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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

増田忠さんは、NHKを叱る程、高度なクラシック音楽理解力を持ち、ジョルジョ・サンド風のサロンの講師でもあった

2023-12-26 21:39:32 | 政治

 関西学院大学アメフト部の全面広告に戻らないといけません。ただ、政治的分析のためとはいえ、前章

関西学院にはヴォーリズの建物が多数あるそうだ。ICUにも旧中島飛行機研究所としてのそれがあり、そこからスタップ細胞疑惑が起きたのだった   2023-12-25 21:48:47 | 政治

では、増田忠さんのある一面(特に失敗)だけを書いたことは、心残りがいっぱいです。

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副題1、『増田夫妻は、神戸の貿易商か何かの、子孫同士の結婚であり、忠さんが持って居たヴァイオリンは戦前に、親に買ってもらったストラディヴァリウスか、グァルネリであろう。そして、自由が丘か、田園調布で、増田さんが講師役をする、クラシック音楽のサロンを持って居た』

 私はできるだけ、親世代と言うか私と同世代の人の話だけにとどめておきたいのです.しかし、増田忠さんが、朝の五時に、切羽詰まった様な電話をくれた時に、前日からの、セクハラ問題を、嫌がっていた私は、それを前日の対面時には、顔にも口にも出さないのですが、増田さんの、切迫度をさらに嫌だと思ったのでした。我が家は、1997~8年の当時、まだ、子供が家にいて、サラリーマン生活をしています。そこに朝の五時に電話がかかって来て「昨夜は、寝られなかったから、うんぬんかんぬん」と、本筋(=私に対して、僕のベッドを片づけに来てと、表面上は、一種のお手伝いを頼まれたのだが、実態は、セックスしましょうと、暗喩的に誘ってきて、それを、私の方も、暗喩的に、断ったので、あ、失敗をしてしまったと、増田さんが、思ったのが、本筋である)を離れて、ご自分の苦しさだけを一時間以上、訴えられても、同情は、できません。

 一方増田さんは、大変寂しくて、不幸だったのでした。お子様と同じビル(お子様所有の個人的ビル。賃貸用テナントは、無いビル)内に住みながら、すでに、5年以上、一切の交流がない形で、三階までを、鉄製の外階段で、上がらないといけないと言う生活を送っている時期でした。腰が悪くて、90度曲がっていて、かつ、腰が痛いという段階ですから、お子様夫妻の処遇は、とても、冷酷な措置だと、言えましょう。だけど、普段全く接触がないので、父親の変化を息子所帯は、知らなかった模様です。

 私は、その建物の全体とか、内部(増田さんが使っている部分)の写真を見せてもらっただけで、お坊ちゃまの情のなさを強く感じました。それと、武蔵野美大卒で、作家活動をしているお嫁さんが、息子さんよりも強くて、かつ成果主義であり、『自分は、子供(=増田忠さんにとっての孫)を、三人も育てているのだから、それ以外の時間は、創作と、発表活動、及び(教える活動?)に向けたい』と、言っていることも、増田忠さんの不幸を招いていると、わかってはいたのです。

 親世代と言うのは子供が優秀であることを望みます。武蔵野美大を卒業した娘が、立派な男性と結婚をして、彼女自身のアトリエも有る様な立派なビルに住み、作家活動を旺盛にしていると、なると、鼻高々でしょう。そして、「自分たちの面倒は見ないで、いいですよ」と言っていると思います。で、娘として、自分の親の面倒も見ないのだから、「夫側の親の面倒も見ません」と、宣言をしている模様です。ビルの写真、及び、増田忠さんの住んでいる部屋の内部の写真を見せられて、私は、このスペースは、30平米ぐらいで、所謂ワンルームマンション形式で、お風呂場に、トイレも一緒に在る様な、設計で、将来、増田さんが死んだら、他人に賃貸すると言う感じで、設計をされていると感じました。

 で、日吉の、まるで、武蔵野の森見たいなお庭(欅とか白樺と言う枝が高く伸びる樹木がたくさん植わっていた)のある、コンクリート製の一軒家から、そんな小さな居室に引っ越して、さぞ、みじめな思いをしておられるだろうと、感じました。増田さんの日吉のお屋敷は、直後に、真田宏之・手塚理美夫妻が買ったのですよ。

