先日のこと、ジムに行ったあと汗を流しながら目の前の整形外科へ飛び込んだ。いつもの電気治療に首吊り治療、仕上げにマッサージを受けようとしたところ、担当のT先生がいないではないか・・聞けば咳がひどくなりさっき早退した、と他の人から返事があった。じゃ今日は他の人にやってもらおうと、一番強そうな先生を指名した。
治療対象の部位が書かれている私のカルテをフンフンと眺めて肩をグルグルやってもらうことになった。するとアンタの肩は、表面は柔らかいが芯が固すぎる。今まで何をやってたのか、長年の仕事の習慣でこうなったのか・・などと聞いてきた。そうかそうか、外が柔らかで内側が固いのか、外柔内剛の四字熟語の本来の意味であれば、うれしいがそうではなく身体のことにつき心境は複雑。
今日は家の内より外の方が温かい。公園に行ってみようか・・明日から天気は下り坂らしい。
風見鶏も天気のくだり坂を指してるんだろうか。
暖かい陽射しの中で小さなお子さん連れのご家族が多い。子どものキャッキャッの甲高い声が今年一番よく聞こえてくる。
布団の中で夜明け前によく夢を見る。嫌いな夢、恐ろしい夢ではないが、なぜだか追いつめられてるような夢が出てくる。今朝はその夢の中で、漢字が出てくるではないか、それも四字熟語で「徒手空拳」と。何かを始めようとしているのだが、何せ身一つで他に頼むものがない。どうしようかとウロウロしながら彷徨っている時に、フト思いついたのは、佐藤一斎 言志晩録にある「一灯を提げて暗夜を行く、暗夜を憂うるなかれ。只一灯を頼め。」のこと。夢の中でも結構苦しんでおるなぁ・・などと夢の中でも自分を俯瞰図の中に入れ込んでいた。じゃぁ自分が提げ持つ「一灯」とは何だろうか・・と考えようとした瞬間に目が覚めた。時は5時、外は暗いまま。
ネスカフェを入れ2階の窓からボンヤリと時間をやり過ごす。6時半も過ぎると山の端がくっきりと現れた。
そして7時半も過ぎると
陽が出た。
日常を慌ただしくやり過ごしていると、永久の世界が薄れる。というより目先のことだけが大事になるようで・・そんなときには空を観たり雲を観たり星を眺めたりする。極力人間から遠ざかるようなことにて。
今の時期空気が澄んでいる分石鎚がきれいに映る。
なぁ~んも考えたくはないが。今夜は公民館で来年度役員選出がある。当れば当ったでやるしかないが・・・さて。
治療対象の部位が書かれている私のカルテをフンフンと眺めて肩をグルグルやってもらうことになった。するとアンタの肩は、表面は柔らかいが芯が固すぎる。今まで何をやってたのか、長年の仕事の習慣でこうなったのか・・などと聞いてきた。そうかそうか、外が柔らかで内側が固いのか、外柔内剛の四字熟語の本来の意味であれば、うれしいがそうではなく身体のことにつき心境は複雑。
今日は家の内より外の方が温かい。公園に行ってみようか・・明日から天気は下り坂らしい。
風見鶏も天気のくだり坂を指してるんだろうか。
暖かい陽射しの中で小さなお子さん連れのご家族が多い。子どものキャッキャッの甲高い声が今年一番よく聞こえてくる。
布団の中で夜明け前によく夢を見る。嫌いな夢、恐ろしい夢ではないが、なぜだか追いつめられてるような夢が出てくる。今朝はその夢の中で、漢字が出てくるではないか、それも四字熟語で「徒手空拳」と。何かを始めようとしているのだが、何せ身一つで他に頼むものがない。どうしようかとウロウロしながら彷徨っている時に、フト思いついたのは、佐藤一斎 言志晩録にある「一灯を提げて暗夜を行く、暗夜を憂うるなかれ。只一灯を頼め。」のこと。夢の中でも結構苦しんでおるなぁ・・などと夢の中でも自分を俯瞰図の中に入れ込んでいた。じゃぁ自分が提げ持つ「一灯」とは何だろうか・・と考えようとした瞬間に目が覚めた。時は5時、外は暗いまま。
ネスカフェを入れ2階の窓からボンヤリと時間をやり過ごす。6時半も過ぎると山の端がくっきりと現れた。
そして7時半も過ぎると
陽が出た。
日常を慌ただしくやり過ごしていると、永久の世界が薄れる。というより目先のことだけが大事になるようで・・そんなときには空を観たり雲を観たり星を眺めたりする。極力人間から遠ざかるようなことにて。
今の時期空気が澄んでいる分石鎚がきれいに映る。
なぁ~んも考えたくはないが。今夜は公民館で来年度役員選出がある。当れば当ったでやるしかないが・・・さて。
