣の駅である綱島には、昔はあったかもしれません。綱島って、温泉が出るので、一種の、ミニ熱海状態だったのですよ。そういうところには、女性が働く仕組みがたくさんあったので、若い人が仲居(割烹料亭での女中さん)などをした後で、お手伝いさんへ転職をするというケースはあったと思います。
 綱島は、今は、まったく変わっています。昔料亭だったところが、敷地が広いので、マンションになっています。で、マンションが林立するサラリーマンの住宅街となっています。

 で、母が探してきたお手伝いさんは、口コミでお願いができた女性で、昔は、遠くの街で、手広く商売をしていた一家の奥さんでした。しかし、その商売が、斜陽のモノ(銭湯)だったので、つぶれたのです。で、いわゆる経営者としての、ぜいたくとか、誇りとかが、過去にあったがゆえに、男どもが普通の労働を嫌がり、働くことから離れてしまった一家でした。で、パチンコをしているのか、それとも、のみに行っているのかは、判りませんが、男が働かないので、女が、お手伝いさんをすると言うことで、生計を立てているという状況でした。
 1950年代は、生活保護のシステムなんかなかったと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~

副題10、『うちの母って、人を使うのが上手だったなあと、それだけは、感嘆する』

 副題1に書いていたお手伝いさんが、最初の人だったのですが、どうしてか、円満に辞めてもらっています。理由は、私にもわかっていました。その人は、元銭湯を経営していた人で、下町風の生活感覚が旺盛な人でした。番台にも座っていたという、下町の情報通です。で、それを辞めた後でも、おしゃべり好きで、あそこの家で、こういう面白い事があったとか、話してしまうのですね。たとえば、「お隣(我が家のですよ)のご主人は、奥さんに、『ママ、靴下が破れているから、繕っておいてください』と、お手紙を書くのですよ。それが台所に貼って有るのですよ」とか大声で笑いながら。

 このお手紙の問題ですが、そこのご主人は帰宅が遅いのですね。そして、朝は早く出勤をする。また、ママは、刺繍は大得意、編み物も大得意の賢夫人で、その作品は【婦人の友】に掲載をされているほどですが、ご主人の靴下を洗って干すのは、お手伝いさんなので、靴下の破れの方には、気が付かなかったのでしょう。昔の靴下は、化繊が入っていなかったので、弱くて破れやすかったのです。

 が、それに、ついては私も同じなので、笑われた奥様の方に同情をします。私は夜型の上に、良く外出をして、遅い時間帯に帰宅をします。で、主人とは、就寝時間がずれていますから、まさしくメモ魔であって、相当多数のメモを、寝る前に主人に残す方です。だから、このメモの話も、まったく、笑えない方です。それは、子供の時から、そういう風でしたが、下町風の「ちゃきちゃきの江戸っ子だーい」などと言う、このお手伝いさんの、気風から見ると、きわめて、おかしい事になるらしいのでした。ただ、母はそういう話を聞くのを好まず、この女性に辞めてもらいました。

 その後に来た人が、最初の人の妹さんなので、母のすごさが判ります。私だったら、最初の人に辞めてもらうだけでも、逡巡をしてしまいます。もし、ご機嫌を損ねたら、あたり中に悪口を言われてしまいそうですからね。「辞めてくださいませんか?」と言うこと自体が、怖くて言えないと思います。しかし、母にはそれが、ちゃんとできて、しかも、後継者として、最初の奥さんの妹さんが来たのだから、すごいですね。今、思うと、本当にすごいです。