 増田さんが、売った時期がいつだったか、母と一緒に住んでいない私は、確たる時期を知りませんが、7000万円から、一億円の間だったと思います。そんなお屋敷から、無機質なワンルーム形式の、狭い部屋への移転は、全くの下降ラインでした。でも、それを許諾したのは、増田さんの心の中に、普段の昼間は、息子さん所帯と一緒に、暮らすのだと、言う予想があったのだと思います。だから、キッチンなど、コーフィーを沸かすぐらいしか使わないだろうと、言う予測があったのでしょう。で、『テレビを見るのは、豪華なソファーの有る24畳ぐらいのリビングで、孫と一緒に観るのだ』し、お食事は、8人が一緒に座れる大きなテーブルで、みんなで、一緒に食べるのだと、言う予想があったでしょう。だからこその許諾だったと思います。

 今、小津安二郎が、最大規模で、回顧されています。小津監督が、繰り返し描いたのは、親は、子供には大切にはされないのだと、言う真理だったそうです。戦前は、論語なのか? それとも教育勅語の影響なのか?、天皇陛下には忠、親には孝と、教えられていたのですが、それが、戦後、消えたのです。そして、現代では、さらに崩れてきているのでした。

 後の祭りですが、増田さんは、自分の家を売らない方がよかったのです。ただ、奥様が割と早い時期に、癌になって入院してしまったから、一人暮らしを、あの日吉の家で、5年以上続けたので、もう、寂しさの限界に達していたのでしょうか。

 それと、お料理を作るとか、洗濯や掃除をするとか、そういう家事能力が低い男性だったかもしれません。そうなると、お金をバンバン使って、解決すると言う形になるので、老後資金が、どんどん減ります。日吉の家を売って、老後資金に充てようと、考えられたのかなあ? でも、その売却益は、坊ちゃまが、横浜の中心街(?)にビルを建てるお金に化けてしまったのでしょう。

 増田忠さんは、お坊ちゃまに、「もっと私を大切にしてください」と要求すべきだったのですが、それが、瓜南直子さんと同じで、ご自分が信じる、フランスの思想や、哲学が、縛りをかけて居て、一日本人としての、人間的な本心をさらけ出すことが出来なかったのでした。それは、現代風に言うとダサいことになるのでしょう。誇り高い増田さんは、カッコウをつけるのが好きだったのです。

 県民ホール内、画廊のソファーで、「チエコちゃん、僕、お金使い切っちゃったのでね。お昼をご馳走してね。日本そばが好きなのだけれど」と言われたときは、本当に悲しかったですよ。

 増田さんは、愚痴を言ったわけではないのですよ。でも、写真を見せられただけで、増田さんの悲しい現況が判りました。

 あれから、26年が、経過していて、同様の問題に、我が家も直面をしているのですが、まだ、夫婦そろって生きているので、いろいろ、生活上の、防衛が出来ている段階です。夫が死んだらどうなるか? 私が死んだら、夫が、どうなるか? 心配ですが、?!?!?

 増田さんのヴァイオリンがグァルネリである可能性が高いのです。もしストラディヴァリウスだと、それは、素人にも知名度が高いので、絶対に私にその名前を、おっしゃると思う。だけど、その名器の名前を出さないからこそ、専門家こそが知っているグァルネリだった可能性が高いのです。でも、名器であることは、坊ちゃまが、ご自分のホーム頁・・・・(坊ちゃまは、有名人です。ただし、職業の分野を私は言わないでおきます。ただ、音楽が仕事ではないです。ヴァイオリンも弾かないと思う)で、ご自分の写真のそばに、それをかけていたからです。

 「10億円を超える名器を所有している家庭です。そういう家に生まれました」と、坊ちゃまは言いたいのでしょう。ただし、その写真は、今は、消えています。

 増田さんが、グァルネリを持って居ると言う事と、演奏が、大変上手であると、言う二つの面から、増田さんは一時期、田園調布か、自由が丘かのどちらかで、サロンを開いて、クラシック音楽に関する講義を持って居たのでした。たぶん、その家の奥様がピアノを弾く人で、その人と、何かの曲を、月に一回は、一緒に弾いて、その後ティーパーティに移り、増田忠さんが、クラシック音楽に関する、お話をなさるのです。参加者は、総勢10人ぐらいだと思う。

 それが継続して居たら、良かったのですが、何らかの原因で、つぶれたのでしょう。腰を痛めて、腰が、90度曲がると言う老人スタイルになったので、マダム連中が尊敬しなくなったのかなあ?

