徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

「洞爺湖サミット」ー祭りは終わったー

2008-07-11 17:00:00 | 雑感

サミット議長国、日本の大盤振る舞いに終始した、洞爺湖サミットが終わった。
盛り上がったのか、盛り上がらなかったのか。
大きな成果はあったのか、なかったのか。
どうも、国民がはしゃいでいる姿も、あまり見られない。
歓迎より、迷惑だったと言う声の方が多い。
とにかく、十分なまとまりのないまま、あっけなく終了してしまった。

この時季、北海道洞爺湖は観光シーズン真っただ中で、厳しすぎる警備とあって、温泉街は観光客も寄り付けず、ガラガラの状態だった。
お中元の時季を迎えて、空港での検査は厳しいし、時間ばかりかかって、名産の夕張メロンなどは東京や大阪に着く頃には、中身はぐちゃぐちゃになっていたそうだ。

サミットを成功させようと、日本中が不便と我慢を強いられた。
経済効果も、勿論一部ではあったようだが、損失の方が大きかったのではないか。


国民の不支持率60%を超えている福田内閣に、何もかもの値段が上がって苦しんでいるのだから、何をおいてもインフレ政策をしっかり訴えてほしかった。
本気で、原油や食料高を解決しようという気があるとも思えない。
福田総理は、サミットを成功させれば、内閣支持率がアップすると本気で信じていたのだろうか。
現実は、そう甘くはない。

日本の大新聞、テレビなどのメディアは、朝から晩までサミットを報じた。
福田総理の不人気の支持率をアップさせるべく、一役も二役も買っているようなもので、これを「報道」と言うのか。
テレビ局は、数百人を超える報道陣を現地に送り込んで、一日中生中継を続けた。
その内容はというと、「夕食会の豪華ディナー」「夫人のランチ」「参加首脳や夫人のファッション」まで、まあどうでもいい話ばかりが、とにかくやけに目立った。
キャスターもタレントとまじって、何のことはない大はしゃぎではないか。

地球温暖化について、主要国は世界に向けて、2050年までに温室効果ガスの排出量を半分にしようと呼びかけたが、本筋となる中期目標の道筋は示されず、具体的な数値は出されなかった。
先進国と新興国との、歩調が合わなかったようだ。
混迷する世界の経済についても、具体策を打ち出せず、大きな成果はなかった。(?)
原油高の元凶と言われる、投機マネーの暴走についても、G8首脳は、キャビアに舌鼓で見て見ぬふり、何ら有効な対策を打ち出せなかった。
福田総理の、リーダーシップも存在感も示されなかった。
各国首脳が雑談する中で、ぽつんと一人手持ち無沙汰でたたずむ姿が多かった。
サミットが、成功したとはとても思えない。

世界の目は、このサミット“騒動”をどうとらえただろうか。
イギリスのインディペンダントという新聞は、サミットの豪華な食事について、強烈に皮肉ったのが印象的だ。
 「キャビアやウニを食べながら、指導者は、食料危機を考える。」
こんな見出しを掲げたそうだ。
それから、直接目にしたわけではないが、ある大衆紙は、やせ細ったアフリカの子供の写真と、各国首脳らが夕食会で乾杯する写真を載せたという。

いまや、先進国だけで、世界で起きている問題を解決することは出来ない。
サミットだって、限界だ。
サミットは祭りだ。
しかし、ただの祭りで終わっていいか。

・・・メディアというのは、権力と癒着し、もしかしたら批判さえもしなくなってしまったのではないか。
ふと、大新聞の活字や、テレビのセンセーショナルナルな報道に、騙されてはいまいかと、そんな風に考えたくもなるのだ。
洞爺湖サミットは、どう見ても抽象的な色合いの、玉虫色の合意を掲げて終わったが、そうこうする間に、日本の経済状況は悪化の一途を辿っている。
景気の後退は鮮明になった。
資源は不足し、食料高が重なる。
倒産が激増し、株価は底無し沼となって・・・、地球温暖化よりも前に、日本の経済が凍ってしまうかも知れない。
そうなると、緊急事態だ。

