おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

明日世界が滅びようとも、私は今日肥やしを撒く

2022-03-11 10:40:17 | 福島

 ワクチンの3回目の予約が今日の午後からというタミちゃんが、朝から仕事を休んだので、時間を有効に使おうとホームセンターが開くのを待って、一緒に堆肥を買いに出かけた。ついでに畑に寄り、土に鋤き込むところまでやって来ようと、長靴やら手袋やらクワやら、装備一式車に積み込む。

 ホームセンターでは花壇の土を4袋、堆肥を6袋買う。鶏糞、苦土石灰、化成肥料は我が家にあった残りを持って行くことにした。

 というわけで、先日掘り返していた箇所にバラバラと撒き、その後で鋤き込み、畝を作ってとりあえず終了。あとはこの畝にマルチをして、そこに種芋を埋めて行けばジャガイモの準備は完成する。ちなみに、去年収穫したジャガイモは、我が家ではまだ残っていて、数日おきに使っている。一年のうち9ヶ月は食べることができるジャガイモは優秀で、これさえあれば戦争が起きても飢え死にすることはないだろうと思われる。

 ジャガイモよりも時間がかかるが、去年の秋植えた玉ねぎも大きくなって来た。収穫した玉ねぎは適当な数を束にして、日陰に吊るしておけばいつまでも食べられる。

 ウクライナではロシアの侵攻が続き、核爆弾の使用だの原子力発電所での戦闘だの、キナ臭いニュースが連日報道されている。

 今日は東日本大震災から11年目に当たる。福島原発の爆発で、福島ではいまだに立入禁止区域が存在し、帰還することができない住民が多数いる。もし、ウクライナで核爆弾か原発の事故でも起きれば、ヨーロッパ、中近東、中央アジアと多大な影響を受けるだろう。日本だってただでは済まない。特に流通の途絶えた世界では、東京のような消費しかしていない都市部は不毛の土地になるだろう。

 今日はのんびり畑を耕しているが、明日の世界は誰にもわからない。ドイツの宗教改革を行ったマルティン・ルターは「明日世界が滅びようとも、今日、私はリンゴの苗を植える」という名言を残したが、僕たちにできることはこんなことくらいしかない。

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丸暗記

2022-03-10 10:42:13 | 日記

 宇多田ヒカルの「トラベリング」の歌詞の中に、こんな一節がある。「ふいに我に返りクラリ 春の夜の夢のごとし」「若さ故にすぐにチラリ 風の前の塵に同じ」。聞いてすぐに「平家物語」の書き出しの部分だということに気づき、アメリカ生活の長い宇多田ヒカルが、こうした古典を引用するなんて、やっぱりその辺のミュージシャンとはちょっと違うなと感心した覚えがある。

 もっとも平家物語の冒頭の文章は有名なので、誰でも知っているかもしれないが、平家物語を読んだことも齧ったこともない僕が、どうして知っているかと言うと、中学の歴史の時間に、冒頭の文章を試験に出るからと丸暗記させられたからだ。その時は、確か「覚えた者から下校して良い」と先生から言われ、誰よりも熱心に丸暗記し、誰よりも早く下校した記憶がある。で、その頃に覚えた知識というのは、数十年経った今でも、そらで言えるのである。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ」

 再読していた「人間の建設」を読み終えたが、岡潔さんと小林秀雄さんの対談の最後で、素読の重要性ということが話題になっていた。意味なんてわからなくても、なんでも丸暗記できる脳みその柔らかい時期に、たくさん覚えておくのは重要なことである。今の教育は、とかく意味の理解に重きが置かれているが、理解なんてのは年齢によってどうとでも変わる。年齢とともに、感じ方も理解の仕方も変わってくるものだ。だからこそ、大事なのは意味の理解よりも、対象となるものの姿を覚えておくことが大事だと言う。

 確かに、そう言われてみれば、「人間の建設」だって3度目の読書になるが、その時々で、新しい発見がある。若い頃に理解したと思っていたことでも、歳を取ると勘違いしていたことに気づくことは多い。

 最近の若者が映画やドラマを見ていて、セリフのない箇所や、進展のないシーンになると、さっさと飛ばしてしまうという傾向があるという。あるいは、早送りで見てわかったつもりになっている。ところが、作品というのは意味を理解させようとして作られているわけではない。それは絵画や壺や詩同様に、はっきりとした造形物として作者は作っている。そしてそれは、その造形物を味わってもらうためなのである。

