橋口亮輔監督の、6年ぶりの復活作だそうだ。
世の中の美しいことや醜いこと、それらをぐるっと描けたらと言うことから、この一風変ったタイトルがついたようだ。
時代を、1993年から2001年の間に設定した。
過去の出来事を追いながら、現代的な作品として、夫婦の愛を描こうと試みた作品だ。
ただ、初めに言ってしまうと、作品全体の作りは少々雑駁だ。
ただし、これはあくまで‘私見’として・・・。
翔子(木村多江)は、夫のカナオ(リリー・フランキー)とともに、子を身ごもった幸せを噛みしめていた。
しかし、そんなどこにでもいるような二人を、突然として襲う悲劇・・・。
初めての子供の死をきっかけに、翔子は精神の均衡を少しずつ崩していく。
鬱になっていく翔子と、彼女を全身で受け止めようとするカナオ・・・。
困難に直面しながら、ひとつずつ一緒に乗り越えていく、二人の十年にわたる軌跡を、やさしさと笑いを交えながら描いた。
人は、一人では無力で何も出来ない。
しかし、誰かとつながることで希望が持てる。
決して離れることのない、二人の絆を通じて、そんな希望のありかを浮き彫りにする。
そこには、ささやかだけれど、豊かな幸福感もある。
法廷画家のカナオが目にする、90年代の様々な犯罪、事件を織り込みながら、苦しみを超えて生きる人たちの姿を、橋口監督はあたたかく照らし出していく。
法廷画家と言っても、テレビ局の委託を受けて、いろいろ指示通りに絵を描き、かつ、ときには手直しして嘘も描き、演出効果をねらったりする画家のことである。
夫のカナオは、そんな仕事に戸惑いつつも、真面目に打ち込んでいく。
映画は、当時の社会背景にも静かに迫っていく。
カナオが法廷で目撃するのは、90年代から今世紀初頭にかけて起きた、実際の事件とその犯罪者たちだ。
これらの法廷シーンも、見所のひとつなのだが、どうも迫力はいまひとつといったところだ。
‘重苦しい’時代の空気を受け止めながら、“二人でいることの幸せ”を見つけ出そうとする翔子とカナオであった。
他に、倍賞美津子、柄本明、寺田農といったベテランが、脇をしっかりと固めている。
そのわりには、作品に不要な(?)会話、不要な(?)シーンが多すぎる。
主役の翔子とカナオの話す会話が、声が小さくてよく聴き取れない。
何を言っているのか分からないのだ。
この二人の俳優は、基本的に発声が良くないようだ。
そのあたり、勉強の必要があるのではないか。
演技以前の話だ。
人と人、それも夫と妻という、そばにいることが当たり前の二人を描くのに、夫婦の日常生活を、延々と2時間20分もかけて描くとは、いかにも長い。
いや、長すぎる。
だらだらと続く展開にさしたる波乱があるでなし、いい加減飽きてくる。
これといって、インパクトもない。
終映まで20分もあろうかというのに、客席をたった女性が二人いた。
話のくどいことも一因だ。
二人がふざけあうシーンまでも、コミック漫画みたいに薄っぺらで、安っぽい。
夫婦の入浴シーンとか、二人が見詰め合って涙を流すシーンもあるが、これまた一向に感動が伝わって来ないのだ。
何故だろう。
果たして、本当に必要なシーンだったのか。
本当に必要な台詞だったのか。
削ることの出来ない会話だったのか。
大いに疑問が残る。
どこにでもいそうな、何事もきちんとしなければ気のすまない性分の妻と、真面目一方の模範的な夫の取り合わせで、夫婦仲が悪いわけではない。
夫は、どちらかというと、いい加減に手前勝手に生きてきた男だ。
主役二人の演技は、可もなく不可もないが、映画として見ると面白味に欠ける。
橋口監督は、あれもこれもと伝えたいことが多かったのか、盛りだくさん過ぎて整理できていない。
二人の愛の絆という点に絞れば、1時間30分で足りることだ。
原作、脚本、編集ともに橋口監督だ。
希代の才能とも言われる彼が、6年もかけてたどり着いた新境地というには、やけに力みすぎばかりが目だって、苦心の末に完成した‘意外な’映画に驚きを隠せない。
夫が、妻の膨らみ始めたお腹に手をあてて、幸せそうに微笑んでいる。
そのすぐあとには、もう部屋に位牌が祀られているシーンだ。
これも、唐突と言えば唐突だ。
‘夫婦’を描いた作品と言えば、同じ夫婦の機微を描いた、成瀬巳喜男監督の名作「夫婦」(上原謙・杉葉子・三国連太郎)が想い出されるが、心の沁みる情感があふれていて、いつまでも心に残る傑作だった。
橋口監督は、映画「ぐるりのこと」を、ややドキュメンタリー風なタッチで作品を描いたふしがある。
それはそれでいい。
登場人物たちが自然体だし、妙に構えたりはしていない。
台詞は、しばしばモノログのようで、それはもう呟きとなって聴き取れない。
でもこれには、困った。
彼は、自らの体験をもとにこの作品を作り上げたそうだが、期待していた作品からの“愛おしさ”のようなものは、残念ながらあまり伝わって来なかった。
人生とは、幸も不幸も表裏一体であることを鮮やかに(?)演出したのか。
人生の光と影、まさに、禍福は糾える縄の如しではあるけれど・・・。
人間の内奥に迫る、心の襞を描ききるのは、文学も映画も同じではないだろうか。
映画芸術の険しさを、再認識(?)させる一作だ。
見終わって、さて今日の心に強く残るものがない。
ならば、今日のことは忘れて、明日のことを考えよう。
どうせ短い人生だ。
最新の画像[もっと見る]
-
川端康成 美しい日本~鎌倉文学館35周年特別展~ 4年前
-
映画「男と女 人生最良の日々」―愛と哀しみの果てに― 4年前
-
文学散歩「中 島 敦 展」―魅せられた旅人の短い生涯― 5年前
-
映画「帰れない二人」―改革開放の中で時は移り現代中国の変革とともに逞しく生きる女性を見つめて― 5年前
-
映画「火口のふたり」―男と女の性愛の日々は死とエロスに迫る終末の予感を漂わせて― 5年前
-
映画「新聞記者」―民主主義を踏みにじる官邸の横暴と忖度に走る官僚たちを報道メディアはどう見つめたか― 5年前
-
映画「よ こ が お」―社会から理不尽に追い詰められた人間の心の深層に分け入ると― 5年前
-
映画「ア ラ ジ ン」―痛快無比!ディズニーワールド実写娯楽映画の真骨頂だ― 5年前
-
文学散歩「江藤淳企画展」―初夏の神奈川近代文学館にてー 5年前
-
映画「マイ・ブックショップ」―文学の香り漂う中で女はあくなき権力への勇気ある抵抗を込めて― 5年前
「映画だからこそ」と言うのは確かにありますものね。
映画だけでなく、演劇、歌謡、小説、美術、どの分野でもそういうことはありますね。
少数であれ、多数であれ、いろいろな見方があって当然だと思います。