洞爺湖サミットの開催費用は、600億円と言われる。
05年のイギリスのサミットでかかった費用が180億円というから、その3倍以上の費用をかけたわけだ。
しかも、豪華な食事に舌鼓を打ちながら、食料危機を憂える「会議」が、テレビを通じて全世界に中継され、世界の人々はそれをどう見ただろうか。
数十億円もかけて建てられた関連施設も、あっという間に解体だ。
こういうことは、温暖化ガス削減のサミットの趣旨とは、矛盾しないのだろうか。
短期的には、少なくとも経済損失の方が、はるかに大きくはなかったのか。

サミット開催中は、警官のトラブルも相次いだ。
小学生が、巡回中のパトカーにはねられ、しかも事故後すぐに助けなかったと言うから、被害児童の親はかんかんになって怒っている。
デモ隊と一緒に、通信社のカメラマンを逮捕した、警官の乱暴な映像がネットで流された。
カラオケで暴れた酒乱巡査、女風呂を盗撮したエロ技官らが逮捕された。
検問検問で、地元住民は遠回りを余儀なくされ、高いガソリン代が余計にかかった。
確実に潤ったのは、会場周辺の飲食店とコンビニくらいではないか。
観光シーズンなのに、一般客を全く期待出来なかった。
湖畔の花火大会は自粛を求められ、例年の生活とは一変した。
サミットが終わった夜は、ビジネスマンや観光客は、周辺都市の繁華街に近寄ることも出来ず、札幌のススキノあたりは、国内外の政府関係者、マスコミ、警察官らによる“打ち上げラッシュ”で、大いにはしゃぎまくる彼らで、滅茶苦茶に盛り上がったようだ。
えっ、何~だ。盛り上がったのは、会議ではなくそっちの方だったのか。(!?)

日本中が、エコだ、環境だと喚きたてた、北海道洞爺湖サミットが、壮大な宴と騒動と蹂躙の果てに残したものは、果たして何だったのだろうか。
終始はしゃぎっぱなしの福田総理は、今回のサミットが、どう見ても惨憺たる(?)結果だったにもかかわらず、「多くの成果を生み出せた」(?)と自画自賛している。
本当か?
国民は、納得できるだろうか。
今から42年後に、どういう評価が下されるか。
今はわからない・・・。

 


映画「ヒロシマ ナガサキ」ー生けるものの証言ー

2008-07-09 17:00:00 | 映画

1945年8月6日に、何が起きたでしょうか。
この映画は、この問いかけから始まる。
何と、街角のインタビューで、正解を答えられる若者はいなかった。(!!)

アカデミー賞ドキュメンタリー映画賞の受賞歴のある、スティーヴン・オカザキ監督が、25年の歳月をかけて完成させた、渾身のドキュメンタリー映画だ。
れっきとしたアメリカ映画で、DVDにもなっている。
これまでも、上映の機会はそう多くはなかったようだ。
重い映画であることは百も承知で、遅ればせながら、観る機会があった。

白い閃光と黒い雨・・・。
原題は「WHITE LIGHT/BLACK RAIN」だ。
毎年暑い夏がやって来ると、“日本人”は、どうしても60余年も前の8月を想い起こすことになる。
広島、長崎の原爆投下から、半世紀以上を経たいま、その記憶も薄れつつある。
しかも、その被爆の実態について、どれだけ知っているだろうか。
被爆者の現実について、何をどう知っているだろうか。

原爆の被害に対する認識と関心を、世界に呼び起こしたいと考えたオカザキ監督が、被爆者たちが高齢化していくなかで、実に500人以上の被爆者に会い、丹念な取材を重ねた。
そして、14人の被爆者の生きた証言と、実際に被爆に関与した4人のアメリカ人の証言を軸に、貴重なニュースフィルムの映像や資料を交え、ヒロシマ・ナガサキの真実を直視した力作である。
・・・被爆者の、想像を絶する苦悩と向きあう観客は、人間として生きる、彼らの勇気と生命の尊厳を深く受け止め、胸を締めつけられる。
数々の、リアルな証言が胸を打つ・・・。