 この妹さんの方ですが、当時の年齢で、40代後半だったと思います。実妹だという事ですが、姉よりずっと静かで、洗練をされている方でした。

~~~~~~~~~~~~~

副題3、『しかし、私には、今度は新しい問題が起きた。二度目のお手伝いさんの、茶碗の洗い方が、どうしても納得ができないのだった』

 今、語っていることは、1954年よりも前の話です。非常に古い時代の話です。当時は、洗濯機もないし、電気の冷蔵庫もないし、と言う時代です。

 そして、むろんの事、中性洗剤もない時代です。着ものの襟はベンジンで、ぬぐってきれいにして、他の洗濯ものは石鹸で手で、洗濯板を使って、洗うという時代でした。髪を洗うのに、石鹸で髪が痛むのを嫌がる人は、糠で洗うとか?

 お茶碗類は水で洗うだけです。昔は、中華料理などは、自宅では作らなくて、煮魚とか、焼き魚、煮物、おなます、などが中心なので、食器も、水で洗うので、充分だったのでしょう。食器洗い用中性洗剤が無いばかりか、スポンジもなかったのですよ。で、晒しの布巾を使いながら、水道の流水の下で、お茶碗も、鍋(こちらには束子とか、磨き粉も使ったが)も、きれいにしていったものです。

 ところが、そのお手伝いさんは、晒しの布巾を用いないのです。手だけで洗うのですね。手のひらと、指だけで、お茶碗を洗うのです。中性洗剤と、スポンジのない時代に、 手だけで、お茶碗を洗うのです。見ていて、私は不安でたまらなくなりました。でね。子供だてらに注意したのです。

 その前に、母に対して、どういう風に、言いつけたのか、または、言いつけなかったのかを思い出せないのですが、昔から正義漢でもあり、勇敢だった私は、母にそれを言いつけなかったのだと、思います。人を介在させるのは、卑怯だと、思っています。

 その卑怯と言うことが最近の私のブログの主要なテーマです。それに関して、昨日、2015年12月7日にもエピソードを拾いましたので、後段で語りましょう。

 それでもね、相手は、30歳以上年上の大人ですから、母に最初に言いつけたかもしれません。母は、彼女がお茶碗を洗う姿など、見ていないのですからね。しかし、ここが、母が、人使いのうまかったところで、小さなことには拘泥しないというスタンスで、私の忠告を取り上げなかったのかもしれません。ともかく、そのお手伝いさんが、手だけを使って、お茶碗を洗うのは、その後も続きました。

 私って、事実上、神経質な方です。ハムでも、うっすらと、汗をかいているのを、見つけてしまっただけで、それを食べると、瞬間的に下痢を起こします。主人が大丈夫なので、腐っては、いないのですよ。それでも、感覚の記憶だけで、下痢を起こします。

 お蕎麦でも、わが家の実家は、関西風のおつゆで食べるので、最初に、てんぷらそば(1960年代の事だった)を、関東風のおだしで、食べた時は、そのおだしの色の黒さに驚いて、すぐ下痢が始まり、お相手が、偉い女性の方だったので、もっとお話を聞いていたかったのに、早々に、面会を終わらせたのでした。ごちそうになっていて、失礼極まりないのですが、違和感だけで、下痢が起きるのです。そういう私ですから、指だけで、あらうと、指の隙間に洗い残しができると、思って、心配でたまらず、

 とうとう、自分から、一人で、注意したのですよ。「布巾を使って洗ってほしい」と。すると、そのお手伝いさんは、非常に丁寧に、「お嬢さん、これは、私のやり方なので、変えるつもりはありません。これで、充分にきれいになるのですよ」と、言ったのです。私は、あっけにとられました。自分は、科学的根拠があって、それを、言っているつもりなのですが、それを認めてくれない大人が居るという事に。

 で、その後では、夏休みでも、できるだけ台所が見えない場所に、いる様にしました。

~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『社会階層の形成は、東京圏の、私鉄沿線の住宅街では、すでに、戦前から(田園調布など)、明瞭に存在して居たのだった。そして、それは、戦後も、1980年代いっぱいまでは、続いた・・・・・しかし、最近は、もっと、差が激しくなっているが』

 さて、ここから、いろいろな考察が生まれるのです。もし、あれが、10歳の時の私ではなくて、73歳の今だったら、二手に分かれるだろうなーと言う事。まず、経験を積んでいて、許容ができる範囲が広くなって来ているから、「あら、そうお。それは、驚いた。でも、じゃあ、仕方がないわね」と言っておくだけにする。そして二度と蒸し返さない。・・・・か、

 反対に、経験を積んでいて、だからこそ、強くなっていて、「あら、私が、お金を払っているのだから、この家では、この家の流儀でやってください」と言う方向か? どちらになっているか、スポンジを使い、洗剤を使うことが常態化した、現在の日本では、同じ状況が再現できないので、判りませんけれど。

