銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

残酷無比なNHK【杉並区の空き家】特集、お子様にまで、カメラを向けていた。MCの鎌田靖さんも、今、不幸せでしょう?

2021-07-04 19:07:41 | 政治

 前報で、加筆をしようかと思いましたが、前報も、重いし、続きも重いので、新しい章を起こします。

副題1、『私は、大体システムを用いて、人間に上下関係を作ろというものに反対だったが、ここにきて、それが、ある個人を、破滅へ導いたかもしれないと、感じたので、これは、全容を知るべきであろう考えた。そのアイデアは、1994年ごろには、すでに抱いていたのだった』

 私は、四歳上の、鎌倉在住の画家にして、同じ大学の入学生だった、渡辺幸子さんが、「国際キリスト教大学の人間だから、美術界で、出世できないと言う事を、何度も電話内で、愚痴ってきても、あまり、熱心には、聞かなかった。私は画壇での出世とか上昇と言う事に興味がなかったし、人間がシステムを利用して、上下関係を作り、上の人間が下の人間に向かって、威張ると言う事を野蛮なことだと、考えていたからだ。

 その最も激しい仕組みを北朝鮮に、いまだに見ることができるし、最近の習近平に見ることができるし。日本でも、あの人、この人と、見ることができる。鎌倉エージェントにおいても、伊藤玄二郎はエンリケ皇太子勲章(ポルトガル国より、拝受)を最大限に、利用をしていると、思うし、十分を公的には、死んだことにしているが、実際には生きている井上ひさしも、まず相手に対して、日本ペンクラブ会長と、言うぶちかましをかけて、その次に、直木賞審査員と、言う、補強の柱を、繰り出してくる。この二つで、ほとんどの人はひれ伏すのだろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2,『そういう私にとって、国画会と、国展審査と、言う場で、つぶされたらしい・・・・・というのも、1994年ごろから、他人に、姿を見せなくなった〇藤南海子さんは、どうして姿を見せなくなったのかは、探求したい対象だった』

👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉👉

 さて、この文章は倒置法になっています。NHKで、2009年の一月にひどい番組が放映をされたのですよと、言うのを総タイトルに入れてしまっていますので、皆様は、何がこれから書かれるかが、大体ご存じでしょう。しかし、私にしてみると、これは、1993年、この章の主人公、〇藤南海子さんが、上野都美館、存在を消してしまったときから、感じ取っていた、長い、長い、年月が、かかっているお話で、

 ずっと、ずっと、探索したいと、思いながら我慢をしてきた話でした。それで、国画会に出品をやめて、数年たってから、この件に関して、落選の、措置をとった、国画会会員さんたちの思いを聞こうと思ったのに、頭から、彼女を軽蔑していて、審査の経過を教えてもらうどころではないと、言う話でした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『この日ごろ、名古屋で、美大の教授をしていた、芸大出身の、国画会会員が、イタリア人画家の盗作(というかそっくり真似をした作品)を、ずっと、出品していたと、言う事が、新聞記事になっていたし』

 国画会の方からは、彼女について、何も入ってこないと考えたので、私は、公募団体展(=国展や、女流展)に出品していた時代に、知り合った人を中心に、少しずつ、噂を集めました。そこで、わかったことが、〇藤南海子さんは、有名な美術評論家に高く評価をされたために、その人に対して、プラトニックラブの関係に陥り(または、そのほかの理由があったのかもしれないけれど)、離婚をしているとの話でした。

 そこまで、知りたいと願ったのは、興味本位ではなくて、落選が、それほどに、影響を与えると言う事を、大きな、問題としたいとも考えていたからです。国画会の審査が、山寺重子さんと、指原いく子さんの関係を見ていると、それほど、純粋なものでもないと、言うのも、知っていたし(これは、別の章で、詳細に書いていますが、今は、さがしている暇がありません)、システムとしての、審査というのがある個人を破滅したと、なると、非常に問題ですから。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『彼女は、貧乏だったから、ああいう、材料費がまるで、かかっていない作品を作ったのだろうか。私は、彼女が離婚をした人だと、言う事を知らなかったので、コンセプチュアルアートだと、思い込んでいたので、そういうものを落選とした、国画会会員たちに、残念な人たちだと、言う判断を下していた』

 女性がどういう風に生きるかは大問題ですが、経済的な面でいうと、離婚は損です。

 国展で、落選をした作品には、材料費がかかっていませんでした。国展で落選をすると、時期的に、上野の都美館の、次の、催し物である、女流展には出すことができます。特に無審査で、出品できる会員の資格を、彼女は、すでに持っているので、同じものを回すことができます。で、女流展で、それを見ると、『おや、おや、これは、国展で、落選をしたのも当然でしょう』と思うほど、小さいサイズ(30号)でした。その上、下地は、べニア製の、パネルと、言うものです。これは、世界堂などで、既製品として、安く手に入るものです。

