銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

地に足の着いた資格、食品衛生責任者・・・・・清潔な日本の、最も清潔な場所としてのその講義△

2014-12-15 14:27:19 | 政治

 以下の文章は、15日のうちには、『14日は、大船に、資格を取りに行っていました』というタイトルでした。16日の早朝に、副題4を、加えて、誤変換を直し、総タイトルを変えました。そして、そのしるしとして、総タイトル横に△印をつけておきます。

まず、最初に写真の説明をさせてくださいませ。

 これは、鎌倉が政令都市ではないので、その上の段階の神奈川県の、名前で交付する食品衛生責任者手帳です。

合計六時間の講義を受けます。そうすると、間で、居眠りなどをしない限り、いただけます。

 この試験の間中にも、伊藤玄二郎、または、間に誰かが入っているとみられる現象が多々見えました。が、それは、本日は語らずに、正攻法で、この試験そのものについて、語りたいと思います。

副題1、『14歳のハローワークが、もし、60年前に出版されていたら、この資格のことを、私はずっと前に、知っていただろう』

副題2、『しかし、めげない私は、今、できるだけのことを、一生懸命、やろうとしています』

副題3、『意外と効率が上がるのですよ。やりきれなかった仕事を明日に残して、明日やるという、やり方も』

副題4、『こつこつと、小さなところから積み上げていく。それには、とてもふさわしい資格だった、食品衛生責任者という資格』

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副題1、『14歳のハローワークが、もし、60年前に出版されていたら、この資格のことを、私はずっと前に、知っていただろう』

 私はまだ、14歳のハローワークという本を読んでいません。でも、重要な本だなあと、横から見て感じています。村上龍氏は、最近、高齢者向けのハローワーク(タイトルは、正確ではない)を、出版したはずです。それもきっと、社会の役に立つ本でしょう。

 ともかく、私の実家では、子供たちは、サラリーマンになるものだと、決められていました。その雰囲気はありました。もっと上の階層になることも、私は、求められていて、「私大の医学部の学費も、出せるし、出すから、医者になってほしい」と言われていたのですが、それを、やっと、振り切りました。医者という職業は、自分には向いていません。どんなに偏差値が子供時代優秀であっても、むいていない職業に就くのは無理です。あそこで、親に逆らったのは、よいことでした。そして、ホワイトカラーとしてのサラリーマンになったのです。が、実際には、長続きはしませんでした。社会勉強はできましたが、お金や地位に結び付くほど、実績を積めませんでした。

 最初に、大学の新卒生として勤務したのは東大です。堀文子さんとそっくりな形で入ったのですが、優秀さを認めていただいて、正式な職員にしていただけました。ただ、東大に勤めていて、その勤務態形が、結婚したばかりの当時の私には、無理でした。教授が『結婚で、やめなければ、将来必ず、教授になれるよ。あなたは、東大卒じゃあないけれど、統合する力があるからね。それに、いささかの政治力もある。東大は、全国の学者や、学界内自体を、まとめていく任務があるので、単なる学者バカには、勤まらない』と、言って下さったのですが、だめでした。

 だけど、そこは、1960年代当時の女の人が、他業種の人と、結婚をして、普通の主婦役を求められながら、長い就業時間を潜り抜けることができるほど、甘い職場ではありません。まず、体力的に、ついて行かれなくなりました。実家に住んでいるときは、食事とか洗濯というものを、親がやってくれたから、職場キープもできたらしいのですが、主婦とは真っ反対になるのです。今では、ずいぶん手伝ってもらっていて、それが、自分でも、平気なのですが、新婚当時はそれができなくてね。いわゆる女の仕事は、全部自分がしようと思っていたので、アウトです。

 しかも、住まいですが、夫婦二人の勤務先が非常に離れているのに、その真ん中に住所を構えたのも間違いでした。本郷三丁目に、1時間半かかって通勤するのは、当時のひ弱な私には、病気になってしまうというレベルの条件でした。東大の教務職(将来教授にもなれる職種)の中で、男の人の方は、土曜日の夜は完全徹夜で、研究すると言っていました。が、そういうのも無理だし。しかし、今では、この五年間にわたって、週に三日は完全徹夜する生活を続けているのです。だから、人間、≪これは好きな仕事だ≫と決めたら、相当な無理でも、できるものです。私にとって、パソコンを使って、書くとか、編集する仕事というのは、長時間やっても、疲れない仕事のうちの一つです。報酬はないのですけれどね。報酬がなくてもできるし、やりたい仕事です。

