以下の文章は、実は、渡辺幸子さんについて書いているものの途中です。どうしてそう言えるのかというと、私の頭の中では、地理的状況として酒井忠康氏が大きく浮かんでいるからです。八幡宮内にあった、神奈川県立美術館を葉山に移転をさせた交渉の、担当者は、吉田茂穂現宮司と、酒井忠康氏だったと、推察しているからです。吉田茂穂・現・宮司様は、当時は、第三位の方でしたが、ビジネスに強い方だったので、これを担当なさっているでしょう。酒井氏は、当時は、土方館長の、ナンバー2だったわけですが、石塚雅彦さんと、親しい可能性があるので、この案件を実行されたと感じています。
この移転は、むろんCIAの大物瀬島龍三のアイデアで行われた、対私いじめの一つです。で、渡辺幸子さんが、「曼殊沙華の絵を返してちょうだい」といった裏側に、葉山在住の栗田玲子さんが、いるだろうと、推察していますし、その栗田さんの裏には、酒井忠康氏が、隠れていると、見ていますので、この章も、私の玉の中に、大きく酒井氏が、存在している限り、渡辺幸子さん関連の章となります。しかし、16日の夜は、そこまでは、到達できないと判断をしたので、全体を引っ込めたのです。ただ、本日17日もパソコンを打っている暇がないので、ここまでだけでも、公開をさせていただきます。まあ、ここまでだけでも、面白いとは、思いますよ。相当にユニークなことが書いてありますので。
副題1、『甘粕大尉について』
私の父が、満鉄・調査部・中央試験所というところで、頁油岩=オイルシェールの研究をしていたころ、母は、中国語を、中国人に、習っていました。きっと満鉄に勤務していた人の奥さんとか、妹に倣っていたのでしょう。総タイトルの最後に使ったのは、中国語で、あれこれと、言う意味です。日吉の家で、両親が、良く、「ショマショマ整理しておいてね」「はい。はい、わかった」という様な会話を交わしていたので、良く、覚えている中国語の一つです。後、メンファーズ(仕方がない)マンマンデー(ゆっくりで、遅い)などをよく使っていました。
ところで、母親が、中国語を習っていた日本人というと、李香蘭と同じです。李香蘭の母君は、中国語を習っていた日本人です。父も日本人で、日本名は、山口淑子です。一時期イサムノグチの奥様でした。山口淑子は、戦後、数十年、死ぬまで、ひどくおびえて、暮らしていた模様です。自伝に書いてありました。中国の実態を知っているし、戦時中は、中国人を宣撫する役目を果たしていたからです。五族共和という様な、上品な言葉で言い換えていた植民地支配の、最先端の人だったからです。自分は本当は日本人なのに、中国人女性人としてふるまい、日本人男性の役をする長谷川一夫と、恋に陥る役をやっていて、それを中国人が怒っているし、憎んでいると、考えたのでしょう。そして、自分の上司たる甘粕(元大尉にして、当時は、満映理事長だった)氏が、終戦時に、自殺をしてしまったから、保護してもらえないと、考えたのです。保護とは、裁判にでもかけられたら、証言をしてもらうと言う事です。山口淑子は、甘粕大尉の命令通り、動いただけだと、証言をしてもらう事です。
甘粕大尉という人物は、関東大震災の時に、大杉栄と、伊藤野枝を、葉山の日陰茶屋で、殺したことになっています。しかし、実は違うらしいと、言う情報にも接しました。その真実の当該者が、殺人など、犯していて それを一般の日本人が知ったら、大変な事になる程身分の高い方だから、身代わりの犯人を引き受けたと、言う噂です。
私はね。1945年の夏・敗戦直後に、自殺した甘粕大尉は、状況をよくわかっていて、賢い人だったと思います。東京裁判は、まだ開かれて居らず、そこで自らが戦犯として裁かれるかどうかも判らない内に自殺なさったと言う事は、自分が知っているありとあらゆる事を世の中には公開せずに、秘密を守ったまま、なくなったのです。以下に、違う解釈もあげて居ますが、いわゆる滅私奉公型の人で、日本国 及び日本の上流階級を守った人です。で、二つ目の解釈としては死刑になるかならないかの瀬戸際の人だったとおもいますから、他人の前で、恥をかくより、自分で、自分を罰した方がよいという考えでの自殺をだったでしょう。勇気がありますね。
ところで、本当に大杉栄を殺した人は、個人でそれをやったわけではなくて、部下を大勢持って居た人ですが、実は、葉山に住んでいた人です。葉山のどこだったかは、知っています。が、口外には出しません。そして、それは、・・・・・大体の場所は、酒井忠康氏もご存じのことではないかなあ?・・・・・・と、思っていますが、これから、先は、口にチャックといたします。