昨年の11月中旬にJAXA内之浦宇宙空間観測所に4男と夫婦とで行った。宇宙ロケットの発射場を観たいと。
宇宙に飛び出すのは夢がある。
数キロ離れた所に打上げを遠望できる場所があった。そこからの画像がユーチューブで流れてた。
お邪魔した時に守衛さんから来年の1月に打ち上げ予定のイプシロンを作っているから中には入ることができないと聞かされてた。それが今日打ち上げられたのは、・・・やっぱり現地で見たかったなぁ、、と。
昨夜のウズベキスタン戦 塩谷選手の豪快一直線弾丸ミドルシュートは見るだけで満足。
宇宙に飛び出すのは夢がある。
数キロ離れた所に打上げを遠望できる場所があった。そこからの画像がユーチューブで流れてた。
お邪魔した時に守衛さんから来年の1月に打ち上げ予定のイプシロンを作っているから中には入ることができないと聞かされてた。それが今日打ち上げられたのは、・・・やっぱり現地で見たかったなぁ、、と。
昨夜のウズベキスタン戦 塩谷選手の豪快一直線弾丸ミドルシュートは見るだけで満足。
年が明けても、相変わらず受刑者と顔を突き合わせての相談事が続いている。もちろん出所後の仕事のことであるが、単に就職を決める・・だけで終わることではない。
就労支援スタッフの二人と打ち合わせ。二人の職員さんと話し合うことに、身柄を施設内から外に出すことにおいて何を重要視しなければならないか・・という話になる。私が二人に伝えたいことは、就職させてハイ終わり、のことではないこと。自分たちがやらねばならないことは、例えばマルクス主義の労働力商品としての価値にあるごとく「使用価値」と「交換価値」において、出所者が持つ労働力商品の交換価値を(つまり賃金となるが)いかに引き上げるか、そのためには労働力商品を持つ彼らをどのように作るのか、あるいは加工するのか・・
生産工場から、つまり上流から河口に向けて商品を流すにあたって、我々が自信を持ち、本人も自信を持つことができる商品に仕上げて工場から出荷しないと、ペンディング状態のまま出荷するとどうなるか・・。出荷先からもクレームが来る、本人からもクレームが来る。
懲役は加工ではないだろう。あくまでも自由意思に対する身体的制約であり制限となるはずだ。犯罪に対する国が定めた法律である。よって種々決められた規則の中で懲役生活を送っている。施設内では規則に従って違反、反則行為があるかどうかであり、懲役生活が終わる刑期終了までの生活態度がいかがなものかを注視することが最も大切な仕事となっているように見える。自分も片隅で関わっている様々な教育の一部から「働くこと」の矯正教育を試みているが、結果効果のほどはわからない。でも再犯のデータは白書に表れている。確実に懲役生活者のリピーターがいるということだ。
受刑者の性根を入れ替える・・などの大言壮語のごときは自分にはない。むしろ、どうすれば彼らが平坦な道を歩くようになれるか・・に焦点をあてたいと思っている。
受刑者のそれぞれの医務歴を見ていると投薬治療を受けるにあたって、診断名が躁鬱、不眠、アルコール依存症、ギャンブル依存症、癲癇があったりする。そして本人はなぜ事件を起こしたのか?自分にもよく分からない・・などと話す受刑者も中にはいる。私に就労支援相談にやってくる人は、事件前にはクリニックに行っていた履歴があっても、施設に収容されると減薬の方向に行く人も多い。むろん一部には病気入院する人もいるにはいる。病気に因を発しての犯罪については、大きな事件などでは精神的疾患として裁判の俎上にあげられるが窃盗やら詐欺などの犯罪者にはあまりそのようなことは聞かない。しかし無職者のアルコール依存症者の窃盗も目につく。
人が何かの行動を起こすきっかけには動機があるのだろう。自分たちはその動機がどのような仕掛けになっていて、犯罪へと走るのだろうか、をもっと深く考えなければならないと思っている。私の前に現れる受刑者に近頃やたらと多いのは性犯者にアルコール依存症者。それも結構堅い職業でIQ指数も高い人ともなると、彼らのエンプロイアビリティを考える前に、自分たちスタッフが考えなければならないことがあるのではないかと・・・。その一つに障害を持つ累犯者が存在する。出所後5年以内に再び犯罪を犯す障害者を一般市民が人差し指を指し立てて非難する前に、自分たちが考えないと・・。自宅から仕事場、塀の中から職場へと就職と云う名の場所移動にのみ携わるのでは片手落ちだろうと・・スタッフ3人でヒソヒソ打合せ。