 山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」を観ていたら、劇中、子供たちが寺子屋で学ぶ姿が描かれていた。「師、のたまわく〜」と子供たちが声を揃えて「論語」の素読をしていたが、意味なんてものは到底わからないだろう。大人だって「論語」を正しく読むなんてことはできないのだから。しかしながら、丸暗記した「論語」は、大きくなり、その時その時でいろいろな表情を見せながら、記憶の底から顔を見せてくれるだろう。

 古典はむずかしくてわからない、というのは、現代絵画がわからないというのと同じだ。そこには作品をそのまま愛でるということよりも、理解できるかどうかを問題にする自分が存在するからである。

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この時期の俳句

2022-03-09 10:44:01 | 日記

 いつもは夕方5時過ぎて行くテオの散歩も、休日は早めに出かけブラブラする。特に天気のいい日には、テオが「さっさと散歩に連れていけ」とキャンキャン鳴き始め、うるさくて仕方ないのだ。

 で、一昨日の休日も天気が良かったので、カメラをぶら下げ早い時間に散歩に出た。

 ついこの前まで姿を見つけるのが難しかった福寿草も、あちこちで咲いている。福寿草の花で一句できないかなと、しばらく歩きながらひねってみたが、何ひとつ思い浮かばない。そう言えば、福寿草を詠んだ俳句があるのかなあと、ネットで検索してみると、一番最初に僕が最近ハマっている与謝蕪村さんの句が挙げられていた。

「朝日さす 弓師が店や 福寿草」(与謝蕪村)

 意味はようわからんが、福寿草は新春の季語というから、弓師というのは破魔矢作りをしているのかもしれない。そう考えると、新春のおめでたい歌だということになる。

 青い小さなオオイヌノフグリは、早くから咲いていたが、ここ数日、ヒメオドリコソウの紫の花も目にするようになった。踊子草というネーミングは、その姿から名付けられたのだろうが、的を射ていてこれ以上の名前は想像できない。ちなみに踊子草は初夏の季語になるという。

「梢から はやす蛙や をどり花」(小林一茶)

 時々カルガモを見るため池に、カルガモとは違うカモが来ていた。なんというカモだろう。マガモのメスかな。カモは冬の季語らしいが、一年中いるので、歌の意味によって変わるらしい。スズメとかカラスもきっと同じ扱いなのだろう。

「ななめに立つ 一竿やすらふ 春の鴨」( 山口青邨)

 例年よりずいぶん遅れて梅の花が咲き始めた。今年の春は、桜の開花が早いというから、梅と桃と桜とどうやら同時に楽しめそうだ。梅は桜同様、中国から輸入した花木だが、桜よりずっと古い。したがって万葉集あたりでは、梅がハイカラな花であり、平安貴族になると桜が当時のハイカラな異国情緒あふれる花だったのである。

「梅が香に 昔の一字 あはれなり」(松尾芭蕉)
「蠣殻の うしろに白し 梅の花」(正岡子規)
「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」(服部嵐雪)

 梅の花の俳句となると、代表的なものだけでも大変な数になる。一茶も蕪村も漱石もみんな梅の句を作っている。

 僕が去年12音で作った梅の句は、「梅の木 馬鹿が切る無念」

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外見こそ大事

2022-03-08 10:21:46 | イラスト

 描きかけだった城下町の絵を完成させた。途中までうまく行っていると思っていたが、完成させてみるとあまり面白くない絵になってしまい、もう一度描き直した。描き直したほとんどの部分は土塀の中の庭木の部分だ。なるべく単純な色面で、陰影により奥行きを出すという手法では、建造物はうまく行っても、自然を描くとなると途端に難しくなる。結局、描き直した絵も、人工物部分と自然の部分で少し違和感が残る結果となった。

 描く前はいつもそうなのだが、頭の中で考えた結果、うまく行きそうだという予想のうちに取り掛かる。が、描き始めた途端、頭で考えていたものとは全然別物になる。当たり前のことなのだが、自分の思うようには僕の体は動かないし、思うように表現はできない。

 こんな当たり前のことも、案外人は気づきにくい。だから、「外見より中身が大事」とか、「内面から自分を磨く」などと言うのだが、こうした考えの元になっているのは、自分の内面がいつだって外面よりも上位にあり、内面が成長すれば外面も成長するという誤解から来ている。

 スポーツ選手なら、上達するには体を動かすしかないということは誰でも知っている。下手をすれば、理屈に引っ張られスランプに陥ることもある。スランプを脱するには、脳みそではなく自分の体の動きを信用するしかないのである。

