年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

気が沈む

2016-02-28 20:23:41 | Weblog
 久万高原町では今日から4月24日まで“くままちひなまつり”が開かれていることを知ったのは、街中にあるセレモニーホールからの帰り道であった。
 住宅の軒先にいろんなお雛様が飾られている。

 車の中にも、

 庭先にも、

 10,000体のお雛様を街中に飾っているという。
 節句に飾られるお雛様祭りは楽しい行事ごとだろう・・が、一向に私の気が晴れないのは、先ほどお見送りをした杉野さんのことが頭から離れないためである。今日の午後の礼拝時に初めて知ったのは事故のこと。

 杉野さんに最初にお会いしたのは何年前になるんだろうか。いつの日だったか、私が途方に暮れていた時にお聞きした杉野さんの生き様が凄かった。
 開拓農民として久万の山に入った。何もない只の山林を赤貧を洗うがごとく奥さんと二人で山を開拓し生活をすることに。貧骨に迫る有様であったと話しかけられた。奥さんとの間に3人のお子さんに恵まれた。私が牧師からお聞きしたのは、中学校を出て高校へ進学させるゆとりはなかったけれど、お子さんの一人は大阪に出て昼間働きながら夜間高校を卒業後に夜間の大学をも卒業された。そして1級建築士の資格を取り頑張っていられる・・と云うことであった。
 他にも開拓農民のすさまじさの説明を受けた経験がある。北海道開拓を目的に入植したクリスチャンの開拓団に神戸市で結成された「赤心社(せきしんしゃ)」があり、明治15年に愛媛・兵庫・広島県より80数名が元浦河(現荻伏)に入植した話である。

 精神的肉体的に相当な苦労があったなどと写真を眺めながら説明を受けお話をお聞きしたのは、北海道・浦河のT牧師からである。現在、元浦河教会にT牧師が奥様のふくみさんとともにおり親しくさせていただいている。またT牧師は「浦河ベテルの家」の理事もされている。
 教会の近くに赤心社を指導された沢理事長のお孫さんがいられて食料品などお店を経営されていた。そのお店でストーブをあたりながら先代の開拓当時の血の出るお話を赤心㈱沢社長からお聞きしたことがある。明治時代の開拓の話であった。
 「赤」の意味には、何もないという意味がある。「赤心」も何もない空っぽというところから出たのであろうか。

 杉野さんは、全く何もない、家財道具一つない赤貧状態から出発した昔のことを少ししゃがれた声で私に話しかけた。
 その当時の自分は、妻が事故入院でどうなるのかわからないような大けがの状態、弟も母親も入院で、自分一人の身、にっちもさっちもいかないようで四方八方塞がれていた時であった。その時杉野さんから言われた言葉がうれしかった。「あんたはほんものや」と耳に入った時、なぜか自分が壊れるまで本物になるためにがんばろうと思った。そのように杉野さんから思い切り励まされた。それからずいぶん数多く友人達にも支えられた。感謝しかない。そのお一人である杉野さんの遺影を眺めながら涙が滲んできてしょうがなかった。
 年老いて杉野さんご夫婦がご自分達が開拓された山の中に二人で住んでいた。身体の弱い奥様を、若い時から今までずい分苦労をかけた。飯代がないのは普通であった。家内には苦労を掛けた、だから最後まで自分が面倒を見てやりたいと・・云う。そして24日の夜、自宅に帰ってこない奥様を探しに狭い山道をマイピアに乗り探している途中小川に落ちたと聞かされた。昨年12月20日のクリスマス会にお会いしたのが最後であった。
杉野さんに教えられたように自分を犠牲にして私はこれから誰を支えられ得ようか・・・。