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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

出港! 大海原へ

2020-05-16 | 日記
     信長   と  アレッサンドロ・ヴァリニヤーノ
          
     二人の思惑? が一致した。

ヴァリニヤーノには、信長には話せない真の理由。
前述の「二つの目的」を達成するために「遣欧使節」を思いつき提案し
信長は同意した。

 そのために、彼ら少年たちの教育が必要と説き、長崎に近い有馬の地
「セミナリヨ」神学校を設立、キリシタン武家の子息たちを学ばせ、
名代としてその中から選抜したいと・・・。
 ・・・信長の威光を西欧の人々に正しく伝えることである。 と・・。
 
   
        有馬のセミナリヨ跡
 
   
        「有馬セミナリオ」図
 ◆セミナリヨ=戦国時代~江戸時代の日本に、キリスト教を広めにやって来たイエズス会の
  宣教師たちが設立したカトリック教会の司祭(神父)を養成するための全寮制の学校。
  キリシタンの10~18歳までの男子が学びました。
  1580年、安土とともに日本に初めてセミナリヨが有馬の地に建てられた。
  有馬晴信の領地

  このセミナリオにおいて、使節の一員として選ばれた
  マルティーノ、マンショ、ミゲル、ジュリアンたちは日々の信仰とキリスト教の教義、
  また西欧の礼儀作法をも習得していった。
 
信長は、
さらに、西欧での知識や文物を持ち帰り特殊な技能を持った少年も加え、
その者に「技術」を学ばせよ。 そして余が元へ届けよ。
 いったいどうゆうものか、見当もつかぬが・・・

ヴァリニヤーノの口から「タイポグラフィア(印刷)」という言葉が出た。
 この技術がもたらされれば・・・と、 その重要性を信長に説いた。

 *1400年の半ばに活版印刷はグーテンベルグによって発明されヨーロッパでの本生産に
  一大変革を起こした。そして、ヨーロッパ、さらに世界中に広まっていった・・・。
   印刷技術は、羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つ。
      グーテンベルグ    印刷機      印刷した「42行聖書」 
         

 ◆この天正使節の一行が教皇との謁見の後、少年使節に関する印刷物がヨーロッパ各地に50種類
  以上も発行され、はるか極東の未知の国日本は、ヨーロッパ全土に認知されていった。

   
話は、前に戻りますが~この特殊な技能を持った少年を加える・・・
それが、宗達だったのだ。

 ローマの「洛中洛外図」を描いて来い! は。
 信長は、既に天下をほぼ手中にした。 が、万事安泰と思ってはおらぬ。
  「次なる一手」を探っている。
  彼の、そのために、彼らとの接触があるのだと
 
  信長の妄想は膨らむ一方だった~・・・
   それにつけても・・・行ってみたい、ローマへ。
   見てみたい、この目で。

   ローマ行きを誰よりも渇望しているのは、・・・・でもなく・・・
        実のところ、織田信長だった。

     *いやいやいや・・・もうこれ以上の、空想はないよね~素晴らしい発想。
        よくこんな・・・どこから生まれてくる 発想なの?

1582年 (天正十年) 二月二十日。
 岬の先端、長崎港の上には、きりりと冷たい青空が広がっていた。
 季節風が海を渡って吹いてくる。
 ゆるやかに、ときに強く。
 この風に乗って帆船は大海原へと漕ぎ出すのだ。
 出港にはうってつけの日であった。


 港には~この使節の団長(司祭兼イエズス会東インド管区巡察師)
   アレッサンドロ・ヴァリニヤーノ 
  正式に遣欧使節となった
  伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、そして 原マルティノ。
   
 四人の脇にはパードレ、修道士、世話役など、引率・随行団がずらりと並ぶ。
 彼(ヴァリニヤーノ)の賛同者で、彼の通詞として安土から同行してきた神父
  デイオゴ・デ・メスキータ
 日本人修道士で、日本語とラテン語の双方得意な少年たちの教育係
     中浦ジュリアン       デイオゴ・デ・メスキータ神父    伊東マンショ  
    
       原マルティーノ                    千々石ミゲル
 
  ジョルジヨ・ロコラ・・・  ほか、・・・船の乗組員。

 これからの長い船旅~ 
 「南蛮船」
       
        *当時、日本人が描いた南蛮船
          
           *ヨーロッパ人が描いた帆船(ナウ船)
           *「ナウ船」は、ポルトガルでの呼称。

    神戸市立博物館にある「南蛮屏風」   港の風景 「帆船」と南蛮人や日本人たちの姿 
 

  *「安土城資料館」展示 {安土城屏風絵陶板壁画}
   (長崎へ上陸する南蛮人の荷揚げの様子と、信長に託されて安土城屏風を持ち船出する天正使節) 
 


 長崎を出港した~

 水平線の彼方を目指し、潮の流れに乗りながら、
風をいっぱいにはらんで帆船は進む。 
見渡す限りの青い海、入道雲が立ちのぼる空。
頭上高く舞い上がるカモメの群れ、夜間に鱗をきらめかせる魚影。

 さぁ、船は出ました・・・
  以後、彼が日本に帰国するまでの8年5カ月の間

  これから、一体 どんなドラマを展開していくのでしょうか ?・・・

  「下巻」届きましたので、これから 読み始めますので・・・
           また次回まで~

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「密命」…歴史の事実の合間を大胆に

2020-05-15 | 日記
信長は宗達に向かって言った。
 「きさまは、さきに象の絵を描いたとき、申しておったな。
         
  誰も行ったことのないところへ行き、誰も見たこともないものを見て、
  それを絵にしてみたいと。・・・・違うか?」

 「その夢をかなえてやろう。・・・・それが、このたびの絵の褒美じゃ
        ・・・・
宗達・・・夢をかなえる? ・・・?

 信長
「宗達、きさま、パードレたちとともに、『きりしたんの王』のもとへ行ってこい」
 この屏風絵は、王への貢ぎ物じゃ。
 きさまが届けるのじゃ。 よいな」
       
         
 *実際に「天正遣欧使節」は、数年の月日を掛けてルネサンス時代に渡欧し
             
  ヴァチカンにてローマ教皇・グレゴリウス13世に謁見し、この屏風を献納された。
  教皇は感激し、住居と執務室を結ぶ廊下(地図の回廊)に屏風絵を飾った。
         

      

   教皇の死後に屏風は行方不明となった。
   最近、2005年には安土町(近江八幡市)がヴァチカンを調査したが発見には
   至らなかった。

  その歴史の事実の合間を縫って・・・・あろうことか、俵屋宗達がローマへ。
  使節団の一員として派遣することに。
  「信長との謁見、永徳と宗達の接点、 これから始まる物語
  どれもこれも作者の創作。」
   しかし、このドラマチックな設定に「うそとは思いながら・・・」
  「登場する人物は、みんな同じ時代に生きていたということ~」
   ならば、 奇跡が起こった! なんてこと考えるのもわるくない?
   ぐいぐい引っ張りこまれていく~さもありそうな? なんとなく納得と
   まだまだ奇想天外な無茶ぶり・・ 矛盾を乗り越え・・・楽しんで
   後半の物語に入っていきましょう。
    
 宗達は ことの 意味がまだ理解できない・・・。

 そこに割って入ったのが 巡察師の「アレッサンドロ・ヴァリニヤーノ」
                    
 ことの経緯について 詳しく宗達に語り掛けるのであった。

「ここで彼ら、イエズス会の布教活動については割愛します。
 しかし、信長は、布教活動に寛容であり、自身はキリシタンにはならなかったが、西欧からもたらされた様々な 
 学問ー地学、天文学、数学などに大いに興味を持った。 また、パードレたちから献上される宝物や品々を
 大変喜んで、南蛮人の服、陣羽織、沓を身に着け、畳に絨毯を敷き、卓と椅子を置いて、南蛮人の暮らしを体感し
 楽しんでいた。」 
             
                  
またまた余談ですが~ 献上した中に「地球儀」があった。
  信長は、地球が球体であることを説明されると、「理にかなっている」とすぐに理解したという。 
  また世界地図を広げ、海の彼方の国々について、あれこれ質問攻めをした。  (さすがぁ~ )
          
                (メルカトル図)
  「日本」を地図で確認して・・・何と思ったか~ 
      (こんなに、ちっぽけなの?・・・とか、言いたのかも?)       
   当時の日本人は、地面は方形だと考えていた。 江戸時代に入ってさえ、朱子学者の林羅山が
   「万物を観るに、皆上下あり。上下なしと言うが如きは、これ理を知らざるなり」と、
   地球球体説を主張するイエズス会のキリシタンを論破したというから、信長は非常に柔軟で理解力
   があったといえますね。
   また、こんな話も~信長が初めて食べた? 南蛮食品
   まぁ、いろいろな食べ物を献上しています。
   ・1569年にルイス・フロイスが初めて謁見した際、バナナを献上したと・・・
      食べたのかどうかは? 
    
