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九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

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新聞の片隅に載ったニュースから(120)     大西五郎

2013年10月21日 18時47分18秒 | Weblog
「首相、年内に参拝」「靖国」で側近が見解 (2013.10.21 毎日新聞)

 自民党の萩生田光一総裁特別補佐は20日、フジテレビの報道番組で、安倍晋三首相(党総裁)の靖国神社参拝について「(首相)就任1年の中でその姿勢を示されると思う」と述べ、就任1年となる12月末までに参拝に踏み切るとの見方を示した。
 荻生田氏は首相側近で、今年8月の終戦記念日には「総裁代理」として参拝し、首相が私費で出した玉串料を納めた。今回の発言は、首相が同日までの秋の例大祭で参拝を見送ったことへの保守層の不満を和らげる狙いもあるとみられる。
 荻生田氏は番組で「今のまま中国や韓国と会談すると『参拝しない』との前提を付けられた会談になる。それを首相は考えていない」と指摘。今回の参拝見送りは両国への配慮からではないとの見方を強調した。その後、記者団に「1年間の時間軸の中で参拝すると信じている」と述べ、任期中に毎年参拝することへの期待感を示した。

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 安倍首相は、首相就任後の今年春の例大祭、8月15日、秋の例大祭とも靖国神社参拝を見送り「真榊」の奉納や玉串料を納めるにとどめました。マスコミは中国や韓国に配慮したものだと報じました。ところがこの萩生田氏の発言はそうではなく、靖国参拝を諦めてはいないが、中国や韓国の抵抗の少ない時期・形での参拝を考えていることを示しています。
 一方、就任直後に「村山談話をそのまま引き継ぐのではなく、終戦70周年の2015年に新しい談話を出したい」「侵略の定義は国際的にも、学問的にも定まっていない」と述べ、日本の侵略を非難されることを拒む態度をとっていた安倍首相は、今月18日参議院での公明党山口代表の所信表明に対する代表質問には、従軍慰安婦問題については「筆舌に尽くしがたい、つらい思いをされた方々のことを思い、非常に胸が痛む。この思いは歴代首相と変わらない」と述べ、また、中国や韓国などから問題にされている歴史認識の問題についても「わが国はかつて多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して、多大の損害と苦痛を与えた。その認識は安倍内閣も同じで、これまでの歴代内閣の立場を引き継ぐ考えだ」と、これまでの態度とは一変して、過去のアジア諸国などへの侵略や人々への迫害を認めるような答弁をしました。
 ダブルスタンダードのような気もします。誠意がなければ言葉を信じてもらえません。「国のために命を捧げた英霊に哀悼の誠を捧げ、平和への誓いを改めて表わすため」ならば、毎年8月15日に第二次世界大戦の戦没者追悼式が行われていますし、千鳥が淵戦没者墓苑もあります。私が子供の頃は、「天皇陛下に召されたら喜んで戦地に行き、天皇陛下に命を捧げよ、戦死すれば靖国神社に神として祀られる。こんな名誉なことはない」と云われました。靖国神社は国民を戦争に駆り立てる道具であったのです。靖国神社参拝にこだわることで歴史認識が問題にされるのです。首相は参議院での発言を形に示すために、以前から提唱されている無宗教の全戦没者霊園の建設を進めるべきだと思います。
                                      大西 五郎
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10月21日の、かの人たちは、その後、どうなったか     只今

2013年10月21日 16時52分32秒 | Weblog
   かのお二人はその後どうなったか、このこと書こうとすると気重になり、ペン執れぬこと二日。
   気重の因は、「なぁんだ」という無惨な思いと同時に、自分がこの立場だったら、どうだったかと、
   大仰なことを思っての逡巡だったのですが、それはそれ、大略紹介します。

●東條首相に“生ら もとより生還を期せず”と答辞した江橋学徒兵
 戦後間もなく、『わだつみのこえ』など出陣学徒の遺書・手記が発表されるにつけ、
 「そういえば、学徒兵を代表して答辞した人は、その後どうなったか」という声が起った。
 同時に、「戦闘員でない部署についたと聞くが真相はどうか」という疑問の声。
 これを受けて「わだつみ会」始めジャーナリストが取材を申し込むも一切拒否。

