おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

徒然草に挑戦

2024-08-30 11:12:52 | 日記
 ずっとお手本にして書いていた「奥の細道を書く」を、最後まで書いた。というか、3回繰り返し書いた。さすがにこれだけ書けば、次のお手本に挑戦してみたくなる。というわけで、次は同じシリーズの「徒然草を書く」をネットで購入したので、今日から早速始めることにした。目指すは平安貴族の書いたようなサラサラ文字を書いて読めるようになることである。

 次の挑戦を「徒然草」にしたのは、何度か読んだことがある「徒然草」も、きちんと読んだかと言われればかなり怪しいからである。もう少し腰を据えて、じっくり読むには、習字のお手本として繰り返し目を通すのが手っ取り早い。

 書き出しの「つれづれなるままに日くらし、硯にむかひて」という言葉は多くの人が口にすることができるだろう。が、じっくり読んで行くと、なかなか奥が深い。現代語訳では「一日なんにもすることがなく、ノートでも広げて頭に浮かぶことをあれこれ書いていると、なんだか胸騒ぎがしてくるのである」という書き出しである。

 普通の人間なら、一日なんにもすることなく手持ち無沙汰で過ごすというのは、何かと良からぬことを考えたり行動に起こしがちだから、良くないことだと考えがちだが、吉田兼好さんは逆のことを言う。なぜなら、別のところで「つれづれ悪ぶる人はいかなる心ならん。紛るるかたなくただひとりあることこそ良けれ」と書いているからだ。これだけ読んでも、「徒然草」がなかなか奥が深いことがわかる。

 お手本は書き出しに続いて、一段目では、「人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ」とある。これも現代語訳するなら「人間というのは、姿、形が良いのが理想だろう」となる。今ならすぐに「ルッキズムだ」とお叱りを受けるだろう。人は見た目ではない、というのが一般的な意見としてあるからだ。が、もう少し先を読むとこうある。「めでたしと見る人の、心劣りせらるる本性見えんこそ、口をしかるべけれ」(立派だと思っていた人に、幻滅する本性が見えたときなんかは、まったくがっかりさせられる)

 人間、外見より中身だなんてことを言うのは、一見素晴らしいことを言っているように思えるが、他人の外見を通り越して中身を見ることなんて、本来無理な話だ。内面が立派だということは、それが外見に現れて初めてわかることである。一度も優しいところを見せたことがない人間のことを、「実は内面は優しいんです」と言っても意味のないことなのである。

 こうしてみると、吉田兼好さんという人が、口先ばかりの夢想家ではなく、徹底したリアリストだったことがわかる。

 今読んでいる本居宣長さんの言葉にも、こういうのがある。「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」。宣長さんが言うのはつまり、「君たちは、外見は似せやすいけれども中身は似せにくい、と思っているかもしれないが、実際は似せたと思っている外見はちっとも似ていないのが普通だ。似ても似つかないくせに、気分だけは似ている気がしているというのが本当のところだろう」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする