物語の場面は天正8年(1580年) 肥前・有馬から
これから出て来る少年たち ・・・天正遣欧使節の4人ら
まず 当時、12歳の原マルティノ
原家は、肥前の国(現在の長崎県)大村純忠(ドン・バルトロメウ)の
領地である波佐見一体を治める名門の武家である。
父・中務ファラーノは領主の遠縁であり忠実な家臣。
領主純忠は、永禄6年(1563年)洗礼を受けた。
(大村純忠の受洗)
以後、九州の諸領主が次々にキリシタンとなっていったが、純忠は
その最初のひとりであった。
大村の領地には天然の良港、長崎があり、これを狙う九州の列強から
常に攻められていた。
同じ肥前国の・・・龍造寺隆信とは激しく火花を~
毛利と組んで、肥前一帯の征服をと・・虎視眈々。
そこで同じ領地の西側の「有馬氏」と組み、南蛮からやって来た
キリスト教のパードレたちに目を付けた。
彼らは、新しい宗教とともに、西洋の学問、芸術、舶来品の数々
そして交易を領内に誘致して武器や財力を得ようとした。
島原半島一体に勢力を持つ有馬家領主有馬晴信もそのひとりで
あった。
ポルトガルとの貿易には条件があった。領民へのキリスト教布教を
認めることである。
有馬晴信も洗礼を受け、ドン・プロタジオと名乗った。
宣教師フロイスが記した歴史書である「日本史」によると、有馬氏は、
イエズス会から支援を受けたことによって、隣接する佐賀で勢力を拡大
していた龍造寺隆信の襲撃をしのぐことができたとある。
そこに「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」がこの地 有馬の港、
口之津に到着した。
東インド管区の巡察師責任者として。
到着後、すぐに彼は、自分たちが日本にいるからには、日本のしきたり
に合わせて布教しなければならないと、パードレたちに通達した。
神の教えを、この国に根づかせるためには、教育が必要であると。
まず、少年たちの学びの舎、セミナリオの開設だと。
彼は安土を訪れ、織田信長に謁見。
キリスト教の布教を容認、南蛮貿易とその文化に興味を示す。
(この信長の興味・・・後半、出て来ますよ・・・)
開設の許可を得た。
そののち、九州のキリシタン大名たち(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)に
相談~セミナリオの開設となる。
有馬のセミナリオに、マルティノ、ジュリアン、ミゲル、マンショたちの
寄宿舎での生活が始まった・・・
ある日 初めての絵画の授業でみんなの前に広げられた1枚の絵~
聖母子像であった。
*実際は、誰の描いた絵を七日授業に使ったかは分かりませんが・・・私が選んだ数多くある
「聖母子像」の中から、サンドロ・ボッティチェリ作をアップします。
瞬間、みんなは息をのんだ・・・生徒たちはなかなか立ち上がろうとしない。
「伊東マンショ」がようやく言葉を発した・・・このマリア様は~
「ほんとうのマリア様ではございませぬか?」・・・・
この伊東マンショは豊後の国の名高いキリシタン領主
大友宗麟 の遠縁にあたる少年であった。
この1枚を手本に「聖画」の説明、てほどきの勉強を始める~
生徒たちの質問で・・・「ほかにはどんな絵があるのでしょうか・・・」
「そうですね。
最後の晩餐の絵や、磔刑図、復活の図など、聖書に出て来るさまざまな
物語が描かれたものがあります。」
「キリスト磔刑図」
「キリスト復活」
マルティノの胸の中には・・・もっと西欧の絵を見てみたいという欲求の
灯火がともってきた・・・
「ローマへ行くことはできないのだろうか~」
* この1行 これからの伏線となります。
セミナリオに学ぶ学生たちは、世界地図を見ながら地理を学んでいた。
ゆえに、大海原の向こうには大きな滝があって無理に行こうとすれば
そこから奈落に落ちるなどとは、もはや誰も思っていなかった。
*当時の「日本」地図
さて、ある日、 この物語の主人公「宗達」が・・・
こんな突拍子もない作者の技で登場です。
みんなの前で紹介されたのは、
「今日から、しばらくのあいだ、皆さんと一緒に学ぶことになった
「アゴスティーノ」です。
これは、ヴェリニャーノ様につけてもらった・・・
「わてのほんとうの名は、野々村伊三郎宗達、といいます」
この名前「宗達」は信長様からつけてもらった・・・
その経緯はこうだ・・・