 そして戦後65年を経た2010年、江橋氏は『朝日新聞』(10月21日付)の取材に応じた。
 それによると、〈航空整備兵として陸軍に入隊。内地にとどまり、敗戦を迎えた。
 戦後は文部省、東大教授などを経て鹿屋体育大学初代学長を務めた〉。
 そして、戦闘員ではなかったことについては、
 〈言いたければ勝手に言えと思ってきた。
 自分を正当化する必要はない。僕は僕なりの人生を生きてきた〉
 この記事のタイトルは、「学徒出陣の代表 戦没者思うと言葉出ず。沈黙の理由語る」。
 
  
 それから3年を経た今年の『文藝春秋』二月号に、江橋氏の次のような発言が載った。
 =答辞の文章は、私が書いたものではありません。
  書けとは言われましたが、文才もないし、味もそっけもないものしか書けなかったので、
  学生主事が添削して素晴らしい文章に仕上げてくださった=
   江橋氏は、現在もご健在。

  
●特攻隊員に“われも後につづく”と訓示した菅原司令官
 生き残った特攻隊員を収容した振武寮で、「国賊、卑怯者」と殴打したことを日記に記し、
 宇垣海軍司令官特攻機で沖縄に散る、との報に接した日の日記にはこうあった。
 「単に死を急ぐは、決して男子の取るべき態度にあらず。任務完遂こそ、平戦時を問わず吾人金科玉条なれ」
 晩年は、養鶏業に従事。「特攻平和観音像」を建立し、遺族には土下座して謝罪。
 一方、「特攻は自発的。唯一の救国方法だった」(1969年『回想』)
 96歳で逝去。


●特攻隊員に「続いた人」
 =特攻隊員たちを送り出した飛行隊の隊長の中には、戦後直ぐに隊員の遺族の家を一軒一軒訪ね歩き謝罪して回った佐官がいる。
 彼は「あとにつづく」と檄を飛ばす司令官の立場ではなかったが、指揮官としての責任を痛感していた。  この佐官は関東近辺の遺族の家を訪ねて謝罪を行なったその帰り、国鉄の列車に飛び込んだ。
  =保坂正康(『ちくま』10月号)


●ピストルを手離さなかった倉澤清忠小佐
 “多くの隊員を出撃させたので、恨みに思われるのは仕方ないし、遺族からも反感をかっているのでいつ報復されるかわからないと、夜も安心して寝ることができなかった。
 80歳までは自己防衛のために、ピストルに実弾を込め、家では軍刀を手離さなかった”
(NHK特集「陸軍振武寮」)
  
 
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国歌、国旗の「国」って何だ?  文科系

2013年10月21日 16時03分02秒 | 国内政治・経済・社会問題
 君が代、日の丸の「国」についてコメントをたくさん書いたので、これらを補足修正を加えて一つにまとめてエントリーにしたい。ご笑覧をよろしくお願いします。

 国歌、国旗という場合、それへの態度を問う場合、当然の前提があるはずだ。国とはなんぞやということだ。国民、国土、国家、歴史・・・・それをはっきりさせないで国歌、国旗などを語るとロクなことがない。この歌とか旗の前に付いた「国」って何なのか? これについての以下の理解から、僕は「国歌、国旗大嫌い」と大手を振って叫ぶものである。

 国民、国土、国家、歴史などで、問題になるのは国民と国家だろう。そしてこの両者の関係は憲法にもある通りで、「憲法は国民が国家を縛る物」、「国民が国家に守れよと確約を取ったお約束が、憲法」。
 つまり、僕らが国の主人公なのだ。その主人公の一人が、今の国家嫌い、国旗嫌い、国歌も嫌いと言えて当然という理屈である。これを妨げることが出来る個人、集団などはどこにも存在しないのである。ここのところをはっきりさせないと、どうしてもこの論議はおかしくなってくる。
 ちょうど今 安倍が「憲法を、国家の義務だけでなく、国民の義務にもしよう」と策動しているように。何度も言うけど、今の憲法は国家の義務なのであって、国民のお約束などという漠然としたものではない。 