   ・金平糖も同じくフロイスが、透明なフラスコに入った美しい砂糖菓子を見て、信長たいそう喜んだと。
   ・ワインも飲んだ? でも、実際に信長が飲んだという文献はないのですが・・・ 

                

    あの格好して・・・卓、椅子に座り・・・新しいもの好きの信長です・・・ 
     おそらく最初に飲んだのではないか と。 きっと飲んでます。  
    (でも、最初ってのは? 九州の方が、先にキリシタンは到着していますからね。  
     九州の大名の方が、早かったのかもしれませんが・・・
      まぁ、「信長」が最初の方が話としては、インパクトありでしょう・・・)
     「チンタ」「珍陀酒」(ちんたしゅ)と呼ばれていた当時の赤ワインですが、その名称は、
     ポルトガルで「赤」を表す「tinto」からきているといわれています。  

  ちょっと「余談」 長すぎた?

 宗達、驚きのあまり声を出せず、息も止まりそうだった。
  ど、ど、どういうことや? ろ、ローマ? わいがローマへ?

 信長が小声で・・秘密の話じゃ。 近う寄れ」

 いっそう声を潜めて言った。
  「ローマの『洛中洛外図』を描いて、余のもとへ持ち帰ってこい」

  *世にもまれな天賦の才を持ち得た奇想天外な人物。
    織田信長ーいったい何を考えているのか・・・
    いやいや、フィクションにしても、ここまで創作するか~
    もう、これから先は、どんな展開 ・・・???

  この作者のフィクション仕立ての為に、こう考えた。
 アレッサンドロ・ヴァリニヤーノが「遣欧使節」を思いついたのには、
 信長には決して話せない真の理由を。 という設定。

ひとつ。 
 西欧の権力者からの資金援助を得るため。
 布教のための莫大な費用を捻出するには、何か「特別な何か」を。
  日本からキリシタン少年たちの使節がはるばる西欧までやって来ればー
 そして滑らかなラテン語で彼らのゆるぎない信仰について語れば・・・
  権力者たちの感激はひとしおだろう・・
 資金援助を申し出たくもなるだろう~と。
ふたつ。
 少年たちに西欧を見聞させ、帰国後に彼らを布教の先頭に立たせれば、
 日本人の信仰は彼らにしっかりついていくことだろう。
 彼の狙いは、イエズス会の宣教師である先達であるフランシスコ・ザビエルが、
 極東の地、日本にもたらした信仰の灯火を決して絶やさず、盤石のものとする
 ことであった。
         

 
  いよいよ 長崎を出帆~長い苦難の旅が始まるのだ・・・・ 
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「風神雷神」 安土城へ

2020-05-14 | 日記
都を出立して~一行は安土城に到着した。
         

このたびの信長との謁見の間は、「唐獅子の間」
 この城のほぼすべての障壁画を一手に受けて作成した
永徳は、どの間にどのような絵があるのかは熟知していいる。
 「唐獅子の間」は、その名の通り、大ぶりの獅子が描かれた襖に囲まれた
部屋である。

 ◆余談ですが~歴史の事実は、過酷です。「本能寺の変」の後に
   この華麗な安土城の天守は焼失した。 その他の美術工芸品の数々で現存するものはない。
   私、思うにこの「唐獅子の襖」に描いたのは・・・      
   この後、永徳が描いた「唐獅子図屏風」
        
  を彷彿させる見事な襖絵であったろうにと~彼の一世一代の仕事
   きっと、どれも凄い作品であったであろう…本当に残念ですね。

  もうひとつ~ この安土城、本能寺の変からわずか12日後に天守が灰塵に帰してしまった。
                
       誰が犯人?   明智左馬之助(光秀の娘婿秀満、 野盗の放火  雷?
               なんと豊臣秀吉と 言う説まで・・・
               いまだ はっきりしておりません。 いろいろな説あり。

       こんな調査結果の説も・・・信長の息子の「織田信雄」だと。
       ルイス・フロイスが「イエズス会日本年報」で記している。
       信雄は明智光秀が退去した直後に安土城に入りますがその際、
       まだ城内に隠れていた明智勢の残党を灸りだ出すために火をつけた
       のではないかと考えられています。
       フロイスも「理由は分からない」としているが・・・・
       ほとんど利害関係のないフロイスがわざわざ記している点で、
       信憑性が高いように思われますと・・・(静岡大学名誉教授 小和田哲男氏)

  フロイス 「日本史」にも 安土城の様子を記している
  「中心には彼らがテンシュ(天守)と呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より壮大な建築である。
   この塔は七重からなり、内外共に感知器の妙技を尽くして造営された。
   事実、内部にあっては四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁前面を覆い尽くしている。
   外部はこれらの階層ごとに色が分かれている。あるものはこの日本で用いられている黒い
   漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。 
   ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階はすべてが金色である。
   このテンシュ(天守)は、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。
   それらは青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。
   屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。 」

   *こんなにも、詳しく、彼は「日本史」に書きとめ、本国に報告していたのです。
    私たちも、 この「安土城」 いろいろ想像して楽しみましょう。
    やっぱり 歴史は面白い・・・まだまだ 新説を楽しみに~

 
 上座の信長・・・

  ペルシャ絨毯を敷き、象牙の彫り物の肘掛け付きの玉座。
  身に着けているのは…ひだが細かく寄った輪っかを首周りに、
  袖のふくらんだ黒絹の上衣、その上に房飾りが付いた真っ赤な
  毛織の陣羽織…南蛮風がすっかり板についた? 信長。
    想像するに・・・こんな風なのかな?       
     

     真っ赤な羽織は・・・こんな?
         


