・・・私は見た。なすすべもなく・・・。
罪のない人間はいない。
旧ソビエト連邦の厳格な検閲のもとで、グルジア共和国で製作されたこの映画は、1984年に完成していた。
「懺悔(ざんげ)」は、二十余年間の沈黙を経て、日本公開に至った幻の名画だ。
そして、それはペレストロイカ(改革)の象徴となった、伝説的な映画でもある。
カンヌ国際映画祭では、審査員特別大賞に輝いた、テンギズ・アブラゼ監督の秀作だ。
物語は、架空の地方都市で、ひとりの女ケテヴァン(ゼイナブ・ボツヴァゼ)が、教会をかたどったケーキを並べるシーンから始まる。
傍らにいた客の男が、新聞を広げて、「偉大な男が死んだ」と叫ぶ。
「偉大な男」とは、その街で、長らく市長として権力を振るっていた男ヴァルラム(アフタンディル・マハラゼ)だ。
ケテヴァンにとって、かつて両親を粛清した上に殺害し、彼女の人生を大きく狂わせた張本人であった。
そして、ケテヴァンの長い回想をとおして、ヴァルラムへの告発と、独裁政権下の粛清によって、彼女の家族や市民がたどった苦難の道のりが明らかになり、ときに幻想的に、力強く描かれてゆく・・・。
粛清の日々は、絶え間なく続く。
かつて、活気に満ち溢れていた街は、刺々しい冷気に覆われ、静まり返っている。
人が人を監視し、笑い声も子供たちの遊ぶ声ももはや聞こえない。
生気が消えた、灰色の街であった。
市長ヴァルラムの遺体が、何度も墓から掘り出され、その邸宅の庭に置かれるというセンセーショナルな事件が起きる。
逮捕された犯人は、ケテヴァンであった。
裁判で、彼女は毅然とした態度で法廷に立つ。
市長就任式の日、その大騒ぎをよそに、市庁前の広場に面した二階の窓から、シャボン玉を飛ばす8歳の少女ケテヴァンの姿があった。
そこに寄り添う母ニノ(ケテヴァン・アブラゼ)、窓を閉め喧騒をさえぎる父の芸術家サンドロ・バラテリ(エディシェル・ギオルゴビアニ)、これを見とがめ窓を見つめる市長ヴァルラム・・・。
すべては、そこから始まる。
独裁者であったヴァルラムと、その時代の抑圧と恐怖の実相、ケテヴァンの両親も犠牲となった粛清の悲劇が明るみに出されていくのだ・・・。
・・・最後のシーンは、再び冒頭の場面に戻る。
ケテヴァンに、老女が道を尋ねている。
「この道は教会堂に通じていますか」
「いいえ、これはヴァルラム通りです。教会に通じるのはこの道ではありません」
「教会に通じない道が、何の役に立つのですか」
老女は、そう言い残し、再び旅を続けるのだった・・・。
この作品には、歴史の真実の発見がある。
それは、犯罪の激しい告発だ。
そのことこそが、ペレストロイカの時代を象徴するものとなった。
独裁下の不合理、不条理をありえないような幻想として炙りだしていく。
しかも、教会堂爆破にいたる顛末、逮捕、抑圧と恐怖、粛清裁判での荒唐無稽な偽りの告白などは、歴史的な事実を揺さぶり起こす映像の表現として使われている。
収容所から輸送されてきた大量の丸太に、粛清犠牲者の刻んだあかしを求めて、妻や子がさまようシーンがあるが、何という鮮烈な悲劇の映像だろう。
テンギズ・アブラゼ監督のグルジア映画「懺悔」は、独裁者の普遍的な存在を描き、そこには自由と人権のメッセージが強く投げられていて、黙示録的な作品となっている。
世界を大きく揺るがした時代の、極めて重要な作品と位置づけられるこの映画は、不運な事情によって、長らく日本での上映がかなわなかったが、奇しくも東欧の民主化から二十年以上も経ったいま、遅ればせながら、その全貌をあらわしたといっても言い過ぎではない。
鮮烈にして、重厚な力作だ。
神ならぬ、人間の人間に対する粛清は、いつの日かこの地上からなくなる日は来ないのであろうか。
人は解りあえる事はないのでしょうか。