いつかまた春の都の花を見む
時うしなへる山樵(やまがつ)にして
(源氏物語 須磨の巻)
「源氏物語千年紀 石山寺の美」が、横浜そごう美術館で開かれていた。
ほんのつかの間の、石山寺詣でである。
去年、これとは別に、横浜美術館で全国規模の展観が行われたばかりだ。
今回は古刹・石山寺の世界を紹介している。
紫式部ゆかりの、花の寺である。
紫式部は、八月十五夜の名月の晩に、石山寺に参籠した際、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、やがて源氏物語を生み出したと言われる。
石山寺には、国宝級の寺宝も伝わっていて、その悠久の歴史と時を超えて、『源氏物語』の世界を展覧している。
ただ今回は、国宝級の文化財の出展が少ないのは残念というほかはない。
今回、特別に、本堂の本尊厨子のお前立ちである、如意輪観音菩薩坐像がはじめてのお出ましだ。
江戸時代の製作だそうだが、淀君寄進によるものと伝えられている。
本展では、室町時代に描かれた紫式部坐像をはじめ、源氏絵巻、屏風や工芸品など約70点が展示されている。
美術展としては小規模だが、厳かで、華麗な雰囲気はこの季節にふさわしい。
この美術館、広くないので多くを期待するのは無理がある。
紫式部が、湖水に映る月を見て、源氏物語を執筆したという伝説はあまりにも有名だ。
机の前に座した式部が、妻戸を開放し、彼方を眺めやる風情など、おなじみの式部観月之図の数点もいい。
王朝の雅に、しばし心やすらぐひとときだ。
3月29日(日)まで、開催されている。
触れることなく、言葉も交わさずに、愛を昇華する・・・。
フォト・アートの世界を観ているようだ。
写真家、操上和美第一回監督作品だ。
操上監督は、人間の肉体の奥底から放出するエネルギーを、空気感、重量感を持って一枚一枚の写真に焼き付ける。
写真を愛してきた操上監督が、90分のフィルムに焼き付けたのは、本能と性に翻弄された男と女の姿だった。
映画初挑戦のこの作品は、言葉ではひとつも語らないで、人間そのものから放出される、エロティシズムの香りに満ちた男と女のドラマとなった。
写真家の生理をもって描いた、映画だ。
カメラマンの男(永瀬正敏)は、殺風景で無機質な部屋から、向かいの女をビデオで監視している。
運河を隔てたこれも殺風景な家で、24時間監視され、ビデオで撮られる美しい女(宮沢りえ)・・・。
無造作に平積みされた本の列と、テーブルがひとつだけだ。
キッチンには、ステンレスの鍋が見える。
毎日毎日、男は女を撮り続ける。
本を静かに読む女。卵をきっちり2分30秒でゆでる女。卵を食べる女。
食べ終えると、着飾り、部屋を出て行く女。ファッションモデルのように・・・。
女の顔、目、唇・・・、ぬめぬめとした、隠微で怠惰で、でも一瞬悪魔のように美しいそのデテール・・・。
男は、身じろぎもせず、その様子をファインダー越しに眺めている。
女が外出すると、男も外出し、港湾を歩いて写真を撮り、ネオンと喧騒の街をふらつき、男の持つカメラを褒める女店主(天海祐希)がいるバーで、ひとり静かに過ごすのである・・・。
だが、いつしか、運河の向かいの女に心を奪われていく男・・・。
やがて、男の存在に気づく女・・・。
交わるはずのない二人の運命が、あるとき交差していく。
そして、女の正体を知ったとき、本能と性に翻弄された男と女の物語が、悲劇のクライマックスへと流れ込んでいく。