ところで、鎌倉市って、立派なお屋敷を史跡指定にしています。我が家の、南東野見山、地境地主だった、旧白井邸は、今は、鶯吟亭という名前で、鶴岡八幡宮様の持ち物になっていますが、川口順子元外務大臣のご実家です。これも、すごく立派な数寄屋造り平屋のごうていですが、その南側の川合良一邸も、数代前は、白井さんと、兄弟だったのではないかと考えて居ます。
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副題2、『大船に甘粕邸という史跡がある模様だけれど、それが、甘粕大尉が、戦前に住んでいた家で、甘粕大尉の、遺族、または、親戚が最近まで、すんでいた邸宅ではないかと、私は、考えて居る。子孫が、東京に居を構えていて、相続をしたくないと考えて市に寄付をしたのではないかと考えて居る。川喜多記念館と、同じ趣旨で、寄付されたのではないかと、考えて居る。ほかにも寄付された豪華物件として華頂の宮邸という内部が全く傷んでいない豪華な洋館があり、よく二時間ミステリーの、富豪宅として、その内部が使われている。4月と10月には、内部が公開される予定なので、観光協会か、鎌倉市にお問い合わせくださると、内部と庭園を見ることが出来る。
お風呂場は、私的な空間なので、非公開になっているが、もし、カギがかかっていなかったら、そっと御覧になったらいい。細長い9畳ぐらいの広い部屋で、直前の持ち主は、富裕な一般人(皇族ではない人‥‥)だったらしくて、真っ赤なバスタブが、おいてある。広すぎて冬は寒そうだ。暖房の設備が、お風呂場についていたかどうかまでは覚えていない。それに、遠くから眺めたので、バスタブの赤が、琺瑯びきだったのか、陶器の赤だったのかはわからない。
ところでこの洋館は北側が緑青で覆われて居るのです、公開される前までは、アッシャー家の崩壊に出てくる様な御屋敷だと一度書いた事があるが、内部は非常に綺麗に、かつ豪華な内装が生きて居て、どんな富豪が住んでいたのだろうかと、想像をするだけでも楽しいお屋敷だ。ただ、この家には眺望の楽しみは全く無い。鎌倉のイーストサイド、養老先生のお宅より、更に東の山の中にあるからだ。
比較をすると、甘粕邸と言う史跡にはよいちょうぼうがある そう言うお屋敷としては、長崎グラバー邸がすぐ思い浮かぶが、甘粕邸も海は見えないものの、対岸の山に大船観音を見る晴れやかな丘の上にある。高低差だけを言えば、日吉の実家は南側が晴れやかな眺望があり歩いて二十分は掛かる慶應高校校舎まで見晴らせた。相続した人が売ってしまったのはとても残念だ。
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副題3、『ここで眺望の面からだけで話題を急に下関へ飛ばす』
私はね、グラバー邸も、甘粕邸もテレビで見ただけです。本物に接したのは、旧 前田公爵邸(現在は、鎌倉文学館として使用中) とさきほどらい、言及して居る華頂の宮邸と、呉造船所 所長邸だけです。最後のお屋敷は、奥様が母と女学校時代お友達だったので、招じ入れられました。呉の市街地との高低差は、ありますが、両脇から山が迫っているので、これから語るお屋敷ほど、眺望は良くなかったのです。前の二つは、平地よりの高度差はさほどでは無いです。
しかし、訪問をしたことがないけれど、テレビの中で、関門海峡を見下ろす、最高の眺望を持つお屋敷を拝見しました。
それは、ラストエンペラーの弟ぎみ溥傑氏のお嬢様愛新覚羅嫮生さんのお住まいでした。映画 ラストエンペラーの中では、このご夫妻は、あまり良くは描かれて居ないのですが、実際には、深い愛情で結ばれた素晴らしいご夫婦でした。その紳士 愛親覚羅溥傑氏は、それこそ、五族協和の犠牲となって、日本の華族の姫宮と政略結婚をする事になりました。そのお相手は、嵯峨侯爵の娘 浩さんです。その妹さんが〇田と言う方とご結婚をなさって日吉に住み、お二人のお子様を(いわゆる姪となる)育てて居たのです。ご長女様が、品の良い方で、如何にも華族(日本の場合は貴族を特に華族と言うが)のおひい様でしたが、非常に、お気の毒なことで亡くなりました。本当に本当に大騒ぎでした。
その妹ぎみ【愛新覚羅