 総タイトルに【小さな、後悔】と書いているでしょう。それはね。この時の事を指すのです。その二人目のお手伝いさんは、背が高くて、程度が、ちょうどいいくらいに太っていて、ちゃんとした女性です。敬語もうまく使う人です。だけど、肌が、色黒かったり、着ているモノの質などから、子供心に、『階級が、下の人だ』と、見ているところがあったのではないかしら? でね、今の言葉でいう小姑根性が発生していたと、思うのです。

 今、社会階層が、再形成されていて、富裕層と、そうでない層と、乖離がひどいと、言われ始めています。でも、東急が分譲した土地には、その階層社会の事がすでに、きちんと出現をしていたのでした。戦前に開発されたのは、田園調布と、日吉、篠原町(岸恵子の家がある地域)、他だと、思いますが、戦後は、私達が、住んでいた二期目の日吉をはじめ、二子玉川とか、どんどん、新しい住宅街を建設して行っています。

 新聞やネットを見ていると、それを象徴する言葉にも出会います。『田園調布に家が建つ』と言うお笑い芸人系からの言葉。それから、最近では、『マツコ・デラックスが、<ニコタマって嫌いよ>と言っている話』等もそれを表しているのです。

 二子玉川駅周辺を、今東急は再開発しています。駅近辺に、老人用マンションを建てて、また、商業地域やオフィスビルを作り、近辺20分圏内の一戸建ての住宅街に住んでいる現在、60歳以上の人を、駅周辺の利便性の高い地域に移動をさせ、彼らが持っていた戸建ての住宅をリフォームして、若い人に住まわせるという計画です。で、そこに住んでいる人は、階級意識的に高くて、人を見下すようなところがあるのでしょう。マツコ・デラックスは、頭がいいので、そういう気配を感じて、それに対して、怒りがわくのだと、思いますよ。誰だって、差別のない地域の方が、好ましいですよね。お店で物を買うだけにしても、心底から親切にしてもらいたいです。

 このことは、西武沿線でも起きて居るだろうし、小田急沿線でも起きて居るだろうし、京急沿線でも起きて居る話でしょう。京王線でも起きて居るだろうし、東上線でも起きて居るだろうし、東武野田線でも起きて居るだろう話です。JR各線でも起きて居る話です。たとえば横須賀線ですと、東戸塚、とか、逗子駅で、降りる人たちは、現役のサラリーマンで、高給取りそうな人が多いです。鎌倉に住んでいる人とは、老人ばかりなので、もし、神社仏閣が無かったら、貧相極まりない街と成る処でしょう。下落合とか、南林間とか、常盤台とか、住宅街の一区画が、100坪を超える様な、立派な町って最近は、多数あるのでしょう。上野毛だけは、戦前からの住宅街かな?

 ところで、上に言った、<戦前は、繁華街で、銭湯を経営していた人達>の事ですが、東急の分譲地ではなくて、すぐ隣にあるお百姓さんが開発した、小さな分譲地でに暮らしていました。そこは、道路も幅が狭い(車の入らない)上に、ひと区画のスペースも30坪程度と、狭い形です。家も安普請で、二階建てではなかったです。だから子供心に、その階層の違いが、私にはわかっていたのでしょう。

 でもね、その一族は、合計10人ぐらい人数がいて、男の子たちが成長するにつれて、巻き返してきたみたいで、引っ越していきました。彼らにとって、日吉とは肌に合わない住宅地だったと思います。もっと、都心がいいでしょう。戸越銀座とか、蒲田の商店街とか、今は、さびれ始めているが、武蔵小山商店街とか、ああいう下町風なところが、向いている人たちなのです。大きな声で、「ねえ、げんきー」とか、隣近所で、呼びかけあって暮らす様な地域が、あっている人達でしょう。夫婦であってもメモで、意志交換する様な地域は、合わないのです。(苦笑)

 でも、そちら側から見れば、私の注意は『何を、小生意気な、こわっぱめ、串刺しにして、焼いて食っちゃいたい程、憎たらしいわ』とでも、思える態度だったでしょう。今、思うと、心から笑えてしまいます。そして、後悔をしますよ。

 時々思い出すのですが『ああいうことは、言わなかった方が、よかったなあ。ただ、一筋に、我慢すればよかったのかなあ。だけど、私って、本質が大切だからね。あの洗い方は、危険ですよ。絶対に、不潔な部分が出てくるはず。一日に一回、夕食後かな、母が洗っていたので、大丈夫だったけれど』と思うのです。でも、本日、このエピソードを文章化したので、子の想いでを、忘れていくと思います。「パソコンのあそこに、脳内から移しましたよ」となると、忘れることができるのです。

~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『もし、客観的に見て、私が生意気だったとすれば、それは、父にかわいがられていたせいだろう』

