棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

壁が修復作業

2009-11-19 10:14:16 | 創作活動
 
40年前に描いた壁画4×2.5mの修復をすることになり、ただ今格闘中。
お絵かきで格闘というのも変なたとえですが、絵筆でチョコチョコと修正すると言う仕事ではなく、1センチちかく盛り上げた繊維壁材が相手です。
そのほか、石膏セメントなどに顔料を混ぜたものを絵の具としているので、とても通常のお絵かきとはいきません。
20代前半の製作で、布キャンバスではとうてい不可能なほどの盛り上げが面白く、これでもかこれでもかと思える重ねようです。
正直、よく40年も剥げ落ちずに残っていたと、感心をしてしまいました。とはいっても繊維壁材は剥がれやすく、埃も吸いやすいので今は人気がないようです。
まずは剥げ落ちるものは落としきることからの作業です。
タバコのにおいが染み込んでいて、ツンツンとくるエライことになってしまった。
油彩画でもタバコの煙は大敵で、絵の具の中に深く染み込んでしまいます。
あらためてタバコってーヤツはヨロシクナイと思いました。

12-TIBET 仏の顔

2009-11-18 08:31:35 | 創作活動
仏画で最も難しく重要な目の書き方も定まっているが、時代によって流行があったのはおもしろい。
仏画の最重要点は目です。目はわずかな線引きで違ってしまう。どんなに位置を定義づけしてもどうにもならないことです。
例えば、左右をまったく同じに描いたとしますと、なんとも味気の無い死んだ顔になってしまいます。
そお、コンピューターで作ったあの薄気味悪い顔なのです。
フリーハンドで描くのは、どんなに対称に描こうとしてもソオならない。だからいいのです。そこに画家の個性が現れてくるのです。
画家の血がにじみ出てきます。もっと探っていくと、どんなに規定にのって描いてもネパールの画家の作、モンゴル人・ブータン人とどこか違ってきます。
私の知る限りですが、最新の作でいいのがモンゴル人の描いた壁画は近代性を感じます。当然、顔つきも異なっています。
いい顔とは美男美女を描くことではなく、観ている方がいつの間にか、仏其の顔になってゆくような気分にさせる顔、でなくてはいけません。

写真は我が家の土蔵に描いたチベットの観音---20年前の七五三記念写真

冬の使者

2009-11-17 08:35:54 | 山郷の暮し
今日から壁画の修復に入る予定で、絵の具類を積み込んでいましたら、冷たい雨の中に白いものが混ざりだしました。
「ウヒーーこりゃーサブイわけだ」と一休み、といってもそれほどの作業ではないのですが・・・。
だんだん激しくなってきたミゾレに、だんだん気も抜けてきてしまった。
普通だったら「気がのらねー」と大層な理屈を自分につけて、昨日備えたコタツにもぐりこむのですが、今日は相手がありそろそろ出発をしなくては。
サブーーイのはいやだねーーー。

11-チベット仏画を描く

2009-11-16 09:08:02 | 創作活動
今日のチベット仏画は、長い歴史の上に独自のバランス感覚のスタイルが確立してきたことは大雑把に話してまいりました。 
具体的には、任意の1の長さをもとに割り振っていくので、姿勢は総てがコピー化されていく。
顔の傾き・目鼻の位置や大きさなどなど厳格に決まっています。
では、その割り振りの本はといえば、タブン人間の形、すなわち自分たち自身のからだと思いますが・・・。
画家はその升目の中で輪郭を描き出すのすでが、作者によって微妙に違ってきます。言い換えれば、骨の位置(中心)はコピーされても、肉着けが違ってくることによって、どうしても雰囲気が異なってしまいます。
当たり前といえばアタリマエなんですが、これこそ描手の個性で、同じような図形で微妙に違っていることを見い出すのは面白いことです。
また、時代・地域によって違っているので、年代鑑定の目安になります。
 
右図はただ今製作の「チベット寺院内を描く-360×200cm」の一部

23歳製作の壁画修復

2009-11-15 16:06:44 | 創作活動
ヒマラヤで遭難死した、友人宅に描いた壁画修復のことは先日おはなしをしました。
具体的にどんな製作をしたのか忘れてしまっていたのですが、打ち合わせにいってまいりました。
昭和42年8月、私23歳のときの製作で、元気一杯、力がみなぎっている、若さそのものの絵でした。
たしか、亡くなった友人と唐沢から槍ヶ岳に行き「ここを描こう」と言うことになったものだった。

様々な繊維壁の材料を左官屋さんから提供され、その壁材をベースに彩色したものだ。
実験的な画法で(画法といえるかわからないが)、いつどんな形で剥離してしまうかわからないもので、其れを承知の上での製作だった。
多少の色ボケはしかたがないが予想以上に確りしており、本体の漆喰壁の方からひびがきてしまった。
基礎が手抜き工事だったようで、早くから床が狂ってしまったらしい。
基礎からやり直している大変なリホームだ。八割がたは工事が済んでいた。
当初は壁画部分を移築し、部屋を広げたかったようだが、費用がかかりすぎるので、そのままの間取りで修復をすることになった。
今週のお絵かきは、修復仕事。3-4日は壁とニラメッコだろうか。

 