 絵だって同じで、立派な作品を描こうと思えば、たくさん描くしかない。同様に、立派な人間になるには、立派な振る舞いをたくさんするしかない。若者の多くがそうであるように、僕も若い頃は礼儀作法なんてものには否定的だった。上っ面だけで振る舞っても、中身がなければ意味がないと思っていた。が、実はその反対で、中身のない人間に、礼儀作法なんてものは身に付かないのである。外見が自分の思う通りになると思っていたら大間違いだ。

 哲学者のアランさんも、礼儀は人間社会にとって重要なものだと言っているが、人間は自分を律する力をなくし、獣に近くなるほどに無礼になる。

 歳をとり、そんなことを考えるようになったので、最近は食事の前に、姿勢を正し「いただきます」と声に出してから食べるようにしている。

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破壊という名の科学

2022-03-07 11:35:00 | 日記

 数学者・岡潔さんと批評家・小林秀雄の対談「人間の建設」を読んでいる。この本を読むのはこれで3回目だが、僕の知能が足りないせいで、毎回新しいことが書いてあって感心する。今回も人類が発達させてきた「科学」についての話を進めるうちに、岡さんが科学についてこんな話をしていた。

 僕なりに理解したところで書くなら、科学が何がしかを発見するが、その発見を証明するには、発見したところを破壊するか機械的な操作をするしか手段はない。破壊するとは、例えば人間がどういう成分でできているかを調べると、窒素やらリンやらカルシウムや鉄などでできているということが発見できる。分子を破壊すると原子というものが得られ、原子を破壊すると中性子やら電子やら原子核やらが発見できる。が、破壊はできても、原子核や中性子や電子を用いて原子を作ることはできない。つまり科学は創造ということに関しては、何もできてはいない。

 しかしクローン技術のように、科学の進歩で新しい生命を生み出しているではないかという考えもあるだろうが、クローン技術とは機械的操作をしているにすぎない。つまり、植物の雄しべの花粉を人間が綿棒で雌しべに受粉させることで、果実や種を作ることと違いはない。創造する力は自然界に存在しているだけで、科学は何ひとつこの世で建設的なことはできていないというのだ。

 岡さんによれば、アインシュタインの相対性理論から原子爆弾ができるまで25年しかかからなかったが、原子爆弾は相対性理論を証明したわけではないという。グラスを割るのにカナヅチを使おうと壁に叩き付けようと、グラスを破壊することができる。理屈はどうであれ、破壊することはできる。つまり仮定が間違っていても、結果が出るならそれでいいというのが、人間社会なのである。

 こういう話を読んでいると、科学の進歩が戦争を止めるなんていう考えは、愚かな信仰に近いということが納得できる。科学にできるのは、破壊するということにつきる。ウイルスから人間を守るワクチンでさえ、ウイルスを破壊することで人間を守っているに過ぎない。

 そういうふうに想像を膨らませれば、自然を見る目はおのずと変わるだろうと岡さんは言う。

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城下町を描いてみよう

2022-03-06 11:33:46 | イラスト

 夜明け前からみぞれ混じりの雪が振り出した。道路には積もらないものの、庭や畑は雪で白く覆われた。明るくなって雪は止んだものの、今度は強風が吹き荒れ、体感気温は真冬の寒さに近い。こんな日に畑で作業をするなんてのは、考えただけでゾッとする。昨日のうちに畑を耕しておいて正解だったのである。

 今日の午前中は、本屋に出かけるつもりでいたが、昨日から描き始めた絵の続きをやりたくなったので、本屋はまたの機会にして、カフェの準備を済ませた後は、タブレットに向かい、せっせと絵を描き進めている。

 今度の絵は、最近の絵同様に、単純で色面で構成する代わりに、陰影によって奥行きや立体感を出すという手法で描いている。今まで描こうとしてこなかった題材も、手法が変われば面白い絵になりそうで、しばらくは画面の陰影と格闘だ。

 二日間の成果がこれ。もっとも間を空けずに描き続ければ、5時間くらいのものだろう。本当は崩れかけた土塀や傾いた古い屋根が続いているが、壁も真新しい白にして、壊れた部分は僕が補修した。

 初夏っぽさを強調したいので、影は緑を主体にしている。今、迷っているのは、この古い路地に、着物を着た女性を配置するかランドセルを背負った子供にするかである。初夏っぽさということで言えば、子供に軍配が上がるかな。

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畑を耕す

2022-03-05 11:01:45 | 福島

 このところすっかり陽気が良くなり、梅の花もちらほらと小さな花をつけ始めた。散歩をしていると、あちこちの家庭菜園で、畑を耕している姿を見かける。そろそろ我が家も畑の準備をしないと、毎年の恒例となっている「スタートで遅れをとる」ということになってしまいそうだ。

