副題1、『ホテルチェルシーに、ついての、2000年ごろに出版されたオマージュ本をつくづく見ているところです。ところで、このホテルとして、又は、このホテルを愛する人たちにとって、ここに、逗留した過去がある人の内、もっとも有名な人物は、ウッディアレンみたいで、彼の写真は、見返しの紙として、使われています。
その次に室内で、撮影された写真ではなくて、玄関を出入りするときに撮影された、有名人が続きます。そちらが、全部で、5人いて、すべて、白黒写真ですが(というのは、ホテルのオーナーが、白黒写真を好んでいたからか?)四番目にいるのがアーサーミラー
です。私の背後にいて、常にハッキングをしている鎌倉エージェントが、わざと、そうしたのでしょうが、曇った形で、スキャンされています。後で、違う形で、スキャンして、置きなおしますが、本日は、これで、お許しください。
ところで、私が、ひときわ、この写真に心惹かれたのは、・・・・・ああ、アーサーミラーの、本当の、姿がここに写っている・・・・・と感じるからでした。
アーサーミラーの写真は、日本にも多く出回っていると、思います。1950年代の、すらっとした写真が多いですね。本人には、断らないで、斜めの方向から、撮影をしています。
アメリカ人一般から、比べると、ひときわ知的です。インテリっぽい顔です。しかし、日本のインテリが醸し出す、一般的な、特徴である、草食系の神経質さを思い浮かべると、相当に違うでしょう。ずっと、どう猛です。残酷です。それが、この写真には出ていると、思うのです。
この写真では、撮影者を信頼して居て、真正面を向いています。それは、撮影者が、もし、ホテルチェルシーの、オーナーだったら、その通りです。と言いたいです。私は、2002年に、このオーナーに、出会って居る(ただし、二人で、経営しているそうで、そのうちの一人だけですが、・・・・・本当に、巨魁と言っていいほどの、知識人でした。体は小さい人ですが、彼の経験を思うと、本当に巨魁と言っていいでしょう。壁は、ムクのウォールナット、もしくはオークで、できていて、美しいレベルで、ニスが塗ってあります。書だなには、書物もあるが、資料類が、きちんと整理されて、そろって居ます。窓はない形式のお部屋でしたけれど。
私たちは、知識人というと、すぐ大学教授を思い浮かべます。日本の大学教授が、よくNHKで、インタビューに応じでいる場合、自分の、オフィスを使うケースがあります。細長い部屋で、一番奥に窓があり、左側がデスクで、右側が書だなという形式が多いです。右と左が、反対側の、設定もあります。ただ、私がホテルチェルシーのオーナーとそれらの、日本の知識人の部屋と比較をすると、まず、色の統一があるかどうかなのですが、日本の大学教授のオフィスには、色の統一はないです。そして、伝統や個性も感じられません。20年ぐらいすると、大学教授は、さり、他の人が使う。そう言う感じです。しかし、ホテルチェルシーのオーナーの部屋には、焦げ茶色と、言う統一がありました。そして、オーナーの人格とか、経験も、色濃くそこに反映して居ました。
しかし森ビルに買収をされたそうですから、あの、大変貴重なオーナー室も消えたと、思います。残念。
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副題2、『2010年までは、前のオーナーが経営していた模様だが、その人を、なぜ、知的巨人というかというと、彼は、リフォームなどには、お金をまわさず、従業員も夜はアルバイトで済ませ、そのアルバイトは、いわゆる売り出し中のライターとか、そのほか、本人が、貧しい生活を送っている人達を使っていた。森ビルが、経営する様になり、ホテル・マリオット・チェルシーとなったら、夜のフロント係が、だらしない(と、日本人だったら、感じてしまいかねない)私服を着た、知識人(白人やアフリカン、混在していたが)で、済ますわけにもいかないでしょう。で、高級ホテルと同じく、スーツ姿の、白人(又は、アフリカン)の若くて、美形の人を雇うでしょう。日本のお金持ちにも積極的に、このホテルを宣伝するでしょうから、日本人スタッフも雇われているかもしれません・・・・・そして、最も大切なことは、貧乏なアーチストに、ただで長逗留をさせて、作品を寄贈させ、それを、展示させてあげたことが無くなる可能性です。
その上、もう一つ残念なことがあります。もし、ホテル・マリオット・チェルシーになったら、大幅に作品が入れ替えられる筈だからです。このホテルの階段ホールを飾っていた、雑多で、猥雑といってもよい作品群は、取り払われ、森美術館が保持している、高度な、評価をすでに得ている作品が飾られる可能性があることです。それは、このホテルが持っている特殊にして、高貴な歴史が、全く消えてしまうのです。とても、残念です』