 そう言えば社会という言葉も例えば、ボランティアに結びつけてこんなふうに使われることがある。「自ら進んで社会事業などを無償で行うこと」。社会にはまー人々という意味があるのだろう。人々のために、社会のために、そこから「国家のために」。人々の善意がこうして、国家にすぐ結びつけられてきた歴史がどの国にもあったのではなかったか。誰かが強引にそうしていく時代が常にあったのではなかったか。こういう論理からこそ、「国家を守ること=最高の善」みたいになっていくことがあったのだろう。そこから、「誰か良い指導者が出れば、国家って最善の物になるのだ」なんてね。国家って、不思議。

 軍人は国家に忠誠を尽くすべき存在らしい。アメリカ戦争映画などでは、いつも国旗が出てくると、厳かに最敬礼! 誰に対する最敬礼なのだろう? そんな最敬礼をしている若者たちが、嘘の理由で創られたイラク戦争に駆り出された。多くの若者が死んだ。最敬礼をしていた若者たちが最敬礼の相手「国家」に殺されたのである。それも嘘の理由で。つまり死ぬ理由もなかった訳なのだ。まー厳かな国家って、アメリカ国家も含めて今はそんなものだ。殺した連中の中に多分ボストン・ティーパーティー派がいる。そして彼等は今こう叫んでいる。
「税を払わない奴らは国家の主人なんかじゃない。オバマはそんな奴らのためにしか政治をしていないのだ」
 税を払わない人々がまっ先に殺されたのだろう。税を払う側が創った嘘の理由で。

 オリンピックなんかでも、「国家、国家、国歌、国歌、日の丸」が無数に出てくる。今のそんなもの、僕はケツを向けたいね。昔、アメリカ黒人が表彰台で星条旗に拳を突きつけたことがあったけど、あれは正しいと思ったものだ。上の全てのような理由によって。今の日本に対しても多分正しいことだろう。上の全てのような理由によって。すると、東京オリンピックも要注意だね、ヒトッラーのベルリンオリンピックと同じで。ベルリンオリンピックは結局、ドイツを滅ぼしたとも言える。少なくとも、怪しげな「国」に人々を大動員、かすめ取る役割を果たしたのだから。
 20日の新聞にも、こんな記事があった。
『勝手に違う教科書にしなくてもいいよう、地方教育行政法の改正を行うことは国の責務だ』
 文科相の言葉だそうだ。沖縄の自治体いくつかが地区内統一教科書とは違う教科書を使っているということを許さないようにしようという言葉なのである。国家が正式に教科書として採択したものを市町村教育委員会が選定したのに、それがいけないという。どういう理屈なのかさっぱり分からない。こんなことを「国の責務」という理屈に至っては尚更分からない。この場合の「国」って何、誰のことか?! 自分ら、その考えだけが、正しいと、他を押さえようという発想の悪臭芬々である。こういうことをし始めると、その国は危うい。安倍がでてきてから、こんなことばかりだ。

 国は、国民が主人公ということを忘れてはならないと思う。すると、国民の普通の要求を国が抑えるには、よほどの理由がなければならないということになるはずだ。そういう理由でもないのに、国が上のように国民を押さえ始めるときとは、「怪しげな国」が出来上がる時なのである。
 だからこそ今は、国ってなんぞやといつも考えていなければならないと僕は思う。あれだけ国民の財産を毀損したのに、そういう「原発政策を続ける」と語っているのも国。「国」が主人公をないがしろにしているわけだ。無数の主人公らに与えた一生ものの損害を何とも思っていないような国が、自分らのやりたいことだけはこじつけ理由を捻りだしてでも国の名でやる! 一生ものどころか、先祖から受け継いだものまでを毀損し尽くしたことに何の責任も取らなかった、その国が!
コメント (8)
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