たかが運命、されど男と女・・・。
これは、音の聞こえない映画だ。
「刹那」を描いた、映像詩とでもいうべきか。
そこに、凝縮された、濃密な、しかしあくまでも純粋な、エロスがある・・・。
これは、そうした連続写真だ。
女の監視記録であるビデオテープを、仕事の“依頼人”(役所広司)に渡し、男はたずねる。
「あの女は、一体何者なんですか」
見つめることしか許されない男が、触れてはいけない女に惹かれていく。
男の愛が昇華されるとき、生き物の輝きを放つ。
「一枚の写真もきちんと撮れないのに、映画がやれるのか」と、写真家としての道を極めながら、20年以上前から思いを寄せていた映画に挑戦した、操上監督のカメラの前に著名な役者たちが立った。
言葉でもなく、肉体的な接触でもなくて、<色気>を放出したのは、永瀬正敏、宮沢りえ、役所広司、それに天海祐希らのそうそうたるメンバーだ。
自身も写真を撮る永瀬正敏は、宮沢りえが演じる“女”を監視するうちに、心を奪われ、悶々としてどこにも発散できない欲望を抱えてしまった男を、そして彼女はといえば、強さと脆さを同居させた、残酷なほど美しい殺し屋を演じた。
男と女の運命を狂わす仕事の“依頼人”役所広司と、バーの店主天海祐希は、登場しているだけで奇妙な存在感を漂わせている。
この作品のために、井上陽水が書き下ろした主題歌 LOVE LILA は、エロティシズムの香りに満ちている。
めぐり会えば 淡いフェロモン
目を見つめて 夜の底に
その夢は LOVE LILA
いつか LOVE LILA ・・・
作品は、まさにフォト・アートなのである。
写真家操上和美のとにかく第一回監督作品でもあり、映画「ゼラチンシルバーLOVE」の作品としての評価が問われるのは、まだ先のことかも知れない。
この不思議な香りがたちこめた作品を、どれだけの人が共感できるか、それは観る人によって大きく異なるだろう。
西松建設から、十数年で約三億に上る巨額献金・・・。
小沢民主党代表の公設第一秘書が、政治資金規制法違反容疑で逮捕された。
このあと、奇妙な動きがあった。
森元首相、山口首相補佐官、加納国土交通大臣、それに二階経産相らが大慌てだ。
一体、何でだろう?
政治献金、パーティ代などを、我先にと返すことにしたのだ!
いや、いや、どうしたんですか。
自民党二階派は、西松建設OBが代表を務める政治団体が購入したパーティ券代(838万円)を、突如全額返還することを決めたのだ。
いまになって、何をバタバタやっているのだろうか。
この慌てふためきようは、いささか滑稽だ。
言い分がいいではないか。
手続き的には、何ら瑕疵はなかったが、道義的な観点から判断したと言っている!
今回の逮捕劇に、政治的なにおいを感じている国民もいる。
今の状況だと、政府自民党を利する捜査に見えるからだ。
小沢秘書の容疑報道については、自民党議員は、鬼の首でもとったようなはしゃぎようだ。
あれは、一体何なのだ。
政治家の良心が問われる問題だ、あるいは自分の党であれば職に留まることは許せないとまで、自民党議員は小沢党首に批判的だ。
西松建設から「迂回献金」を受けた議員は、自民党にだって大勢いる。
金額が多い少ないは、問題ではない。
違法、違反行為に大きいも小さいもない。
犯罪だというなら、みな犯罪だ。
それなのに、おかしなことを言う政府高官がいる。
西松建設の、違法献金事件について、
「自民党側は立件できないと思う」などと述べているのだ。
これは、何なのだ?
