黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「風神雷神」NO.3 信長と狩野永徳

2020-05-10 | 日記
信長より絵師としての名を下賜されたーーと。
 うわさは、瞬く間に都じゅうに知れ渡ってしまった。
「俵屋宗達」が描いた扇を手にれようと、大勢の人々が
こぞって店に押し寄せた。 

 もうお客への対応に四苦八苦~金子はいくらでも出す。
              ~やんごとなき方からの使者だと言いい
              ~遠国の大名の家来も

 こんな状況から・・・
宗達の父が、息子の修行先として接触を図っていた絵師の名門。
それは、天下一の絵師集団として誉れ高い狩野一門であった。
  *ここから、物語は、「狩野永徳」の登場、そして織田信長との「屏風絵」の話になっていきます。

狩野派は、室町幕府の御用絵師「正信」を祖とし、二代目「元信」三代目「直信」(松栄)は、大名に劣らぬ
一大勢力であった宗門、大阪本願寺(石山本願寺)の障壁画制作に父とともに参加したのをはじめ、京の
主要な寺院の障壁画を手掛け、宮廷や公家とも接触して、狩野の家名を一層高めるのに貢献した。
そして、その嫡男で現在の狩野一門を率いているのが州信(永徳)である。
 
 幼い頃より祖父と父に作画の手ほどきを受けて育った永徳は、早くから
並々ならぬ画才を発揮した。
 大徳寺の塔頭、「聚光院方丈障壁画」を父とともに手掛けたとき、永徳は
 二十代の若者であった。 足利義輝に謁見している。
 しかし、永徳が描いた「花鳥図」は、比類なき出来映えであると、瞬く間に
評判となった。
 *
  「聚光院方丈障壁画」 (花鳥図)  すべてが国宝
 
   (四季花鳥図襖)  梅図
  
  *早春のせせらぎに勢いよくせり出す梅の大木。 その枝に咲く小さな花々の馥郁とした香りが
    漂ってくるかのような画面は、まことに清々しく、見る者を画中に引き込む力がある。 
    部分を細かく・・・
      
    梅ノ木     先に伸びる枝   二羽の小鳥     流水
  「琴棋書画図」国宝 
 
          
      
 
    
  
  

    

   
                   *現在は、京都国立博物館 寄託

 *この絵を描いたのが20歳代と云われているが「近年、行われた、様式・建築年代の再調査、再検討の結果、
 40歳頃とする説も・・・さらなる研究が待たれる~。 だから、歴史は面白い。 

 肖像画「織田信長」

        

 信長の肖像画については、一般的にはご存じのこの1枚。
         
         (永徳の弟 狩野宗秀作)
 ここで 他のものも・・・
          
         (長谷川等伯作)
 
           
        (キリシタン伴天連による木炭デッサン)
     *信長の死後、ジョヴァンニ・ニコラオによって描かれた・・・の説もあるが・・?

   どれも 信長 って 感じだと思いますね、みんな特徴掴んでいる と 想像ですが
   ・・・写真の技術があれば決着ついたのに~

 信長像も結構全国にあるようですが~
  こんな凄い? のも。
  岐阜市駅前に黄金の像が・・・「信長公の銅像を贈る会」が寄付金で設置したそうです。
  「信長、普段、いや、出陣? こんな格好していた? 
          鎧、甲冑、長沓、手に鉄砲・・・マント(きっと赤でしょうね)」

        

 この物語には作品として出て来ませんが 
 この2点は誰でもご存じの永徳作「国宝」の作品を紹介しておきます。

   「唐獅子図屏風」 宮内庁三の丸尚蔵館
  

   「檜図屏風」 東京国立博物館
  

 
 永徳の絵が評判になっていった・・・
 信長が・・・聞き捨てるはずもない。
 さっそく、自らの政治的策略の道具として永徳の筆を利用した
  その頃、天下の派遣を争う武将たちの中で信長が最も警戒していたのは、
 越後の国の上杉謙信であった。
  謙信に上洛されてはならぬ・・・・信長は画策の末に謙信と同盟を結んだ。

       同盟を結ぶ    
              win win
  
同盟を堅持する証として~何か・・・
  思案した信長は~永徳による六曲一双の屏風絵
  「洛中洛外図」に目を付けた。

 「「洛中洛外図」とは、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観の風景を描いた
  屏風絵。現存するものの中で良質なものは、30~40点とされる。
  戦後期時代にあたる16世紀初期から江戸時代に制作された。
   国宝が2点、重要文化財に指定されているのが5点ある。


 信長は、永徳を御前に召し出した。
  余が望む絵をすぐさまに描けるか、どうじゃ。
  ・・・・
  は、 はい、お望みとあらば・・・。
  しからば、「洛中洛外図」を描いてみせよ。

 信長の命である~
   その要求は、七日のうちに描きあげよとは~

 七日後・・・
 信長の目の前に、広がったのは、黄金に輝く絢爛たる都の風景~
  六曲一双の扇に広がる金色の龍雲、御殿、社寺、屋敷、店。
  そこに集まる老若男女、貴人、公家、武人、商人・・・・ 

  *「洛中洛外図」上杉本 米沢藩主上杉家に伝来=米沢上杉博物館蔵
     高さ160㎝ 幅365㎝ 金運 六曲一双
   (右隻)
  
 
             (右隻)第三扇 南蛮寺も~
               
  (左隻)
  
  
                (左隻 第三扇 細川殿)
                

    見よ! この細かい描写~描かれているのは2500人にも・・・
  
 この絵の制作には、次回に説明しますが。
 まず「室町幕府第十三代足利義輝」からの依頼があり・・・
 織田信長 →上杉謙信へ と 話が展開します。
     
    →     →   
         
 (余談ですが)
  信長から謙信に贈ったのこの屏風のほかに・・・
  「赤地牡丹唐草文天鵞絨羊套(びろーどようとう)」
   舶来趣味の信長、きっと謙信を驚かそうと思って~
    パードレたちからの贈り物だと思うけど・・・
    謙信も、びっくり? これ着ただろうか?
       
  
  さて、完成した「洛中洛外図」を見た 信長は・・・

  ーこ・・・こ・・・れは・・・。   
  声を上ずらせて、信長は立ち上がった。
 
     明日へ~
 
            
コメント
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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。