 この席には~パードレたちも同席していた。
  宗達が日々日参していた南蛮寺のオルガンティーノもその中に居た。

 「屏風を広げよ」
 信長が、厳かな声で言った。

  ほう・・・と、ため息を漏らしたのは、信長ではない。
  その横に控えているパードレたちだ。

   ・・・・
  「・・・これは・・・」  ようやく信長が口を開いた。

  「・・・見事じゃ・・・」

        信長は、右隻第二扇を指さし   ☟
         「ここにあるは、安土城か?」          
 
 
  「左様にござります」即座に永徳答えた。
 「・・・鳰(にお)の海{琵琶湖}のほとりの威風堂々とした安土城の佇まいは、
  まさしく城主であらせられます上様そのもの。
  いと高きところより天下を眺め渡し、美しき都、洛中洛外のいっさいを、
  御懐に召されまするを、この屏風の右上に備え奉りましてござります。

  信長はいま一度ゆっくりと眺め渡して、「あっぱれじゃ」 

 永徳に向かって言った。
  「褒美をとらそう、ほしいものはあるか。何なりと申せ」
        ・・・・
  永徳~しばらくのあいだ。
       じっと黙り込んでいた。 が。
  「宗達を、当家の養子にいただきとう存じます」
   永徳は 俵屋宗達という稀なる才の持ち主。 
    絵師の将来を、見届け、願わくば上様のご要望にお応えするがために当門とともに
    作画に精を出してほしいと願っておりまする。 と、熱のこもった声で信長に訴えた。
 
   「・・・ならぬ」 低く厳かな信長の声が響いた。
    永徳 「・・・御意」

   「宗達、きさまはそのまま、そこにおれ」 
   「そう怖がるでない。 
    きさまにも褒美をつかわそう、とっておきの褒美じゃ」

  
  
  
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秀吉「最後の城」京都新城の遺構

2020-05-13 | 日記
今朝の朝刊の1面
   
 
       出土した「京都新城」の遺構とされる石垣 (上記新聞の写真より)
     

この頃の私。 コロナ禍で時間がたっぷり・・・
「風神雷神」の「絵画」をアップ普段よりは丁寧な作業を続けている最中に~
 ビッグニュースです。

したがって、今日の「風神雷神」は おやすみにします。

偶然にも同じ時代の話題・・・
「風神雷神」の内容には織田信長が登場し、宗達、永徳ら
 以後、秀吉、家康と続く・・・
これから 「安土城」も話題の渦中に入り、遣欧使節はローマへ。
                  

そうした中に、信長が本能寺でその生涯を終えた後の天下人
「豊臣秀吉」・・・その最晩年に建てた「京都新城」の遺構が400年ぶりに
姿を現した。 
なんと言うタイミングでしょう。    
   
歴史好きな私にとって・・・またまた興味をそそる話題。
 しかも、「安土城」だってまだまだ謎多し。
今、ブログアップしている「洛中洛外図」(安土山屏風)だって
       
        
時のローマ法王グレゴリウス13世に信長の命により遣欧使節が届けた
屏風のその後も今だ発見されていない・・・。
            
さらには、以前、ブログにもアップした。(2016.4.8)
 秀吉ゆかりの「豊臣期大坂図屏風」が、ヨーロッパの古城にあったのだ。
 しかしその屏風の行方も今だ不明~
     
            全体 八曲一隻
           
             中央 大阪城

このように500~400年前、室町桃山時代の歴史の謎が、
      今世紀になって~「新発見」によって、その事実が顔を出す。
            興味津々です。 

新聞の記事から
  京都新城は1597年、御所の南東にほぼ隣接して築かれた。
  当時は「太閤御屋敷」「太閤御所」とも呼ばれたという。
  
  高台院屋敷とみられる建物が描かれた「洛中洛外図屏風」  
          
                        新聞掲載より
         
                     (林原美術館所蔵)
    
洛中洛外図屏風(林原美術館所蔵 池田本) 
        この扇(赤丸印)
         赤印部分・・・私が部分編集したもの。
 
 「京都御所」
       
  秀吉はその10年前、御所の西約1キロ、かって平安京大内裏があったとされる場所に
  関白として政務をとるための聚楽第を築城している。その後、甥の秀次に関白の座と 
   ともに譲ったが、秀頼が誕生したため、秀次は自害に追い込まれ、聚楽第は徹底的に
  破壊された。
  「聚楽第」
         

        
秀吉 秀次 秀頼
   
    

  「万が一、自分の死後に徳川家康に権力の座を奪われたとしても、公家として豊臣家
 を存続させたい。摂政・関白職を独占した五摂家と並ぶ武家貴族になったんだ、という
 権威を残したかったかもしれない」・・・
   徳川家康    
              

   *五摂家=摂政関白の家柄 近衛・九条・鷹司・一条・二条の五家をいう。
    秀吉が死去した後は正室の北政所(高台院)が利用した。
     「高台院」
           

北政所の死去後、徳川家は退位した天皇のため、同じ場所に仙洞御所を建築。
      
                 今は仙洞御所跡に庭のみ。
豊臣時代の面影は失われた。

  中井均・滋賀県立大教授(日本城郭史)は
   「 ・・・秀頼に将来関白を継いでもらうため、造られたのだろう。
     日本の城の発掘では今世紀最大の発見だ」 と話す。

  また機会があったら・・・このニュースの後日談、アップできるといいのですがねぇ。
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「風神雷神」 永徳、宗達を預かる・・・

2020-05-12 | 日記
狩野永徳は天下一の絵師として認められた~
この二人。 「宗達」と「永徳」
 信長の前で「象」の絵を描いて認められた「宗達」。
      「洛中洛外図」を描いた「永徳」
 「出合い」の展開がさらに面白くする。

さて次は、狩野永徳が「洛中洛外図」を宗達と一緒に作画することになる・・・・
  (足利義満~信長~上杉謙信に贈られた屏風)とは、
  この度は、まったく別のものであり、この物語の軸となる・・・(安土城屏風)であろうと推測する。
  *歴史上のこの二人は、同じ時代に生きていた、そして活躍していた・・・ 
    重なっているから~本当に、この二人が描いていたら・・・ワッ オッー ですね。
    500年も前のこと~何もわかっていないということを・・フィクションであると理解して

その前の物語~
信長より「俵屋宗達」という名を下賜された~
その俵屋宗達の父、(俵屋伝七郎秀蔵)が、
息子の修行先として、かれこれ三月のあいだ
~人づてに天下一の絵師狩野永徳以外には考えられぬと・・・
必死になっていた。

父は狩野家に三日にあげず出向いては門前払い~
肩を落として帰ってくる・・・日課のように~。

宗達といえば、狩野一門の絵になど興味がなく、いつものように
南蛮寺へ出向いては過ごしていた・・・。
*祈りをささげる信者とともに座し、祭壇の聖母子像をぼんやりと眺める日々・・・
  
  

      

  
ある日、突然! 狩野家から迎えの使者が・・・・
当家の主、狩野永徳が、「ご子息にお目にかかりたいと」・・・

父に連れられて狩野家の一室に通された宗達。
        
(狩野元信邸跡)の石碑  京都市上京区元清河寺通小川東入に石碑のみ元信ー松栄ー永徳と継がれる)

この物語のハイライト?  
永徳ー「ご子息、名はなんと申す」 
問われて、宗達は、「俵屋伊三郎宗達と申します」
永徳ー「そちは、上様の御前にて作画を披露したと聞く。 まことか?」
「はい。まことにござります」
「何の絵を描いたのだ」
「象の絵です」
「・・・象?」

        

ーそれはさておきー
*風神雷神NO.3 で信長の御前での一幕アップしていますが・・・・
 =宗達が信長の前で作画を披露した史実はどこにもない。=
でも これでいい。 
 これからも、驚天動地の「夢物語」が続いていくのです~
 「史実」と「フィクッション」の織り成す、壮大な物語です。

ややあって、父秀蔵の方に声をかけて
「俵屋さん、恐れ入りますが、これから三月のあいだ、
ご子息を当門で預からせてもらえませぬか」
「・・・・と、申しますと?」
「宗達に手伝ってもらいたいたきことがあるのです」と永徳。

・・・俵屋宗達に是非にも手伝わせよと、上様よりお達しがあったのや」 
         
                ???そんなことある訳ないでしょ・・・でも

先だって、上さまよりお召し出しがあり、ご依頼を賜った。
 六曲一双の「洛中洛外図」屏風を納めよ、と」

  必ず三月のうちに仕上げよ・・・・

 永徳は思う~
  以前の「洛中洛外図」を超えよ・・・
                 
 信長様の真意は? ・・・
  あの屏風は、策略のために、それを利用するのだと・・・言っていた。

  この1作。 
それもまた、いずこかの権力者への贈り物となる~に違いない。

こうして二人は、一世一代の「共同作業」が始まった。
 狩野永徳、数えの三十八。
 絵師としては駆け出しの宗達~十二歳。
 絵師としては、天と地ほどの開きがある。
 *本来、常識的にもありえないし、史実にもこの事実はない。
  