実に奇怪、奇妙な話ではないか。
これだから、国策捜査などと騒がれるのだ。
デキ捜査だという人までいる。
何故だ。
どうして、自民議員の立件はないと断言できるのか。
疑ってみれば、国家権力の介入があったと思われても仕方がない。(そう思いたくないが)
小沢民主党の秘書のケースでは、西松建設の請求書があったことをその理由としているらしいが、それだけのことで、検察の人間でもない、官房副長官が捜査の見通しまで語れるのか。
請求書自体、その存在は事実なのか。事実とすれば、どういう内容なのか。
何か、解っているのだろうか。
何も解らないうちに、「自民への波及はない」などと言い切ることができるのだろうか。
官房副長官は、元警察庁長官だからだろうか。(な~るほど)
二階経産相の政治団体についても、東京地検特捜部が捜査に着手する方針を固めた(?)と、ある新聞は報じている。
少なくとも、事情聴取ぐらいはあるかも知れない。
そうでないと、検察批判は必至だ。
小沢サイドの強制捜査だけで、終わらせるのはおかしい。
6日(金)の参議院予算委員会でも、二階経産相は、野党から矢つぎばやの質問攻撃にたじたじとなっていた。
民主党小沢党首に次ぐ、金額838万円のパーティ券も大いに問題だ。
さらに、西村建設が、北陸新幹線工事にからんで、森元首相に続けたダミー献金といい、もう誰もかれもが金まみれではないか。
検察は、やるなら全部徹底的にやるべきだ。
堅実でまじめを売り物にしてきた、西松建設はどこから狂っていったのか。
自民党元副総裁、故金丸信の時代らしい。
2000年ごろから西松建設は、当時金丸信の秘蔵っ子だった小沢代表を頼りにするようになっていったらしい。
西松建設の石橋社長は、献金時期に副社長だったはずだ。
その人が、裏金の存在は知らなかったと、とぼけた発言をしている。
そんな、笑止千万な言葉が通るだろうか。
風雲急を告げる、混迷の永田町・・・。
東京地検は、民主党小沢党首の参考人としての事情聴取も検討していると言われ、小沢氏もこれに応ずる意向だ。
このあと、どういう展開が待っているのか。
目が離せない。
この時期、強制捜査で一番喜ぶのは、一体誰なのだろうか。
閑話休題・・・
今年のサクラ前線、例年よりかなり早まりそうだといいます。
本格的な、春の訪れが待ち遠しい。
もう、すぐだ。
あ、そうか。
5日は、暦の上では啓蟄だったではないか。
これまで、惰眠を貪っていた(?)虫たちも、一斉に目を覚まして、にわかにがさごそと音を立てて動き始める季節だ。
どうりで・・・。
「僕は受け取りません」
「おれはもらわない。最初から受け取らないと決めている」
「私としては受け取る」
一体、どうなってるの~?
二転三転、七転八倒、定額給付金はさんざんブレまくったあげく、圧倒的過半数の三分の二で再可決、成立した。
またしても、衆議院で・・・。
良識の府、参議院はどうなっているのか。
憲法で認められているからといって、こんなことが毎回毎回、常套化(!)してしまっていいはずはない。
二院制の危機だ。
麻生総理は、一旦は辞退を明言していたのに、方針転換した。
何というみっともなさだろうか。
受け取って、直ちに使って、消費刺激に充てたいと述べ、最終的に受給する考えを明らかにした。
理由について、生活給付の部分よりも、消費刺激の比重が高くなって、地元で消費に充てるのに、自分も参加するのはいいことだからと説明している。
当初、高額所得者が給付金を受け取ることについて、「さもしい。矜持の問題だ」と批判していたのではなかったか。
そのあとも、「受け取る意志はない」と明言していた。
この言葉のブレ・・・!
いかに、政治家の言葉が軽くなったことか。
論理の矛盾はないのか。
政治なのだから、大きく状況が変化し、いままでの政策を変えることは当然だ。
さもしいと言う男が、実は最もさもしかったのではないか。
定額給付金は、その目的も効果も、全くあいまいなままだ。
だから、国民の多くが反対を唱えてきたが、
「これで、電子レンジが買えるから助かるわ」と、歓んでいるお年寄りがまたいるのも事実だ。
期待をしている人たちだ。
はじめ、豊かなところに出す必要はないとされたが、結局は全所帯支給に逆戻りだ。
しかし、麻生総理のブレは尋常ではない。
驚くばかりだ。
この人、一体何を言っているのだ、と思うことしばしばだ。
自分の言っていることが、どこまで分かっているのだろうか。理解に苦しむ。
この定額給付金だが、日本一早い(?)ところは、青森県の西目屋村だそうだ。
26日には現金で支給されるというから、早い、早い。
羨ましいと思う人もいるに違いない。
