銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

ポルノ校長から喚起されたたくさんの思い出=2  横須賀大津小学校1978~9、担任が心理的矛盾を抱えていると、ママ達は苦しめられる

2023-09-15 00:34:38 | 心理学

副題1、『文章が、二万字ぐらい消えてしまったので、それを復活させるよりも、今は、違う方向に進んで書きたい。これから書く事は、政治よりも心理学分野の問題である。したがって、登場人物を仮名で書く。記憶しているが、わざと仮名で書く。』

 娘の方が幼稚園時に、担任に悩まされたと、前報で、言っています。当時、その幼稚園は、470人の園児が居て、その地域で、一番大きく、池田分譲地内の、幼児は、ほとんど、そこに通って居ました。小さい子って、地域社会で、生きるしかないので、転園させることが出来ず、非常になやみ抜きました。で、毎週30個の上等なお菓子が入っている菓子折りを担任に持参をしたのです。いわゆる服従とおべっか遣いです。それでも、いじめて来る先生が、娘の頭を大混乱にさせたのではないかと、思っていたのですが、割と大丈夫だったと、言うのが前報で、それが、わかったのが、上滝家の令嬢とのエピソードだったと、いうのが、消えてしまった部分です。

 娘が中学生ぐらいになって、「お母さんは切れたら怖い」と、私の目の前で、お兄ちゃんに言っていたので、びっくりしました。そこで、東日本銀行と、横浜銀行の合併とか、養老孟司先生が、取り持った妙本寺のお見合いなどが出て来て、120%政治の問題へ移行をしていくのです。が、娘が、4歳から、8歳までは、、あまり、表情には出さなかったので、担任からのいじめをどう考えて居るのかはさっぱりわかりませんでした。ただ、内心で、心配をしていました。

 ところで、彼女より一学年上(ただし実際の差は19か月の長男の方は自分が考えて居ることを、すぐ顔に出すので、彼の苦悩は、小さくてもよくわかって、それだけに悩みました。ただね、満六歳は、四歳とは違います。それと、社交的で、地域社会の方で、年上、年下の男の子を含んだ遊び仲間が、がっしりといたので、それは、安心できる一つのよすがでした。

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副題2、『長男が、一、二年時、担任だった女性は、私達、並みの母親よりは、10歳年上で、夫は大学助教授だった。たぶん、横浜国大の助教副。助手時代の夫と知り合って、結婚をしたのか? それとも、同級生だったのかは知らないが、こういう結婚は、一つの勝利ではある。自分の眼中にある同期生(40人の)中で、輝いている男性を、仕留める。それは、他の女性に対する勝利宣言でもあるのだ。

 ここで、笠松敦子さんが、年賀欠礼のはがきの件で、引っ掛けて来た・・・・・と、私が推察している、差出人名義だったR子さんのことへ入っていきたい。彼女は、1965年のICUで、上下500人ぐらい知り合っている中で、もっとも格の高い男性と結婚をした。それは、一つの勝利である。私なんか、共通の友人は一人もいない相手と結婚をしているので、その結婚で、誰かに向かって勝利宣言をする・・・・・そして、見せびらかしたい・・・・という傾向は無い。19歳のころ、ひそかにお互いが、ひかれあって、それを、25歳まで、キープしたというわけだ。

 結婚をした後で、愛されているか?とか、愛しているか?と、言う事は大問題となる。「意外と、この結婚って、間違っていたかしら?」と思う事はある。だけど、私は、「離婚はできるだけ、しない方がいい」という主義だ。これから、語る事でも『へー。そうなんだ。離婚後に、そういう苦しみを、子供の担任から与えられるのだ。知らなかったなあ』と、若い方には思っていただきたい。

 長男が、一、二年時に、担任だったW女史は夫に関しては、プライドがある。学者だ。しかも、教授になる可能性は保証されている。しかし、そういう立派な夫を持った自分が、働かなくてはならないと言う事には、不満がある。1970年代には、先生は、あまり、尊敬されている職業ではなかった。日本経済が、右肩上がりで、発展をしている時期で、民間企業、特に、業績が上がっている企業に勤務していて、高給を家に運んでくる夫を持った妻(または、ヤングママ)は、ほぼ、専業主婦をしていた時代で、W女史は、その手のママ達よりも自分の方が上だとは、思っていた。が、専業主婦ではないことが彼女たちに軽蔑をされているのではないかと、言う、ひそかな、不安を抱えていた。