 普通の場合は、それに水張りと言って、紙を、ぴったりと貼って、水彩画等を書きます。もし、かのじょが、水張りをしたうえで水彩絵の具やアクリルで、何らかの形象を描いたものを出品したとしても、それは国展では、入選できません。「応募した場所が違うでしょう」と言われてしまいます。

 私は、1993年には、彼女が離婚をした女性である、と言う事をまだ知りせんでした。で、お金がないから、その手の、簡便な作品を作ったとは思わず、コンセプチュアルアートだと、思ったので、そういうものを拒否する、国画会審査員に驚いたのです。 

 まあね。自由美術などは、30号程度でも、いいし、冒険をする人が、多数いるので、あの作品は、自由美術に出せばよかったかもしれません。でも、〇藤南海子さんは、自由美術の一般入選者になるのは、プライドが許さなかったし、・・・・・というのも彼女は、有名な美術評論家によって、草間彌生を含む五人展に選ばれて、女流展や、国展だと、60人ぐらいが、きっつきつで隣り合わせで、作品を展示する、二部屋を使って、じぶんのさくひんだけを展示する形で、展示した、現代アート系作家です。そこまで、個人として、目立った、過去があるのに、今更、自由術で、300人分の一人になるのですか? それはできません・・・・というプライドの事です。

 かつ、私が女流展初入選のすぐ次の年に、国画会にも初入選をしたので、「うわ、そんなに、国画会って、民主的なんだ」と、彼女が考えた可能性があるのです。

 だって、私は先生もいなければ、引いてくれる先輩もいないのに、すいすいと、自分一人で、考えて、行動を選び取っていくので、理想の高い、ある種の、他人から見ると、「素敵!」と、言わざるを得ない様な、人生を歩いているわけですよ。自分、ただ一人の信念を貫いていて、誰に対してもこびない人なのです。ご近所人間はまるで知らないでしょうが、私って、非常に強い人なのです。

 彼女のその時の作品とは、週刊誌の一頁を、右側の綴じ代のところに、1cmぐらいの幅で、のりをつけてべニアに貼り付けるという作品です。縦横びしりと、週刊誌の頁が半分浮いて、張り付いている。作品として保存性は高くない。

 私は、数々の疑問を持っているにしても、この件を公開はしていませんでした。ブログとかメルマガでは、さして書いていません。

 だけど、探求することはやめませんでした。

 ここで、上條陽子さんが登場します。彼女は、ごく最近、日曜美術館で、パレスチナ難民を支援し、その子供たちの絵を日本で、展示させる人として出てきました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『上條さんは、私の本を読んで、「電車を乗り過ごすほど面白い」と、言ってくださった。電話がすべて盗聴をされているので、敵方がリクルートをしていった人材だ。友達はすべて奪われてきた。こんな人権侵害は、無い。だが、私は秋山祐徳太子が、三人展で、上條陽子さんと、組む前は、そういう事になっているとは知らず、依然と同じ様に、電話をかけて、あれこれ、話をしていた。その中の一つが、〇藤南海子さんの行方不明の件、及び、母親の遺体を放っておいたという件だった。すると、この件に関してだけは、どうしてだろう。上條さんは、〇藤南海子さんへ、あまり同情的ではなかった』

 電話をかけると、「あら、いやだ。あの件ね、消防自動車や、救急車や、パトカーが来て大変だったのよ。妹があの家のそばに住んでいるの、だから、そういっていた」と、言う答えで、〇藤さんへの同情心はなかったのです。「彼女はあの後で、ハイジンになったのよ」とまで言っていました。「ハイジン?って、なに?」と問うと、「精神病院に入ったのよ」と上條さんは答えました。

 この電話が見事に盗聴をされていて、それを聞いた、井上ひさしが、脚本を書いて、杉並区の空き家特集という、如何にも社会問題めいた。NHKスペシャルが、制作をされたのでした。それに酒井忠康氏、や、北側順一郎氏が、駆り出されて、協力をしたのです。

 私は、上條さんが、妹さんの、受け売りで、そのケースが事件化した過程を話して、くれたので、さらに想像力を高くして、考え込んだのです。1942年生まれの、私より、さらに、年上の人、南海子さんが、薬科大学へ進学するのです。これは、実家はお金持ちでしょう。だから、彼女は、庭の広い戦前からのお屋敷(たいてい、300坪か、200坪単位で、分譲をされた)の中で、母の死を迎え、