スティーヴン・オカザキ監督は、1952年ロサンゼルス生まれの日系三世だが、英訳の「はだしのゲン」を読んで、広島、長崎の原爆投下に関心を深め、1981年に広島を初めて訪れた。
このとき、被爆者を取材した第一作「生存者たち」(82)を発表、のちに日系人強制収容所を描いた作品「待ちわびる日々」(91)で、アカデミー賞ドキュメンタリ-
画賞を受賞した。

アメリカでは、原爆投下が「戦争を早く終わらせ、日米両国民の命を救った」との認識が強いようだ。
この映画は、核の脅威を訴えている。
日本が、戦争に突き進んでいたあのとき、アメリカのニュースフィルムのナレーションは、こう伝えていた。
 「日本人は、思考回路が完全に狂った人類だ。」・・・
白い閃光、黒い雨、忘れることの出来ない夏の日の記憶である。
それは、かつて経験したこともない、人類史上最大の“地獄”を、唯一この日本が経験したことであった・・・。
いまなお世界には、広島に落とされた原子爆弾の、40万個に相当する核兵器があると言われている。

日本人は誰もが、日本の近・現代史の中で、日本に起こった“真実”を知らなくてはいけない。
この映画は、アメリカでは25年間上映が許されなかったという。それは分かる。
アメリカドキュメンタリー映画「ヒロシマ ナガサキはアメリカのみならず、世界中の人々に、核兵器の脅威に対する、強い警鐘を鳴らす注目すべき作品と言えるだろう。


映画「スルース」ー男対男の心理劇(スリラー)ー

2008-07-07 20:15:26 | 映画
ケネス・ブラナー監督の作品だ。
イギリスの二大俳優マイケル・ケインジュード・ロウの対話劇である。
見ものは、二人の演技合戦だ。

プロデューサーを兼ねるロウの熱烈なオファーで、72年版でローレンス・オリヴィエの演じた作家役を、新たな解釈を加えてケインが熱演する。
一方ロウは、かつてケインが演じた若い男役にまわり、男のエゴとプライドを激しくぶつけ合う見ごたえのある心理劇だ。

製作はアメリカなのだが、出来上がった作品は、イギリスのシェイクスピアの舞台を観ているようだ。
マイケル・ケインの演じた、映画のかつての役柄を変えたリメイク版というところだ。
イギリス人の作ったアメリカ映画だ。

舞台は、郊外の一軒家である。
そこで、二人の男の間に繰り広げられる心理合戦が、スリリングに展開していく。
ジュード・ロウ「マイ・ブルーベリー・ナイツ」にも出演しており、今回の役の方が一段と見映えがしないか。

監視カメラが作動し、正面ゲートを抜け、長いドアウェイを走る中古のシトロエンを捉える。
ロンドン郊外にある、ベストセラー推理作家アンドリュー・ワイク(マイケル・ケイン)の瀟洒な邸宅に、若い俳優マイロ・ティンドル(ジュード・ロウ)が現れる。
彼らの関係は、“夫対妻の浮気相手”だ。
作家が、若い男に持ちかける。
 「私の妻が欲しいなら、私の提案に乗らないか?」
ワイクの妻マギーは、若いティンドルと浮気をしており、ティンドルワイクマギーとの離婚を合意してもらうためにこの屋敷を訪れたのだ。
それは、一人の女をめぐって、二人の男が挑発しあう、不健全で、高貴なゲームの始まりであった。

