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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

アヤソフィア・モスク化の2・・・・・NYいち、おいしいものを売っていたお店on 23rd st.が消えた Why?

2020-08-01 03:03:54 | 政治

副題1、『これは、完ぺきに、

アヤソフィアのモスク化は、森ビルがNYの名門ホテルを買収した事と関連して居て、私狙いです

2020-07-29 00:49:56 | 政治

の続きです。ただし、徹夜明けの午前4時から、書き始めるので、エピソード一つぐらいで、終止して、全体像を、書き表せないかもしれません。それは、お許しください。このテーマは、相当に大きく、かつ深いので、簡単には、書き表せませんので。

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副題2、『今週のカンブリア宮殿に、Dean & Deluca(六本木店) が出てきた。新コロナ騒動で、嘆きが深いそうだが?』

 カンブリア宮殿の、今週号を見ると、【羽田空港】という魚屋さんと、【ディーンアンドデルーカ】という食料品店が出て来ました。後者は、ニューヨークに本部を置く食品のセレクトショップだそうです。とても高級な食品を置いているお店で、日本で、高級なものを置いている、四種類ぐらいの、食料品店で、トップクラスでしょう。

 六本木店は、新コロナ騒動が始まって以来、テナントの大家さんに、「お宅は、閉めて、もらいます。(不要不急ではないから)と、言われて、ショックだった」と、社長が言って居ました。サントリー美術館に行くときには、その前を通るので、あの店のオーナーってミッドタウンでしょうねと、思うわけです。

 そして、三井不動産のサラリーマンが、彼に向かって、閉めてくださいと、言った意味を、考える私は、最も大きな理由は、不要不急ではなくて、お値段が高いから、今は、売れないだろうと、テナント側が判断をしたのだと、思います。

 あのね、ご自分がお金持ちであると、どうしても貧乏人の気持ちがわかりません。で、このDean & Delucaの社長さんは、すかいらーく創業者一族の、お子さんらしいので、実家は、お金持ちです。で、各商品を、費用対効果を考えて、彼が考える、順当さで、値段付けをしていると、思います。お客目線というか、お客本意ではありません。私はサントリー美術館に行ったときは、目の前を通るし、ミッドタウン内の、他のレストランに入るよりは、一人で、入るのに安心なところなので、よく軽食を取りますが、

 あのホテルチェルシーのそばの食料品店って、何ていうお店だったのだろうと、いつも考えるのです。私は、1999年の三か月の滞在時にも、2000年の三か月の滞在時にも、2002年の、11日間の滞在時にも、食料品代は、惜しんでいないのです。

 それは、毎日、7時間から10時間かけて、作っている版画が、ヘイター方式というもので、30cm直径で、中央が、金属でできている非常に重いローラーを、一本につき、200回ぐらい回転させる必要があって、それが、違う種類で、二本あるので、重労働なのです。で、毎日、お昼だけでも、1000円ぐらい、掛けていたのでした。惣菜店を利用したが、区切りのついているバットに、6種類から8種類のおかずを入れて帰って来て、工房の片隅で、食べていました。

 五冊目の本、【黄色いサクランボ】の、二つ目のテーマは、ホアレスと、言うペルーから来た、私と同い年の版画家が、一次同棲をしていた日本人女性にならったらしい、サツマイモ入りの蒸しパンが主食であり、それだけを食べていたらしいと、或る時に忽然と、気が付いて、彼に悪いことをしてしまったと、反省をするのです。なお、ホアレスは、書物の中では、仮名、エドゥアルドとしてあります。それは、ホアレスの孤独死は、日本人女性版画家、【通称=よよ】に原因があるので、よよを家名にする必要があったからでした。

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副題3、『ところで、そのおいしい食料品店の名前を調べようとして、ググったら、消えている。決して、落ちぶれたり、経営不振になる様な、雰囲気ではなかった。ZAGATというアメリカ版ミシュランにも選ばれていたし・Why? と考えて居るうちに正しい答えに行きついた。今、それを書いたのだが、全部消えた。したがって、正しい解釈だったと、思い当たる。苦しい時間帯だが、もう一回、復活させてみよう』

 ホテルチェルシーを森ビルが、買収したのは、そこが、私の書物【黄色いサクランボ】の、舞台の一つだからです。日本でも、同じことが、頻繁に起きています。特に鎌倉では、私のエッセイに現れた、ものや、人(大江広元の墓)が、消え去ったり、名前を変えたりしています。それが、ニューヨークにも応用をされたのでした。

 しかし、一切、ニュースになっていない。それが、大問題だ。

 アメリカでは、歴史が浅いので国宝という概念はありません。でもホテルチェルシーは、文化遺産としては有名で、入り口に、それを記した銘板が、張ってあります。で、地方から上京した観光客が、その銘板を読んで居たりします。

 こういうものを日本人が買うと、アメリカ人は、大反発をして、それを阻止しようとする動きが、必ず起きるはずなのです。

 トヨタ自動車でさえ、余りに勢いがいいので、心配だと、私は、考えて居たのだけれど、その通りになって、おかしなケースで、アメリカ議会が、開いた公聴会に、出席することになって、悔し涙を流した映像があります。

 しかし、森ビルが、これ程、大きな買い物をしているのに、一切、アメリカ側からの、批判を受けていない。どうしてかというと、森ビル創業者の、お孫さんが、森万里子さんであって、

 1999年から、2003年ごろにかけては、彼女が、私のライバルとして、設定をされていたからであろうと今では、思う。

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副題4、『私は、1999年の秋、ベニスビエンナーレが、開かれている、その同じ時期は、ニューヨークの美大の大学院で学んでいた。教授は、苗字からすると、大財閥、モルガン家の子孫の模様である。