 で、あの1960年代の時点で、今持っている程度の図太さがあったら、大丈夫だったと思います。が、当時は、圧倒的に、繊細なだけでね。仕事と家庭の両方をマネージングしていくのが無理でした。

 で、その後、勤務をする生活は辞めて、主婦になり、子育てをしながら油絵を描き、56歳にもなってから、いわゆるプロの作家(美術系)となろうと決意したのでした。それは、特殊な色摺りをする、特殊な銅板画を制作する仕事に入ったからです。それが、好きでした。これは、時間の管理が自分次第だし、大好きな仕事なので、一生続けるつもりでした。が、版画を摺るプレスという重い機械が、鎌倉の自宅へ持ち込むことができず、分解しても駄目だと言われ、私自身、それを納得していました。

 しかし、版画を制作するために、その制作用の、プレスを置くために、借りていた逗子のマンション(古いが、全部で、24畳もあった)を借りる、お金が無くなったのです。そうしたら、その≪人生でやっと見つけた天職≫と、思う道は、とん挫してしまいました。わたくしの採用している銅版画の手法は、せめて7時間は連続して、作業をしないと、駄目だという手法で、よそで、プレスを借りる生活では、制作ができません。4枚を摺るだけでも、準備や後始末を考えると、10時間はかかるというほど、特殊な技法なので、美術大学のアトリエを自由に使える、在校生か、卒業生以外には、自宅に機械を備えていないと、無理なのです。

 まあ、私がここで、言いたいことは、何をしても、人生には、いろいろな障害がある・・・・・または、起こりうるということです。

 絵描きみたいな、はたで、見ているかぎりでは、優美な仕事と見える分野でも、実際にはパイを奪い合うという醜い本心が隠されている世界でもあるし、人間関係は、なかなか、大変な世界ですよ。そのうえ、そこに私の場合は、政治が絡まってきてしまっています。だから、余計に大変です。

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副題2、『しかし、めげない私は、今、できるだけのことを、一生懸命、やろうとしています』

 昨日、或るUSBメモリーチップを1年ぶりに開けてみて、大切なワードファイルが空になっているという形で、盗まれているのを発見しました。そのワードファイル(=3,4冊分の本の頁設定済ファイル)を作るのに要した労働時間を、時給1000円に換算すると、50万円分です。それから、自宅から50mぐらいのところにおいてある中継サーバーを通じて、私のパソコン画面が監視されているために、システム破壊が頻繁に起きて、自宅で、本の編集の仕事が、やりにくいので、外の貸しパソコンを使ったり、喫茶店を使った総費用、30万円以上と、交通費や、時には徹夜するために使ったホテル代を加えると、優に100万円以上のものです。それが、いつの間にかUSBメモリーの中から消えて居たのです。

 また、その同じファイルを、別の場所として、本体に保存をしておいた、赤くて薄い2012年度モデルの、東芝ダイナブックも、どこかへ失せているのでした。それも、紛失した時期さえ、分からないので、泥棒か、そうではないかさえ、分からないのでした。ともかく、過去、3,4年分の仕事の集積が、『ワード・ファイルが、開かない』とか、『このフォルダーはからです』という形で、紛失したのです。外見は、普通のUSBメモリーであって、何も変化がないので、気が付きませんでした。

 何年か、前だったら、パニックに陥る処です。が、今、2014年の私は、おっとりと構えております。だって、パニックに陥って、精神的にバタバタすると、消耗が余計に、激しくなりますからね。おっとりと、おっとりと、構えております。そして、自分のリアルな生活の方の充実も怠りません。健康保持のための園芸、同じく健康保持のための、ビニール壁紙を、使った天井張り等の、旧宅のリフォームと、鎌倉の家で、時間が空いた時に行う、お針などの手仕事を、やっています。

 一日を数時間単位に分けて、数種類の仕事を並行してこなしています。全部地味なものです。自分を有名にしたり、金銭を生むものではありません。

 でね、そのやり方ですが、昔は凝り性で、しかも、一つのことを最後までやらないと、気が済まないタイプでした。それは、自分の気質も関与しているが、後天的なものも大きいでしょう。母は、仕事ができる女で、いつも、≪明日ありと、思うこころの山桜、夜半に嵐の、吹かむ、ものかは」といって、≪本日やろうと思った仕事は、どうあっても、本日中に仕上げなさい≫と言う、教えを、通しました。母自身、きつい性格の叔母に育てられたからなのです。