お互いに罠を仕掛けあい、次から次へと主導権は取って替わり、どんでん返しの連続だ。
ワイクティンドルに、外部から進入した泥棒役を演じてもらい、金庫の中の超高価なネックレスを盗んでもらう。
それを海外に売り払えば、ティンドルには、今後ワイクの妻マギーに贅沢をさせられるだけの現金が、ワイクには宝石にかけた多額の保険金が入りこむという算段だ。
これが、初めのワイクの計画だ。
ティンドルは、その提案を罠だと言い、ワイクは取引だと言って譲らない。
ワイクの巧妙な話術にティンドルははまり、ワイクの練ったシナリオ通りにそれを演じることになる・・・。

屋敷の室内を上から俯瞰するアングル、隠しカメラの映像など、いたるところに効果的なカメラアングルが目立った。
ストーリーの展開はまことに巧妙で、よく観ていないとついて行けないくらい混乱してしまいそうだ。
アンソニー・シェーファーという人によって書かれた、旧版のスリラー劇「スルース(探偵)」が下敷きになっている。
今回のシナリオは、ノーベル文学賞作家ハロルド・ピンターで、二本のシナリオの根底にある考え方はほとんど正反対のものだそうだ。
でも、饒舌と機知は変わらない。
二人の役者はよくしゃべり、気の利いた台詞を連発する。
台詞は簡潔で、要を得ている。無駄がない。
そのさりげない台詞が、激しい暴力を秘めているのだ。パンチが効いている。
脚本は、さすがにこなれているようだ。
俳優は、間の取り方や含蓄の生かし方についても、綿密に計算した演技をさせられている。

夫が妻の愛人と対決するという状況の中で、二人の人間が演じる「ゲーム」は二転三転し、思いがけない結末へと導かれてゆく・・・。
あらゆる男のエゴ、野卑、嫉妬、陰謀、欺瞞、憎悪、確執を散りばめて・・・。

『魔笛』ケネス・ブラナー監督は、もともと北アイルランド生まれの舞台監督で、この作品は映画というより、やはり舞台で演じられるドラマと見た方がいいかも知れない。

物語の設定そのものは、極めてシンプルである。
しかし、英国風ユーモアのセンスや倫理観、緊迫感のあるサスペンスも盛り込まれている。
いろいろな要素が含まれていて、全てを完璧に把握しようとしても難解だ。
二人の男の、ときに穏やかに、ときに激しいやりとりのなかに、多くの疑問を持ちながら想像力を逞しくしないといけない。
マイクの妻マギーは、一度も姿を現さない。
演技者は、存在感ある二人の男だけなのである。
その女性を奪い合うという、極めてシンプルなストーリーを、複雑な陰影に富んだシナリオが物語っている。

本心か、策略か。嘘か、真実か。
観る者を混乱させ、まるでだまし絵の世界へ誘い込まれていく。
巧妙な演出と、意匠を凝らした画面作りを目も離せずに追っているうちに、あっという間に驚愕の結末を迎えるというわけだ。
製作者は言う。
台詞の一言には、少なくとも100通りの意味があると・・・。
この
アメリカ映画 「 スルース とは、知性と理性が勝敗を決める、どうやら究極の「ゲーム」ということらしい。


映画「歩いても 歩いても」ー家族の人間模様ー

2008-07-05 12:00:00 | 映画

是枝裕和監督邦画最新作「歩いても歩いても」を観た。
彼が、監督四作目の「誰も知らない」で、カンヌ国際映画祭最優秀男優賞(柳楽優弥)を受賞したときは、国内外で、大きな話題になった。(この映画は、なかなかよく出来た、一風変った不思議な作品だった。)

今回の作品は、成人して家を離れた子供たちと、老いた両親の夏の一日を辿る家庭劇(ホームドラマ)だ。
24時間の家庭劇には、家族の関係や歴史が刻み込まれ、そこに誰にでもある自分の家族の姿を発見する。

