年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

逃げ足が速い

2011-02-28 21:51:06 | Weblog
 1月は行く、2月は逃げる、3月は去る・・とはよくいったものだ。1月は行ってしまった。2月は今日で逃げられる。光陰矢の如し・・などといわれて自分たちは教えられた。そして育てられた。自分の場合、このような状態では、時間を有効に使って何かをしなさい、などの脅迫的な仕掛けを作られている感覚がするので、どうもしっくり来ない。何か急き立てられているようで、ジットしていると悪いことをしている・・そのような感覚でもある。しかし何かに向かって火がつくまでは常にジットしていることの方が多い、などと自分は思っている。ところが、月末、2月28日の日付をつけてギリギリまで待たされた書類がどっさり届いた。こりゃコマッタ。今日中には処理ができそうにないし、おまけに相談者が来られるし・・・こんな時にいつもやっておるのは、開き直りである。エ~イどうにでもなれ~

いつものように

2011-02-27 00:00:00 | Weblog
 9時前までに弟を透析病院へ送り込み、その後は母親を温泉へ連れてゆき透析が終了する午後2時過ぎに弟を迎えに行く。いつもの定例的なことを嫌がる気持ちもなく流れ作業のように淡々とやる。自分にとって時間を拘束されるものの、自分の計画をコレに合わせば事足りる。別に時間を盗られることで厭になることはない。まぁ自分の休日の計画にしたところでお出かけの目的は、島巡りであるけれど目標達成までにはまだまだ先が長い。ゆっくりと無人島などに上陸してその頂きに立ちたいだけだから慌てることはない・・・などと考えていると、自分の年齢から計算して、少しは慌てて回る方がいいのかもしれない。
                         
 午後少しの時間、畑のある河原に出て探すと、土筆がいっぱい出ていた。20分もすれば両手いっぱいになった。ハカマを取るのが面倒だから、というのが一つ、初物を食べると長生きできるというのがもう一つの理由で、両手いっぱい取った土筆を母親と弟のために持っていった。ちょうどヘルパーさんが来られていたので初物を調理してもらうことにした。なぜか二人とも土筆を見てウキウキしていた。自宅に帰ると3男と4男がなにやら楽しそうに話し込んでいる。何の話しかと割り込むと、漫画・スラムダンクのことでワイワイ話しておった。今日はコレで日曜日は終わり。

今日の講師

2011-02-26 00:00:00 | Weblog
 朝起きて東の空を眺める。5時半頃の東の空にやや明るみを帯びた石鎚連峰のシルエットがくっきり浮かび上がる。モーニングコーヒーを飲みながらのこの時間は自分にとって最大のぼんやりタイムである。
                      
 午後ECC研修会あり。本日の講師は、銀行に永年努め、その後、女子大での就職進路支援の職を得て10年間頑張ってこられたSさんである。一言で表すと、今年度数多くひらいた研修の中では、私にとって一番よかった内容であった、と思う。
 私は、自分が話すのは苦手であるけれど、聴くことは好きな方である。しかし幼少時からの良い?クセがあり面白くない話の場合は例え60分であろうと、頭の中に入ることなく声が頭の上を素通りして、自分勝手に他のことを考えるクセがあり、反対に面白い話になるとのめりこんで話の内容に及ばず講師の動作まで聴きたくなるし見たくなる。
 で、何が良かったのか。初めのアプローチで引き付けていたので、今日は面白いと予測させた。S講師の組み立ては、梅花の話題、2.26事件の話から切り込んで、自分を開示させながら、ご自身のキャリアと学生を就職に結びつける過程で、Sさんの、なぜキャリアカウンセリングが必要なのか、の背景をデータで示しながら説明し、そしてSさんが今までやって来られたキャリアカウンセリングの実際を話された。最後に学生に向けての問題点を提案され今後の学生相談の道標を示したところにきょうの講師のすばらしさがあったと思う。たとえば2-6-2の優秀ー普通ー普通でも優秀でもない層に分けたときの一番最後の層をどう対応するか…の問題提起など。
 言葉を聞き手側にどのように伝えるか、は話し手側の、講演内容の落とし込みの深さによると思う。ともすれば自分だけしか解らないような話をグダグダと喋りつづける方がいれば、やっぱり聞き手側は早く終わってくれないか、と思うし、今日のような話は、また聴きたいと思う。