 私ね、もう一つ上に類した思い出があるのですよ。もしかしたら、自分は生意気な子供だったのではないか?と、思われるエピソードが他にもあるのです。それは、そろばん教室で、男の子(クラスも学年も違う子だから、名前も顔も覚えていない)に、叩かれたという事件です。その子は先生に叱られていました。何が原因だったのか。自分でも、何も覚えていないので、トラウマにはなっていないのですが、素手か算盤かで、派手に叩かれて、先生に、その男の子の方が注意された野でした。そういう思い出だけは、あるのです。きっと生意気だったのでしょうね。その二つが、小学生時代の思い出で、成長してくるにつれて、日吉の街を歩くのさえ、引け目を感じることとなっていきます。

 それはね。蜷川幸雄さんが、まったく同じことを、NHKの100年インタビューで語っていたので、『ああ、みんな同じなんだ。だけど、それは、芸術とか芸能とかを担う人に固有の、傾向かもしれない』とも、それを見聞した時に、思いました。それは蜷川さんが、開成中学に入学できて、その制服で、駅から自宅まで帰宅する途中が、たまらなく恥ずかしかったという話です。

 なお、spin off として語りたいのですが、このエピソードは何度も書いていますが、以前の文章では、開成を武蔵と誤記しているかもしれません。NHKを見た限り、武蔵と、覚え込んでしまっています。今、wikipedia を、新しく開いてみて、正確に言えば、学校の名前は、開成だったと、知りました。ともかく御三家の一つです。

 私もね、今は、バスが通っていますが、昔は、それが無くて、日吉駅から自宅まで、15分を歩いて帰っていたのですが、その途中、人に会うのが嫌で嫌でたまらなかったのですよ。それは、制服が、特殊で、誰にでも、自分がお茶の水女子大の付属高校(当時は桜陰よりも豊島岡よりも名門だったし、東大への入学者も多かった)へ通っていることが判ってしまうからでした。  

 今の制服はスーツへと、変化していますが、1950年代の当時は、セーラー服の上にベルトを締めるという形式だったのです。それは、地域社会では、うらやましがられるというタイプの制服なのですが、・・・・・それに身を包んでいると、たまらないほどに切なくて、かつ、恥ずかしい・・・・・・という不思議な感覚を覚えました。自意識過剰だと言えば言えるのですが、思春期特有の、穴でもあったら入りたいという感覚なのです。恵まれているということは、はっきりわかっているのに、その恵まれていることに対して、いたたまれない感覚。これはね。きっと、蜷川実花さんにはない感覚でしょう。でも、幸雄さんには、それが、あったらしい感覚です。テレビだけではなくて、べにさんピットで、鶴田真由さんと会話をしている姿を見たことがあるけれど、それなりに、神経質そうなお顔でした。だから実感だったと思いますよ。

 そして、専業主婦となると、今度は、社会階層的に下手の方に置かれる様になります。だが、この問題は、解説が、長文になるので、飛ばします。

 でね、小学生ぐらいの年齢では、生意気なこどもだった可能性があるというところに戻ります。その理由は、父親にかわいがられたと言うことと、父親が、いわゆるモボで、かつ、満鉄の研究所にいたという事です。満鉄のエリートには、相当な自由主義が許されていたのでした。「ごめんなさい。中国様」と、言っておきましょう。恵まれた環境であって、本土よりもはるかに自由主義の気風が高かったのです。アメリカのカリフォルニア大学で、博士号を取った様な人が、本土では、いたたまれない気分で、暮らさないといけないのに、満鉄の社内では、自由に研究ができるという不思議な時代でした。そして、父は、日本で、新卒後就職した際(石油会社)は、結婚した母を、モガに仕立て上げたくて、正金銀行とか、日産自動車にお勤めに出していました。だが、満州では、そういう施設や会社が無いので、母は専業主婦になり、それでなのか、私が、結婚後、5,6年目にして生まれたのです。なかなか、できなかった子どもなので、父は、充分に父性を発揮して、私をかわいがりました。

 もしかすると、母は潜在意識の中で、私に対して嫉妬心を抱いたかもしれないというぐらいに、父親にかわいがられました。母との関係は、最終段階では、よくなっていますので、ご安心をいただきたいのですが、AERAで、特集をされていたみたいに、「親が重い」特に「母親が重い。自分が死にたくなるか、母親に死んでもらいたいと思う時がある」とか言う人は、長女である可能性が強いですよ。それは、母親の方の、父親を間に挟んだ、娘に対する潜在的な嫉妬心が、反映している可能性があります。

 ところで、父親に、かわいがられたことが有名な人として、森茉莉さんを上げておきましょう。幸田文さんも本質的にはそうなのだけれど、継母が家に入って来ているので、見かけ上は、愛されているとも思われない日常でしたね。だけど、明治生まれで、あれほどの、活躍ができるのは、父親に愛された子供だったからだと思います。