何十年も、同じ屋根の下で暮らし続ける老夫婦・・・。
久しぶりに、家族を連れて実家にやって来た息子と娘、そして15年前に亡くなった長男の話が交錯する。
母親の手料理は、昔と変わらない。
でも、家の内部や家族の姿は、少しづつ変化する。
食卓を囲んでの何気ない会話の中に、家族だからこそ持つ、そのいたわりと反目、愛しさ、厄介さが、ほろ苦いせつなさをもって、ときにユーモラスに描かれる。
人の心の奥底に潜む、残酷さもちらりとのぞかせながら・・・。

夏の終わりに、横山良多(阿部寛)は、妻ゆかり(夏川結衣)と息子を連れて実家を訪れた。
開業医だった父恭平(原田芳雄)と、そりの合わない良多は失業中のこともあって、久々の帰郷も気が重い。
明るい姉ちなみ(YOU ゆう)の一家も来ていて、横山家には久しぶりに、笑い声が響く。
得意な料理をつぎつぎにこしらえる とし子(樹木希林)と、相変わらず家長の威厳にこだわり続けている父がいた。
ありふれた家族の風景だが、今日は、15年前に亡くなった横山家の長男の命日だった。

跡つぎにと、期待をかけていた長男に先立たれた父の無念と、母の痛み・・・。
優秀だったという兄と、いつも比べられてきた良多には、父への反発もある。
姉は、持ち前の明るさで、家族のあいだをとりもっているけれど、子連れで再婚して日が浅い良多の妻は緊張の連続で気疲れする。
そんな中で、良多は、些細なきっかけから親の老いを実感する。
ふと口にした約束は果たされず、小さな胸騒ぎは、見過ごされる。
そして、姉たちが去り、残った良多たちは、両親と食卓を囲みながら、それぞれの思いが沁み出してゆくのだった。

日々の営みの中で、繰り返される家族のアンサンブルは、どこの家庭も同じだ。
その日から次の日にかけて、普遍的と思われる家族の24時間を描いている。
平凡な家族の一日を、丹念に追った。

この映画を観ていると、日本映画やテレビドラマで描かれてきた、多くの家庭劇が想い起こされる。
『東京物語』小津安二郎監督や、 『お母さん』成瀬巳喜男監督ら、巨匠たちが描いた戦前戦後の家庭の姿である。
テレビのホームドラマの礎を築いた向田邦子らの作品も、家族の喜怒哀楽をコミカルに描きつつ、生活の中に潜む‘孤独’をにじませた。

気になったのは、作品の中に沢山の笑いやペーソスを散りばめていることだ。
そういうねらい自体は、大いに結構だ。
ところが、これがよく出来ているようで、実はくどい。悪く言えば、わざとらしい。
上手いとはとても言えない。
どうにも、白々しい。
ときに、その描き方は、登場人物たちの何気ない台詞の中にぽんぽん飛び出してくる。
食傷気味である。
どうにかならないかと思った。
是枝監督は、コミカルなタッチで、随所で観客の笑いを誘いたかったようだ。
その意図が、ぷんぷんと臭う。みえみえだ。
確かに、観客からくすくす笑う声ももれているが、シナリオの出来ばえがどうも上っ調子に思えてならない。

原作、脚本、編集まで一手に手掛けた是枝監督には、人一倍‘家族’への思い入れがあったようだ。
生前、自分の母に「何もしてやれなかったなあ」という後悔から、この映画は出発したと言っているように、生の一瞬を切り取ろうとした。
その一瞬の中に、家族の記憶の陰影を織りたたんでいった。
そうして、泣くのではなく、出来るなら笑いたいと思って作った。
そのあたりに、無理に「笑い」をこしらえた意図が見え隠れする。
残念だが、日本映画の小津安二郎成瀬巳喜男には遠く及ばない。
彼らの往年の作品には、脚本(台詞)にずっしりとした重みや研ぎ澄まされたエスプリもあった。
上っ面ではない、どこか心の底から笑える何かがあった。心の底から、である。
フランス、イギリスなどヨーロッパ映画には、上出来のユーモアのエッセンスが見事に散りばめられている。
日本映画は、悲しいかな、まだその域にはないと感じた。