 厄介なことに、クラスに三人ぐらい、自分が卒業した当時の横浜国大学芸学部よりも、入試偏差値が高い大学を出たママが居た。早稲田卒のママ、津田塾卒のママ、そして、ICU卒の私。1960年代、特に、1966年までのICUって、東大の学生新聞が「東大に入るよりもICUに入る方が難しい」と書いたほど、高い評価を得ていた。入試が全部英語で、短い質問に応じる四択なのだけれど、一分で、一問解かないといけないので、英語理解力と、頭の回転の速さを問われる。で、W女史は、ICUの高い評判を知っていた。1970年代の横須賀で、ICUについて正しい知識を持って居る人は、100人に一人以下だったと思うが、W女史はその一人で、当然のごとく、私を注目していた。

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副題3、『W先生は、ママたちを支配するために、スパイを放っていた。そのスパイ役とは、愛嬌のある女性だったが、結婚前の職業が居酒屋に勤めていたかバーに勤めた居たかだと、言う事が広く知られていた。当時の横須賀の戸建の住宅街では、それは、一ランク下に見られる経歴だったが、私は、むろん、気にしなかった。ただ、W先生は、それを知っていたと、思われる。そして、私の学年の数年上の、お姉ちゃんを担任した時に、このままと、特別な秘密契約を結んだのではないかしら。家庭訪問の時などを利用する。後は電話だけでいい。自分がいつ、どの学年を担当するかは、ご自分で、わかっていると思う。で、その子も、わが子も、1976年に一年に上がるので、池田分譲地内での、母親たちの評判をそのスパイママから、取得していたと、思われる。

 で、W先生は、勝気な女性は外した。地域社会で、威張っている女性も外した。だから杉本正子夫人も、稲田恭子夫人も、W先生の担任からは外れた。そして山の下に住んでいる武蔵野音大卒のママの男の子も外したし、明治大学卒のママの子供も外した。二人はとても美しかったからだ。W先生は、自分が誰よりも上だと、感じないと安心できないタイプだから、あまりに、立派な姿のママが、何人もクラスにいては、落ち着かないのだ。

 なぜ、私を自分のクラスに入れたかというと、当時横須賀・いち・通園児の多い幼稚園の、PTA会長というのは、一種のスターだから、自分が、次の年、二年時の、PTA役員として使おうと、言う思惑があったと思う。

 その次に、私を操作することが可能だと言うのは、私の南隣の、ターちゃんのママという女性と、私がトラブっているというのを知っていて、ターちゃんを、自分のクラスに入れておけば、その女性を武器にして私を支配することが出来ると先生が考えて居たのだった。

 ターちゃんと、ターちゃんのママが、どういう人だったかを次の章で語りたい。ここはスパイママの章だ。彼女が自殺をしてしまったことを書いて置かないといけない。今は絶対に伏せられていて、同じ人が同じ、証言をするとも思われないが、スパイママは、トイレで、自殺をしたとの話だった。お子様から、呼ばれたママ友Cさんが、そちらに行って、真っ赤な血で、染まったトイレを見たと、言っていた。そのママ友が遺体を抱き起して、居間か、日本間に運んだのだろうか? お子様二人に、それを見られてしまったのは、大惨事だ。別の場所で、ロープぐらい使うべきだったと思う。で、そのCさんは、大変しっかりした方なので、私には、それは、なかなか、伝わらなかった。ただし、一か月後ぐらいには、それこそ、稲田恭子さんから、教えられたと思う。

 それは、1978年の、五月以降の話だった。しかし、私は、その半年ぐらい前から、このスパイママが、精神的におかしくなっているというのには気が付いていた。それも、先生とのスパイ問題での悩みだとわかっていた。だけど、10歳ぐらい年上だし、彼女から、「一緒にお茶でも、どうお?」って誘われたこともないし、ほとんどの人が差別意識から軽蔑している彼女と、わざわざ深入りする必要もないと思っていた。で、「ねえ、悩んでいるのではないの?」と、質問するわけにもいかなかった。

 道路ですれ違ったのは、冬だった。彼女は黒いオーヴァーコートを着ていた。今でいうモフモフのコートでフェイクファーか? いや、もしかすると、本物の毛皮のコートだったか?。1970年代は、まだ、毛皮をダメだと、言う社会風潮は無かった。だけど、驚いたことに、その前・身ごろに、点々とご飯粒が付いていたのだった。あまりに驚いたが、注意はできなかった。どうして、こうなったのかを考えると、注意することが彼女の恥になるとわかっていたからだ。

 冬だけど、暖房をつけていない? それは変だ。だって、彼女が、貧乏だとは思わない。旦那さんは、彼女を愛していて、しっかりと働いてくれるとてもいい人だ。

 ただただ、何かに、うつろになっていて、コート下に、いいお洋服を準備できなくて、パジャマか、パジャマ代わりの古いセーターを着ているので、ぼろ隠しの意味で、毛皮のコートを家の中で、すでに、朝から着ていたと、考えられる。でも、それにしても、当時の定番だった石油ストーヴをつければ、毛皮のコートは着ていられない。暑いよ。暑い。

 もしかすると石油ストーブの灯油が切れていて、彼女は、それを入れるのが億劫だった?