 毎日のように畑に出ることができる高齢者と違って、丸一日畑で過ごせるような時間は僕にはない。野菜の収穫だけなら散歩の途中でも可能だが、畑を耕すというようなことは時間に余裕がないと難しい。

 で、グズグズとしてると春雨が降ったり、ほかの雑用が入ったりで、結局遅くなってしまう。それに合わせて種芋を買いに行ったりすると、どこも売り切れでしょぼくれた残り物や、余っている知人から貰い受けるという情けない状況になるのが、例年の我が家なのだ。

 今年は今までより畑に力を入れようと、種芋は早めに購入した。去年同様、芋不足は解消していないらしく、種芋を買いに行ったホームセンターも、2度目の仕入れはあるかどうかわからないと言っていたから、早めに買いに行って正解だったわけである。

 天気予報では、明日の朝は東北地方は雪になるかもしれないと言う。この辺は降るかどうか微妙な位置にあるが、今日の暖かさは続かず、明日は10度近く気温が下がると言うから、今日のうちにぜひとも畑を耕しておきたい。

 畑を耕すのに、ミニ耕運機を貸そうかと言ってくれる人はいるが、二十畳ほどの小さな畑だし、運動不足解消を兼ねて僕はすべて鍬で掘り返す。1時間もすれば握力はなくなり、腰は悲鳴を上げるが、ジムに行って体を鍛えている人に比べれば、無料でおまけに野菜作りもできているのだから、面倒だとか苦痛だとかを感じることはない。と言うよりも、そういう風に脳みそに言って聞かせ、「もうやってられない」と鍬を投げ出すのを阻止している。

 青空の下、久しぶりに土の匂いを嗅ぎながら、雑草に覆われた畑を掘り返していると、ああ、また春がやって来たんだなあと幸福な気分に包まれる。空をムクドリの群れが横切り、畑の近くをセキレイが尻尾を振りながら歩き回っている。近くの小枝に、モズが来て止まる。耳を澄ますと、シジュウカラやツグミの声が聞こえてくる。

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歴史という怪物

2022-03-04 11:37:28 | 日記

 二十歳の頃から日記をつけている。その延長線上で、自分のホームページを立ち上げ、そこに日々の雑感を書きつけるようにしていた。その後、それまで無料だったホームページの使用が、利用者の減少により有料サービスになったので、ホームページを廃止し、ブログを日記がわりにするようになった。

 「一日生活していながら、何も書くことがない」なんてことは絶対にないはずだと、それなりに一日で考えた何かしらをブログに書きつけているが、今回のロシアによるウクライナ侵攻ほど、日々の雑感を蹴散らすほどの威力を持った事件はない気がする。まさに、ロシアによる僕の日常への侵攻なのである。

 前横浜市長が、「ウクライナが憲法9条のような平和憲法を持っていれば、ロシアから攻め込まれなかったのに、と主張できる憲法9条護憲論者がいるのだろうか」とコメントしていたが、今、そんなことを言っても仕方がないことである。

 歴史というのは、人間の意思でどうこうなるようなか弱いものではないに違いない、というのが僕が普段から抱いている想いだ。戦争は、誰も起こしたくなくても起きる。大事故だって誰もが注意していたって起きる。人間が歴史を作っているわけでなく、歴史のほうが、その時代時代にふさわしい人物を選んで、歴史に登場させている。それが今回、プーチンさんだったということなのだろう。もし、プーチンさんを暗殺して戦争を止めようとしても、歴史のほうにこの戦争を続けさせようという意思があるなら、必ずプーチンさんに代わる人物を舞台に登場させるだろう。

 朝からウクライナの原発がロシアによって攻撃されているという。爆発すればチェルノブイリの10倍規模になる。そうなるとロシアにだって影響があるだろう。原爆なんて使わなくたって、人類絶滅の危機は起こり得る。

 安全な場所にいて、ああだのこうだの意見することは簡単だ。そんなことよりも、何が起きても動じないように、肝っ玉を大きく持っておく必要がある。もしかしたら、人類が経験したことがないような事態が、今後起きないとも限らないのだから。

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右往左往する

2022-03-03 11:30:34 | 日記

 長い間、かなりの頻度で使っていたプリンターが壊れたので、年賀状を作るのを機会に新しいプリンターを購入した。と言ってもネットで買った中古品である。今まで使っていたプリンターも中古品で、10年近く使っていたので、中古でも問題はないはずである。