それよりも、今夜のウズベキスタン戦、どうやろ?また睡眠時間が減りそうな・・。。
就労支援スタッフの二人と打ち合わせ。二人の職員さんと話し合うことに、身柄を施設内から外に出すことにおいて何を重要視しなければならないか・・という話になる。私が二人に伝えたいことは、就職させてハイ終わり、のことではないこと。自分たちがやらねばならないことは、例えばマルクス主義の労働力商品としての価値にあるごとく「使用価値」と「交換価値」において、出所者が持つ労働力商品の交換価値を(つまり賃金となるが)いかに引き上げるか、そのためには労働力商品を持つ彼らをどのように作るのか、あるいは加工するのか・・
生産工場から、つまり上流から河口に向けて商品を流すにあたって、我々が自信を持ち、本人も自信を持つことができる商品に仕上げて工場から出荷しないと、ペンディング状態のまま出荷するとどうなるか・・。出荷先からもクレームが来る、本人からもクレームが来る。
懲役は加工ではないだろう。あくまでも自由意思に対する身体的制約であり制限となるはずだ。犯罪に対する国が定めた法律である。よって種々決められた規則の中で懲役生活を送っている。施設内では規則に従って違反、反則行為があるかどうかであり、懲役生活が終わる刑期終了までの生活態度がいかがなものかを注視することが最も大切な仕事となっているように見える。自分も片隅で関わっている様々な教育の一部から「働くこと」の矯正教育を試みているが、結果効果のほどはわからない。でも再犯のデータは白書に表れている。確実に懲役生活者のリピーターがいるということだ。
受刑者の性根を入れ替える・・などの大言壮語のごときは自分にはない。むしろ、どうすれば彼らが平坦な道を歩くようになれるか・・に焦点をあてたいと思っている。
受刑者のそれぞれの医務歴を見ていると投薬治療を受けるにあたって、診断名が躁鬱、不眠、アルコール依存症、ギャンブル依存症、癲癇があったりする。そして本人はなぜ事件を起こしたのか?自分にもよく分からない・・などと話す受刑者も中にはいる。私に就労支援相談にやってくる人は、事件前にはクリニックに行っていた履歴があっても、施設に収容されると減薬の方向に行く人も多い。むろん一部には病気入院する人もいるにはいる。病気に因を発しての犯罪については、大きな事件などでは精神的疾患として裁判の俎上にあげられるが窃盗やら詐欺などの犯罪者にはあまりそのようなことは聞かない。しかし無職者のアルコール依存症者の窃盗も目につく。
人が何かの行動を起こすきっかけには動機があるのだろう。自分たちはその動機がどのような仕掛けになっていて、犯罪へと走るのだろうか、をもっと深く考えなければならないと思っている。私の前に現れる受刑者に近頃やたらと多いのは性犯者にアルコール依存症者。それも結構堅い職業でIQ指数も高い人ともなると、彼らのエンプロイアビリティを考える前に、自分たちスタッフが考えなければならないことがあるのではないかと・・・。その一つに障害を持つ累犯者が存在する。出所後5年以内に再び犯罪を犯す障害者を一般市民が人差し指を指し立てて非難する前に、自分たちが考えないと・・。自宅から仕事場、塀の中から職場へと就職と云う名の場所移動にのみ携わるのでは片手落ちだろうと・・スタッフ3人でヒソヒソ打合せ。
それよりも、今夜のウズベキスタン戦、どうやろ?また睡眠時間が減りそうな・・。。
今年になって、なぜだかコタツに入り横になるとすぐに眠たくなってよく寝てる。今朝も外交官による嫌韓本を読んでるとメガネをかけたままの状態で寝入っておった。目覚めが正午前の時間になっておる。起きると今先ほどまで見ていた夢を反芻する。
そしてその夢の正体を考えると・・・嫌な夢なのかあるいは懐かしい夢なのかはわからないが、自分が現職時代に出張していた土地がでる。それも交通機関を利用するところから、空港や駅であったり、港やバス停など総ざらいである。航空機などは滑走路からなかなか機体が浮き上がらなかったり、JR駅に到着した電車に乗るのにそのホームまでなかなかたどり着けなかったり、船に乗るにも乗船口までが遠く走って行かねばならなかったりする。