一昨年、12歳のときに 信長様の御前で絵を披露した~
そして、その結果、褒美に名を与えたのだ。
宗達ーという「絵師」の名を。 (後半で出て来ます)
彼、伊三郎の家は京都の扇屋 「俵屋」の息子。
小さいころから絵師たちの仕事を見て覚え~七つになったころ
父は扇に絵を描く仕事を手伝わせた。
あまりの出来のよさに驚いた父は、職人たちが作った扇とともに
その鶴の絵の扇を店に出して見たところ、すぐに売れた~
以降~しだいに評判が広がり…宗達の描いた扇を求めて人々が
店にやって来た。
*「扇絵」 こんな風に描いたもの。(見本です)
あるとき、とある大名の使いの者が訪れ、店先に宗達の父を呼び出して
問うた。 ・・・吾が殿がたいそうそちの扇をお気に召しておられる。
ついては近々屋敷を普請するさいに、そちに襖絵を頼みたいのだが、
受けてはくれぬか・・・・
懐から出して見せてくれたのは・・・宗達が描いたものだった。
その絵を描いたのは、この子です。 どうかお許しを・・・
使いの者、伊三郎を見て・・・そちはいくつじゃ。
・・・七つにござります。
父は平身低頭して詫び・・・るる説明を・・・
もうよい、と笑って言った。
-吾が殿に申し伝えておこう。 *実は、この「殿」は、「織田信長」
俵屋にはいずれ天下一の絵師となる童がおる、ということを。
さて、また物語の訳ありの挿入部分で重要ないきさつ・・・
京にはすでに「南蛮寺」が建てられ(キリシタンの教会堂である)
キリシタンたちの信仰のよりどころとなっていた。
宗達は、南蛮寺の近くを通るたびに、そびえたつ楼閣を見上げて、一度で
いいから中に入ってみたいと思いを募らせた。
門前に日参し、その日見かけた人物、携えていた道具箱、馬の鞍、手綱、
帽子や沓をつぶさに観察しそれらを素早く描いては消し・・・・
頭の中にしっかり記憶していった・・・。
そうして、2年ほどが経ったある日のこと~
パードレが微笑みかけ、ー
そなたは、教会の中に入ってみたいのでしょう。
こうして協会の奥の祭壇に・・「聖母子像」が
宗達は、ただ息を殺して、母と子の姿を見つめていたー
場面 替わり・・・
大名の使いの者が再び訪れ
-俵屋よ、あらためて申し入れよう。
上様がそちの息子を安土城にお召しになる。
しからば、御前にて、絵を披露してみせよ。よいな?
宗達、信長の居城、安土城へ召されることになった。
・・・・・・
奥の上座の椅子に、織田信長が座していた。
◆ここからは、私も驚いた・・・信長のスタイル 書物に「信長スタイル」を表現しているのは
読んだことあるが・・・ この服装じゃない・・・どれだ?
絵に残っている とかは、ないから。
これは マハさん得意の絵画的表現でしょうね・・・うまいよ。
絶対そんな感じでありそう・・ですね。
驚いたのはその装束である。
南蛮寺でときおり見かける西欧人と同じように、首の周りに白い布でできた
ひだのある輪を着け、釦のある黒い上着と、赤と白の混じった膨らんだ袴を
はいている。先の尖った沓まで履いていた。
*この下線 の説明は、「伊東マンショ」の肖像画の「ひだ」の感じでしょうかねぇ。
信長・・・童のごとき面をしておるな。 いくつじゃ。
-はい、十二でござります。
信長・・・余が見たこともない、珍しきものを描いてみよ。
-御意。
信長・・・にやりと笑みを浮かべた。
従者がふたり、大きな何かを運んできた。
それは、紙ではなく、二枚の板ー杉戸であった。
やがて、岩絵の具が用意され、筆も極細から極太まで揃えられ
たすき掛けのための紐もあった。
・・・しばらく、何を描くか・・・沈黙の時間が・・・心を沈め・・・
そうだ!
印度から渡来したー。 -象だー。
宗達、決まれば・・・一気呵成に筆を動かす・・・
面が形になり、しだいに線が~
紙面の上を筆が いきいきと泳ぎ、 縦横無尽に飛び跳ねた。
周囲を囲んで見ている皆には、何を描いているのか?
見当もつかない・・・
筆は軽妙に踊る~
耳が、鼻が、口のわきから 鋭い「牙」が~
二つの生き物。 それは二頭の「象」であった。
一歩踏み出して、信長はその場に立ち尽くした。
杉戸を見下ろして、つくづく眺めて、うむ・・・
--見事じゃ。
ーそちに、褒美をつかわそう。
「宗達」・・・これより、絵師、俵屋宗達と名乗るがよい。
わが名は、宗達。--信長から下賜されし名であると。
このことをきっかけに「宗達」の運命が大きく変わっていく~
次は、明日へ。