先へ進もう~ 
永徳には、全体の構想は出来上がっている・・・
この絵で一番大事なことは・・・安土城や
そして、「見たこともないような」絵・・・ならば「南蛮寺」を描き込むこと。

筆は、京都の洛中洛外の細かい描写が次々に~
まばゆいばかりの黄金の金箔が貼られた扇に~渾身の思いを込めて。

丸三月を費やして完成した。

宗達は多くのことを学んだ・・・
永徳の懐に入り、大絵師のまなざしを通して見つめた世界の広さ、すばらしさを
知った宗達は、絵を描くことへの不思議さ、果てしなし面白さにのめり込んだのだった。

          

   狩野永徳とその一行が安土城に向けて出発した。
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「風神雷神図」NO.4  信長に認められた狩野永徳

2020-05-11 | 日記
声を上ずらせて、信長は立ち上がった。
 この屏風絵を、きさまは、七日のあいだに描き上げたのか?
     

 ー永徳 答えは、。  そして 是でござります。
    要した日数は、ひと月にござります。
 ・・・これなる屏風絵は、わたしが23のときに、ひと月かけて
 描き上げたものですが、 
 これには~
     
      「足利義輝」 室町幕府第十三代将軍。
  先の将軍、足利義輝さまよりご依頼を頂戴仕りしたもの・・・ですが。

ここで、時間を戻します・・・・

 永禄八年(1565年)正月
  永徳の父 狩野直信のもとへ 二条御所武衛より使者あり。    
             
   公方様の御前に召され・・・

義輝の所望したのは~「いかぶる武人の心をも虜にせしむる宝物のごとき絵を・・・「洛中洛外図」 を・・・
          六曲一双、しかもできるだけ早く・・・ ホトトギスの鳴くころまでには仕上げよ~ 」

父が帰ってきての開口一番。 
  「公方様よりの作画のご下命は -「洛中洛外図」-
万が一にも・・・ご下命の期日までに仕上げることができなければ、
狩野一門はおとりつぶしになるであろう。 そこまで話すと、父はがっくりと頭を垂れました。
今は、うぐいすの初音を待ちわびる頃・・・ほととぎすの頃、というのは、ものの三月か、長くとも四月。

永徳・・・一門が総力を挙げて取り掛かっても、はたして間に合うかどうか~。
    公方様がご所望されるのは、洛中洛外の名所のすべてを封じ込めた六曲一双。
    微細にして壮麗、いかなる名馬、名刀もかすむほどの名画。・・・・
    その一作を描き上げよ、とのご厳命。
     ・・・わたしは合点がゆきました。
   ーなにゆえ 公方様が、それほどまでにお急ぎなのか?
   どなたかに、この絵を贈られようとお考えに違いない。 しかも、火急でご入用なのだと。

 永徳は、 すぐにも始めましょう、父上。 

 と、言ったものの・・・・
 父は、来る日も来る日も筆を執ることはなかった・・・
 白い紙の前に坐したまま・・・
 やがて、声を振り絞り・・・わしは、描けぬ。 何も浮かばぬ。 筆さえ取れぬ。
   ・・・・・
  父上、お願い申し上げます。
 どうか、この永徳に筆を取らせて下さりませ。

 直信ーこのわしの代わりに?
 永徳ーはい、どうかわたくしにお任せくださりませ。

 永徳は、父が奥の間にこもっている間~
  この数か月、無我夢中で洛中洛外を巡り歩き、名所の数々、あますところなく
 詳細に何もかも写し取り・・・整然と焼き付けております・・・
 
父に、描き方についての、提案を・・・
 この洛中洛外のすべてを描かんとすれば、すべてをさらすのではなく、
 むしろ、ところどころ隠してはどうだろうか・・・
 名所名物の数々を、雲のまにまに垣間見せてはどうだろうか~

          - 時間の経過 -

 それから・・・無我夢中~描いて、描いて、描いて・・・
 あとほんの少しで完成という・・とき。

 歴史の一大事件が ! ・・・公方様・・・お隠れ・・・ *「永禄の変」
              
      時は、永禄八年(1565年) 皐月の十九日。

*「将軍親政」を目指す足利義輝と、彼ら、三好義継、三好三人衆、松永久秀らの
 軍勢に御所に攻め入られ殺されてしまった・・・
 彼らにとって、将軍は、傀儡であるのが望ましく、義輝の存在が邪魔だった。
 三人衆の兵力は約一万。一方、義輝のといえば数百人・・・
 剣豪として名高い塚原卜伝の弟子で武術に優れ、自らも刀で応戦。
 しかし、多勢に無勢、主従全員が亡くなりました。

 その後、血で血を洗う戦国の争乱~結局、信長によって第十五代将軍
足利義昭が京から追放され、室町幕府は滅亡した。


永徳は、その依頼の品「洛中洛外図」を、信長の御前に持ち出し、何もかも
正直に打ち明けるのであった。

狩野永徳の長い独白を、信長は身じろぎもせず聴き入っていた。

信長ー 義輝公が、この「洛中洛外図」を、いかにせんと考えておられたか。
    知りたくはないか。
     ・・・・・
信長はー とある他国の武傑を懐柔せしむるためじゃ。 と、言った。
 *公方(足利義輝)の所望は、永徳の父に・・・このように 言っていましたよね。
  「いかぶる武人の心をも虜にせしむる宝物のごとき絵を・・「洛中洛外図」を・・・
  

 「永徳よ。 余は、きさまが気に入った。」 信長は朗々とした声で言った。
 
 「ーまもなく安土に築城のおり、城内すべての障壁画を狩野一門に任せよう
 ・・・・よいな。」

 ~「まことにありがたき幸せ、謹んでお引き受け奉りまする」・・・永徳。

 天正七年(1579年) 普請に三年以上の月日をかけて、琵琶湖のほとりに
 安土城が完成した。

      復元図による安土城

  滋賀県 安土城郭資料館 (20分の1で再現された幻の名城安土城)
 (安土城復元模型)

 安土城郭資料館蔵 屏風絵風陶版壁画 (安土城)
 

 南蛮人の行列が安土城へ向かう様子

 二条城と京都の四季

 約束通り、信長は内装に狩野一門を取り立て、城内の障壁画を一任した。
  様々な障壁画が制作された・・・
 松、杉、柳、虎、鷹、鶴、鷺等々・・・
 永徳の花鳥風月が城内をまぶしく飾り、訪れる者の目を奪った。

  「洛中洛外図」ほどの細密なものではなかった。

 同じものを描けと・・・下命されれば、永徳は描かざるをえなかったが、
  信長はそれを求めなかった。
  信長にとって「洛中洛外図」は、あくまでも戦略の道具なのだ。

  必要のない依頼はしない。 

 ◆◆ 天下人、織田信長に認められ、
       もはやその名を知らぬ者はいないほど名を馳せた
                       絵師、狩野永徳  ◆◆

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「風神雷神」NO.3 信長と狩野永徳

2020-05-10 | 日記
信長より絵師としての名を下賜されたーーと。
 うわさは、瞬く間に都じゅうに知れ渡ってしまった。
「俵屋宗達」が描いた扇を手にれようと、大勢の人々が
こぞって店に押し寄せた。 

 もうお客への対応に四苦八苦~金子はいくらでも出す。
              ~やんごとなき方からの使者だと言いい
              ~遠国の大名の家来も

 こんな状況から・・・
宗達の父が、息子の修行先として接触を図っていた絵師の名門。
それは、天下一の絵師集団として誉れ高い狩野一門であった。
  *ここから、物語は、「狩野永徳」の登場、そして織田信長との「屏風絵」の話になっていきます。

