「ポール・ゴーギャン」
1848年、パリに生まれる。父は新聞記者。
ゴーギャンが1歳の時、一家は母方の叔父を頼ってペルーへ渡ったが、
その途上で父は心臓発作で絶命。
ゴーギャンは叔父の庇護のもと、6歳までペルーの首都、リマで暮らした。
成人した彼は、「船乗り」になり航海を重ね、そののち株式仲買人になって
相当稼ぎ、ビジネスマンとして成功した。
絵を描き始めたのは、妻メット結婚した25歳の頃。
当時彼はパリ九区に住んでおり、周囲には印象派の画家たちが通う
カフェや画廊が点在していた。
面白そうだからちょっとやってみようかと、ほんの出来心で絵筆を~
彼はアカデミックな美術教育を受けたわけではない。
それが次第に本気になった。
1882年、株の大暴落を機に、画家を生業(なりわい)とすることを
考え始める。
そんな絵にうつつを抜かす夫に業を煮やした妻メットは、子供たちを
連れて実家のあるコペンハーゲンに帰ってしまう。
ゴーギャンは家族を追いかけてコペンハーゲンまで行き、心機一転、
・・・・しかし、うまくいかず・・・・
創作意欲抑え難くなり、結局パリに戻る。
その後、田舎で制作に専念しようと、ブルターニュ地方の
ポン=タヴァンに移住する。 若い画家たちが集っていた。
のちに彼らは「ポン=タヴァン派」と呼ばれるようになる。
( 世界で最も美しい町とも…)
*「ポンタヴァン派」
フランスのポン・タヴァンで活動した芸術家たちのグループを指し、特に
1880年代末から1890年代にかけてポン・タヴァンにいたポール・ゴーギャンの
影響を受けた芸術運動である。
大胆な純色の使用。象徴主義的な主題の選ぶ方などが特徴である。
ゴーギャンのほか エミール・ベルナールなどの画家が著名
ゴーギャンがこの地で描いた作品
「ポン・タヴァンの水車小屋」
「説教の後の光景」
エミール・ベルナールの作品
前の、ゴーギャンの「説教の後の光景」からの影響で描いた
「草地のブルターニュの女たち」
「ポン・タヴァンの市場」
また、ゴーギャンは、新しいモチーフを求めて、パナマからマルティニク島へと船旅をする、が、パナマ滞在中に破産の憂き目に遭い、さらに赤痢に
かかって生死の境をさまよっが、奇跡的に快癒し、パリへ帰り着く。
世間にも家族にも見放された…ゴーギャンだったが。
芸術の神には見放されなかった?
当時、パリで画商として成功していたテオ・ファン・ゴッホに
見出される。
テオは「すごい画家を見つけた」と狂喜して、同居していた
兄、フィンセントにゴーギャンの存在を教える。
この二人の経歴を比較してみましょう~。
ゴーギャンは幼少時に海外経験。
ゴッホは北ヨーロッパから出てない。
ゴーギャンはビジネスマン成功体験を持つが、ゴッホは落伍者。
ゴーギャンは富を手にしたが、
ゴッホはずっとつましい生活を続けた。
ゴーギャンは恋愛し、家庭も持ったが、
ゴッホは想う相手に愛を受け入れられたことがなかった。
ゴーギャンは快楽主義的思想の持主で山っ気があったが、
ゴッホは後ろ向きで落ち込みやすく、生真面目な性格だった。
まるっきり正反対のように見えるふたり だが、
実は共通点も少なくなかった。
二人とも、アカデミックな美術教育を受けていない。
画家を目指したのが二十代後半・絵を描くことへの強い執着、
放浪癖 など。
さて、こんな二人がアルルで共同生活をするきっかけは ?・・・
ファン・ゴッホの呼びかけにゴーギャンが応えたんですが…
そう、単純なことでもなかった。
それでは、この二人の 共同生活についてお話を始めましょう。