そして、たまに乗り遅れることもある。夢の中で、アッチャ~となる。そのような話を忘れないうちに奥さんと話しておると、奥さんは夢が出てくると、気持ちが悪くなってすぐに起きるのだそうだ。自分はでてくる夢は映画を観てるようで、また続きを観たいと思ったりする。特に風景画ともなると原色あぶらギトギト光る色で彩られることが多い。それは自分の幼少時に刷り込まれた記憶からかも知れない。真っ赤な夕陽が瀬戸内海の海面を朱くぬったりと染め上げ、片一方で朝陽が直線で島にあたると緑色となったり、空が真っ青なブルーであったり、そのような原色の色がピカソの抽象画のように、あるいはムンクの叫びの背景色にあるような色遣いであったりする。
午後の時間・・早くジムに行かねば。ゴロゴロするだけだから身体を少しは動かしておかないと、と思う。こんな時はきっと人生前向きの時。
しっかしなぁ、ジムに集まる人たちを横に眺めていると、こんな人生でエエのかナァ・・と。
直近で何もすることのなくなった高齢の人たちが身体を鍛えるべく汗を流しているのは至極健康的な風景だとは思うが、そんなんでエエのかよ~と思うことが多い。お~っと・・自分もその仲間であった。
堂ヶ森に二ノ森も感動を与えてくれる。
遠望してカメラのシャッターを切ると、この時期コンドルではなくカラスがよく入っている。
《コンドルは飛んでゆく》
Oh majestuoso Cóndor de los Andes,
llévame, a mi hogar, en los Andes,
Oh Cóndor.
Quiero volver a mi tierra querida y vivir
con mis hermanos Incas, que es lo que más añoro
oh Cóndor.
En el Cusco, en la plaza principal,
espérame
para que a Machu Picchu y Huayna Picchu
vayamos a pasear.
ああ雄大なアンデスのコンドル、
連れて行っておくれ、私の家へ、アンデスの、
ああコンドルよ
私の最愛の土地へ戻りたい、
インカの兄弟と共に生きたい、この郷愁よ
ああコンドルよ
クスコの大広場に、
マチュピチュとウアイナピチュを待って、
さあ出掛けよ
本日相談にやってきたお二人の受刑者のこと、終了後の10分には何を聴いてたか忘れるようなことで・・イヤハヤ。
わが頭の中は雑念いっぱい混んどる・・・ってか。
今年度は、公民館体レク部のお役を頂いて以来、昨年の4月から男女子どもさんや大人の2回のバレーボールにソフトボール、運動会などの行事運営と選手集めに翻弄され、身体も動かないが頭も動かない、パニック状態の時間を抱える機会が多かったが、やっとこさで本日の「新春健康マラソン・絆づくりタスキリレー大会」マラソン行事で今年度の体レク部行事が終了した。ヤレヤレ 。
小学生に中学生は元気ダワ。
朝の8時から13時まで痺れる足と役立たない手、口先だけはかろうじて動いておるような状態でのお手伝い。座ることのない状態が続いた。そして閉会式の終わった13時に中学校グランドから自宅までの帰り道、足がひきつってしまい地獄の行進であった。二度とすまいぞ・こんなこと。
でも・・・また次の土曜日には来年度役員選出のことで役員会があるけれど・・・
そんなことより、昨日のオマーン戦のこと。これはやっぱりPKやろ。
長友のハンドでしょう・・オマーンのPKで、1-1のドローが納得できる所じゃないかナァ
小学生に中学生は元気ダワ。
朝の8時から13時まで痺れる足と役立たない手、口先だけはかろうじて動いておるような状態でのお手伝い。座ることのない状態が続いた。そして閉会式の終わった13時に中学校グランドから自宅までの帰り道、足がひきつってしまい地獄の行進であった。二度とすまいぞ・こんなこと。
でも・・・また次の土曜日には来年度役員選出のことで役員会があるけれど・・・
そんなことより、昨日のオマーン戦のこと。これはやっぱりPKやろ。
長友のハンドでしょう・・オマーンのPKで、1-1のドローが納得できる所じゃないかナァ
叔父から電話がある。叔母がリハビリ病院に変ったので連れて行って欲しいとのことである。少し交通の不便なところにつきタクシー利用しかできないそうだ。
私は自分自身の病院行脚のみならず、他の人が入院する病院に行く機会が近年やたら多いように思う。でもいろんな病院に行くことで差別化することができるヒントが見つかった。