家族とは、はかないものだ。
老いた親は消えてゆき、働き盛りの子供たちに代を譲る。
その子供たちも、いずれは親と同じ道を辿ることになる。
その繰り返しである。
そうした、身近な家族という小宇宙を描くことは、実は大変難しい映画作りなのだと思わずにはいられなかった。

樹木希林が、とりわけいい味を出している。この人はいつもうまいなあと思った。
とし子が、映画の中で愛聴している「ブルーライト・ヨコハマ」にも、夫婦の歴史が刻まれている。
大人の恋のイメージが濃厚だったこの懐かしい歌は、昭和44年当時21歳のいしだあゆみが歌って、150万枚という空前の大ヒットとなった曲だ。
この歌の歌詞の一節から、映画のタイトルが付けられた。
いしだあゆみは、この年のNHK紅白歌合戦に初出場した。

個人的には、作品に不満もあるが、映画の最後のシーンは印象に残った・・・。
その夏の日から7年後、良多一家は海の見える墓地に来ている。
あのとき連れていた子供は高校生になり、もう一人の4歳くらいの女の子の姿もあった。
墓地の脇には、一家が乗って来た車が止まっている。
遠く、海だけが昔と変わらずに青く輝いていた。

ミステリアスなどは何もない。
奇矯な登場人物もいない。
是枝監督のこの作品「 歩いても歩いてもは、生きることの厄介さ、面白さ、切なさ、哀しさを夏の空気の中でとらえた一作である。


ー値上げラッシュと食品の偽装表示ー

2008-07-03 17:00:00 | 雑感

とうとうガソリンが、1ℓ当たり180円を超えた。
離島では200円をとうに超えている。
ガソリン不足で、パトカーが動けない島がある。
漁船も出漁できないで、休漁する・・・。
しかもこのまま、燃油価格が高騰し続ければ、1ヵ月間の休漁もあり得ると言うから穏やかではない。
この先、何がどうなっていくのか、見当もつかない。
非情な嵐が、容赦なく庶民を直撃している。

善良な庶民を騙す、悪い人間がいる。
食品の偽装表示は止まらない。
業者のモラルは、そこまで地に落ちたのか。

公共料金に続いて、いまあらゆる食材が値上がりしている。
狂乱物価だ。
牛、豚、鶏も大幅な値上がりだ。
輸入牛肉や、豚ロースも、過去最高値を更新中だという。
言わずと知れた、原油高だけが原因(?)とは思えない。

等級の低い牛肉を、「飛騨牛」と偽装表示して販売していたばかりか、豚肉の産地も偽装し、消費期限の改ざんも・・・。
そして、あの経営者の会見での逆ギレは何だというのか。
安く仕入れた肉を高く売る。それで、肉の価格が高騰しなかったらおかしい。

夏バテはウナギだと思っていたら、こちらは国産どころか、主流(?)は何と中国産に化けている。
農水省のJAS法違反だからと、改善指導をしたところで済む問題ではない。
国は厳罰をもってのぞむべきだ。
現行制度はどうなっているのだろう。
表示の監視体制を強化するというけれど、そのくらいのことで済むことではないだろう。
もう、営業許可の取り消しとか、徹底的に懲らしめないと、こうした悪徳業者の一掃は難しいのではないか。

今、JAS法というのは、違反が見つかったら改善指導を行い、それに従わないときは、強制的に命令に移って、それにも逆らうようであれば、初めて罰則が科される仕組みらしい。
でも、これまで罰則にいたったところは一社もないという。

それにしても、中国製毒入り餃子事件はどうなったのか。
それさえも、あいまいなままで幕引きか。

食品表示に関する法律と言えば、JAS法、食品衛生法など数多くの法律があるが、これらの監督官庁である農水省とか厚労省は、一体何をしているのだろう。

以前、飛騨高山で飛騨牛を食したことがあった。
肉が柔らかくて、極上の美味しさであった。
先日、近くのスーパーで売っていた「飛騨牛」の肉は硬かった。
えっ、これが?って思った。
値段だって、結構高かった。なのに・・・?
多分、あれは偽装表示の牛肉だったのだ。今もそう思っている。
いいものは、値段が安かろう筈がないし・・・。
高いからと言って、本物とは限らない。
どうしたら、騙されないですむのか。
食材の‘嘘’を見抜くのは難しい。

