黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「風神雷神図」NO.4  信長に認められた狩野永徳

2020-05-11 | 日記
声を上ずらせて、信長は立ち上がった。
 この屏風絵を、きさまは、七日のあいだに描き上げたのか?
     

 ー永徳 答えは、。  そして 是でござります。
    要した日数は、ひと月にござります。
 ・・・これなる屏風絵は、わたしが23のときに、ひと月かけて
 描き上げたものですが、 
 これには~
     
      「足利義輝」 室町幕府第十三代将軍。
  先の将軍、足利義輝さまよりご依頼を頂戴仕りしたもの・・・ですが。

ここで、時間を戻します・・・・

 永禄八年(1565年)正月
  永徳の父 狩野直信のもとへ 二条御所武衛より使者あり。    
             
   公方様の御前に召され・・・

義輝の所望したのは~「いかぶる武人の心をも虜にせしむる宝物のごとき絵を・・・「洛中洛外図」 を・・・
          六曲一双、しかもできるだけ早く・・・ ホトトギスの鳴くころまでには仕上げよ~ 」

父が帰ってきての開口一番。 
  「公方様よりの作画のご下命は -「洛中洛外図」-
万が一にも・・・ご下命の期日までに仕上げることができなければ、
狩野一門はおとりつぶしになるであろう。 そこまで話すと、父はがっくりと頭を垂れました。
今は、うぐいすの初音を待ちわびる頃・・・ほととぎすの頃、というのは、ものの三月か、長くとも四月。

永徳・・・一門が総力を挙げて取り掛かっても、はたして間に合うかどうか~。
    公方様がご所望されるのは、洛中洛外の名所のすべてを封じ込めた六曲一双。
    微細にして壮麗、いかなる名馬、名刀もかすむほどの名画。・・・・
    その一作を描き上げよ、とのご厳命。
     ・・・わたしは合点がゆきました。
   ーなにゆえ 公方様が、それほどまでにお急ぎなのか?
   どなたかに、この絵を贈られようとお考えに違いない。 しかも、火急でご入用なのだと。

 永徳は、 すぐにも始めましょう、父上。 

 と、言ったものの・・・・
 父は、来る日も来る日も筆を執ることはなかった・・・
 白い紙の前に坐したまま・・・
 やがて、声を振り絞り・・・わしは、描けぬ。 何も浮かばぬ。 筆さえ取れぬ。
   ・・・・・
  父上、お願い申し上げます。
 どうか、この永徳に筆を取らせて下さりませ。

 直信ーこのわしの代わりに?
 永徳ーはい、どうかわたくしにお任せくださりませ。

 永徳は、父が奥の間にこもっている間~
  この数か月、無我夢中で洛中洛外を巡り歩き、名所の数々、あますところなく
 詳細に何もかも写し取り・・・整然と焼き付けております・・・
 
父に、描き方についての、提案を・・・
 この洛中洛外のすべてを描かんとすれば、すべてをさらすのではなく、
 むしろ、ところどころ隠してはどうだろうか・・・
 名所名物の数々を、雲のまにまに垣間見せてはどうだろうか~

          - 時間の経過 -

 それから・・・無我夢中~描いて、描いて、描いて・・・
 あとほんの少しで完成という・・とき。

 歴史の一大事件が ! ・・・公方様・・・お隠れ・・・ *「永禄の変」
              
      時は、永禄八年(1565年) 皐月の十九日。

*「将軍親政」を目指す足利義輝と、彼ら、三好義継、三好三人衆、松永久秀らの
 軍勢に御所に攻め入られ殺されてしまった・・・
 彼らにとって、将軍は、傀儡であるのが望ましく、義輝の存在が邪魔だった。
 三人衆の兵力は約一万。一方、義輝のといえば数百人・・・
 剣豪として名高い塚原卜伝の弟子で武術に優れ、自らも刀で応戦。
 しかし、多勢に無勢、主従全員が亡くなりました。

 その後、血で血を洗う戦国の争乱~結局、信長によって第十五代将軍
足利義昭が京から追放され、室町幕府は滅亡した。


永徳は、その依頼の品「洛中洛外図」を、信長の御前に持ち出し、何もかも
正直に打ち明けるのであった。

狩野永徳の長い独白を、信長は身じろぎもせず聴き入っていた。

信長ー 義輝公が、この「洛中洛外図」を、いかにせんと考えておられたか。
    知りたくはないか。
     ・・・・・
信長はー とある他国の武傑を懐柔せしむるためじゃ。 と、言った。
 *公方(足利義輝)の所望は、永徳の父に・・・このように 言っていましたよね。
  「いかぶる武人の心をも虜にせしむる宝物のごとき絵を・・「洛中洛外図」を・・・
  

 「永徳よ。 余は、きさまが気に入った。」 信長は朗々とした声で言った。
 
 「ーまもなく安土に築城のおり、城内すべての障壁画を狩野一門に任せよう
 ・・・・よいな。」

 ~「まことにありがたき幸せ、謹んでお引き受け奉りまする」・・・永徳。

 天正七年(1579年) 普請に三年以上の月日をかけて、琵琶湖のほとりに
 安土城が完成した。

      復元図による安土城

  滋賀県 安土城郭資料館 (20分の1で再現された幻の名城安土城)
 (安土城復元模型)

 安土城郭資料館蔵 屏風絵風陶版壁画 (安土城)
 

 南蛮人の行列が安土城へ向かう様子

 二条城と京都の四季

 約束通り、信長は内装に狩野一門を取り立て、城内の障壁画を一任した。
  様々な障壁画が制作された・・・
 松、杉、柳、虎、鷹、鶴、鷺等々・・・
 永徳の花鳥風月が城内をまぶしく飾り、訪れる者の目を奪った。

  「洛中洛外図」ほどの細密なものではなかった。

 同じものを描けと・・・下命されれば、永徳は描かざるをえなかったが、
  信長はそれを求めなかった。
  信長にとって「洛中洛外図」は、あくまでも戦略の道具なのだ。

  必要のない依頼はしない。 

 ◆◆ 天下人、織田信長に認められ、
       もはやその名を知らぬ者はいないほど名を馳せた
                       絵師、狩野永徳  ◆◆


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