ただ、どう考えても、麻生総理が前言を翻したことは、いかにも軽い。
こんなことでいいわけがない。
これこそ、きわめてさもしい。
この言葉は、そっくりそのままご本人に当てはまるのではないか。
最後まで、自分の矜持を示されるべきであった。
その矜持を捨て去って、給付金を受け取ることにした。
とにかく、定額給付金関連の第二次補正関連法案は、再議決されて成立した。
給付金の支給を歓迎する人も、もちろんいるだろう。
反対する野党のうち、民主、社民、国民新党の三党は、党所属の国会議員が給付金を受けないとしている。
筋の通らない給付を拒否する姿勢は、大いに理解できるところだ。
当分の間、政府の丸投げを受けて、全国の市町村は、支給事務手続きをめぐって、超多忙な日々を迎えることとなる。
それでなくても、いま民主党党首秘書の逮捕で、政局はてんやわんやの大騒ぎである。
この一件、どういう展開をたどるのか、しかと見届けたい。
こっちも、あっちも、何だかとんでもないことになってきた。
永田町はいま、風雲急を告げている・・・。
オーストラリアの大自然を舞台に、壮大な物語が繰り広げられる。
アメリカ映画だ。
遥かなる異国の地で、ひとりのイギリス人貴族の女性の運命を変える。
バズ・ラーマン監督の、故郷への個人的な思い入れが強い作品だ。
自分の手で、自分の人生を切り開く。
それが、女の運命の旅であった。
「風とともに去りぬ」を、彷彿させるドラマだという評論家がいる。
確かにその面はあるかも知れないが、あの名作とは比較にならない。
第二次世界大戦の勃発前のオーストラリア・・・。
夫を訪ねて、イギリス・ロンドンからはるばるやって来た英国貴族レディ・サラ・アシュレイ(ニコール・キッドマン)は、ようやく到着した夫の領地で、彼が何者かに殺されていたことを知る。
サラに残されていたのは、抵当に入れられた広大な牧場と1500頭の牛であった。
夫から相続した土地と財産を守るためには、現地で出会った野性的なカウボーイ、ドローヴァー(ヒュー・ジャックマン)としぶしぶ手を組んで、牛を引き連れ、美しくも過酷な土地を9000キロも横断するよりほかに手はなかった。
いよいよ、牛追いの旅が始まった。
その一行の後を、影のようについていく、謎めいたアボリジニ(先住民族)呪術師キング・ジョージ(デヴィッド・ガルピリル)の存在があった。
ある夜、仲間を引き連れた牧場のマネージャーのフレッチャー(デヴィッド・ヴェンハム)が、牛の群れを暴走させようと仕掛ける。
その1500頭の牛の暴走を止めたのは、ドローヴァーの活躍であった。
ドローヴァー、サラの一行は、水を求めて、命の危険を冒してまで砂漠を越えるしか道はなかった。
それは、キング・ジョージの道案内があればこそであった。
「こんなひどいことに巻き込んでしまって」と謝るサラに、ドローヴァーは、
「いや、君ほど勇敢な女性はいない」と優しく応える。
二人の気持ちは、いつしか急速に近づいていった・・・。
作品の冒頭で、どたばたしたコミカルなドラマが始まるのだが、これがとても騒々しい。
どたばたコメディなのだ。
この物語にとって、不可欠な要素とはとても思えない。
カットしてもよかったのでは・・・?
物語は、悪徳大牧場主一味との闘いなど、次から次へと危険や危機が怒涛のように押し寄せてくる。
ハラハラ、ドキドキの展開の中で、サラとドローヴァーの恋、アボリジニの少年とサラの絆の深まりを描きつつ、アドベンチャーとドラマとロマンスの融合された作品に仕上がっていく。
英国の貴婦人がカウボーイと出会い、運命的な深い愛に包まれ、人間として成長していく過程を、壮大なスケールで描いている。
神秘に満ちた大地、先住民族アボリジニとの交流、ドローヴァーヘの真実の愛への目覚め・・・。
そして、牛の大群が大暴走するシーンは、手に汗握る圧巻である。
ただし、終盤近く、日本軍によって直接本土を攻撃されたことはあっても、映画に描かれているような上陸作戦はなかったはずで、これは嘘だ。
こういう描き方は、あまり気分いいものではない。
真に人を愛するとは、たとえ離れることはあっても信頼し、まるごとその人の生き方を受け入れることなのだと、映画は語りかける。
3時間近い大作で、オーストラリアへの思い入れの強さがよく分かる。
よくあることだが、その思い入れが強いあまり、どうも独りよがりな、どうでもよい演出まで散見されるのは御免だ。
アメリカ映画「オーストラリア」は、1930年代のオーストラリアの奥地と北部の港町ダーウィンの再現も素晴らしい。
もちろん、壮大でエキゾチックな大自然の映像の美しさは、もうそれだけで特筆ものである。