その様子がテレビ放映をされたのです。その時、そのお屋敷の様子が、強い印象として残りました。すばらしい眺望だったからです。それが、三菱重工へ結びついていきます。その時、
さんには四人のお子様が居て、幸せそうでした。その後もう一人お生まれになって五人のお子様を、育てることとなり、兵庫県西宮市に、引っ越された模様です。お姉さんに比べるとタフです。ただ、ずっと、西宮住まいだったかもしれないのですよ。それは、お姉さんが日本に帰国をされたときに、嫮生さんの方は、まだ小さいからと言って、母君浩さんと、一緒に満州に残ったのです。その後、八路軍やソ連軍の攻撃とで、流転の逃避行も、幼い身で経験し常に母君と一緒だったことが大きいのではないかと、私はおもっています。抱かれる事、おんぶをされる事。そういう事が大切なのです。〇田家のご夫婦が、仮の親として、不親切で、いじめたわけではないです。嵯峨家のご祖父母も健在で同居だったのです。だけど、ご長女様の、『自分には、両親が居ない』という思いは、彼女を神経質にしたとは、思います。姉君エイセイさんは、大久保君という同級生に殺されたと、嫮生さんはおもっているのではないかしら。大久保君は、今でいうストーカーめいた追跡を姉君に対して、行っていたからだと思います。
父君が逃避行の途中で、中国共産党の、施設に収容されてしまいました。いわゆる思想改造の為です。ここらあたりは、映画ラストエンペラーでも、詳しいのです。が、浩さんは、そこには出てきません。ただ、浩さんの【流転の王妃】は、私は読んでいます。大変立派な方です。夫に対する愛情も素晴らしいし、愛新覚羅婉容と一緒の逃避行を、行い、婉・・皇后の気の毒な最期の様子などを記録して置いてあるのは、貴重です。
ところで、私が書きたいことは、そのお屋敷なのです。福永
うちの母は父の会社の経理担当だったから、月曜日から土曜日まで、お手伝いさんが来ていた。五代にわたって、37年間続いていた。だが、お手伝いさんが帰ると、母は、箒を持ち出して、我が家と増田家の間の道路と側溝のお掃除をしていた。増田家は、白樺とかケヤキなどのひょろひょろっとした、落葉樹が好きだった。で、入居後、30年もたつと、すさまじく成長して、落ち葉が一杯だったのだ。まるで、小さな武蔵野のもりだったから。
私は母の秘かな怒りを感じ取っていた。だが、増田家が、植木屋を入れないのも理解が出来た。やっぱり小さくても我が家は社長だったので、金銭的に裕福なのだ。だけど、サラリーマンだと、決まったお金で暮らさないといけないし、余裕があればあったで、他のことへ使うので、植木屋など、いれて居られない。ただ、増田夫人が、箒の音が聞こえた時に出て来て「すみませんね。いつもやっていただいて」と、一言、言ってくだされば、母の秘めた怒りもほどけただろうにと思う。1997年に増田忠さんが、私に「僕、お金使っちゃってね、もう無いのよ。だから、千恵子ちゃん、お昼ご馳走して」と言われたように、ご夫妻とも、甘やかされて育った人なのだ。だから、音楽会に行くなどという方面に、ばんばんと、お金を使ってしまう。
そして、明るくて華やかなだけに、増田夫人は他者が優越することを許さず、自分とほぼ同年代であり、夫同士が同じ職種である、水沢家にひそかなライバル心を持って居たと、推察される。増田忠さんは、戦時中はエリートが就職する旧中島飛行機育ちだ。そして、戦後プリンス自動車となっても、昭和天皇の御料車の、外観をデザインするなどの業績があった。そして、慶応大学卒である。ヴァイオリンは、クレモナの、古楽器を持って居ると思われ、演奏も、ほぼ、玄人と言ってよい程上手だった。
一方、水沢夫人は、自分を明かさない、他人とあまりうちとけない。しかも、赤津夫人みたいにかわいらしく、あいさつする雰囲気がない。私なんか無視されていたと思う。権高い。一方の赤津家では、お嬢様でさえ、「ねえ、ICUを卒業なさったんですって」と、明るく声をかけてもらえる。・・・・・さすが、三菱重工ニューヨーク支店長のお嬢様だ。美しくて可愛いし、オープンマインドだ。特に、・・・・・このお嬢様は、どこの大学に進学なさったのかは、この分譲地の人は、誰も知らないけれど、・・・・・彼女の方は、ICUのこと、特に、その当時、卒業生が、如何に優秀だったかを知っている・・・・北久里浜の人間なんて、その大学の、名前さえ、知らないから、誰も、私の事を尊敬をしてくれないのに、と私もひそかに、にこにこしてしまう。