 でも、それでも、普通に、めしじゃわんを使って、ご飯を食べれば、これほどの粒のご飯粒が、こぼれる筈はない。もしかすると、電気がまから、小型のおしゃもじ、または、大型のスプーンを使って、直接、食べましたか?と思う。テーブルの上に、小型タッパーウエアに入れた、柴漬けなどを置き、それを、左手で、ひと切れつまんでは、口の中に入れ、右手で、小型おしゃもじで、救ったご飯を食べましたか?と、思った。そして体は悪くないのだから、外出はできるのだった。ご飯を食べている途中で『柴漬けだけでは栄養が足りない。下に行って、とんかつでも買ってこよう』と考えたのではないかしら?

 彼女が自殺をしたと、聞いたのは、五月過ぎだったが、すぐ理由は分かった。それは、ぼっちゃんが、また、W先生の受け持ちになったからだった。今までの、二年間も超大変だった。が、是から、また、それが、二年続くと思うと絶望にかられたのだと思う。

 また、私の生き方と、自分のそれとを比較して、自分が間違っていたとも考えて、それも絶望に繋がったと思う。

 私は、見かけは、利口そうには見えないと思う。だけどバカではないし、おとなしそうに見えても、スケルトンがある人だ。W先生の行動様式や、人格を見て、絶対にこの人と、共同作業はできないと思っていた。やってはいけないとも思っていた。父兄会の中でも、いじめられながらも、「次の年度の役員をしなさいね」と、期待をされているのを、ひしひしと感じた。それは思い過ごしではなくて、一年次の役員さんから電話で、直接の打診があった。1月ごろだった。だが断った。長男が、いじめられる可能性は、大いにあったが、もし、あの先生とタッグマッチを組んだら、私は、人格崩壊をするだろう。絶対に役員をしてはならないと、それだけは、固く決意をしていた。それと何度も言う様に、長男が娘より、年が上で身長も高かったことも、それを支えた。より大きいのだから、きっと、自分で、道を切り開くはずだと、信頼していた。

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副題4、『役員を二年、連続して引き受けたママのお嬢さんが、自宅に放火をしたと、鎌倉へ引っ越し後、28年ののちに知る』

::::::::::::::一年次、及び二年次の役員をしていた、女性の家で火事があったと、ずっと後、そうだ、鎌倉に引っ越してきてから、28年後に聞いた。お嬢さんが、親を嫌がって、親を懲らしめるために、自宅に、放火をしたんだと、聞いた。聞いたのが、28年後だったので、実際の火事がいつ起きたかは知らない。普通、親への反抗期は、高校受験期、大学受験時、就活時、婚活時に、親に反対されると起きるものだ。だけど、自宅に放火するほど、親との関係が悪いのだと、結婚や、就職はとても無理だから、高校時代から、引きこもっていて、それを焦った、あのお母さんが、あれこれ、注意をしたものだから、それに絶望をしたお嬢さんが、お母さんを殺したくて、放火をしたとも考えられる。そこまで、想像はしたが、そういう事を音声では他人には語らない私であり、それを教えてくれた人も、同じく、語らない主義だった。賢い人とは、時には口にチャックをするものだ。

 ここで、一年と、二年時に、役員を連投した女性の体格について述べたい。1940年ごろか、それ以前の生まれだろうが、それにしては、異様に背が高くて、170㎝を超えていた。つまり、スパイママと同じく、平均よりは高年齢なママだったと言う事。男性が、自分より背の高い女性を嫌うために、結婚が、なかなか、できず、子供を産んだ年齢が高いと言う事。体重はあって、65キロ以上。だから、威圧感がある。

 すみませんが、午前3時半になったので、もう寝ます。

 と書いたのですが、私が意地悪な人だと誤解を受けそうなので、W女史とターちゃんの本当の関係を、かたらせてください、ある日、北久里浜斧駅に降りていくと、ターちゃんが一人で、ススキを二三本、手に持ち、それで、線路の、手すりを叩いて居ました。彼は、線路を向いていたので、後ろを通る私には気が付かず、私は,、時計を見ました;昼11時半


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