そして、相次ぐ値上げラッシュだ。
主食類の大幅値上げはもちろん、こうした肉類や魚、野菜の価格までジワジワと高騰している。
まだまだ高騰し続けるのだろうか。
家計に大打撃だ。
標準的な家庭で、年間6万円位の負担増になると言われている。
ひどい世の中だ。

庶民の、そんな生活を知ってか知らずか、福田総理は手を大きく振って、風を切りながら、ひたすら、
 「サミット、サミット」と叫び続けている。
首都東京の厳戒警備だけで、何と422億円もの税金が消えてゆくのだそうな・・・。

パソコン教室に通い始めて3年近く、この頃、めっきり腕を上げたと言われる専業主婦は、ため息まじりに嘆いていました。
 「こんなに、何もかも物価が上がってしまっては、もうお手上げだわ。まいったわ。
  へそくりもできない。週一回のパソコン教室も、しばらくお休みだわ。あ~あ。」



 


映画「JUNO/ジュノ」ー十六歳の出産初体験ー

2008-07-01 20:30:00 | 映画

世代を超えた、女性へのエールのこめられた作品が誕生した。
一風変った、女の子の青春記といったらいいか。
脚本の力に負うところの多い作品だ。
親友や家族、周囲の人たちに支えられて、小さな命を授かって見えてきたものは、両親の深く大きな愛、そして、かけがえのない友情だった。

ジェイソン・ライトマン監督アメリカ映画「JUNO/ジュノ」は、アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞し、主要四部門(作品・監督・主演女優・脚本)各賞にノミネートされた。
ローマ国際映画祭最優秀作品賞、トロント国際映画祭観客賞など数多くの肩書きも持つ。
ディアブロ・コディという脚本家は、ブロガー出身だそうで、確かにその独創性と台詞使いのセンスはなかなかだ。
このことが認められて、スティーヴン・スピルバーグ監督から、新しいドラマの脚本家に任命されたそうだ。
新鮮で、リアリティのある台詞があって、はじめてヒロインの熱演もうなずけるというものだ。

16歳の高校生ジュノ(エレン・ペイジ)は、父マック(J.K.シモンズ)義母ブレン(アリソン・ジャネイ、妹リバティ・ベルの四人家族だ。
或る日、ジュノは友達のポーリー・ブリーカー(マイケル・セラ)との交際で、妊娠してしまったのだ。
まだ、愛とか恋とか、真剣に考えていない年頃の、突然降ってわいた出来事だった。
ジュノポーリーに報告すると、ポーリーは戸惑った。ジュノは中絶を提案した。

後日、ジュノが向かったクリニックで、中絶反対運動中の同級生にたしなめられ、彼女は考えを翻した。
ジュノは、親友のリア(オリヴィア・サルビー)に相談して、養子縁組を望むカップルを探し出した。
そのうえで、両親にも打ち明けた。
ジュノの家庭に衝撃が走った。
初めは、十代の娘の妊娠に驚いた父だったが、子供を出産しその子を養子に出すという、ジュノの意見を尊重してくれた。

ジュノは父親とともに、養父母となってくれるローリング夫妻の家を訪れる。
その家には、キャリアウーマンで、美人のヴァネッサ(ジェニファー・ガーナー)と夫のマーク(ジェイソン・ベイトマン)がいた。
夫妻は、生まれてくる子供を養子とすることについて、快く約束してくれた。

季節は過ぎて、冬になり、日を追うごとに、ジュノのお腹はどんどん膨らんでいく。
学校でも、彼女の妊娠の噂は広がっていたが、ポーリーは今までと変らない態度で、ジュノに接していた。

