昨日のエントリー「サッカー、三苫、伊東が活躍できるわけ」をお読みの皆さんへ、日本サッカーの歴史的大事件、苦すぎる体験を振り返ってみていただきたい。
『史上最強と言われた14年ブラジルW杯大会が、なぜああもあっさりと日本代表惨敗となり果てたのか』
このときのチーム、選手らは、ザックの戦術を心底からは信頼していなかった。それは有名な話である。監督ザックと選手とのあいだに攻撃戦術である意見の相違があったのは、その後特に知られるに至ったことだ。攻撃戦術としてサイド攻撃(それも左右同時に上がってはいけない)を重視したザックに対して、中心選手らが「サイドも含めて中央から繋ぎ尽くす攻撃」にずっと拘っていた。まー、中心選手らのバルセロナ流繋ぎか、ザックのゲーゲンプレス対策かという相違から、すべてが中途半端に終わってしまい、本田が後でこう述懐していたのだが、これも有名な話である。
「俺は、サッカーというものが全く分からなくなった」
あの2014年ブラジル大会は、スペイン流パスサッカーかゲーゲンプレスも取り入れかという言わば世界的に戦術上の過渡期にあった。そして、当時は日本協会上げてスペインサッカー移入を図って来たからこそ、ザック戦略がおろそかにされていたのだと思う。これは、そう僕が思うだけでなく、後にザックの通訳がその論争の内幕を明かしているものだ。この中心選手とは本田と当時ガンバの遠藤、有名な話である。「君らが僕の戦術を信頼してくれなくちゃ、チームはどうなるのだ?」というザックの言葉も残っている。結果、中央から敵に突っかけては、強烈かつ強引なボール奪取から逆襲に遭ってサイド選手も守備に戻ると、そんなことの繰り返しであったと記憶している。