黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

インドの「ゴア」~いよいよヨーロッパへ

2020-05-23 | 日記
     謎多き琳派の祖 「俵屋宗達」 ×バロックの巨匠 「カラヴァッジョ」

   下巻の始まり!
       
         

 この二人の出会い・・・
 世界史の勉強していると、「世界」も「日本」も 
   時間は同じに動いている。
 同じ時代に生きていれば・・・もしかしたら?
 「出会い」はゼロではない。
 と、思うのは?  でも、みんなが そう 思うかどうか?

 当時、ヨーロッパの国々では、天正遣欧使節がイタリアに来ていることは
 大きなニュースであった・・・と 思います。

 そこに生活している人々もこのことについて知らないわけはなかった。
 そんなことを考えると・・・

 同じ少年時代の 「宗達」  「カラヴァッジョ」
 片や初めてのヨーロッパ  絵画の勉強に。
 一方は、ミラノで絵画の修行をしている身。

 どちらも、後世、ユニークな画家として大成するのだが・・・
 この天正使節という史実の中に挿入して、ドラマチックに
 出会いを作る~ 作者は、これは面白いぞ! と。
   二人を会わせよう ・・・と思ったのでしょうね。

 さあ どんな展開になるのか・・・美術鑑賞をしながら
     しばらく天正使節団を追いかけていきましょう。


1583年(天正十一年) 十一月  インドのゴアに到着
  
長崎を出航してから、すでに1年と9か月が過ぎていた。
ゴアに到着するまでに、一行は、セイロン島、ピスカーリア、コチンにそれぞれ寄港。
途中、いろいろな災難に遭遇。
 ある時は、海賊に襲われたりもした。 

 到着後、インドの副王ドン・フランシスコ・マスカレニヤスは、使節の四人の
少年をひとりずつ抱擁し、長旅の労をねぎらった。

天然の良港をもつゴアは、1510年、ポルトガルに占領されたのち、
1530年にはポルトガル領インドの首府となって栄えてきた。
イエズス会の最重要拠点として、多くの宣教師たちがこの地から
アジア各地へと送り込まれた。
 かのランシスコ・ザビエルも  

この地より日本に出立し、いまではこの地の
      「ボン・ジャズ・パリシカ聖堂」に眠っている。
       

 このファサード(正面部分のデザイン)は、
「世界最初の真のバロック様式のファサード」と言われている。

世界中のイエズス会の教会は、この教会をモデルとしている。
    聖堂内の     天井画は見事なもの
          

  内装部分も豪華で目を見張る・・・

          

 「ザビエルの遺体」
 銀の棺の中に、遺体が安置されており、ミイラ化した遺体が眠っています。
 10年一度公開され、信者がその姿を見に世界中から訪れます。

        
   
 
 教会のほかにも、数多くの修道院、学びの舎であるコロジオ他
              修道士たちのための施設が整っていた。

    (聖フランシス教会)
    

   祭壇
           

      (聖アレックス教会)
        
     (バナジ教会)
        
     (セ・カテドラル)
        

街を行く人々の肌の色は黒く、黒髪で大きな黒い瞳をしていた。
そしてこの街には、マカオとは比べられないほど多くの西欧人が暮らしていた。
歩いていると、聞こえてくるのはほとんどがポルトガル語である。

この頃になると、航海中に学び続けたきた成果があって、少年たちは
皆、難なくポルトガル語、そしてラテン語を話せるようになっていた。
 
 *宗達は、ゴアに到着してからも・・・とにかく描いて描いて・・・描きまくった。


  突然、みんなにヴァリニヤーノが、
  「ゴアにとどまることになった。
   この度、インドの管区長となり、イエズス会の活動を支えていくのが
   私の使命になったので・・・
   一緒にローマへ行くことが出来なくなった~」  と。
   
  私の代わりにローマまで同行する・・・・と
  ゴアの コレジオ・デ・サンパウロの院長
  「ヌーノ・ロドリゲス」が挨拶した。  

 ゴアの港を離れた~        
 インドのコチンに寄港し、そこで風待ちをして・・・1584年(天正十二年)
 二月二十日 西欧の入口となるポルトガルのリスボンを目指して出発した。

 この先はインド洋を渡り、アフリカ大陸の最南端、喜望峰を回って、大西洋に
 浮かぶ島、「セントヘレナ」に寄港するまでは、いっさい大地を踏むことなく、
 ただ水上をひた走っていかねばならない。
             どのくらい長い旅に・・・長くて十月はかかるという。

 船上では日々、少年たちは今まで以上にラテン語の勉強を懸命に学び
 日本語の読み書きも同じくらいの時間を費やした。
 指導にあたる日本人修道士、ロヨラもその秀才ぶりに驚いた。
 中でも、マルティノは際立ち、得意のラテン語で稿をしたため謁見のための
 披露をするための準備に怠りない・・・。

 季節風に帆をいっぱいふくらませ、使節団の船はどんどん加速しながら
 大海原を渡っていった。
    
           ↑ 喜望峰を無事通過した。
 

 
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。