狩野派は、室町幕府の御用絵師「正信」を祖とし、二代目「元信」三代目「直信」(松栄)は、大名に劣らぬ
一大勢力であった宗門、大阪本願寺(石山本願寺)の障壁画制作に父とともに参加したのをはじめ、京の
主要な寺院の障壁画を手掛け、宮廷や公家とも接触して、狩野の家名を一層高めるのに貢献した。
そして、その嫡男で現在の狩野一門を率いているのが州信(永徳)である。
 
 幼い頃より祖父と父に作画の手ほどきを受けて育った永徳は、早くから
並々ならぬ画才を発揮した。
 大徳寺の塔頭、「聚光院方丈障壁画」を父とともに手掛けたとき、永徳は
 二十代の若者であった。 足利義輝に謁見している。
 しかし、永徳が描いた「花鳥図」は、比類なき出来映えであると、瞬く間に
評判となった。
 *
  「聚光院方丈障壁画」 (花鳥図)  すべてが国宝
 
   (四季花鳥図襖)  梅図
  
  *早春のせせらぎに勢いよくせり出す梅の大木。 その枝に咲く小さな花々の馥郁とした香りが
    漂ってくるかのような画面は、まことに清々しく、見る者を画中に引き込む力がある。 
    部分を細かく・・・
      
    梅ノ木     先に伸びる枝   二羽の小鳥     流水
  「琴棋書画図」国宝 
 
          
      
 
    
  
  

    

   
                   *現在は、京都国立博物館 寄託

 *この絵を描いたのが20歳代と云われているが「近年、行われた、様式・建築年代の再調査、再検討の結果、
 40歳頃とする説も・・・さらなる研究が待たれる~。 だから、歴史は面白い。 

 肖像画「織田信長」

        

 信長の肖像画については、一般的にはご存じのこの1枚。
         
         (永徳の弟 狩野宗秀作)
 ここで 他のものも・・・
          
         (長谷川等伯作)
 
           
        (キリシタン伴天連による木炭デッサン)
     *信長の死後、ジョヴァンニ・ニコラオによって描かれた・・・の説もあるが・・?

   どれも 信長 って 感じだと思いますね、みんな特徴掴んでいる と 想像ですが
   ・・・写真の技術があれば決着ついたのに~

 信長像も結構全国にあるようですが~
  こんな凄い? のも。
  岐阜市駅前に黄金の像が・・・「信長公の銅像を贈る会」が寄付金で設置したそうです。
  「信長、普段、いや、出陣? こんな格好していた? 
          鎧、甲冑、長沓、手に鉄砲・・・マント(きっと赤でしょうね)」

        

 この物語には作品として出て来ませんが 
 この2点は誰でもご存じの永徳作「国宝」の作品を紹介しておきます。

   「唐獅子図屏風」 宮内庁三の丸尚蔵館
  

   「檜図屏風」 東京国立博物館
  

 
 永徳の絵が評判になっていった・・・
 信長が・・・聞き捨てるはずもない。
 さっそく、自らの政治的策略の道具として永徳の筆を利用した
  その頃、天下の派遣を争う武将たちの中で信長が最も警戒していたのは、
 越後の国の上杉謙信であった。
  謙信に上洛されてはならぬ・・・・信長は画策の末に謙信と同盟を結んだ。

       同盟を結ぶ    
              win win
  
同盟を堅持する証として~何か・・・
  思案した信長は~永徳による六曲一双の屏風絵
  「洛中洛外図」に目を付けた。

 「「洛中洛外図」とは、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観の風景を描いた
  屏風絵。現存するものの中で良質なものは、30~40点とされる。
  戦後期時代にあたる16世紀初期から江戸時代に制作された。
   国宝が2点、重要文化財に指定されているのが5点ある。


 信長は、永徳を御前に召し出した。
  余が望む絵をすぐさまに描けるか、どうじゃ。
  ・・・・
  は、 はい、お望みとあらば・・・。
  しからば、「洛中洛外図」を描いてみせよ。

 信長の命である~
   その要求は、七日のうちに描きあげよとは~

 七日後・・・
 信長の目の前に、広がったのは、黄金に輝く絢爛たる都の風景~
  六曲一双の扇に広がる金色の龍雲、御殿、社寺、屋敷、店。
  そこに集まる老若男女、貴人、公家、武人、商人・・・・ 

  *「洛中洛外図」上杉本 米沢藩主上杉家に伝来=米沢上杉博物館蔵
     高さ160㎝ 幅365㎝ 金運 六曲一双
   (右隻)
  
 
             (右隻)第三扇 南蛮寺も~
               
  (左隻)
  
  
                (左隻 第三扇 細川殿)
                

    見よ! この細かい描写~描かれているのは2500人にも・・・
  
 この絵の制作には、次回に説明しますが。
 まず「室町幕府第十三代足利義輝」からの依頼があり・・・
 織田信長 →上杉謙信へ と 話が展開します。
     
    →     →   
         
 (余談ですが)
  信長から謙信に贈ったのこの屏風のほかに・・・
  「赤地牡丹唐草文天鵞絨羊套(びろーどようとう)」
   舶来趣味の信長、きっと謙信を驚かそうと思って~
    パードレたちからの贈り物だと思うけど・・・
    謙信も、びっくり? これ着ただろうか?
       
  
  さて、完成した「洛中洛外図」を見た 信長は・・・

  ーこ・・・こ・・・れは・・・。   
  声を上ずらせて、信長は立ち上がった。
 
     明日へ~
 
            
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「風神雷神」 NO.3 

2020-05-09 | 日記
 
物語の場面は天正8年(1580年) 肥前・有馬から
 これから出て来る少年たち ・・・天正遣欧使節の4人ら               
                 
 まず 当時、12歳の原マルティノ
  原家は、肥前の国(現在の長崎県)大村純忠(ドン・バルトロメウ)の
  領地である波佐見一体を治める名門の武家である。
   父・中務ファラーノは領主の遠縁であり忠実な家臣。

  領主純忠は、永禄6年(1563年)洗礼を受けた。
       
            (大村純忠の受洗)
  以後、九州の諸領主が次々にキリシタンとなっていったが、純忠は
  その最初のひとりであった。
   大村の領地には天然の良港、長崎があり、これを狙う九州の列強から
  常に攻められていた。

   同じ肥前国の・・・龍造寺隆信とは激しく火花を~
   毛利と組んで、肥前一帯の征服をと・・虎視眈々。

   そこで同じ領地の西側の「有馬氏」と組み、南蛮からやって来た
   キリスト教のパードレたちに目を付けた。
   彼らは、新しい宗教とともに、西洋の学問、芸術、舶来品の数々
   そして交易を領内に誘致して武器や財力を得ようとした。
    島原半島一体に勢力を持つ有馬家領主有馬晴信もそのひとりで
    あった。
  
   ポルトガルとの貿易には条件があった。領民へのキリスト教布教を
   認めることである。
   有馬晴信も洗礼を受け、ドン・プロタジオと名乗った。
   宣教師フロイスが記した歴史書である「日本史」によると、有馬氏は、
   イエズス会から支援を受けたことによって、隣接する佐賀で勢力を拡大
   していた龍造寺隆信の襲撃をしのぐことができたとある。
   

  そこに「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」がこの地 有馬の港、
  口之津に到着した。
   東インド管区の巡察師責任者として。
            

   到着後、すぐに彼は、自分たちが日本にいるからには、日本のしきたり
  に合わせて布教しなければならないと、パードレたちに通達した。
   神の教えを、この国に根づかせるためには、教育が必要であると。
  まず、少年たちの学びの舎、セミナリオの開設だと。