 祖父母は、とり子、とり嫁をした家で、その孫として母は生まれたのですが、まず、男性の方の婿さんが、祖父母と気が合わなくて、家を追い出され、そのあとで、お嫁さんも、早死にをしたのです。そのうえ、祖父母も死んだので、おじ、おばに育てられました。養女でも女中でもないのですが、おばの性格がきついので、厳しい修業を積んでいると、思います。その母が、上記の短歌の引用とか、他のセリフ群で、子供たちをあおるのですから、私たち3兄弟は、非常にまじめです。(苦笑)バカが付くほどまじめです。

 で、≪自己への罰し、気分≫の強い性格です。これは、結構、損をしますね。他人と喧嘩できない様になってしまうから。自分の基本的な権利さえも、守れなくなってしまいます。

 母のセリフで、忘れられないのは、「怠け者は、お金持ちには、なれないわよ」というものと、「私が大根一本、腐らせても、その間に、頭を使えば、100万円は違うのよ」というものでした。家庭内にいましたが、経理はやっていて、そのうえ余暇時間を利用して、短波放送を聞きながら、チャート類も自分で方眼紙に書いて、数冊の分厚いファイルを作り、結構大々的に株式投資もしていました。昔は女性には、許可はされていないとも言われていた、信用取引もやっていました。

 お針などの、手仕事も好きだし、お琴も弾いていて、女学校時代の友の三味線と一か月に一度ぐらいは、合奏もしていました。が、一方で、大胆不敵なところがあって、他人を使うのがうまくて、それで、より大きな量の、仕事がこなせたのです。

 お手伝いさんは、ずっと、50年以上通ってきてくれていたし、庭なども、植木屋さんにやってもらう主義でした。それは、今の私とは全く違った生活形態です。ただ、私がお金も名誉も関係がないのに、このブログとか、本を作るとかで、結構大きな動きをするのは、母の姿を見ているからでしょう。形としては、家庭の主婦であっても、女が、大きな仕事をするのはありで、それを目の前で、ずっと見てきたのですから。

 私が共産党のことをよく知っているのは、お手伝いさんが、共産党のシンパで、「アカハタ日曜版をとってください」と、母は言われていて、お付き合いとして、とっていたからです。私は、結婚後も、自宅へ行くたびに、それに目を通していました。母は、「日経新聞と、アカハタの両方を読むと、日本がよくわかるわ」とも、よく言っていました。で、井上ひさしがどういう人物かとか、共産党の人の、行動の仕方というのを、よく、分かっているのです。

  で、母の仕事ぶりという挿入から、元の自分の事の方へ戻ります。

 自罰的傾向が強くて、≪物事が、終わりまで、達しないのは、自分が悪いせいだ≫と、考えがちな、私は、若いころは、非常に疲れていたし、しょっちゅう、『自分は、だめだ』と、思い込んでいました。ところが、結婚をすると、主人の方針は、まるでちがう種類のものでした。私は、それを内心では、≪典型的なサラリーマン気質、しかも、社長ではなくて、中間管理職気質≫と、呼んでいるのですが、大きな目標を立てても、一気呵成に、完成に向かおうとはしない姿勢なのです。

 少しずつです。一日に外出するのなら、行き先と用事は、必ず、一つと決める。

 これは、私が普通に取っている生活習慣とは、ずいぶん違った態度なのです。たとえばニューヨークに、住まいも、所属する工房も決めずに、ぱーんと渡ってしまうような生活、とはまるで、違います。だが、私も年取って来ました。で、体力が衰えてきていて、それを自覚しているので、主人の生活形態を、マネし始めました。すると、結構、快適です。

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副題3、『意外と効率が上がるのですよ。やりきれなかった仕事を明日に残して、明日やるという、やり方も』

 で、今の私が、お若い方に言いたいのは、一見すると、よくない方向に見える、『≪毎日、少ししか、仕事をしない。全力投球は避けて、余力を残しておく≫というのも意外に効率が上がるのですよ』ということです。

 一般論としては、成功するためには『大量に、しかも、はやく、かつ、深く仕事をするべきだ』と、説く人が多いです。私も、それを信じていて、大量にしかも深くいろいろなことをやったので、知っている人たちの間(=仲間内)では、優秀だと、認められてきています。それは、快感でもあるのですが、一方では、いつも、不全感があるのです。他人の評価ではなくて、自分自身の根底に、不満足感があるのです。