 教授はある週、休講だったのだが、次の週に、「ベニスビエンナーレに行って居た」と、おっしゃった。そして、その後アヤソフィアに回ったと、おっしゃって、アヤソフィアの、すごさを語られた。

 それが、1999年の事だが、私は、既に、1980年にアヤソフィアを、夫婦だけの個人旅行として訪れている。スケッチをしてきている。特に入り口から、左手の片隅を見て、丁寧に、スケッチをした、作品は、なかなかのものだと思うけれど、売った覚えも、上げた覚えもないのに、今、家にない。

 同じ旅行で、エフェソスの真ん中の十字路を描いたスケッチは、10万円で、1981年に売れている。その作業の最中、坂の下から、上がってきた立花隆と、絵を描きながら、口喧嘩をした。彼が、余りにもトルコ、及び、トルコ人を嫌い、軽蔑をするからだった。

 今、私が、・・・・当時は、森万里子さんが、ライバルとして、設定をされていたのだっただろう・・・・と、言うのは、そのベニスビエンナーレの情報が、私には、一切入らなかったからだ。

 モルガン教授がベニスビエンナーレにおける森万里子について、一切語らなかったのは、彼が、森万里子の作品(夢殿を実物大で、再現し、金箔を張り付けまくった作品)を、批判していたから、言及しなかったのではなくて、私に教えないが為だったのだと、思う。それは、2002年に、偶然地下鉄駅を出たところで、教授にあって、声をかけたのだが、教授は、走って逃げてしまった。CIAエージェントのベイカーさんは、この時、裏で、色々、画策をしていたのだろう。

 こういう部分が書いても書いても、消えてしまう部分なので、本当だと、思う。

 しかし、今は、森万里子さんは、私のライバルとしては、設定をされていない。彼女の方が圧倒的な、有名人であり、私は、一人取り残されたので、アート界にライバルは、必要なくなったからだ。

 いや、少し違う。もっと、身近なライバルとして表れた渡辺幸子さんが、まず、青木繁大賞展の大賞をもらった。その理由は、2002年ごろの、ICU同窓会展で、

 私が100号の油絵を出した。その出来がひどくよかったので、幸子さんは、激怒したのだった。その直前に幸子さんは、電話内で、こういっていた。私ね、「あの会、負担なのよ。だから、鎌倉美術展に出した作品をまわすつもりよ」と。彼女にとって、その会が、どうして負担なのかというと、その会に、出品をしても、画壇での出世には、何の役にも立たないからだった。ICU卒業生(と言っても、事実上は中退なのだが、卒業資格を与えられている。石塚雅彦さんとお友達だから、その手の忖度は、自由自在です)固有の成果主義に凝り固まっている彼女は、画壇でも、出世しないと気が済まない。

 一方の私は、国画会で、山寺重子さんに、いじめられることに、相当に辟易して居て、国展に、出品するのを、もうやめようと、決意をしていた。ただし、ああいう団体にいったん、関係を持ってしまうと、’(私は、油絵を、平面部、版画を版画部に、ダブって出品していた時期もある。)やめにくいのだ。会社を、自主退職するよりも難しいと、思う。一種のやくざ組織といってよいかな? だから、出品をやめる前に、その意向をだれにも言う事はできなかった。そして、手元には、国展出品用に準備した作品はある。で、国展出品用の100号を、大学同窓会展に回した。

 で、私は、自分の作品を争いの道具として使う気は毛頭ないのだが、勝手に出し抜いたと、誤解した幸子さんが、猛然と虐めて来た。会場は、コマツアネックスの三階に、当時は、あった、望月画廊。中央のロビーに置いてあった、平たい椅子に置いた、私の荷物を「置き方が汚いわよ」と、言いながら、傲然と払い落とし、裏では電話で、悪口を言いまわしたくった。私は、すべてがわかっていたが、今よりも、もっと、自分自身に近かったので、リアルな世界で、喧嘩をすることなど、思いもよらず、唯、静かに身を引いた。やめると、言う電話を、事務局長さんに掛けた。もう一つ芳名帳の、コピー云々の件があるけれど、ここでは、煩雑になるから、触れない。

 というわけで、2002年から、ほぼ、20年間にわたって、渡辺幸子さんは、お金、名誉、他人へのメディア露出など、すべての面で、私より上です。だけど、彼女は、私にとっては、気にならないです。裏側の顔を知ってしまったので、『子供っぽい人だなあ』と、思って居るだけです。そして、彼女が、カマキリみたいに見える形で、腰骨が、曲がってしまったのを知って、『あれ、あの人、運転できるのかしら。車を使えないと、相当に不自由になる、駅から遠い場所に住んでいるのに』と、思ったりしているだけです。

 そういう私をどこかから聞いて知っているのか、彼女は、栗田玲子さんに「川崎千恵子って怖い」と言って居るらしいです。それは、テロリストだとか、クレーマーという規定と同じく、私を排除しようとする、仕組みの言葉ですが、栗田玲子さんから、鎌倉駅のトイレで、それを言われた時は、反論をして置きましたよ。

 だって、彼女は、具体的な事は何も知らないわけでしょう。だから、簡単に、「経験を重ねてきているから、そうなるのも当たり前でしょう」と言っておきました。

 渡辺幸子さんが、私を怖いというもう一つ別の理由は、私の選択が、損得勘定には、基づいていないという点にもあるでしょう。仲良しだったころから、彼女は、「どうして、大金をかけて、そんなことをするの」と言って居ました。私がやって居ることは、すべて、画家としては、何の役にも立っていないと、見えるらしいです。

 というわけで、渡辺幸子さんが、対、私の敵として、規定をされてから、急に、森万里子さんが、私の目の前に、情報として出てきたのです。で、わかったのですね。そうか、1999年には、森万里子さんが、ライバル設定をされていたのだと。

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