   彼は安土を訪れ、織田信長に謁見。 
   キリスト教の布教を容認、南蛮貿易とその文化に興味を示す
               (この信長の興味・・・後半、出て来ますよ・・・)
   開設の許可を得た。 
  そののち、九州のキリシタン大名たち(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)に
  相談~セミナリオの開設となる。

 有馬のセミナリオに、マルティノ、ジュリアン、ミゲル、マンショたちの
 寄宿舎での生活が始まった・・・
  ある日 初めての絵画の授業でみんなの前に広げられた1枚の絵~
    聖母子像であった。 
            
  *実際は、誰の描いた絵を七日授業に使ったかは分かりませんが・・・私が選んだ数多くある
     「聖母子像」の中から、サンドロ・ボッティチェリ作をアップします。
  
   瞬間、みんなは息をのんだ・・・生徒たちはなかなか立ち上がろうとしない。
  「伊東マンショ」がようやく言葉を発した・・・このマリア様は~
   「ほんとうのマリア様ではございませぬか?」・・・・

  この伊東マンショは豊後の国の名高いキリシタン領主 
    大友宗麟  の遠縁にあたる少年であった。

   この1枚を手本に「聖画」の説明、てほどきの勉強を始める~
   生徒たちの質問で・・・「ほかにはどんな絵があるのでしょうか・・・」
   「そうですね。
   最後の晩餐の絵や、磔刑図、復活の図など、聖書に出て来るさまざまな
   物語が描かれたものがあります。」
  
 
  「キリスト磔刑図」
      

  「キリスト復活」
     

 マルティノの胸の中には・・・もっと西欧の絵を見てみたいという欲求の
 灯火がともってきた・・
       「ローマへ行くことはできないのだろうか~」
         * この1行   これからの伏線となります。  
 
 セミナリオに学ぶ学生たちは、世界地図を見ながら地理を学んでいた。
  ゆえに、大海原の向こうには大きな滝があって無理に行こうとすれば
  そこから奈落に落ちるなどとは、もはや誰も思っていなかった。 
  *当時の「日本」地図   
        


  さて、ある日、 この物語の主人公「宗達」が・・・
こんな突拍子もない作者の技で登場です。

みんなの前で紹介されたのは、
 「今日から、しばらくのあいだ、皆さんと一緒に学ぶことになった
   「アゴスティーノ」です。
 これは、ヴェリニャーノ様につけてもらった・・・

 「わてのほんとうの名は、野々村伊三郎宗達、といいます」
  
 この名前「宗達」は信長様からつけてもらった・・・ 
 その経緯はこうだ・・・
 一昨年、12歳のときに 信長様の御前で絵を披露した~
 そして、その結果、褒美に名を与えたのだ。 
 宗達ーという「絵師」の名を。   (後半で出て来ます)

 彼、伊三郎の家は京都の扇屋 「俵屋」の息子。
  小さいころから絵師たちの仕事を見て覚え~七つになったころ
  父は扇に絵を描く仕事を手伝わせた。
  あまりの出来のよさに驚いた父は、職人たちが作った扇とともに
  その鶴の絵の扇を店に出して見たところ、すぐに売れた~
   以降~しだいに評判が広がり…宗達の描いた扇を求めて人々が
  店にやって来た。
  
  *「扇絵」     こんな風に描いたもの。(見本です)
             

  
 
 あるとき、とある大名の使いの者が訪れ、店先に宗達の父を呼び出して
 問うた。 ・・・吾が殿がたいそうそちの扇をお気に召しておられる。
 ついては近々屋敷を普請するさいに、そちに襖絵を頼みたいのだが、
  受けてはくれぬか・・・・
 懐から出して見せてくれたのは・・・宗達が描いたものだった。

  その絵を描いたのは、この子です。 どうかお許しを・・・
  
  使いの者、伊三郎を見て・・・そちはいくつじゃ。
             ・・・七つにござります。
       父は平身低頭して詫び・・・るる説明を・・・

  もうよい、と笑って言った。
  吾が殿に申し伝えておこう。 *実は、この「殿」は、「織田信長」 
   俵屋にはいずれ天下一の絵師となる童がおる、ということを。

   さて、また物語の訳ありの挿入部分で重要ないきさつ・・・

 京にはすでに「南蛮寺」が建てられ(キリシタンの教会堂である)
 キリシタンたちの信仰のよりどころとなっていた。
 宗達は、南蛮寺の近くを通るたびに、そびえたつ楼閣を見上げて、一度で
 いいから中に入ってみたいと思いを募らせた。
  門前に日参し、その日見かけた人物、携えていた道具箱、馬の鞍、手綱、
  帽子や沓をつぶさに観察しそれらを素早く描いては消し・・・・
   頭の中にしっかり記憶していった・・・。

  そうして、2年ほどが経ったある日のこと~
  パードレが微笑みかけ、ー
   そなたは、教会の中に入ってみたいのでしょう。

  こうして協会の奥の祭壇に・・「聖母子像」が
  宗達は、ただ息を殺して、母と子の姿を見つめていたー

  場面 替わり・・・
 大名の使いの者が再び訪れ
 -俵屋よ、あらためて申し入れよう。
 上様がそちの息子を安土城にお召しになる。
 しからば、御前にて、絵を披露してみせよ。よいな?
 
 宗達、信長の居城、安土城へ召されることになった。
       ・・・・・・
 奥の上座の椅子に、織田信長が座していた。
  ここからは、私も驚いた・・・信長のスタイル 書物に「信長スタイル」を表現しているのは
    読んだことあるが・・・   この服装じゃない・・・どれだ?
    絵に残っている とかは、ないから。 
    これは マハさん得意の絵画的表現でしょうね・・・うまいよ。 
    絶対そんな感じでありそう・・ですね。

  驚いたのはその装束である。
  南蛮寺でときおり見かける西欧人と同じように、首の周りに白い布でできた
  ひだのある輪を着け、釦のある黒い上着と、赤と白の混じった膨らんだ袴を
  はいている。先の尖った沓まで履いていた。
     *この下線 の説明は、「伊東マンショ」の肖像画の「ひだ」の感じでしょうかねぇ。
            

   信長・・・童のごとき面をしておるな。 いくつじゃ。
      -はい、十二でござります。
   信長・・・余が見たこともない、珍しきものを描いてみよ。
      -御意。
   信長・・・にやりと笑みを浮かべた。

   従者がふたり、大きな何かを運んできた。
   それは、紙ではなく、二枚の板ー杉戸であった。
   やがて、岩絵の具が用意され、筆も極細から極太まで揃えられ
   たすき掛けのための紐もあった。   

  ・・・しばらく、何を描くか・・・沈黙の時間が・・・心を沈め・・・
   そうだ! 
   印度から渡来したー。 -象だー。

   宗達、決まれば・・・一気呵成に筆を動かす・・・

   面が形になり、しだいに線が~
   紙面の上を筆が いきいきと泳ぎ、 縦横無尽に飛び跳ねた。
   周囲を囲んで見ている皆には、何を描いているのか?
    見当もつかない・・・
   
    筆は軽妙に踊る~
   耳が、鼻が、口のわきから 鋭い「牙」が~
   二つの生き物。 それは二頭の「象」であった。
  
        

   一歩踏み出して、信長はその場に立ち尽くした。
    杉戸を見下ろして、つくづく眺めて、うむ・・・
     --見事じゃ。

   ーそちに、褒美をつかわそう。  
   「宗達」・・・これより、絵師、俵屋宗達と名乗るがよい。
        
    わが名は、宗達。--信長から下賜されし名であると。
  
  このことをきっかけに「宗達」の運命が大きく変わっていく~
 
   次は、明日へ。
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「風神雷神」NO.2 天正遣欧使節団

2020-05-08 | 日記

彩が見たのは・・・箱の底に現れたのは、ぼろぼろに傷んだ紙の束だった。

 IVPPITER  AEOLVS  
 VERA NARRATO   
   「ユピテル、アイオロス」 次の言葉は? ・・・
  レイモンドが 「ウエラ・ナラティオ。(真実の物語)という意味です。
 
  これは ・・・誰が書いたものですか?
  紙の隅を指し示した・・・ FARA MARTINO
    彩は、目を見張った ファラ、マルティノ。・・・原マルティノ

     ---まさかーーー天正遣欧使節の?