 私がよく、「あの人は、不定愁訴気味の生活を送っている人だろう」と、言ったりするのは、≪夫だとか、子供や、舅姑に対する、不満を、その女性が抱いていますね≫と、見えるのではなくて、

 こういう・・・・・≪仕事の積み残しを明日におくる≫ということに、イライラしている・・・・・のが、見えるということもあるのです。『のんびりやりましょうよ』と言いたいです。結構、それで、大丈夫よと、言いたいです。

 ただね、ブラック企業がありますね。ブルーカラーでも、ホワイトカラーでも、上司が、きつい分量の仕事を押し付けて来る。これは、どうしたらいいか?  今の日本人は、≪まじめで、誠実で、小心な人≫と、反対に、≪そういう人よりも、はるかに悪賢くて、その結果、うまく立ち回って、お金や、名誉に恵まれている、悪人≫との二つに分かれてしまったのではないかというほど、大勢の人が、重荷にあえいでいるでしょう。

 ただ、この問題については、今日ではなくて、また、別の機会に考えましょう。で、元に戻ります。

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副題4、『こつこつと、小さなところから積み上げていく。それには、とてもふさわしい資格だった、食品衛生責任者という資格』

 さて、食堂や、レストラン、カフェで働く人、または、それを経営したいと願っている人。それから、お菓子を焼く人、ケーキ作りが好きで、それが、講じて、主婦から、プロになり他人に売り始めた人、・・・・・そういう人にとって、日本では、県単位、または、政令指定都市単位で、交付する、食品衛生責任者手帳というのが必要です。

 そういう知識については、銀座で、よくお食事をするレストランのマダムに、すでに、6,7年も前に、教えてもらっていました。

 私は≪自宅を、個人立美術館にしたい≫という望みを持っています。それは、前途遼遠な望みではありますが、望めば必ず、実現をして来た身なので、実現の可能性はあります。ただ、急に美術館を名乗っても、だれもお客が来ないでしょう。(笑い) だから、まず、画廊として、実績を積まないといけません。

 画廊だけを経営するのだったら、資格を取らないでいいのですが、いかんせん、特殊な地形のところに住んでいます。石段を、自宅内のそれも入れれば、140段以上上がらないといけません。で、お客さんが来たとしても、その人が、玄関で、「はあ、はあ」、言ってしまう様な、ところです。ただし、ご近所の国際的、簡易ホテルサイト、ビーエンビーに登録しているKAMAKURA COTTAAGEを、利用した外人のお客様達が、「素晴らしい環境だった」というコメントを、そのサイトに、多く寄せていますので、そことは、直線距離にすれば、30mも離れていない、わが家の、自然環境の美しさには自信があるのです。

 都会の喧騒に疲れた人の、隠れ家的癒され場所として、機能したいですね。

 ともかく、歩きなれている私とは違って、息を切らせて訪れたお客様がいる、と仮定して、それでは、お茶は出さないといけないでしょう。でも、画廊というのは、まったくpayしない仕事です。特に銀座や京橋ではないのですから、さらに、不利です。

 そのうえ、茶菓まで自腹を切っていたら、私が死んだ後で、それを引き受ける人間が大変だから、まず、画廊喫茶として始めてみようと思っているわけです。だが、今のところ、主人や子供たちが反対ですので、すぐ、どうのこうのというわけでもありません。が、年取ると、ほら、頭脳の方が駄目になるでしょう。だから、資格が必要なら、今とっておきたいと願ったのです。

 それが、食品衛生責任者という資格です。

 それを受験する場所は、鎌倉女子大の大講堂でした。旧松竹大船撮影所跡地を使って、建物が建造された、旧名、京浜女子大です。だから、校舎が、新設と言って良くて、きれいでした。建物は粗末とも言えないが、豪華とも言えないものです。だけど、清潔でした。そして、受験(=受講)に来ている人たちの雰囲気が、全体に、清潔でした。精神的に清潔でした。

 ほら、中国から来ている旅行者が、日本の清潔さに驚いているブログがたくさんあるでしょう。そういう清潔な日本の、さらに、清潔さを希求する場所、そして、それを教える場所が、この講堂でした。2014年12月14日に、鎌倉保健所主催で、そこで、六時間の講義が、行われたのです。受講するのはとても楽しかったです。そして、二つ質問をしました。適切な質問だったと思うし、講師から丁寧な回答もいただきました。一つは残留放射線についてで、もう一つは、消毒用塩素の、性質についてのものです。

    では、2014年12月15日に書き始め、16日に完成する。雨宮舜(本名 川崎 千恵子) 

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