ところで、副題1に、写真を置いたアーサーミラーは、1949年に、既に、ピュリッツァー賞をもらっているそうですから、この写真が撮影をされた時には、既に貧乏ではありません。それで、宿泊をしていたわけではなくて、オペラ【 View from the Bridge 】を、A. ワインスタインと一緒に、このホテル内で、作っていたそうです。
日本でいう御茶ノ水の山の上ホテルと、似ていますね。ただし、それが、何年だったかが、書いて居ないのです。写真はあるが、撮影日が、記録されていなかったのでしょう。それで、私は、この本を、ホテルに対するオマージュ本というわけです。すべての写真に、撮影日が、ついていない上に、廊下ホールが撮影されていないのが、残念です。山の上ホテルは、主に分筆系作家が、使って居ます。だから、絵が残っていると、言うわけではないでしょう。しかし、ホテルチェルシーは、ミュージック系、(文筆系作家)、そして、何よりも、美術系作家が、逗留したことで、有名なのです。そして、オーナーの恩情で、安く、又は、唯で、滞在をさせてあげるわけです。
私は、今まで、それを書いて居ないが、私の版画の先生Mr. Robert blackburn (わたくしは、自分の著書、黄色いサクランボの中では、彼をボブと愛称で呼んでいる。彼は、主に、作品の批判をしてもらうという意味での先生で、技術的な指導を受けたわけではないが)の、最後の段階は、お金を取らないで、滞在をさせてあげていたと、感じているのです。しかし、私が初めて出会った、1999年に、既に、氏は重いパーキンソン氏病でした。お顔も明るく、性格も明るかったのですが、病はすでに、重かったのです。
でね。アメリカって、国民保険がありません。で、オーナーは、自分の私的保険(保険料は高い筈)に、紹介で、ボブを入れて、治療費は、自分が払ってあげていたと、思うのです。
それから、身動きが自由でないボブの為に、家政婦さんを雇ってあげていました。私は、彼女にボブがない時間帯で、一回ほどあって居ます。アーティーチョークのお漬物を、自宅から持ってきていて、タッパーから移している最中でした。発酵臭がして、『ああ、アメリカにもお漬物があるのだわ』と、思いました。
その後、2000年にも合います。2000年には、ボブの経営する、ニューヨーク一古い版画工房使っていたので、(月に500ドル=6万円を支払って、合いかぎをもらっていた)ボブには、何度もあって居ます。
2000年には、元スーパーモデルという素晴らしい美人が、アフリカン(黒人系)文化人として、先輩にあたるボブの無給の秘書をしていたのです。で、彼女が車いすに乗せて、ボブをホテルの外へ、連れ出してあげていたので、外(美術の催し物)で、であったりして、ホテルでも出会いました。
しかし、その秘書が、きちんと使用料を払っている私を信頼して、経営状態を打ち明けてくれたのですが、1100ドル(13万円)の家賃しはらい(100坪ぐらいだから、とても安いのだが、それでも、支払い)に、こまる様な状況へ陥っていたのでした。それは、日本人版画家・通称・よよが原因です。
私は、1999年に三か月ニューヨークにいて、2000年にも、3か月ニューヨークにいて、2002年に個展をするために、もう一回ニューヨークに行きます。個展の案内を、英語で、在ニューヨーク時代の友人に出したいと、思ったりして、余りに忙しいので、ボブにあうのは、最後の日だけにしようと思ったのでした。体が不自由で、もうで歩けないボブです。実は、版画工房は、よよの精で、つぶれていて、ボブには、無給の秘書も、もう居らず。前二回の滞在は、アパートを借りました。しかし、2002年は、12日間だけなので、ホテルチェルシーに投宿したのです。で、同じホテルにいるのなら、『来て、来て』と、ボブに呼び出される可能性を感じて、最後の日だけ会おうとしたのでした。
その最後の日の午前11時と夜11時の、二回の邂逅で、私は、結婚をしていることの意味、そして、家族がいることの意味をしみじみと学ばせてもらうのでした。それは、午前中にボブに出会った時に、ボブのそばには、見知らぬ女性(多分、新しい、看護師さん。午前中の介護をする女性。キャッシーよりずっと、若い人)が、居ました。彼女は陽気でかわいらしい人で、ボブの、お洋服(白いTシャツと、白いパンツ)を、お客用に取り換えて居たぐらいで、いい人の筈です。