 この古文書の作者は?~
  天正遣欧使節の一員、 原マルティノ・・・かもしれません。

 「16世紀末、九州のキリシタン大名の名代としてローマに派遣され、ローマ教皇
  に謁見した少年たちがいた、いわゆる「天正遣欧使節団」である。

  そこには  織田信長がヴァリニヤーノの願いを
 聞き入れローマへの使節団を許可したのである。
  そして 教皇グレゴリウス13世 に謁見ができた。
 

 *これから その物語が始まる。
  その少年たち 伊東マンショ  
                (伊藤マンショ自画像 ヤコボ・チントレットが描いたもの
                          彼のものだけが残っている)
         千々石ミゲル
         中浦ジュリアン
         そして・・・原マルティノ

1586年(天正14)年、現在のドイツ 
アウグスブルグの新聞に掲載された天正遣欧使節の肖像画 
   左上 中浦ジュリアン    右上 伊東マンショ
       
   左下 原マルティノ     右下 千々石ミゲル

  使節団が長崎港から出立したのは1582年。戦国時代の真っただ中。
  信長の天下統一は目前の頃。
  巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリストの教えを人々に押し付ける
  のではなく、しっかりと根付かせたいと考えていた。
  彼は、日本人の優れた民族であると認め、この国に暮らす人々のすばらしさ
  をヨーロッパに人々にも知らせたいと切望した。  

    使節団の航路 往復(黒印) 
    ・長崎~マカオ~マラッカ~ゴア~モザンビーク~喜望峰~セントヘレナ島~リスボン
      ・ヨーロッパ(リスボンーマドリッドーバルセロナージェノヴァーヴェネッイアーローマ)
    
         

 ポルトガルが交易していた国々に寄港しながら、3年を費やしてローマを訪問。

 ついにローマ教皇と謁見を果たした。イタリア各地を歴訪して帰途についた。
 1590年、8年以上の年月をかけて帰国したとき、4人は青年に成長していた。
                

  その故国は、織田信長に替わって豊臣秀吉が天下統一を成し遂げていた。
 秀吉は当初キリスト教の布教を認めていたが、やがて使節団が帰国する
 3年前に伴天連追放令を発布していた。

 その後、日本のキリシタンがどれほど過酷な運命をたどったかは歴史が物語
 っている・・・。
     1597年2月5日(慶長元年12月19日)
 豊臣秀吉の命令によって長崎で貼り付けの刑に処された26人のカトリック信者。
 この出来事を「二十六聖人の殉教」という。
       
   長崎 日本二十六聖人記念碑     (二十六人の処刑を描いた1862年の版画)

 少年たちの、その後 伊東マンショは長崎で死去。中浦ジュリアンは穴吊りの刑
 に処され殉教。 千々石ミゲルは棄教者となった。
 そして 原マルティーノは・・・・マカオに追放され、晩年はマカオで過ごした
 ようだ・・・
 レイモンドは・・・「彼はマカオで宗教書を執筆、出版。
        帰国を望みながら亡くなりました。そして彼は・・・
        聖ポール天主堂に埋葬されたのです」
          *昨日、聖ポール天主堂の発掘調査~遺骨が派遣された と。
 
 彩は古文書をめくる~表紙の下に現れたのは・・・
 ボロボロの紙の上に並んだ縦書きの行書の文字・・・日本語の古文・・・
  これは? かすれた楷書で書かれた四文字・・・
  
          俵・・・屋・・・宗・・・達

  ここで 「プロローグ」は終わり  
  明日からは、 第1章に入っていきます。

  信長の妄想が膨らむ・・・行ってみたい、ローマへ。
   見てみたい、この目で。
       ~  ローマ行きを誰よりも渇望していたのは、
   ほかの誰でもなく 実のところ、織田信長だった・・・・

 その前に 「余談」ですが
 
  きのうの 黒人の「弥助」の話を。
  歴史ノンフィクション
    「信長と弥助」 本能寺を生き延びた黒人侍
           ロックリー・トーマス 不二淑子(訳)       
            

 1582年、本能寺・織田信長の側近の中に、得意な容貌でひときわ眼を惹く
 男がいた。その男こそ、日本史上初とされる黒人侍、弥助だった。
 信長の切腹後、弥助は危険をかえりみず、嫡男の信忠のもとへ走る。
 彼を駆り立てたのは、自分を信頼し、侍へと取り立てた信長への忠義心だったーー。
   
 これ、面白いよ~以前から、信長の「舶来趣味」?に興味があり、この黒人を従者にした
  ことも知ってはいましたが・・・詳細については分からなかった。
そんな時、このタイトルを見つけ、早速読みました~
いや~、信長って、やっぱりすごい人物です。
一人の黒人従者が、信長への「忠義心」・・・そんなことってあるんでしょうか~
 これも歴史の中の一コマ。

 この本の表紙にもなっていますが、南蛮絵の中に黒人の従者が・・・
 「弥助」ではありませんがね。
 
               

          
 
 靴を履き、きちんとした洋服を着たアフリカ人男性
 高貴なヨーロッパ人(おそらく使節)に日傘をさしかけ付き添っている。
 中央には西欧風の服を着た日本人の少年二人が、右手にはイエズス会の
 宣教師がいる。17世紀初めの狩野派の作品である。
 *どうです、この時代に 想像していたよりはスマートな・・・異人たち?
   
 それにしても、当時の絵師たちの腕の冴え、素晴らしい。
  描写力抜群じゃないですか~こう考えると、現在残っている武将たちの
  肖像画は、本当にリアルに写し描きしていると思いますね。
  だって、これもこんな本がありました。
  「信長の肖像」
        
   志野靖史作 ”似せ絵”が得意な小次郎は京に上り狩野一門に。
         ある日、織田信長から、甲斐の武田信玄の顔を描くという
          密命を受ける・・・。
   「小次郎、甲斐に行け。甲斐に行って写し絵を描いてこい」
   信長が答えた。
   「甲斐、はてどなたのお顔を描いてくればよろしいのでございますか」
   「信玄入道」

   *当時は、まだ「写真」の技術のないころ、直接「会う」以外には
    本人の確認ができない。
    信長は、敵将の顔を確認し、戦略を考える・・・この発想も凄い!
   
    今までのところ、教科書にもあるのが かの有名な「長谷川等伯」
    の信玄像  高野山 成慶院蔵
            
      しかし、信玄の肖像ではないとする風潮・・・?も。
    
     こちら 高野山 持明院にある1枚
           
      こちらのほうが「信玄像」として使用する傾向も?
   まぁ、いろいろの説ありで・・・どちらとも否定肯定 
   いかがなもの? 
   まだまだ 真剣(信玄)に検討する余地あり? でしょうか?

    さらには 妹の「お市」も 小次郎はこの小説の中では
   描いているのですよ・・・
      この顔は歴史に残っている1枚ですが・・・本当の絵師は? 
       (高野山 持明院像)
                 

  
   また明日へ 続きます。
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「風神雷神」上巻 原田マハ署

2020-05-07 | 日記
 2018・1・8「風神雷神を読んで」
 2018・5・1 「Gw前半の収穫はこの本にあり」
 2018・5・2 「昨日の続き(風神雷神)」
 と、柳広司の「風神雷神」を読破・・・ その読後感をブログにアップ。
      
あれから2年
今年のGWに、なんと奇遇だが同じタイトル「風神雷神」の1冊を手にした。

原田マハの~上巻を読み終えた。 
       

下巻を注文したので数日の時間を利用して感想をアップします。

まぁ、奇想天外なストーリー~美術愛好家なら面白い組み合わせだと思う。
作者のこの発想はどこから? 絵画シリーズ?を手掛けている彼女ならではと
、思わせるほど。

 狩野永徳と俵屋宗達に接点があった・・・
 織田信長の命により、二人が「洛中洛外図」を描いた。
 同じく信長の命により、
 宗達が天正遣欧使節団に同行してローマに・・・
 ありえない!