やっぱり行った

2011-02-25 00:00:00 | Weblog
                      
 どうしても気にかかることの一つに雪山登山がある。毎年行っているのに今年はまだ雪の石槌に入っていないのだ。でも休みの日はいずれの土日も予定が詰まっていて、そのうちに雪がなくなってくる。これから気温が上がることを考えると、今しかチャンスがない…などと都合よく考えた。本日有給休暇取得。で朝7時に出発。
 金曜日につき登山者は少ない。私以外に上に上がったのは二人だと登山届けを出した際に成就社の旅館の親父さんが言った。実はこの冬は例年に比べ雪が多いせいか、遭難者が多いのだそうだ。先日我が家に廻ってきた回覧板に警察署からの注意事項として書かれたあった。中高年者の遭難が多く県警ヘリコプター捜査の出動回数が増えているのだそうだ。そのようなことにお構いなく無謀?にも上ることにするが、私は頂上を行くことが最大の目的ではなく帰りの時間を考えながらいける所まで行く考え。
 それにしても今年は確かに雪が多かったんだと思う。そのオヤジさんも先日の好天気でだいぶ溶けたというもののいつもの冬に比べると多い。しかも今日の気温はプラスだから雪が締まっていない状態。だから登山道も一歩間違えるドワ~ン・ズボッと片足が雪の中に入ってしまう。お尻まで入るほどだから片足を抜くのに難儀する状態。今日は同伴者がいない、気遣う相手がいないこともありゆっくり歩いた。10歩歩いて振りかえる。20歩歩いて5分休むような感じ。山の中のコーヒータイムの回数が多い。だから時間がかかるけれど私を追い越す登山者はいない。聞こえてくるのは風の音のみ。時折名前を知らない小鳥が目の前に現われピーピー鳴きながらえさをあさっている。それらの音と私のアイゼンが雪に食い込む音だけが聞こえる。静寂の時間が過ぎる。いつもなら1時間半もあれば行き着く場所の前社が森の小屋に行くのに雪が深いせいもあり2時間半もかかった。テルモスに入れた蜂蜜入りネスカェコーヒーを飲む。至福の時間。ゆっくり歩きすぎたために夜明かし峠着が1時過ぎであった。身体が揺れるほど風がきつい、山頂がガスっているけれど強い風で一瞬、さあっと見えるときがあるくらい。上に上がっても周りは見えないし風がもっときついだろうと思い、ここで引き返すことにした。残念だったのは零下であればきれいな霧氷が見えるだろうに、まったく見ることが出来なかったこと。
 山から下りると4男から連絡あり。試験が終わったけど、今年はムズイ、と言いながら、僕が難しかったくらいだからみんなは出来てないと違うか…などと強気に話しておった。明日は面接があるらしい。

コミュニケーション?

2011-02-24 00:00:00 | Weblog
 今年卒業予定の学生の就職未決定者に対しての大学・高校側、ハローワーク側そして事業所側が集まっての就職面接会が各地で催されている。厚労省も力を入れているこの雇用問題に大きな助成金を付けてなんとか解決の方向へと躍起になっている。そこでその担当になっている友人H に就職が決まらない学生はどういうところが問題だと思うか、と訊ねたところ、彼はコミュニケーション能力不足も一因かなぁ…などと答えてくれた。
 職業訓練校で障害を持つ求職者の就職支援をしているMさんがやってきて珍しく私の前に座った。何か私に話したいことがあるようだ。顔色見ればいつもの顔に比べると幾分疲れきった顔のように映る。どうしたの…と訊ねると、仕事辞めようかと思うんです・・と辛そうに話してくれた。さまざまな職場内人間関係や家族内の問題があり詰まっているようだ。で、話を聞きながら私が注意していたのは、彼女が発する言葉より声の質、目の動きや体全体で表現するものの観察である。話し言葉の奥にあるものを聞きながら考えた。
                  