 でもね。増田さん自身は、高いプライドを持っておられたので、NHKを叱り飛ばすぐらいの意気軒高さも、あったのでした。

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副題2、『関西学院大学は、メソジスト派の布教のために大正時代から建学をされたと、今週私は、初めて知った。とても似ているのが、バプティスト派の布教のために開かれた、関東学院だ。ただ、東京圏には、上智大学、ICU 、明治学院、立教大学、聖心女子大,東京女子大、フェリス等々 たくさんのミッション系大学があるので、それほど、高位ではなかった。でも、最近、横浜市所有の建物が建っていた関内駅傍の土地を買ってタワービルを作ったので、立地条件が格段に上がった。ので、これから、人気が出ると思う。そして、そのタワービル内に、テンネーホールという、美しいホールもできた模様だ。

 ところで、話は、1990年代に戻る。関東学院が、京急金沢八景駅を最寄りとしていた時代の事。そのキャンパス内で、ヴァイオリン・リサイタルがあったらしい。六浦のキャンパスと言うのは、電車を降りてから、15分程度歩くと思う。私は、高等学校の先生方と、1980年代から音楽(コーラスの指導者)や美術(国画会の会員として敬意を示す相手であった紳士)の上で、知遇があるが、キャンパスそのものを訪ねたことはない。

 私はヴァイオリニストについての知識がない。三浦文彰とか、服部百音は、NHKで、聞いたことがあるが、ほとんど、関心がない。これは、ピアノにおけるショパンと同じで、感情が揺さぶられ過ぎる楽器だと思っているので、避けているのだ。増田忠さんが、夜11時過ぎに、ご自分を慰めるために弾くぐらいだと、聞きやすいのだが、本格的なリサイタルとなると、まあ、受け入れはするが、演奏家の名前など、すぐ忘れてしまう。一方ピアノは、相当にわかっているつもりだ。リパッティは、聞いたことが無いが、ブレンデル以降は、相当に聴いていて、好きな人もちゃんと決まっている。

 だから、増田さんが、「NHKがあれを収録しなかったのは、怪しからん。ひどく不勉強だ」と言われたヴァイオリニストの名前も、無論、今、記憶していない。しかし、竹沢恭子さんクラスだったと思う。竹沢さんは、日本音楽コンクールで一位をとっている。年齢とか格を考えると、そうだったと思う。そして、曲目の選択が良かったのだろう。で、増田さんが、ほめちぎるほど、その日のリサイタルは、素晴らしかったそうだ。

 私はそれを聞きながら、増田さんが、威張りすぎているとは、思わなかった。NHKの方は、「横浜でも、金沢八景最寄りの、六浦の関東学院のホールなんて、場末の場末ですよ。だから、気が付きもしませんでした」と言うだろう。

 だが、増田さんの批判の方を信じた。テレビに出る人が、感性が高いわけでもない。増田忠さんのヴァイオリンに関する感性は一流中の一流だ。

 私が、ブロガーとして、有名人中の有名人たる林真理子を、徹底的に批判をするのは、あの頃の増田忠さんの気迫を、思い出すからだ。それと、ニューヨークの地下鉄で出会った、美形の詩人(エジプト人だそうだ。ペイン格子のサマーウールの白地のスーツを着ているが、それを、コインランドリーで洗うそうで、あっちこっちがほつれている・・・・・すさまじい姿だった。が、洋服にも汚れは一切ないし、高貴なお顔は、真っ白な肌で、エジプトでは、上流階級の子供だったと推察された。だが、詩人になると、言ってしまったので、親から勘当をされていてお金がないそうだ。