しかし、水沢家では、ご主人がいすゞの社長になった。増田忠さんは、日産自動車の、重役とか社長には、なっていないと、思われる。支配的に合併をされたプリンスの、しかも、工業デザイナーと、言う職種だったからだ。いわゆる法科とか経済学部出身ではない。こういう人は、今では、社長になるケースがあるが、30年前は、無理だったのだ。となると、水沢家の出世が、増田夫人には、気にかかる。
増田夫人は、我が家が、二代目の家政婦さんとして、ご近所住まい(ただし、東急の分譲地ではない。個人が開発した土地に住んでいる)元銭湯の経営者さんだった奥様を雇った。そうしたら、対抗意識を持って、ご自分も同じ女性をお手伝いさんとして、来てもらうことにした。週に、三日ずつ、我が家と増田家で、折半して、来てもらうことなった。
その女性は、前職から考えても、そうなるのだけれど、大変、あけっぴろ気な女性で、「ねえ、増田さんっちったら、小さな黒板があるのよ。そこに、・・・・ママ、靴下を修繕して置いてください・・・・って、書いてあったのよ。驚いた」と、母に告げた。この人は、空襲に出会って、銭湯が、焼けたので、やむを得ず、日吉に住んでいる人で、劣等感は、無いから、陽気なレベルで、発見をしたことを語るのだ。が、母は愕然としたらしい。私の方は、子供心に、・・・・・夜遅く帰って来て、30分はヴァイオリンを弾く増田忠さんらしいなあ。また、朝は早く東横線で私は、増田さんと、会うのだから、奥様と、靴下の事なんか、話している時間がないのだ・・・・・と、思った。だが、庶民的な人にとっては、驚天動地な連絡方法だったらしい。
母は、彼女をたしなめなかったが、内心で、『これはたまらない。我が家で、彼女が発見したことも、増田さんちに伝わるだろう』と思ったに違いない。で、その元銭湯の経営者の家に行って、彼女の妹さんに、月曜日から、土曜日まで、来てもらう事にして、お姉さんの方には、「増田さんに専念して頂戴ね」と頼んだらしい。妹さんは、お姉さんよりは、地味目な人だった。性格的には、重い人だった。だが、年齢が、若いので、やがてお手伝いさんではない職を見つけて、やめてしまった。で、母は、よく診察を受けに行って居た女医さんに情報をもらうことにしたらしい。女医さんって、忙しいから、看護婦さんとお手伝いさんの両方を雇っている。そこをやめた人を紹介してもらっていた。女医さんのお宅よりは我が家の方が、掃除一つにしても、仕事量が少なくて、楽だから、高齢の人でも構わないのだ。
というわけで、増田夫人は、陽気な方だが勝気でもある。で、水沢家に、対抗心を持って居たと、思われ、増田家の、夫婦間の会話には、水沢家が、頻繁に登場したと、推察される。
その、水沢家のご長男が、水沢勉氏だ。現在、葉山の美術館館長で、この15日の日曜美術館でも棚田氏の解説をなさった。私は、1998年ごろから、親しくしてもらっていたが2003年ごろを、境にして私から去って行った人で、かつ、カリタス小襲撃事件は、水沢氏が、姉の悦ちゃんに私の妹に関して、告げ口を、したことが端緒になっていると思うので、上に書いて居る様なことを書く。私は、増田忠さんから、詳細に水沢家の内部事情を聴かされた。それは、1997年に偶然日吉で出会って以来の子だったが、ひどく驚いた。その20年は前の、1958年から、1961年にかけて、丸ノ内線、茗荷谷の高校に通って居た、私は、東横線日吉駅で、増田さんによく合って、渋谷駅まで、ご一緒した間柄だった。その際に、いろいろ抽象的でハイブラウななことを教えてもらった。そういう素晴らしい偶像が、落ちた瞬間だった。本当にがっかりした。
増田忠さんは、なんであんな話をしたのだろうか? 増田さんにとっては、それは、下ネタよりは上品だから、自分と千恵子ちゃんの間で、話し合っても許される話題だと、考えられていたのだろうか? 見くびらないで、くださいねと、増田忠さんに言いたい。
まあ、それだけ、つらかったのだとは、思う。息子さん一家と、同じ家(ただし、コンクリート製の一軒家)に住みながら、会話が無かったのがつらかったのだろうけれど、美術の世界に住んでいる私にとって、水沢さん一家の話は、聞きたくなかった。特にまだ、公募団体展にも応募しているし、一般入選だから、一年に、大作を、7つぐらい描いていて、それを国展や、女流展以外のコンクールにおうぼしている段階だったから・・・・聞きたくなかった。当時は、まだ、美術評論家のことは尊敬している時代だったので。