 研修会で習ったノンバーバルコミュニケーション、やバーバルコミュニケーションについてその意味を知っている人は多い。しかしそれをきちんと理解し実践できる人をあまり知らないでいる。私は、言葉ではなく言葉以外のものから聞き分ける能力について学ぶ必要があると考えている。ノンバーバルコミュニケーション能力は、訓練や学習で自分のものに出来るような能力なんだろうか、きっと傷ついて閉じこもったり、どうしようもない不安感などの経験を数多く持つことから得るほうが単なる知識を学ぶより優れた学習ではないか、と思う。私の周りのカウンセラーと自認する人たちから教えられることの多くは、コミュニケーション能力は、言葉のやり取りについて聞く能力が中心であると聞かされるけれど、私は言葉より言葉の後ろに隠されている感情や考え、思いのほうが気にかかる。
 コミュニケーション能力不足、などと簡単に評価するけれど、喋ることと聞く能力よりさらに相手の思いを推測する能力のほうが大事であると考えている。どんなもんだろうか?
 明日は休暇をとって、雪のあるうちに山に行く予定。

メンタルの脆さ

2011-02-23 21:25:18 | Weblog
 私の耳に最近多く入るのが、こころの調子についてである。しかし自分は治療者としての医師ではない。精神福祉士の立場でもない。治す・・などのイメージは持ち合わせてはいない、にもかかわらずなぜか私のテーブルに来られる方が、私を尋ねてくれば何とかなる、とでも考えているのであろうか。
 保護者を含め当事者としての相談者にも二重構造があり、困っている本人とその人の周りの人の問題が複層化しているので、聞き手の私のほうも、どこからどこまでが本人の問題であり、どこからがその周囲の人の問題になっているのかを整理しながら聞き分けをしなければならないために聞く側は、注意を払わなければならない。
 本日の相談の中に、27歳、引きこもって5年になる息子さんを持つ母親の相談があった。苦しさを感じる息子さん(母親の弁)とその苦しさを見守る母親の苦しみの相談である。しかし青年の息子さんには会っていないので、もっぱら母親の相談が中心になる。このような保護者の相談になると、必ず出てくる言葉は、私達親が死んだあとの子どもはどうなるか、心配で心配で・・のはなしである。
                        
 私の青年期にむさぼり読んだ本の中に、「チボー家の人々」があった。その中に、親が強ければ強いほど子どもが弱くなり、子どもが強ければ親が弱くなる・・の個所を今もって忘れずに私は引きずっている。
 親と子の関係においてこころの病をはざ間に置き、子が病み同様に親も病んでいる二重構造は永遠の問題になるのだろうか。

今日のワンポイントレッスン

2011-02-22 00:00:00 | Weblog
 4男が自宅に帰りリラックス状態で母親となにやら話し込み大きな笑い声を立てておる。もうすぐ2次試験が始まる、その緊張感を少しの間でも溶けるように日常的会話をしているのだろう。4男が愚痴るのに、この1年は監獄の中に放り込まれた感覚がしていて早く抜け出したい気持ちがいっぱいである・・・などと。
 高みに自分を追い立ててみる、深みの中へ入り込んだ自分について考える、難しさに挑んでみる、とてつもなく厳しい状況に自分を追い込んだことのある経験が、自分を作る、と考えると、4男にとってすばらしい18歳を送ったのかもしれない・・と父親として考えている。
                      
 求職者が、よい天気の中で押しかけてくる。相談を受けながら感じることの一つに、面接について、どうも面接を受ける行為だけでなく、こちらが相手である人事担当、もしくは経営者を面接しているのだ、のことを忘れている。大切なことは相手も自分を選び、こちらも相手を選ぶことが重要。なのにいつも選ばれる自分のふがいなさだけを愚痴っている人が目につく。相手側を選ぶ自分、面接に行き、会社の人を選ぶ自分は、自分自身を深く見ないと発見できないのかもしれない。

もう土筆が出たよ

2011-02-21 00:00:00 | Weblog
                  
 ジツハ、昨日気持ちよい天気につき雑草が目につき始めた畑の草を取ることにした。大根や白菜など数種類植えているが間引きをあまりしていないので生育は悪い。で、それらの間にはびこる雑草を引っこ抜く作業をするも、なにせ中腰の状態が続いたので途中、腰が猛烈に痛くなった。くの字になってでないと歩くことさえできない。腰が真っ直ぐ伸びないのである。痛くてたまらない。畑の縁にイテテとばかり横になると、目の前につくしの赤ちゃんがあった。今年の冬も相当寒かったけれど、やっぱり春はやってきた。土筆が見え始めると、もうすぐ温かな春が来る。