 私がその子に気が付いたのは、ディトマス・アストリアと言う、自分のアパートの有る地下鉄駅ホームのベンチだった。ずっと、興味を持って居て、彼が、マンハッタン島に入った途端に降りたので、私も降りて、カフェに誘って、いろいろ、話を聞いた。その時、1.5ドルのコーフィーさえ、おごられることを拒否したので、今思うと、相当に、緊迫した経済状態だったと思う。お金がないからこそ、ひとに恵んでもらうようなことを避けるのだった。で、最後に、「何か、詩集を出した?」と聞いた。もしあるのだったら、特に英語だったら、買うつもりだった。すると彼は突然に怒りだして、「本を出したら、偉いと言う事なの? 本を出していないと、劣っているという事なの?」と、私が、答える間もないほどの、急迫で、詰問をしてきて、そして、急に、席を立って向こう(=セントラルステーション)の方へ行ってしまった。

 私は、その気迫に圧倒をされた。おかねという意味では、ぎりぎりの生活をしながらも、高貴な、誇りに満ちている青年だった。生まれつきの遺伝的なお顔もきれいだと思うけれど、考えて居ることがきれいだから、顔もきれいになるのだった。この青年の言ったことは忘れられない。

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副題3、『しかし、人間は、頭脳と、ハートだけで、生きているわけではない。文化資産(=教養)がいくら高くあっても、胃腸も、大腸も動かさないと生きていかれない。そして感性の高い人ほど、性的欲求も高いのだと思う。

 ここで、有名な手相観の日傘雅水さん(この人は日大芸術学部卒だが)が私に向かって、言ったことを書かないといけない。「あなたは、芸術家でよかった。これが、普通の専業主婦だと事件を起こす人になっていますよ」と彼女は、言った。それほど、私は、実は男性にとっては魅惑的なところがあるらしい。両手に、金星帯と言う女性中の女性が持っている線が、二本ずつ、四本もあるのだった。

 ただし、30ねん前の話だ。あ、は、は。今はざんねんながら、おばあさんです。【マダム優美】は、エステなどに通っているのか?、高級な化粧品を使っているのか? まだ、50代にしか見えないが、私はざんねんながら、婆あ化しました。

 だから、1997年の私に向かって、『チエコちゃん、僕と一戦構えませんか?』と、暗喩的お誘いをしてきた増田さんが、間違っていたわけではない。

 だけど、私は創作をする人なので、そこで、大満足を得ているので、ワギナを使って、満足を得ようとは、思っていないのだった。創作という仕事が一番、大きな快楽を、人間に、もたらすそうである。

 しかし、この増田忠さんとの関係においても、私は、自分のトリックスターとしての、特徴を、驚くほど鮮明に発見をしてしまうのだった。

 増田忠さんが、私の「もう、電話をよこさないでください」という言葉に傷ついてしまって、日吉の沢野夫人とか寺沢夫人と言う昔のご近所マダムに愚痴を言いに行ったことで、

 寺沢夫人が坊ちゃまに、「パパをもっと大切にしないとだめよ」と忠告をしてくれたと、数年後に知った。母は、「寺沢夫人は、誠実で安心できる人だけれど、沢野夫人は、怖い人よ」と言っていた。で、沢野夫人発で、私の大悪口が、日吉・ときわ台町内会に、蔓延することになったのだった。大損をした。だけど、その件がきっかけで、やっと増田忠さんは、お子様方一家と、一緒に暮らすことができる様になったと、推察している。そして、あのビルは一階部分が、24坪から、30坪だと考えられる。80m²から、100m²のこと。増田さんは、二階だけで、生活することができる様になったであろう。一回は坊ちゃま夫妻の仕事上の部屋となっている。で、二階の居住空間の、ダイニング、リビング、ベッドルームを移動することになったであろう。それなら車いす生活になっても大丈夫だ。坊ちゃま夫妻の寝室を三階に移し、お孫さんの、部屋を増田さんの昔使っていたスペースに移せば、歩くのが不自由になっても、増田さんは、楽に生きて行かれる。

 今、増田さんが生存中なら、100歳に近い段階だと思うが、お元気であることを祈っている。そういう改良が無かったら、増田忠さんはあの狭くて、無機質なベッドルームで、孤独死でもしかねないほど、ぎりぎりだった。それが、無くなって、日本人の普通の三世代同居生活に移行をしたのだったら、これは、私の怪我の巧妙だと言う事になる。良かったと思っている。それで、私は前報のようなことを書いても良心に痛みは感じていない。

 2023-12-27 雨宮舜(本名 川崎千恵子)

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