黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

秀吉「最後の城」京都新城の遺構

2020-05-13 | 日記
今朝の朝刊の1面
   
 
       出土した「京都新城」の遺構とされる石垣 (上記新聞の写真より)
     

この頃の私。 コロナ禍で時間がたっぷり・・・
「風神雷神」の「絵画」をアップ普段よりは丁寧な作業を続けている最中に~
 ビッグニュースです。

したがって、今日の「風神雷神」は おやすみにします。

偶然にも同じ時代の話題・・・
「風神雷神」の内容には織田信長が登場し、宗達、永徳ら
 以後、秀吉、家康と続く・・・
これから 「安土城」も話題の渦中に入り、遣欧使節はローマへ。
                  

そうした中に、信長が本能寺でその生涯を終えた後の天下人
「豊臣秀吉」・・・その最晩年に建てた「京都新城」の遺構が400年ぶりに
姿を現した。 
なんと言うタイミングでしょう。    
   
歴史好きな私にとって・・・またまた興味をそそる話題。
 しかも、「安土城」だってまだまだ謎多し。
今、ブログアップしている「洛中洛外図」(安土山屏風)だって
       
        
時のローマ法王グレゴリウス13世に信長の命により遣欧使節が届けた
屏風のその後も今だ発見されていない・・・。
            
さらには、以前、ブログにもアップした。(2016.4.8)
 秀吉ゆかりの「豊臣期大坂図屏風」が、ヨーロッパの古城にあったのだ。
 しかしその屏風の行方も今だ不明~
     
            全体 八曲一隻
           
             中央 大阪城

このように500~400年前、室町桃山時代の歴史の謎が、
      今世紀になって~「新発見」によって、その事実が顔を出す。
            興味津々です。 

新聞の記事から
  京都新城は1597年、御所の南東にほぼ隣接して築かれた。
  当時は「太閤御屋敷」「太閤御所」とも呼ばれたという。
  
  高台院屋敷とみられる建物が描かれた「洛中洛外図屏風」  
          
                        新聞掲載より
         
                     (林原美術館所蔵)
    
洛中洛外図屏風(林原美術館所蔵 池田本) 
        この扇(赤丸印)
         赤印部分・・・私が部分編集したもの。
 
 「京都御所」
       
  秀吉はその10年前、御所の西約1キロ、かって平安京大内裏があったとされる場所に
  関白として政務をとるための聚楽第を築城している。その後、甥の秀次に関白の座と 
   ともに譲ったが、秀頼が誕生したため、秀次は自害に追い込まれ、聚楽第は徹底的に
  破壊された。
  「聚楽第」
         

        
秀吉 秀次 秀頼
   
    

  「万が一、自分の死後に徳川家康に権力の座を奪われたとしても、公家として豊臣家
 を存続させたい。摂政・関白職を独占した五摂家と並ぶ武家貴族になったんだ、という
 権威を残したかったかもしれない」・・・
   徳川家康    
              

   *五摂家=摂政関白の家柄 近衛・九条・鷹司・一条・二条の五家をいう。
    秀吉が死去した後は正室の北政所(高台院)が利用した。
     「高台院」
           

北政所の死去後、徳川家は退位した天皇のため、同じ場所に仙洞御所を建築。
      
                 今は仙洞御所跡に庭のみ。
豊臣時代の面影は失われた。

  中井均・滋賀県立大教授(日本城郭史)は
   「 ・・・秀頼に将来関白を継いでもらうため、造られたのだろう。
     日本の城の発掘では今世紀最大の発見だ」 と話す。

  また機会があったら・・・このニュースの後日談、アップできるといいのですがねぇ。
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。