不安と向き合ってみる

2011-02-20 00:00:00 | Weblog
 今週の2次試験に向けて4男が帰宅する。先月のセンター試験の自己採点により受験校を先生方やまた兄達と検討した結果決めたらしい。学部学科は決めているので、どこの大学を受験するか、だけである。最近の大学受験も随分と様変わりをしており、自分の実力を証明するのにどこの大学の受験方法が最も適しているか、などの戦略が必要になってきて、45年前の受験生である親の私どもにはさっぱりわからない。
 4男は、2次試験が自分の得意分野で勝負できるようなところを選んだようである。難しいだろうな、というのが私の感想。で、夕方寮を一日でも早く引き上げたい気持ちも手伝ってか、自室の荷物を4つの大きなバッグに詰め込んで帰ってきた。迎えに行った車の中で受験に対する不安感を話してくれた。誰にでもある先行き不透明な道行についてである。父親の私はいつものワンパターンではあるが、不安から目をそらさず直視することの大切さを4男に説いた。答えの出ている、答えの解っていることにチャレンジすることが生活の重要な部分ではないこと、解らないことに猛然と突き進んでゆくこと、そこから新しい展望が開いていくことこそが生きてゆくことの最も重要な姿勢ではないか・・・などと。結果はどちらにせよ出る。○か×かはっきり出てくる。その不安感というプレッシャーに押しつぶされないようになどと・
                    

60才のラブレター

2011-02-19 19:49:49 | Weblog
 コムズで無料の映画会があることを知ったのは、先日のコムズ祭りのイベントでチラシを見たからである。中村雅俊主演の映画・「60才のラブレター」。妻と二人分を申し込んでいたにもかかわらず、夕べ急な仕事が入り、今朝から職場に出て行ったので私一人で見に行くことになった。ウ~ン、感想としては夫婦は、常に出会いから軸がぶれることなくまっすぐにいくことこそ幸せな道があるのだろう、ってことかなぁ。なぜにこの人と結婚することにしたのかの内面的な欲求をどのようにその後、お互いに磨いて膨らませ続けてゆくか…途中での、この人とは、こんなはずではなかった、何か間違っているのではないだろうか、と考えるときにどれほど初心に立ち返ることが出来るものをお互いに共通項目として持ち合わせているか、そのあたりが豊かな夫婦生活を送ることが出来るかどうか、の分かれ目ではないか…そのような感想である。ラブレターとして出された未来へ向けての自分の手紙において過去の自分から寄せられた今の自分がどう答えるか、そう考える時に思い出すのは、大江健三郎・「『自分の木』の下で」。その中で、自分が過去に夢見た将来の自分と今の自分との比較による気づきではなかったか・・・
                    
 その著者の講演会も引き続いて聞きたかったけれど、私はいそいで場所を移して、「こころ塾」の理事会に出席する。塾長、事務局長から現在の状況報告をうけ今後の方向性を探る会である。確かにNPO法人として人的にも収支的にも成長をしている。さらに成長をしてゆくためにどうしようか…たとえば就労支援の復職支援プログラムに並行してB型就労を取り入れる事業を展開しよう・・などなど。でも私にとっての成長、ということは何も金額ベースが膨れ上がることやマンパワーが育つ上昇方向ということを意味してはいない。成長をしてゆくことは、落ちたり横ばいに這っていたり崩れたりまた再起したりという変化を意味している。だから成長を図ることはその変化にどのように対応できるか、ってことである。塾長のツネさんも目いっぱい、事務方の信一郎さんも目いっぱい、スタッフのOさんもKさんも目いっぱい、そのようなギリギリに追い込まれている中でやっている。だからこそ力がつく環境にあるのだと思っている、私は。
 ギリギリに追い込まれて余裕のない中でどのように相手を思いやれることが出来る力をつけるか、「こころ塾」の中でもお互い「60才のラブレター」のごとく、ありたい未来への姿に照らして立ち上げた3年前と現在のお互いの気持ちの齟齬のズレについてラブレターのように気持ちが飛び交っているのだろうと思う。