 プリンターが使えない状態というのは、パソコンを使って絵を描いている僕としては、プリントアウトができないために、今ひとつ絵を描く意欲が失せる。パソコン上で絵を見ることができるからと言っても、やはり額に入れて飾ることにはかなわない。そうすることで、失敗した箇所や訂正したい部分というのが次第に目についてくるからである。

 今年になり、再び創作意欲が上がり、せっせと絵を描いた。少し溜まってきたのでプリントアウトしようと、1枚を出したところでインクが切れたので、新しいインクのセットを買ってきた。プリンターのインクは、セットで買ったほうがお得だけとは言え結構な値段で、数回購入するだけで新品のプリンターが買えるほどである。

 マゼンタやらシアンやら、プリントするうちに次々にインク切れが出てくる。その都度新しいインクと交換していたのだが、ライトシアンを交換したところ、急にプリントアウトした色がおかしなことになっていた。

 調べてみると新品のインクのライトシアンがちっとも出ていない。慌ててヘッドの掃除という機能を使って何度か試してみるが、一向に改善する気配がない。途切れがちに出るというわけではなく、まるっきり出ていないのだ。

 さて、これがプリンターの故障となれば大変だ。メーカーに連絡を取り箱詰めして送るか、街の電気屋さんにメーカーに届けてもらうか、何にしても時間とお金がかかる。

 で、ネットで調べてみると、インクの目詰まりは割と起こりやすいということが書いてあった。ただし、その場合は長い間プリンターを使っていなかったり、新品のインクでも製造からかなりの時間が経っていると目詰まりを起こしやすいということだ。

 今回交換したインクは、セットで買ったもので、ほかのインクは問題がなかっただけに、インクの問題よりもプリンターそのものの調子が悪くなった可能性も大きい。中古で買ったので、そろそろ保証期間も切れているかもしれない。さあ、どうしたどうした。

 で、最後の手段として、新たにライトシアンのインクだけを買ってくることにした。セットとは言え、1色だけ不良品が混じっていたのかもしれないからだ。神に祈る気持ちで新しいインクと交換してみると、これが幸いなことに正常な色でプリントを始めた。昨日からまるっと一日、不安な気持ちでああでもないこうでもないといろいろ試していたが、ようやくうまく行ってホッとしたのであった。

 それにしてもである。セットで買ったインクなので、1色だけ不良だからと言って、わざわざメーカーに連絡するのも面倒だ。そもそもレシートも残していないし、ほかの色のインクは使っているのだから、箱ごと返品というわけにも行かない。仕方がないので、今回は泣き寝入りするしかないようである。ライトシアン1本1300円は、決して安い値段ではないのである。

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明日になれば

2022-03-02 11:37:56 | 日記

 新型コロナウイルスのせいで、世界中が大変なことになっているにもかかわらず、今度はロシアのウクライナ侵攻が始まり、いよいよ人類は破滅の道に進んでいるのではないかと思わせられる今日この頃である。

 ロシアの侵攻を止めるには、プーチンさんを止める以外に手はないと専門家は言う。あとはロシア国民がプーチンさんの言うことをまるっきり聞かなくなれば止まるかもしれないが、ともかくも選挙で選ばれた形になっているプーチンさんを否定できないのは、第二次大戦中のヒトラーを支持したドイツ国民に似ている。

 ニュースを見ていても憂鬱になるばかりだが、記事の端っこに大リーグの大谷くんへの期待が書いてあり、そう言えばそろそろ大リーグが始まるなと、ちょっぴり楽しみにしている。

 Youtubeを何気なく見ていたら、所ジョージさんがこんなことを言っている動画があった。「今日は何も面白いことがなかったけれども、明日になれば何かいいことがあるかもしれないと期待する。でも、明日になれば、明日が今日になるだけのことで、同じ今日の繰り返しだ。明日はいつになってもやって来ない」と。

 これに続いて、女性が若く見られたいという質問をすると、「30代になると20代に見られたい。40代になると30代に見られたい。結局いくつになっても今の自分を肯定できない。若さは否定しないけれども、それよりも今を充実させたほうがどれだけ楽しいか」

 世界の状況は明日になれば少しは好転するかもしれないが、好転しないかもしれない。そんなことを気にかけるより、今やりたいことをやることが、個人個人に与えられた自由というものである。ある記事では、ウクライナの現状をテレビで見ているうちに、うつ病になってしまうことがあるという。遠く離れた国のことでも、共感する能力が高すぎると、そういうことになってしまう。ウクライナのために僕らができることは、テレビを見て病気になることではない、ということだけは言えそうだ。

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