愛情の深さに感服

2009-11-12 08:58:04 | 山郷の暮し
      
先日、思いがけない方から、数年ぶれの電話をいただいた。
もう40年前の頃、友人の新築住宅の応接間に、二間四方くらいの壁画を描いた。
山登りの好きな友人にあわせ、雪渓からの槍ヶ岳を望む、大胆な構図だった気がする。
その友人も20数年年前に、ヒマラヤ登山で帰らぬ人となってしまった。(私も学術隊員であった)
その後、私が描いた壁画を見ることも無く、記憶から消えてしまっていた。
其れが、先日奥さんから修復をしてもらえないかと電話があったのだ。
お宅をリホームするにあたり、亡きご主人が気に入っていた部屋・私の壁画を残したいというのだ。
そうです、この部屋では様々な山男が酒をあおりながら、山談義に人生談義に明け暮れしました。まさに壁には若き情熱が染み込んでいるのです。
壁がひび割れてしまったようだが、リホーム会社も協力するからとのことでした。
いやいや嬉しい話です。
そして、「主人が気に入っていた部屋ですから、なんとかしたい」という、奥さんの愛情の深さに敬服をしてしまいました。

今日はお宅まで車で、打ち合わせのために出かけなくてはなりません。

MY TIBET チベットの仏画製作

2009-11-11 08:09:01 | 創作活動
とりとめなく、かなり荒っぽいチベット仏画の話でしたが、ここで具体的なチベット仏画法について話しましょう。
今日チベット仏画は徹底的に幾何学化された図形で、大小画面に関係なく完全コピー化を完成させたといえます。
其れは、チベットの地ばかりでなく、モンゴルやネパール・ブータンなどのラマ教圏総てにいきわたった図像学といえます。
では画家(総てラマ僧)は、いかにして創意を表現できるか。いや・・・画家として創意を表してはいけないのかもしれないが、地域によってどことなく違い、一番現れてしまうのはどこだろうか・・。

仏画を描く一人として探ってみたくなった。
今までに、簡単なあたりでフリーハンドにより、チベット仏画模写をしてきた。
前回の挿入図で示したとおりの規定にそって、描いてみようとおもいたった。
その完全コピー的な描き方で、作家の個性がにじみ出てしまうポイントはどこだろう。其れを探るには、きちんとチベット仏画の定義にのっとて模写をしてみることだと、初挑戦をしてみたのです。

9-My TIBET チベットの仏画

2009-11-10 08:15:07 | 創作活動
チベット仏教-ラマ教-は印度からダイレクトに入った密教です。日本の密教もこの流れのなかに属しますが、当然のごとく変化をしています。
難しいことは知りませんが、仏の姿は日本の仏画とだいぶ違っています。
ごく最近までラマ教は邪教だと言われてきました。
そのとんでもない誤解を生んだ一つにヤブユムといわれる男女神が抱き合い、愛し合っている表現があります。
西洋的(キリスト教)な倫理観とあわずに「邪教だ!!」と一方的に決め付けられてしまったのです。
日本でもこのヤブユムに通じる立川派という仏教教団がありました。
ここでは其のことに触れませんが、曼荼羅の極意は性の賛歌であり、生命の尊厳を説いているといわれます。このことが前面に表現されていると大きな誤解を生むかもしれない。
  
空海が請来した曼荼羅絵にもヤブユムの極意が描きこまれているのです。

図は仏画の描き方の規格の一つです

なく・鳴く・泣く

2009-11-09 08:44:29 | 山郷の暮し
     
落葉焚きの煙が、ハダカンボウになってゆく木々にからみつく。
赤味を帯びた斜めの光が、幾筋も縞模様を創る、秋ならでの光景です。
お隣に来た「お孫さん」が焼き芋をもってきてくれました。
その子とフーフー 口をとんがらせながら、甘い焼いもを食べていますと、サクラが来て、猫のチビクマもやってきました。
フット思い出したのが、先日お隣の御主人から聞いた、お孫さんの話でした。

遊びに来たお孫さんが「サクラがナイテイル」というのです。
「サクラはほとんど鳴かない犬だけどねーー」と、番犬のようにほえ立てないことを話したそうです。
「だって、サクラの目から涙が流れているもん」
「????。アア其れは目やにだよ」と大笑いしたそうです。
鳴くと泣く。そして無く・なく・亡く等々、言葉だけ聴くと勘違いしてしまいます。

8-MY-TIBET チベット仏画について

2009-11-08 08:28:49 | 創作活動
石窟壁画で代表的な敦煌漠高窟の壁画群や西域の仏画は、今にも壁面から離れ、舞いあがってきそうな仏や伎楽天たちです。
のびのびとした、実に楽しそうな様子に私はすっかり魅せられ、私の仏画世界の原点であり、帰着点であると思っています。
約束事にのっとりながらも自由な筆図解のそれらの仏画に、芸術家の創作意欲が感じられます。
それでは本題のチベットの仏画ですが、チベット仏教-ラマ教の仏画は、西域の仏画とムードがかなり違っています。
他者と時代背景が違うので、当然そのまま比較をすることは出来ませんが、歴史的に他の地域からの技術的影響は少なかったのではないかと思います。

チベット寺院には、15世紀の曼荼羅絵の精緻な壁画が残っていますが(手元に写真がありません)、中国から脱している作風を感じます。
18世紀以前まではかな自由な作意が感じられますが、しだいに幾何学的定義ずけが確立していきました。今日かなり厳しく伝わっております。
チベットの大寺院の壁画は独特なエネルギーの発散があり、圧倒されてしまいます。
其のことをもっと芸術家として語らせていただきますと、日本の仏画の多くが、春のような暖かな空気が漂う静寂な世界を感じますが、チベットの仏画世界は仏たちは、叫び動き回っている躍動感にみちあふれているのです。
いったいこの違いはナンなのでしょう。
人と空気、なにより宗教観、歴史の違からくるものでしょうか・・・・。

ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本