声を上ずらせて、信長は立ち上がった。
この屏風絵を、きさまは、七日のあいだに描き上げたのか?
ー永徳 答えは、否。 そして 是でござります。
要した日数は、ひと月にござります。
・・・これなる屏風絵は、わたしが23のときに、ひと月かけて
描き上げたものですが、
これには~
「足利義輝」 室町幕府第十三代将軍。
先の将軍、足利義輝さまよりご依頼を頂戴仕りしたもの・・・ですが。
ここで、時間を戻します・・・・
永禄八年(1565年)正月
永徳の父 狩野直信のもとへ 二条御所武衛より使者あり。
公方様の御前に召され・・・
義輝の所望したのは~「いかぶる武人の心をも虜にせしむる宝物のごとき絵を・・・「洛中洛外図」 を・・・
六曲一双、しかもできるだけ早く・・・ ホトトギスの鳴くころまでには仕上げよ~ 」
父が帰ってきての開口一番。
「公方様よりの作画のご下命は -「洛中洛外図」-
万が一にも・・・ご下命の期日までに仕上げることができなければ、
狩野一門はおとりつぶしになるであろう。 そこまで話すと、父はがっくりと頭を垂れました。
今は、うぐいすの初音を待ちわびる頃・・・ほととぎすの頃、というのは、ものの三月か、長くとも四月。
永徳・・・一門が総力を挙げて取り掛かっても、はたして間に合うかどうか~。
公方様がご所望されるのは、洛中洛外の名所のすべてを封じ込めた六曲一双。
微細にして壮麗、いかなる名馬、名刀もかすむほどの名画。・・・・
その一作を描き上げよ、とのご厳命。
・・・わたしは合点がゆきました。
ーなにゆえ 公方様が、それほどまでにお急ぎなのか?
どなたかに、この絵を贈られようとお考えに違いない。 しかも、火急でご入用なのだと。
永徳は、 すぐにも始めましょう、父上。
と、言ったものの・・・・
父は、来る日も来る日も筆を執ることはなかった・・・
白い紙の前に坐したまま・・・
やがて、声を振り絞り・・・わしは、描けぬ。 何も浮かばぬ。 筆さえ取れぬ。
・・・・・
父上、お願い申し上げます。
どうか、この永徳に筆を取らせて下さりませ。
直信ーこのわしの代わりに?
永徳ーはい、どうかわたくしにお任せくださりませ。
永徳は、父が奥の間にこもっている間~
この数か月、無我夢中で洛中洛外を巡り歩き、名所の数々、あますところなく
詳細に何もかも写し取り・・・整然と焼き付けております・・・
父に、描き方についての、提案を・・・
この洛中洛外のすべてを描かんとすれば、すべてをさらすのではなく、
むしろ、ところどころ隠してはどうだろうか・・・
名所名物の数々を、雲のまにまに垣間見せてはどうだろうか~
- 時間の経過 -
それから・・・無我夢中~描いて、描いて、描いて・・・
あとほんの少しで完成という・・とき。
歴史の一大事件が ! ・・・公方様・・・お隠れ・・・ *「永禄の変」
時は、永禄八年(1565年) 皐月の十九日。
*「将軍親政」を目指す足利義輝と、彼ら、三好義継、三好三人衆、松永久秀らの
軍勢に御所に攻め入られ殺されてしまった・・・
彼らにとって、将軍は、傀儡であるのが望ましく、義輝の存在が邪魔だった。
三人衆の兵力は約一万。一方、義輝のといえば数百人・・・
剣豪として名高い塚原卜伝の弟子で武術に優れ、自らも刀で応戦。
しかし、多勢に無勢、主従全員が亡くなりました。
その後、血で血を洗う戦国の争乱~結局、信長によって第十五代将軍
足利義昭が京から追放され、室町幕府は滅亡した。
永徳は、その依頼の品「洛中洛外図」を、信長の御前に持ち出し、何もかも
正直に打ち明けるのであった。
狩野永徳の長い独白を、信長は身じろぎもせず聴き入っていた。
信長ー 義輝公が、この「洛中洛外図」を、いかにせんと考えておられたか。
知りたくはないか。
・・・・・
信長はー とある他国の武傑を懐柔せしむるためじゃ。 と、言った。
*公方(足利義輝)の所望は、永徳の父に・・・このように 言っていましたよね。
「いかぶる武人の心をも虜にせしむる宝物のごとき絵を・・「洛中洛外図」を・・・
「永徳よ。 余は、きさまが気に入った。」 信長は朗々とした声で言った。
「ーまもなく安土に築城のおり、城内すべての障壁画を狩野一門に任せよう。
・・・・よいな。」
~「まことにありがたき幸せ、謹んでお引き受け奉りまする」・・・永徳。
天正七年(1579年) 普請に三年以上の月日をかけて、琵琶湖のほとりに
安土城が完成した。
復元図による安土城
滋賀県 安土城郭資料館 (20分の1で再現された幻の名城安土城)
(安土城復元模型)
安土城郭資料館蔵 屏風絵風陶版壁画 (安土城)
南蛮人の行列が安土城へ向かう様子
二条城と京都の四季
約束通り、信長は内装に狩野一門を取り立て、城内の障壁画を一任した。
様々な障壁画が制作された・・・
松、杉、柳、虎、鷹、鶴、鷺等々・・・
永徳の花鳥風月が城内をまぶしく飾り、訪れる者の目を奪った。
「洛中洛外図」ほどの細密なものではなかった。
同じものを描けと・・・下命されれば、永徳は描かざるをえなかったが、
信長はそれを求めなかった。
信長にとって「洛中洛外図」は、あくまでも戦略の道具なのだ。
必要のない依頼はしない。
◆◆ 天下人、織田信長に認められ、
もはやその名を知らぬ者はいないほど名を馳せた
絵師、狩野永徳 ◆◆