おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

他人に決めてもらう

2022-03-01 10:44:32 | 日記

 今日からいよいよ三月。気温も昨日からついに10度を超え、「あっかいねえ〜」と会う人ごとに挨拶している。今日はさらにあったかく15度くらいになるという。一気に春到来なのだ。とはいえ、西日本のほうは10度だと、真冬に逆戻りなんて天気予報では言っているから、僕の体もすっかり北国仕様になってきたということなんだろう。

 この前から読んでいる数学者の岡潔さんの本の中に、久しぶりに「なるほどな〜」と感心する箇所があり、しばらくそこからあれこれと空想した。

 数学者だった岡潔さんは教育者でもあったのか、日本の教育についてもいろいろと書いてある。その中で、日本の試験制度に触れ、あんなやり方ではちっとも知力というものが身につかないと断言している。というのは、子供が試験を受けるとき、解答用紙を先生に提出し、採点してもらった解答用紙を見て、初めてどこが正解でどこが不正解かを知ることができる。

 つまり、試験用紙に答えを書いている時点では、自分の答えが正解だか不正解だかわからずに書いている、あるいは答えに自信がない。先生の採点を待って、ようやく自分の解答の良否がわかる。要するに、その生徒が正しく答えているかどうかは、先生が決めているということになる。

 ところが、社会に出て大切なのは、自分が出した答えが正しいと判断できることである。学生時代のように、自分が出した答えに先生が採点してくれるわけではない。中には、職場の上司や知人に判断を求めるかもしれないが、そんな知力は社会では役に立たないのである。

 そこで岡さんは、いっそ先生に解答を書いてもらい、生徒がその答えが正しいか否かを判断させるほうが、よほど知力を高めるのに役に立つと書いている。

 そんな話を読んでいると、学校の成績がいいからといって、自分で正しい答えを導き、その答えに自信を持っているとは限らないということに思いが行く。一流校を抜群の成績で卒業して、役人や政治家になったとしても、自分の出した答えに自分自身がどれほど自信を持っているかは、怪しいものなのである。とりあえず答えは出す、その代わり誰かがその答えで合っているかどうか判断してください、といった役人や政治家は少なからずいるだろう。

 さて、こうした教育を受けるということは、自分の判断を他人にゆだねる習慣を身につけさせることになるかもしれない。自分が美味しいと思ったものを美味しいと言ったところで、たいして興味を持ってくれないとしたら、美味しいまずいに関係なく、他人が興味のありそうな行列のできるお店に出かけるということになるだろう。自分が興味があって出かける旅先よりも、誰もが知っていて興味をそそりそうな観光地に出かけるということになるだろう。

 自分が出した答えが正しいと信じ、その先を追い求めて行くことは、しっかりとした知力が必要になるということなのだろう。

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