梅雨が明けた。
小学校の一学期が終わった。
終業式から帰ってくるなり、少女は、いきなり泣きじゃくりはじめた。
明日から、楽しい夏休みのはずだった。
母親は、心配そうに子供に尋ねた。
「まあ、いったいどうしたっていうの?」
少女は泣いてばかりで、物も言えない。
母親が、娘の顔をじっと見つめると、少女はやっと重い口を開いた。
「先生が・・・、クラスの担任の先生が・・・」
「先生がどうかしたの?」
「ついこの間から、学校に来なくなって・・・」
「あら」
「終業式にも来なかった。それも、無断でよ。ねえ、変よねえ」
「夏休みに入るというのに?」
「そうなの」
「他の先生は何て言ってるの?」
「分からないって。絶対変だよ」と、少女はまだ泣きじゃくっている。
「どうかしたのかしら?何かあったのね」
少女は涙をふきながら、苦しそうに言った。
「何か、先生悪いことをしたみたい。みんなが噂しているもん」
「噂って?」
「知ってるでしょ、お母さん。ニュースでこれだけ騒がれているんだもの」
母親は、うすうす感じてはいたが、なるべくならその話には自分の方から触れたくなかった。
今の子供たちは、世の中の出来事に敏感だ。
知らないと思っても、子供は何でも知っている。
おそるおそる、彼女は娘の顔を覗いて、
「あの、沢山お金を払って先生になった話ね?」
「お母さん、あたしが知らないとでも思ってた?」
母親は、ちょっと戸惑いを見せた。
「そんなことはないけれど・・・。それで、そのことに先生が関わっているらしいのね?」
「だって、あれだけ学校で騒がれていて、何もないはずないでしょ?」
「それは、そうでしょうけど」
「それにね、この前辞めた校長先生の、替わりの先生が今日来て挨拶があったの」
校長が、今回の教員採用に絡む汚職で逮捕されたことは知っていた。
そして、今度は担任の教諭だ。
少女のクラスの担任は、とても人気のある、イケメンの若い男性教師だった。
母親は、授業参観や家庭訪問でも会った事があって、印象はよかった。
「友達がね、他の先生にそのことについて聞くと、ひどく怒られたの」
「だって、まだはっきりしたことじゃないでしょ?」
「あたしだって、先生が、先生になる時400万円もかかったなんて、思いたくもない。それって採用試験に落ちそうな人
のすることよね。・・・でも、きっと間違いないわ。そうなんだわ」
「・・・」
「学校に、県の偉い人や警察の人が来ていたし、とても変な感じだった」
「そう?」
「だって、何もなければ、警察の人なんか来ないでしょ」
母親は、娘の言うことに黙ってうなずくほかはなかった。
少女は、落ち着きを取り戻して言った。
「急に辞めた校長先生は、警察に捕まったんでしょ。それで、あたしのクラスの担任の先生も・・・」
「・・・」
「夏休みのキャンプにも参加しないらしいし、もしかすると9月からの新学期には出て来ないかも・・・」
少女は、がっかりしたように肩を落とした。
そのとき、少女の目にはもう涙はなかった。
次の日、少女はクラスメートからのメールで、担任教師が9月以降の新学期からも、おそらく学校には出て来ないだろうと言うことを知らされた。
PTAの役員からの話だから、きっと間違いないということだった。
真相は、そのうち解るだろう。
先生が病気だとは聞いていないし、思いたくなかったが、やっぱりそうなのか、と少女は思った。
母親に、そのことを告げると、
「生徒に顔向けできないわね。あんなにいい先生が・・・」
「お母さん、先生って、みんながみんな悪いことしているの?」
「そんなことありません、決して。一部の人だけですよ」
「最近、職員室の中まで、何だか様子が変だったもの」
「変?」
「そうよ。何か、仲のいい先生同士までよそよそしかったり・・・」
「・・・」
「そういうことってさ、いま、みんな敏感なんだよ。神経質になってるっていうのかな・・・」
「真面目な先生には迷惑なことね。もっとも、あなたたち生徒が一番の被害者だわね」
「高いお金を払って、教育委員会や議員の先生と縁故がなければ、これからは先生になれないの?」
「そんなこと、絶対ないわ。そういうことは、許されないことなんだから」
母親は、自分の娘に毅然として言った。
これまでの教員の不正採用について、取り消しを検討する方針を教育委員会は決めたらしいが、学校と言う教育現場の混乱は、当分避けられそうにない。
そして、こんなことで、最大の被害者が学校の生徒たちだとなれば、その悪の根は深い。
少女はぽつりと言った。
「あんなに、いい先生だったのに・・・」
母子家庭に育った少女は、優しい男の先生のどこかに、自分の父親像を描いていたのかも知れなかった。
あの、いつも誰にでも親切だった担任の教師が、不正に採用された教師だったなどとは思いたくない。
思いたくはないのだ。
・・・しかし、少しずつではあるが、少女の胸のうちで、疑惑は黒々とした森のように、次第に大きく広がっていくのをどうすることもできなかった。
そのことが、彼女には、無性に悲しく腹立たしかった。
学校生活での、楽しい思い出もいっぱいあるのだろう、少女はまた涙ぐんでいた。
そんな娘の肩にそっと手をおいて、母親はさとすように言った。
「でも、新学期には、きっと、ちゃんとした立派な先生がまた見えるわ」