音楽や映画の話のできるマークは、ジュノにとって大切な存在になっていた。
しかし、そんな時に、マークはヴァネッサと別れようとしていた。
その、マークの突然の宣言に、ジュノは衝撃を受ける。
マークは、ジュノと一緒に子供を育てていこうと提案したのだ。
しかも、マークジュノがそれを喜ぶと思っていたのだ。
家庭の崩壊など望まぬジュノの願いは壊れ、ジュノは号泣した。

ジュノの口にする言葉が威勢いい。
 「“人類”の信頼を失ったわ」
ジュノを迎えたのは、いつもの我が家と父マックの温かい声であった。
 「二人の人間が永遠に一緒にいられるか?」というジュノの命題に、
 「何よりも大事なのは、ありのままのお前を愛する人を見つけることだ」と父は答えた。
そして、ジュノが思い浮かべたのは、やはりポーリーのことだった。
・・・いよいよ、ジュノの出産の時がやってきた。・・・

家族の絆と希望、いろいろな愛の形がある。
それらを、この映画は浮き彫りにする。
16歳の少女の“大事件”が、みんなの心をひとつにつなぐ。
そこに生じる、人間関係の微妙なバランスが描かれている。
16歳の少女は、臨月のお腹を突き出して、前を向き、堂々と自分のペースで歩いていく・・・。
ジュノは、しっかりと自分を守って生きている。
へこみもしないし、へこたれもしない。女とは、かくも強いものか。
しっかりと、自分なりの解決策を見出すのだ。
十代から元若者までの世代に、この青春映画はどう映るだろうか。
ジュノは活発でエネルギーがあり、少し生意気だが、知的で賢い部分を持っている。
結構じゃありませんか。胸を張って行け!なんて・・・。
確かに、脚本は面白そうだ。
明るさと笑いもある。それで、どこか可笑しい場面も・・・。
若いカップル向けの作品かも・・・。
ただちょっと、少女小説のような気もして・・・。(?!)
ジュノは、父親の前だけ、年齢相応のか弱い少女に戻れるのだ。
その父親の役目は、やがて赤ちゃんの父ポーリーにバトンタッチされるのだ。
最重要人物はポーリーだ。
出産後、青春の過ちに泣き続けるジュノを、くるむように抱き続ける。
悲しみと温かさが交錯するシーンに、いたわりあう二人の姿を見せられて、誰もがほっとするのではないだろうか。

軽快なテンポで語られる台詞は、面白く、痛快な響きがある。
おそらくスラングも混じっているから、字数制限のある日本字訳は大変だったに違いない。

16歳の妊娠というプロットについても、映画は奇をてらわず、大人の決めつけた紋切り型ではなく、地に着いた姿勢で、ジェイソン監督は描いている。
要は、あくまでも「自分の生き方は自分で貫く」という真っ当さが、この作品の芯になっている。
監督も脚本家も、まだ30歳を超えたばかりで、二人とも若い。
脚本のディアブロ・コディは、自叙伝をブログで書き上げ、それがプロデューサーの目にとまってデビューとなったそうだ。

友達以上、恋人未満なんていう言葉がある。
味付けすると、こんな物語になるのかも知れない。
アメリカ映画「JUNO/ジュノは、降りかかってきた大きな問題に直面して、少女の戸惑いをときに笑いと涙で、明るいコメディタッチで描いた作品だ。

蛇足ながら、アメリカは児童福祉上の観点から、国全体を挙げて、養子縁組に取り組んでいるため、数多くの養子縁組が成立している。
1997年からほぼ1年間で、児童養護施設から養子縁組に移った児童が3万6000人にものぼるそうだ。
あちらでは、日本の「家のあとつぎ」といった観念がなく、里親制度や養子縁組の情報が身の回りにいっぱいあるので、普通のこととして受け入れやすいこともあると言われる。
(この映画の中では、ヒロインが、タウン誌で養子縁組の情報を検索している。)