 森茉莉さんが、エッセイや小説に書いているのですが、「両親、特に父の森鴎外に、かわいがられていたので、お嬢様育ちであって、家事が全くできず、結局のところ、女中に妻の座を奪われてしまった」と、言っています。しかし、私はね、破たんの原因は、家事だけではないと、思いますよ。女性としてのフェロモンの問題とか、エロスの問題があって、夫は、女中の方のそれに、心を動かされたのだと、思います。女中の方も夫側にモーションをかけたはずですし。

 そして、森茉莉さんにとっても、ある特殊な傾向(=文章を書くことが好きだという)があったと思います。創作とは、最も高い快楽を、与えてくれるものとして脳内に、認識をされるそうです。で、夫も、家庭も、さして大切ではなかったのでしょう。もし、それが、本当に、大切なものだと考えて居たら、修羅場を演じても、しがみつくと思いますよ。けれど、本心では、「創作をする方が楽しくて、その為には、独り身であった方が、より楽に活動ができる」と、考えていたからだと、私は思っております。

 でね、本日は、お手伝いさんを中心として語っているので、ここまで、着たのですが、女中さん側からのフェロモン攻勢と言う危機には我が家も曝されたのでした。

 それは、二番目のお手伝いさんが、引っ越していった後で、なかなか、見つからないので、それこそ、どこか、職業安定所か、家政婦派出所で、探してきた人でした。既に故人となっていると思われるので、はっきり言いますが、地方に住んでいたのを、離婚を機会に、一旗揚げようとして、東京に出てきた人なので、住む家が無いということで、わが家内に同居をしていました。後に私の勉強部屋として、一時期使われることとなる、三畳の部屋があって、そこにその人は寝泊りをしていたのかな?

 その人は、結婚前は、某有名な会社の人気のあるスポーツのチームに所属していた人で、もし、それが、東京オリンピック以降の話だったら、彼女が金メダルを取るかもしれないという種類の競技です。で、体格が良くて、自分の子供も産んだ過去があるのかな? だから、フェロモンが旺盛な人でした。私の父の方ですが、明治生まれですが、陸上競技の選手でもあって、走高跳を専攻していました。戦前には、今話題の国立競技場の二代前の、競技場で、走高跳、1m65cmを取んだそうです。これは、三位以内には入らない成績だったそうです。が、明治生まれの人間としては背が高かったのでした。また別のところで言っている様に、旧制・中学時代に元東宝の重役・藤本真澄さんと、親友だったぐらいであって、背が高くてかつおしゃれでした。父の写真はすべて盗まれていますが、たまたま、下の一枚だけは、スキャンしてあったので、使用可能です。で、23歳の時のものですが、置いてみます。

 この様におしゃれで、しかも、すでに金持ちになっているのですから、その女中さんが、『この男を、奪ってやりたい。そうすれば、自分が、子供を捨てて、離婚をして、上京をしてまでやりたかった、ランクアップの夢が、かなう』と、考えたのも無理はないのです。でね、巧妙な作戦として、自分の母に対抗するフェロモンの優越性の方は、表には立てず、子供、特に三人いる一番下の子供を、自分の方になつかせるということをやり始めました。父が子供をかわいがっている、子煩悩な男性だということは見抜いていたのです。でも、私にしたらたまらない現象でした。

  その時、上の方で言っている、「お手伝いさんに、お茶碗の洗い方を注意して、拒絶をされる」という経験は、既にしていたのです。だから、女中さんの方に何を言っても無駄だとはわかっていて、父に言いました。「あの人を辞めさせて。お母さんの代わりになろうとしているから」と。幸いに、父は、私の方を選んでくれました。よかった。愛とは、フェロモンに勝つのです。『よかったなあ』と、本当に、思っております。

 あの時に父が、女中さんの方を選んでいたら、私の今も、ないです。ちゃんと、大学へ行かれたかどうかも、わかりません。特に私立大学へ入学できたかどうかは疑問です。母一人では、できなかったでしょう。あの女性は、結婚が成立するまでは、子供を虜にした筈ですが、結婚が成立した後では、他人の産んだ子供など、苛め抜いたはずです。だから、当然に、子供たちは家をでて、母親側に身を寄せることとなって、お金の面でも、その他の面でも苦労をしたでしょう。

 これ以降も続きますが、ひとまず、休憩時間を入れさせてくださいませ。

 

@@@@@@

~~~~~~~~

 

PV 3243120

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 武田双雲を、新発見する。人... | トップ | 見城徹は、CIAに許容をさ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

政治」カテゴリの最新記事