 気力もお金もないので、茫然として、遺体を見つめていた。そういう人なのだと、考えていたのです。あたりに樹木がうっそうと生えていて、遺体が放つ異臭なんか隣の家には、届かないと、考えて、ただ、座っていたのだ。悪気はない、本当の、お嬢様だと、考えていました。

 ところが、です。NHKの空き家特集が、彼女の家だと、言う風に紹介した家を見ると、なんと、敷地30坪程度で、三軒、まったく同じ様な家が並んでいる建売住宅の模様でした。

 おや、おや、是では、遺体の、異臭が周辺に漏れるでしょうに、どうしたのかしら? 薬学部卒業なのに、どうして?と、考え込みました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題6、『しかし、そのうち画面が進んで、その家の持ち主が、どういう人であるかの説明があり、そこに、北側順一郎氏が、登場して、あれこれ、彼女の、記憶を語ったのだった。北側順一郎という人物は、銀座七丁目の、ビルの上階で、奥様、義妹と、三人で、画廊【モテキ】を経営していた人物だった。モテキというからには、先代がモテキという名前だったと、考えられ、その経営を引き継いだ、作家さんである。

 が、一方で、建築家でもあるので、恵比寿に、もとより、敷地の広い敷地を、持っていたのだが、それを、マンションへと建て直し、テナント料を得ていると、言うお金持ちの紳士で、いつも上等なお帽子をかぶっている。スーツはそれこそ、英国屋であつらえているであろう。まあ、美術家として、最高レベルの安定した人生を歩んだと、言う事となる。

 彼が登場する直前に、資料を調べましたと、言う若い女性研究家、または、美術評論家。または、美術館の学芸員が出てきました。この女性を教唆、指導をしたのが、酒井忠康氏でしょう。秋山祐徳太子、及び瀬木慎一、及び赤津ただし、および、針生一郎、など、は、この件には、関係がないはずです。

 ともかく、私と、上條陽子さんとの間の個人的な電話でのやり取りを盗聴しておいて、それを録音しておいて、如何に、私をやっつけることができるかということを狙って仕組まれた、特別番組でした。

  ちょうど同じころ、保坂涼子を使って秋山祐徳太子が、とんでもないいじめを行ってきたケースもあり、

 もうひとつ中島千波、芸大教授を使って、春季院展に政治的不正入選をさせた、創形美術学校卒のご近所画家、大原光孝さんのケース。彼は、私が、そのマチエールの緊密さにびっくりした、後輩と、全く同じ絵を、それこそ、べニア板のパネルの上に、乱雑に描いて、入選をさせたのも、私の美術評論家としての、人気に恐れをなして、私を脅かすために、仕組んだ、全く同じ目的の謀略でした。

 これには、まだ、まだ、膨大な続きがあるのですよ。特に残酷だったのは、お子さんにカメラを向けて、母親について語らせようとしているところでした。さすがにモザイクがかかっていました。が、苗字は同じですね。また、彼は窪地にあるアパートらしきところに住んでいました。かわいそうに。大変に残酷な恐ろしいことでした。それを覚えているからこそ、妹の他殺が、自殺として、喧伝をされているケースを語りだした、今、こちらをも、詳細に語っておきたいのです。出ないと、孫たちが大変なことになる。

 これから先、鎌田靖元NHKキャスター、それから、高橋和女史とか、いろいろ、登場していただかないといけないのですが、お待ちくださいませ。

  まあ、そこらあたりがまだ、かけていない段階で、結論を言うと、是もまた、雪の下のご近所主婦、安野智紗夫人と前田清子さんに遠因があるのですよ。彼女たち二人を中心にして、この山で、行われた数々の悪も、私を殺せば消えるのだと、言う形ですから、私を脅かすために、こういう番組が作られたのでした。

 もう一つ、大切な結論を上げます。私はね、画家の上下関係には、興味がないのですよ。ただ、人間そのものに興味があるのです。こういう恐ろしい番組を企画したのは誰なのか? それを知りたいから、こういう文章を書いているのですよ。私にとって、捨てていることも、むろんあるわけです。しかし、捨てないものもあります。それは、人間とは何かを問う事です。

 実は、今日は、ほかの件で、疲労困憊することがありました。それで、ここで、終わりとさせてくださいませ。まだ、夕飯も食べていないからです。夜10時なのに。

 雨宮舜(本名、川崎千恵子)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ここで、〇藤南海子さんを火... | トップ | 熱海市で、土石流が起きた時... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

政治」カテゴリの最新記事