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まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「風神雷神」NO.2 天正遣欧使節団

2020-05-08 | 日記

彩が見たのは・・・箱の底に現れたのは、ぼろぼろに傷んだ紙の束だった。

 IVPPITER  AEOLVS  
 VERA NARRATO   
   「ユピテル、アイオロス」 次の言葉は? ・・・
  レイモンドが 「ウエラ・ナラティオ。(真実の物語)という意味です。
 
  これは ・・・誰が書いたものですか?
  紙の隅を指し示した・・・ FARA MARTINO
    彩は、目を見張った ファラ、マルティノ。・・・原マルティノ

     ---まさかーーー天正遣欧使節の?

 この古文書の作者は?~
  天正遣欧使節の一員、 原マルティノ・・・かもしれません。

 「16世紀末、九州のキリシタン大名の名代としてローマに派遣され、ローマ教皇
  に謁見した少年たちがいた、いわゆる「天正遣欧使節団」である。

  そこには  織田信長がヴァリニヤーノの願いを
 聞き入れローマへの使節団を許可したのである。
  そして 教皇グレゴリウス13世 に謁見ができた。
 

 *これから その物語が始まる。
  その少年たち 伊東マンショ  
                (伊藤マンショ自画像 ヤコボ・チントレットが描いたもの
                          彼のものだけが残っている)
         千々石ミゲル
         中浦ジュリアン
         そして・・・原マルティノ

1586年(天正14)年、現在のドイツ 
アウグスブルグの新聞に掲載された天正遣欧使節の肖像画 
   左上 中浦ジュリアン    右上 伊東マンショ
       
   左下 原マルティノ     右下 千々石ミゲル

  使節団が長崎港から出立したのは1582年。戦国時代の真っただ中。
  信長の天下統一は目前の頃。
  巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリストの教えを人々に押し付ける
  のではなく、しっかりと根付かせたいと考えていた。
  彼は、日本人の優れた民族であると認め、この国に暮らす人々のすばらしさ
  をヨーロッパに人々にも知らせたいと切望した。  

    使節団の航路 往復(黒印) 
    ・長崎~マカオ~マラッカ~ゴア~モザンビーク~喜望峰~セントヘレナ島~リスボン
      ・ヨーロッパ(リスボンーマドリッドーバルセロナージェノヴァーヴェネッイアーローマ)
    
         

 ポルトガルが交易していた国々に寄港しながら、3年を費やしてローマを訪問。

 ついにローマ教皇と謁見を果たした。イタリア各地を歴訪して帰途についた。
 1590年、8年以上の年月をかけて帰国したとき、4人は青年に成長していた。
                

  その故国は、織田信長に替わって豊臣秀吉が天下統一を成し遂げていた。
 秀吉は当初キリスト教の布教を認めていたが、やがて使節団が帰国する
 3年前に伴天連追放令を発布していた。

 その後、日本のキリシタンがどれほど過酷な運命をたどったかは歴史が物語
 っている・・・。
     1597年2月5日(慶長元年12月19日)
 豊臣秀吉の命令によって長崎で貼り付けの刑に処された26人のカトリック信者。
 この出来事を「二十六聖人の殉教」という。
       
   長崎 日本二十六聖人記念碑     (二十六人の処刑を描いた1862年の版画)

 少年たちの、その後 伊東マンショは長崎で死去。中浦ジュリアンは穴吊りの刑
 に処され殉教。 千々石ミゲルは棄教者となった。
 そして 原マルティーノは・・・・マカオに追放され、晩年はマカオで過ごした
 ようだ・・・
 レイモンドは・・・「彼はマカオで宗教書を執筆、出版。
        帰国を望みながら亡くなりました。そして彼は・・・
        聖ポール天主堂に埋葬されたのです」
          *昨日、聖ポール天主堂の発掘調査~遺骨が派遣された と。
 
 彩は古文書をめくる~表紙の下に現れたのは・・・
 ボロボロの紙の上に並んだ縦書きの行書の文字・・・日本語の古文・・・
  これは? かすれた楷書で書かれた四文字・・・
  
          俵・・・屋・・・宗・・・達

  ここで 「プロローグ」は終わり  
  明日からは、 第1章に入っていきます。

  信長の妄想が膨らむ・・・行ってみたい、ローマへ。
   見てみたい、この目で。
       ~  ローマ行きを誰よりも渇望していたのは、
   ほかの誰でもなく 実のところ、織田信長だった・・・・

 その前に 「余談」ですが
 
  きのうの 黒人の「弥助」の話を。
  歴史ノンフィクション
    「信長と弥助」 本能寺を生き延びた黒人侍
           ロックリー・トーマス 不二淑子(訳)       
            

 1582年、本能寺・織田信長の側近の中に、得意な容貌でひときわ眼を惹く
 男がいた。その男こそ、日本史上初とされる黒人侍、弥助だった。
 信長の切腹後、弥助は危険をかえりみず、嫡男の信忠のもとへ走る。
 彼を駆り立てたのは、自分を信頼し、侍へと取り立てた信長への忠義心だったーー。
   
 これ、面白いよ~以前から、信長の「舶来趣味」?に興味があり、この黒人を従者にした
  ことも知ってはいましたが・・・詳細については分からなかった。
そんな時、このタイトルを見つけ、早速読みました~
いや~、信長って、やっぱりすごい人物です。
一人の黒人従者が、信長への「忠義心」・・・そんなことってあるんでしょうか~
 これも歴史の中の一コマ。

 この本の表紙にもなっていますが、南蛮絵の中に黒人の従者が・・・
 「弥助」ではありませんがね。
 
               

          
 
 靴を履き、きちんとした洋服を着たアフリカ人男性
 高貴なヨーロッパ人(おそらく使節)に日傘をさしかけ付き添っている。
 中央には西欧風の服を着た日本人の少年二人が、右手にはイエズス会の
 宣教師がいる。17世紀初めの狩野派の作品である。
 *どうです、この時代に 想像していたよりはスマートな・・・異人たち?
   
 それにしても、当時の絵師たちの腕の冴え、素晴らしい。
  描写力抜群じゃないですか~こう考えると、現在残っている武将たちの
  肖像画は、本当にリアルに写し描きしていると思いますね。
  だって、これもこんな本がありました。
  「信長の肖像」
        
   志野靖史作 ”似せ絵”が得意な小次郎は京に上り狩野一門に。
         ある日、織田信長から、甲斐の武田信玄の顔を描くという
          密命を受ける・・・。
   「小次郎、甲斐に行け。甲斐に行って写し絵を描いてこい」
   信長が答えた。
   「甲斐、はてどなたのお顔を描いてくればよろしいのでございますか」
   「信玄入道」

   *当時は、まだ「写真」の技術のないころ、直接「会う」以外には
    本人の確認ができない。
    信長は、敵将の顔を確認し、戦略を考える・・・この発想も凄い!
   
    今までのところ、教科書にもあるのが かの有名な「長谷川等伯」
    の信玄像  高野山 成慶院蔵
            
      しかし、信玄の肖像ではないとする風潮・・・?も。
    
     こちら 高野山 持明院にある1枚
           
      こちらのほうが「信玄像」として使用する傾向も?
   まぁ、いろいろの説ありで・・・どちらとも否定肯定 
   いかがなもの? 
   まだまだ 真剣(信玄)に検討する余地あり? でしょうか?

    さらには 妹の「お市」も 小次郎はこの小説の中では
   描いているのですよ・・・
      この顔は歴史に残っている1枚ですが・・・本当の絵師は? 
       (高野山 持明院像)
                 

  
   また明日へ 続きます。

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