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副題5、『ここで、やっと赤津夫妻に入っていく。副題4に描いた日吉に関するエピソードは、すべて、下ノ関時代の、赤津夫妻に関する、母の感想を述べる為だった。母は、下関の高等女学校を出ている。で、下関とは、勝手知ったる街である。
そこで、偶然に、日吉の、東隣の、更に東に住む(こちらも三区画買った、富裕層一家だが)赤津夫人に出会ったそうだ。すると大変珍しいことに、赤津夫人が、「うちに寄っていらっしゃいね」とおっしゃったそうだ。これは、日吉ではありえない話だった。赤津夫人は、誰も、家に入れないし、ご自分も訪問をしない。でも、悪口を言われているわけではない。誰からも、『そういう方針の人ですね』と、認められている。それは、超が付くほどの、美貌の方が、とてもかわいらしい感じで、あいさつをしてくださるからだ。だから、憎めない。・・・・・毅然としていると言う事なのね。だけど、かわいい人なのよ。だから、許せる・・・・・と、なる。
しかし、日吉では、絶対に一線を踏み外さない赤津夫人が、「家によってらっしゃい」と、言われるので、母は、・・・・・旅先だから、普通とは違う感覚なのだ。赤津夫人にとっても、下関は、仮寓の土地なのだろう・・・・・と、考えてついていったそうだ。すると「広い芝生のお庭の先に、突然に関門海峡が見渡せる、一千坪はあろうかという敷地の豪邸だったのよ。すばらしい眺望なのよ」という。 続けて、「現代のお殿様って、三菱重工の重役だったのよ」ともいう。慨嘆するという感じでいう。父の父は江戸時代までは、毛利藩の重役だった。毛利様は、防府には、ゴルフ場や、博物館を持って居らっしゃる。だけど、萩では、もう住んでおられないのではないかなあ? だから、萩のお殿様という感覚が薄れているところへもってきて、
三菱重工の、下関造船所・所長様の、おうちが、目もくらむ様な豪邸だったから、母は、本当に、びっくりしたらしい。
私は、赤津さんは、日吉に自分の家を持って居るので、下関に新しい家を買う筈がない。となると、それは、三菱重工の社宅なのだろうと、思う。
するとアッと思うレベルで、心当たりがあった。例の愛新覚羅嫮生さんが、父君と逢うお宅のテレビ放映が、まさしく、その種のお宅での撮影だった。しかし、若い夫婦が、幼いお子様たちを育てるために、新築した家とはとても思えず。もしかしたら、明治天皇と関係がある、中山家の、旧宅ではないかと、思い当たった。
嫮生さんの父、愛新覚羅溥傑氏は、溥儀氏よりも政府から厚遇を受けていた。それで、日中関係の改善か何かの、使命を受けて来日したのかもしれない。それは、嫮生さんにも伝わっていて、だから、こそ最大限の演出効果が上がる様にあの、眺望の素晴らしいお屋敷で、親子会談を準備したとも思われる。夫の福永氏も、中山家とは、関係があるらしいので、あのお屋敷を使う事は、大いに納得の上での話だと思う。
ところで、下関に、中山家よりも大きな邸宅を建てたであろう名家があるだろうか? それは無いのだ。だって明治の元勲とは、ほとんどが萩の出身であり、しかも萩には、帰っていないのだ。彼らが、別荘を作ったのは、京都東山だったし、居宅は、旧江戸時代の、徳川親藩の大名屋敷を使っている。
で、やはりあれは、中山家の旧宅である可能性が高い。それが、1980年代では、三菱重工下関造船所・所長の社宅となっていたのだった。赤津さんが、東大卒だとか、ニューヨーク支社長をしたというのは、日吉に戦前からあった、三菱重工の社員用の社宅から出た話だったかもしれなかった。赤津さんは、うかつに自分たちのことを話す人ではなかった。ただ、ただ、旅先の感覚で、自宅に招いてくださったのだ。
だけど、それは、ほぼ、旧中山邸で、三菱重工が、福永夫妻から、書いとったものだと、私は考えて居る。今もあるかしら。改築されてしまっているかしら?
ただ、母の言った、「現代のお殿様って、一部上場企業の重役の事だったわ」は、当たっていると、私も思う。
実は、この章は、ともかく甘粕大尉に焦点を当てるつもりだった。だが、すでに、午前三時半なので、ここで、閉めとさせていただきたい。愛新覚羅夫妻と、ご長女様に平安あれと祈る。
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