 歴史からの逸脱と大いなる矛盾を承知でのフィクションの数々。
 面白いといえば面白く・・・思わず、引きずり込まれ~
 「うそでしょ」と思いながら・・・まぁ なんせ400年以上前のこと
 自由自在の仕立てには う~む もしかしたら・・・ありかなのかなぁ~
 とまで 先のストーリーに期待を持たせる筆力。
 一気に読ませてもらいました。

 小説って、これでいいんんです。 面白ければ?
 まだ、下巻の展開がどのようになるかは分かりませんが
 今回も、数々の 「歴史上の人物」と「絵」(これは事実ですから)
 織り交ぜて、楽しんで下さい。
  フィクションとノンフィクションとの境目? 巧妙です。

プロローグ
「望月彩」という女性、京都国立博物館 
研究員として、この物語の牽引をしていきます。 
  
 会場の演題の前に立った彼女が
 「江戸初期の謎の絵師 俵屋宗達「風神雷神図屏風」をめぐる解釈
 
 ここから ドラマの始まりです・・・

 俵屋宗達の生涯は謎のベールに包まれている。
 史実では、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、京都で活躍した
 絵師であることは、ほぼ間違いない~実は生没年すらもはっきりしたことは
 わかっておらず、その実体は不明。
  この物語・・・だから作者は、縦横無尽に話を創作できる・・・と思い
 筆が軽やかに進むのである。
 
 彼女の宗達との出会い~これが主人公が6歳の頃両親に連れられて
 
 三十三間堂の前にある「養源院」という寺。   
 そこで目にしたのが 二枚の杉戸に描かれた絵。 
  それぞれに 白象がいた。

        

   =この絵はなぁ、昔むかしのえらい絵師さんが描かはったんよ。
     俵屋宗達、って名前の絵描きさんやで。 と母。
   
 あの日から、ずっと彩は宗達を追いかけてきた。
 彼女はいつか必ず「風神雷神図屏風」を中心に、世界中にある宗達の
 作品のすべてを集めて展覧会をするのだ。 

 そして、今日の演壇のスピーチが 

  国宝「風神雷神図屏風」は京都の禅寺建仁寺の至宝である。
             
  現在京都国立博物館に寄託されている。
  
 一曲一双、一対の屏風 紙金地着色の肉筆
       左双 雷神       右双 風神
      
               この絵の正確な制作年は、不詳。

この絵は ほんとうに宗達の絵なのか?
そういえば、この絵に宗達の署名もない。
つまり「実は宗達が描いたのではなく・・・」という仮説も不可能ではない?
400年も前の作品ですからねぇ。
だからこそ、面白いのだ~話を進めるには・・・。

 宗達が この絵の参考にしたものが「北野天神縁起絵巻」がある。  
 
 
この宗達の「風神雷神図屏風」に憧れて、のちの宗達に私淑した「尾形光琳」
光琳に私淑した「酒井芳一」は、それぞれ師の作品を模写したのです

 「尾形光琳」
        

 「酒井芳一」
        

「本文中」 ここで彩さんの解説(マハさんの創作) 全文を入れてみます。
 「光琳も、芳一も、それぞれに素晴らしい画家です。しかし、宗達は・・・
 やはり抜きん出ています。別格にユニークです」
 「作品全体を見ていただきたいのですが・・・風神も雷神も、それぞれに動きあありますね。
 スピード感にあふれている。風神は、こう、右側から風と共にやってきて、雷神は、こう、左上から
 雷光とともに降りてきた。まさに、空中に浮かんだ二神がいま、ここで出会った。
  そんなふんに見えませんか。・・・・なぜこんなにも動きと奥行きがあるように見えるのかと、
 風神も雷神も、ちょっと端が切れているんですね」 ・・・・・

望月彩の講座も質疑応答の時間を含め、熱気の包まれて終了した。

ここから また新しいドラマが・・・

 彩に面会希望の方が・・・
 「マカオ博物館 学芸員 レイモンド・ウオン」 が
  挨拶の後、最後の言葉が・・・謎めいて~
 「一度マカオへいらっしゃいませんか。 アヤ。
  あなたのご都合のよいときに・・・できるだけ早く」

 場面、変わって
 ~高速船からキャリーケースを引いて出てきた望月彩は、額に汗をにじませて、
 タクシー待ちの行列の最後尾に並んだ。
 朝十時に関西国際空港を発って香港へ飛び、高速船で小一時間ほどでマカオに
 到着した。
 到着後 ホテルでワンピースに着替え・・・レイモンドと彩は夕食を一緒に ~
    
   
 
 話は、「マカオの街の始まり」話から~ポルトガルが居留地として根を張りカトリックの宣教師たちが
 東南アジアの各地で布教活動を行った・・・その遺構がある。
 聖ポール天主堂跡である。        
 
 
  この天主堂は、1835年に台風により一帯が大火事・焼け落ちてファサードだけが遺った。
  この天主堂の話をレイモンドが語る。
  「最近、マカオ文化局の指示のもと、聖ポール天主堂跡で大掛かりな発掘調査があり、その調査で
   マカオ神学校の設立者で巡察師である「アレッサンドロ・ヴァリニヤーノ」を含む複数の修道僧の
   遺骨が発見され、同時に日本人殉教者の遺骨も~

  彩は「ヴァリニヤーノ」といえば、16世紀後半、日本にやってきて布教活動と学校の設立に尽力し
  時の権力者ー織田信長ーにもまみえた人物である。

  ここで 「アレッサンドロ・ヴァリニヤーノ」
  これからの物語の中で重要な役割で出てきます。
         
  *安土桃山時代から江戸初期の日本を訪れたイエズス会の司祭。イエズス会東インド管区の
   巡察師として活躍、「天正遣欧少年使節の派遣を計画・実施日本各地を訪れ、大友宗麟、
   高山右近、織田信長らと謁見する。
   特に、織田信長からは安土城を描いた屏風をローマ教皇グレゴリウス13世に献上されたが、
   現在に至るも、その存在は確認されておらず、行方不明。
   また、従者として連れていた黒人を信長が召し使えと所望したためこれを献上「弥助」
   名づけられて信長の直臣になっている。

      
     信長       大友宗麟

    ローマ教皇 グレゴリウス13世
   この項、のちほど 詳しく紹介します。 
   とりあえず登場人物として記憶しておく。
  
  話の続きはまだあった・・・レイモンドが会ったのは、ある真夏の午後。
  30代半ばの男・・彼の祖父から「お前に話したいことがるーこのベッドの下に箱がある。
  その中の絵とノートが入っている。それを・・・博物館にもって行ってくれないか・・・
  祖父は横たわり、やせ細った身体~ 「神様・・・許してください」 それが最期の言葉となった。

 これから、またまた 破天荒な物語の展開~前半の佳境入っていきますよ。

 なんせ上巻だけでも単行本363ページの大作です・・・整理が大変です。

  時間がありましたら・・・最初にご紹介した 以前の「風神雷神」
  読んでいただけると~ 宗達のこと 理解できると思いますが・・・
  「小説」って、作者の「切り口一つで」で こんなにも変化?
  違いに 驚くかと思いますが・・・

  また、明日で~す! 

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。