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随筆 「世界古代文明の始まり方」  文科系 

2014年03月26日 01時48分20秒 | 文芸作品
 トルコ旅行のバスの中、ある方と大論争になった。議題は、トルコは今現在宿泊してこれを書いているコンヤという都市の近くにあるチャタル・ホユックという古代「都市」の位置づけをめぐって。二人ともが初めて勉強したこの「都市」は、世界最古四大文明(メソポタミア、エジプト、インド・インダス川流域、中国・黄河流域。それぞれ差があるが、紀元前三八〇〇~三〇〇〇年ほどにできた)よりもはるかに古い。紀元前七〇〇〇年ほどにできたもので、農耕、牧畜などがあって、三〇〇〇~八〇〇〇人の「都市」を形成していたという。ただ、支配階層など身分の存在を示すものは未発見ということだった。なお、この遺跡自身の発見が一九五八年だそうで、全容解明は遥か先の話らしい。四大文明までの歴史がより細かく解明できる考古学、人類学上でも最重要遺跡の一つとして、二〇一二年に世界文化遺産になったばかりだそうだ。

 さて、農耕・牧畜と大規模共同体の形成の後にできたはずの身分・階層、奴隷制度、国家、宗教などがないからここは文明とは言えないというようなことをお相手が語ったところから論争が始まったのだった。対して僕は、こういう性格の「都市」がこんな昔にあったとすると、このチャタル・ホユックは人類史を塗り替えるような、世界四大文明と比肩できる大発見だと強調したことになろうか。支配機構、奴隷制度、大建築物、宗教などを重く見るか否かという意見の違いに過ぎないのかもしれない。「四大文明はこれらすべてがあったところに特別の意味がある」というがごとき彼の主張が、僕にはこう見えて仕方なかったのだ。農耕・牧畜・大規模共同体の形成の歴史的意義を軽視していると。

 ところで、四大文明よりも古い「都市」は、チャタル・ホユックだけではないとこの後に分かった。イスタンブールも紀元前六五〇〇年には「都市(一定規模の定住)」があったようだし、チャタルほど大きなものではなくとも、トルコ南のメソポタミア(イラク)には農業、牧畜実施を土台とした「都市」がいくつか見つかっているようだ。ただ、この農業、牧畜と都市出現の関係が難しい。この流れで大切なのはこういう理屈かと思う。
①狩猟・採取経済では、一カ所にたくさんの人々が住めないし、第一定住という事自身があり得ない。食料に限りがあり、季節移動生活になるからだ。
②また、狩猟・採取経済では、遊んでいられる身分も奴隷制度も出来ない。そもそも貧富の差が小さすぎて奴隷を支配する軍事組織も出来ないからだ。
③農業、牧畜が生まれて初めて、一定数の定住、貧富の差、その軍事支配機構、奴隷制度などが生まれたと言える。
④世界最古四大文明は、以上を経て出来上がった。だからこそ、農業、牧畜があって、三〇〇〇~八〇〇〇人が定住していたチャタル・ホユックが紀元前七〇〇〇年に存在したことが、画期的な意味を持つわけである。
 ところでさて、こういう文脈の中で、紀元前六五〇〇年のイスタンブールに一定数の定住があった事、イラクにチャタル・ホユックよりも古い農業・牧畜地帯があった事が大切な意味を持つわけである。

 さて、以上から見れば日本の三内丸山遺跡などはなかなかのものと分かる。紀元前一万年ほどに始まったと言われる縄文時代、その前期中葉には集落があったのだから。もっとも縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六期と、紀元前四世紀まで続くのだ。ただ、「縄文農耕論」が問題になるほどに、日本農業の発生時期は大問題らしい。
 こういう歴史を考える時、今どき「日本人、日本人」と何か特別の人類、区分のように叫んでいるネトウヨ連中が笑える。三内丸山も含めて以上に述べた現生人類の全てが、何回もあったアフリカ脱出に起源をもつ人類がいる中で(ハイデルベルグ人とかネアンデルタールとか、ジャワ原人とか北京原人とか)、十五万年ほど前にただ一度アフリカを出た女性グループから生まれた兄弟だということだけははっきりしているのだから。そしてこの兄弟達に五万年ほど前に「人類共通文法」ができたと、これは現代の大言語学者チョムスキーの学説である。こういう流れを経て、農業・牧畜のイラク・メソポタミア、何千人もの定住・チャタルホユックから、世界四大文明へというのが現代文明への構造的な流れであろう。これらの子孫としての日本人はだからこそ、北方起源・混血説も示しているように、朝鮮民族や昔の満州人と兄弟もいい所なのである。兄弟とケンカしてどうするのか。部族兄弟のけんかが今見えるとしたら、共通の部族先祖はさぞ泣いていることだろう。もっと言うと、文字にせよ仏教にせよ、全て彼等から学んだものである。彼等から直接学んだものでないものは、縄文の壺、漆器というほどにごく少数である。だからこそ、漆器の事を英語でジャパンと呼ぶほどなのである。

 現代社会に繋がっている古代文明発生を学ぶほどに、世界人類は兄弟という思いが強くならざるを得ない。逆を言えば、日本の特徴、外国の最近の特徴を善悪くっきりと分けてのように語るやり方こそ、悪しきナショナリズムのやり口のはずだ。

(3月11日当ブログ初出。今回改作)
コメント (4)
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