しかし、パンツに穴が開いていたのです。後で、思うと、介護のための穴で、別にボブが、パンツも買えないほど、貧乏だと、言うわけではないのですよ。しかし、私は、それが、身動きができないボブの為に、ペニスを外へ出す、正当な穴だとは、思わず、・・・・・ボブが貧乏だから穴の開いたパンツをはいている・・・・・と、誤解をしたのでした。それで、そばに立っている陽気な看護師さん(それもホテルチェルシーのオーナーが頼んであげていた人でしょう)でも、『家族には、負けるわ。家族なら、こういう穴をお客には見せない筈です』と、思い、ボブに家族がいないことを、本当に気の毒に思ったのでした。ボブは、わざと結婚を避けていたわけではなくて、1960年代には、ボブの様な、ハイブラウで、しかし、外部から期待をするほどには、お金はないと、言うアフリカン(黒人)を大切に思う、女性がいなかったのです。
このボブと、彼と対照的な、生活態度を取っていた、チリから来たホアレスと、言う版画家・・・・・その人は、工房が閉鎖されると、その半年後に、孤独死・・・・・多分真相は、飢え死にだったろうと、私は考えて居る・・・・・と、彼等の、生活や命を奪う状況を作り出した、よよと私との、四人が、最終章の、主人公に、なっているのが、【黄色いさくらんぼ】です。
黄色いサクランボは、ボブに頼まれていた全粒小麦パンを買えない時間になってしまっていたので、自分用に買っていた、たった12坪の黄色いサクランボ、(6月に収穫したものを、8月まで保存をしてあるので、皮がしわしわだった。だが、大粒で、甘かった)だったので、
でも、この章は、アーサーミラーが、主人公です。新しく書くよりも、12年前に書いたものがあるので、それを、ご覧くださいませ。
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副題3、『今、それを読み返してみると、アーサーミラーについて、はっきりとは、その残酷さを指摘して居なかった。未だ、ブログを始めたばかりだったので、書き方について、全般的な、遠慮があったかもしれない。それとも、その当時、映画、【荒馬と女】の撮影秘話が、NHKで、放映をされたので、それを読者の皆さんが、ご覧になっていると、言う前提条件で、その一文を書いて居るのかもしれない。
その映画【荒馬と、女】のメーキングフィルム(=裏話)では、クラークゲーブル他、全スタッフ・キャストが、マリリンモンローに、困りぬいたと、されています。マリリンという女性は、自分自身に対して、全く自信がない人でした。勿論、主体性もないです。で、当時は、夫だった、ミラーにすがりたいのですが、ミラーはすでに、離婚を決めてり、内心で、好きな人である、女流カメラマンを伴って、撮影現場に行くのです。ただ、もしかすると、この時点では、女流カメラマンとできてはいなかったとしても、マリリンの体調不良とわがまま(精神的に不安定で、よるよく眠れないので、撮影現場に遅れていくので、みんなが迷惑をしていた)を、詳細に、記録しているのは、後程、マリリンと離婚をして、このカメラマンと再婚をしているので、とても残酷な仕打ちだったと、思われます。そこまでは、書き表してはいないのが、下の文章です。当時も、内心で考えては、いるのですが、外には出していません。唯ね。当時は、そのカメラマンとの再婚は、知らなかったのです。ただ、脚本畳、マリリンには、とても気の毒な設定になっていると、思いました。それは、どういう事かというと、クラークゲーブルを好きになるという脚本で会って、自分みたいなインテリより、セックスシンボル、マッチョな男性と、結婚した方がいいと、言う暗示になっているからです。
つまり、その映画の脚本によって、お前を好きではないのだと、意思表示をしているのです。それって、非常に残酷です。
もう少し、詳しく言うと、ミラーは、脚本の中で『お前ね。ニューヨークに来て演劇理論を学んでいるだろう。だけど、芸術って、理解をするにしても、表現をするにしても、相当な家柄の家で育たないと、駄目なんだよ。根っこがないというか、豊潤さが、無いのだなあ。お前は、貧乏な家で育っていて、かつ母親に捨てられたも同然な育ちだね。だから、追いつけない部分があるのさ。お前には、僕よりも、この映画に登場する、クラークゲーブルが、表象する様な、粗野だけど、性的魅力にあふれている様な、男の方がふさわしいのさ』と、言って居るように感じるのです。でね。クラークゲーブルは、そういう状況をわかって居た様に思うのです。彼は、脚本家ではない。しかも監督でもない。だから、あれこれ、口をはさみません。
でも、どんなに苦労があっても映画を完成させようと、努力した模様です。しかもスタントなしで、荒馬を捕獲する演技をしたそうです。それは、マリリンに対する、いわゆるアガペーだったのではないかなあ? 見返りとして、セックス奉仕も他も、何ものも、求めない、いわゆる、無償の愛というやつですね。それを、メイキング(ヴィデオ)フィルムを見ていて、感じました。そこだけがマリリンの救いです。
撮影は砂漠の中に、数十台の、キャンピングカーみたいなものを停車させて、そこに、スタッフ・キャスト共に、寝泊まりをする形式だったみたいです。スターは、専用の一台を与えられる。で、ホテルに寝に帰るわけでもない。そういう生活の中で、クラークゲーブルが、マリリンモンローの車を訪ねて、慰労をしていたなどと言うエピソードは、どこにもありません。だけど、この映画のクランクアップ直後にクラークゲーブルは、亡くなって居ます。老骨に鞭打つというのがぴったりの状況だったと、推察します。それほど、彼が、努力を尽くしたのは、マリリンモンローに対する、pity の情だったと、推察して居ます。『かわいそうに』と、思う心が、ゲーブルに最善を尽くさせたのです。二人ともかわいそうですね。
まあ、人間には、行動の自由があります。お金と名誉に恵まれている人間は、その自由度が大きいのでしょう。しかし、ホテルチェルシーの前で、アーサーミラーは、自分の画像を撮影をさせて居ます。私が出会った方のオーナーは、白髪でしたが、無論のこと、この写真を撮影した時点では、アーサーミラーより若いでしょう。で、アーサーミラーは、安心して、自分の、本当の姿を映させています。厳しい顔ですね。
ただ、彼をけなすばかりではいけないでしょうね。マリリンは、妻としては駄目な女性だったと、思います。男って、自分より年上タイプの女性が、本当は、好きなのです。甘えられるからね。それに、セックスシンボルだったマリリンとのセックスが、あながち楽しいものでもなかったとしたら、「他にとりえのない女が、その点でだめだったら、一緒に住みたくない」と、アーサーミラーが、考えたことも推察できるのです。
しかしマリリンのめちゃくちゃさは、すべて、幼少期に原因があるのですから、マリリンも本当にかわいそうです。母親は、ほぼ、完ぺきなネグレクト状態で、彼女を育てた模様です。
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そして、あの『風と共に去りぬ』では、わがままで華やかな主人公を演じたヴィヴィアン・リーがこれほど、すさまじい汚れ役をやること。それから、その後、精神を病んだとか、言われていること。・・・・・などにも大変な衝撃を受け、ヴィヴィアン・リーの自伝を読みました。ヴィヴィアン・リーも、幼い頃から、修道院経営の学校に入れられて、親の愛が少なかった事を知り、親子の関係とはすべての基本を作るものだと感じました。
ヴィヴィアンの場合は、両親の側に、特別愛が少なかったというよりも、植民地に住んでいるという特別な事情があって、本国イギリスの学校へ入れたいという善意からの選択だった模様ですが、普通に育てたほうが、本人には幸せだったでしょう。
マリリン・モンローもそうです。どういう事情からかははっきりとは公開をされていないものの、小さい頃不幸だったことは確かです。その欠落感のコンペンセーション(補償作用)として、マリリン・モンローは勉強好きな女性となりました。一種の努力家で、とても頭の良い女性です。
彼女がセックス・シンボルといわれて有名になったのは、スカートが、地下鉄の風でまくれ上がるシーンからでしょう。でもあれは、単に映画の一場面であり、美空ひばりや宮沢りえと同じで、貪欲なまでに、勉強をしようとしていた女性です。演技者として女優として、またはエンターテイナーとして、向上しようとして、一生、努力を続けた女性です。そして稀代のスターとなる人には、すべて、気品と言うか、品格の高さがあります。どんなに、セックスシンボルと言われようが、思いがけないキュートさとか、かわいらしさとか、そして、怜悧なところも、マリリンは持っていたのでしょう。
そのために、既にハリウッド(西海岸)の有名女優になっているにもかかわらず、ニューヨーク(東海岸)のアクターズ・ステュディオと言う、演劇学校に入ります。そして、このタイムズスクエアー辺りで活躍をしている、ア-サ-・ミラーと知り合い結婚をします。
その二人の結婚生活を、二人の親友であったといわれる、写真家、サム・ショウが捕らえており、それは、写真としてもマリリン・モンロー研究資料としても絶品らしいです。
私は今、インターネット(goo 映画)で、その2、3枚を見ましたが、言われている通りです。特にアーサー・ミラー(1915~2005)が、その私生活を明かしておりません。それは、戯曲を書くから、そこで、人間についての発言があるので、それで、充分だという考えがあり、また、物書きとしての業として、警戒心もあったのでしょう。
ですから、アーサー・ミラーの人間性研究に関して、その写真は役に立つと思います。
しかし、実はもう一本、忘れられない番組が、昔NHKで、放映をされました。映画『荒馬と女』の舞台裏をドキュメンタリーとして、制作した番組です。すごかったのですが、それは、明日語らせてくださいませ。
2008年11月15日これを書く、送るのは、17日 川崎 千恵子