オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

連夜の零時越え

2019-02-24 | Weblog

2/24(日) 風邪とか花粉症とか水洟が、とかいいながら日曜日を迎えた。今朝も軽い朝食とともに、ビールを一本頂き前夜の疲れを癒す?。

金曜日は神田の居酒屋で、昔に在職した会社のゴルフ会メンバーによる同窓会?という名称の飲み会に参加。16名の参加者は40代~80代までと幅が広かった。

このうちで、私が現役として一緒に仕事したメンバーはたったの三人である。が、独立後にゴルフ会や仕事で知り合ったメンバーが殆どである。

そんな会なので遠慮すべきだが、KIYOTA御大やUSUI老の勧めで参加することになった。OB(ゴルフでこの言葉は悪魔のささやき)の一員であるのは間違いないから。

               

TUCHIDA君やBUNさんのゴルフ大好きな面々の顔を見れなかったのは残念であった。

和気あいあいと懇談し、それぞれの近況を聞いて二時間の宴を終えた。そこから、USUI老と人形町に向かい「高松」「ローカーボ」で馴染みの面々と歓談し、仕上げはHOYA兄いと店仕舞い中の「ちょっぷく」で一杯やって切り上げた。  

                

そんな次第で、此の夜の帰還は零時を過ぎたのである。いつの間にや、水洟も咳も忘れていた。酒と友人はどんな薬にも勝ると実感!。

 

そして一夜明けた土曜日、爽やかな朝とはいえなかったが、体調は私は悪くない。この日は「日本橋粉の会」の100回を記念したお祝い会である。

前月の蕎麦打ち会のおりに、メンバーが猪を食べたことがないと云うので、猪汁を提供することにしたのだ。郷里から送った冷凍猪肉の塊(骨付き)を前日に解凍して、小口切りにして持参した。

三時からの祝賀会に間に合わすため、一時過ぎに浜町コミニュティセンターに着いて野菜などを切り、大鍋で骨も一緒に入れて、丁寧に灰汁を取って煮た。三十人以上の参加者があるので猪汁にしたが、これほどの量がはけるかと心配したが・・・。

これが結構な好評で旨い美味いと喜んでいただき、引き上げる頃には殆どなくなった。下拵えに苦労した甲斐があったと云うものだ。

会ではメンバーの津軽三味線と、民謡の師匠も来て賑やかであった。五時前、佐賀のONO氏が連絡をよこした。「明治大学の会が終わったので、向かいたいと」と。

         

氏から、今回の上京に合わせて話があるので時間をくれと言われていた。話の内容は訊かなったが、大よそのことは想定できる。氏が起業した福祉関係のビジネスに関することであろと。

粉の会の方は、お先にと失礼をし、人形町交差点でONO氏と待ち合わせた次第。その間に、マッチャンから連絡が入り「事務所で鍋を始めるので寄って」と。土曜日と云うに、忙しいことだ。

ONO氏と合流し、先ずは話を聞かなくてはならいので「うまし」へ。風が強くなり寒くなっていた。店に向いながら氏に『江戸は寒いだろう』と言うと「覚悟してました」の応え。

話の方は想定通り、事業が広げたいので出資金の扱いをどうするかであった。『貴方のやりたいようにすればいいよ』と応え、書類にサインをした。それでお終い。

マッチャンに連絡を入れ、これから二人で向かうと伝え、マイバスでウヰスキーを買ってから訪問した。NAKAMURA大将が上野の美術館の帰りにアメ横で牡蠣を買ったので、それで牡蠣鍋になったとのこと。HOYA兄いも姿を見せていた。

連日のパトロール隊揃い踏みであるが、マッチャンの事務所での飲みは久しぶり。ONO氏は前にも事務所飲みに同席しているし、三人とはローカーボで何度か顔を合わせている。 

よく煮えた鍋や乾きものを摘みにお湯割りを頂く。演歌がスマホから流れ、オヤジ達の部屋飲みは飲みつづき、話題は尽きなし。

十時を過ぎて部屋飲みを切り上げ、「ローカーボ」に寄ると常連の皆さんが・・・。

ハイボールを飲みながらNUMATAちゃんと喋り、右隣の酔っ払いERI嬢の話も聞くという聖徳太子ぶりを発揮したのである。

そんなことで、この夜の帰還も零時を過ぎてしまった。家を出る前に『今夜は遅くても十時だろう』なんて言ったのに!。

 

 

 

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