気持ちの良い病院とそうでない病院の差は一体どこから来るんだろうか、の設問を出すと・・・5年前に家人が入院した所と同じようなリハビリ病院であり、同じPT・OT・STさんを100人以上も抱える大きなリハ病院でありながら、明るいか暗いか、気持ちいいかそうでないかの決定的な違いは、スタッフさんの挨拶ができるかどうか・・によるものだと感じた次第。ここのリハ病院に限らないけれどどの病院であろうとも来客にきちんと挨拶ができるところは感じが良い。できない所はスタッフの顔も暗いと映る。建物の外観ではなく気持ちが良いワルイの交差点には「働く人」の表情が表れる。今日の午前中〇〇病院にお邪魔しての感想。
冬の日、久万カントリーチャペルに続くメタセコイヤの木々は真っ裸である。余計な飾り物を脱ぎ捨て一直線に天に向かって伸びる樹幹は、どっしりとしていてそこから横に伸びる枝は、いくら細く映ろうとも安定感がある。無駄に横道にそれるような枝ではなく、また天に媚びるような枝ではないところが好ましい。
今日のチャペルでの説教の後のお茶の会のこと。「信仰」と云うことはどういうことなのか?の話合い。各人、と云っても5人だけだが、発表をする。そして自分は質問を牧師に投げかけてみる。牧師にとって、信仰をする、と云うことはどんなことなんだろうかと・・・すると、牧師は、「人生そのものです」と答えてくれた。私にとってはその答えの内容ではなく、私が愚問を発して、すぐに人生そのものです・・と応えてくれた合間の時間のことが非常に感銘を受けた。瞬時考えることではなくすぐに切り返すように言葉を発した時間があまりに短いこととは、常日頃から牧師は自分自身に問いかけていた設問であったんだろうと。。だから考える時痕を眺めて、すぐに言葉にできたんだろうと感銘を受けた。答えを自分自身で紡ぎだす作業は、多くの身にまとわりついた異物を取り払う、自分が自分に出す設問を自分が自分に答えるために、例えば鍛冶屋が鉄を鍛えるのに火床に鞴から風を送り続けて高温にして鉄を焼くプロセスを想う。
午後4時半の石鎚も一刻ぼう~っと眺める時間もあり。
こんな時に思い浮かべるのは、山頭火ではなく尾崎放哉の句 「咳をしても一人」「いれものがない両手で受ける」孤独の極みを思い浮かべる。
自分の身体と心にいつの間にかまとった飾り物であったり、無意識に付いてしまった異物の余計なものをどのように削ぎ取るのか。それらを剥がしていく作業の中には、まず欲望と希望の二つの引き出しを準備することから始めようと思っているが・・・・。
私は自分自身の病院行脚のみならず、他の人が入院する病院に行く機会が近年やたら多いように思う。でもいろんな病院に行くことで差別化することができるヒントが見つかった。
気持ちの良い病院とそうでない病院の差は一体どこから来るんだろうか、の設問を出すと・・・5年前に家人が入院した所と同じようなリハビリ病院であり、同じPT・OT・STさんを100人以上も抱える大きなリハ病院でありながら、明るいか暗いか、気持ちいいかそうでないかの決定的な違いは、スタッフさんの挨拶ができるかどうか・・によるものだと感じた次第。ここのリハ病院に限らないけれどどの病院であろうとも来客にきちんと挨拶ができるところは感じが良い。できない所はスタッフの顔も暗いと映る。建物の外観ではなく気持ちが良いワルイの交差点には「働く人」の表情が表れる。今日の午前中〇〇病院にお邪魔しての感想。
冬の日、久万カントリーチャペルに続くメタセコイヤの木々は真っ裸である。余計な飾り物を脱ぎ捨て一直線に天に向かって伸びる樹幹は、どっしりとしていてそこから横に伸びる枝は、いくら細く映ろうとも安定感がある。無駄に横道にそれるような枝ではなく、また天に媚びるような枝ではないところが好ましい。
今日のチャペルでの説教の後のお茶の会のこと。「信仰」と云うことはどういうことなのか?の話合い。各人、と云っても5人だけだが、発表をする。そして自分は質問を牧師に投げかけてみる。牧師にとって、信仰をする、と云うことはどんなことなんだろうかと・・・すると、牧師は、「人生そのものです」と答えてくれた。私にとってはその答えの内容ではなく、私が愚問を発して、すぐに人生そのものです・・と応えてくれた合間の時間のことが非常に感銘を受けた。瞬時考えることではなくすぐに切り返すように言葉を発した時間があまりに短いこととは、常日頃から牧師は自分自身に問いかけていた設問であったんだろうと。。だから考える時痕を眺めて、すぐに言葉にできたんだろうと感銘を受けた。答えを自分自身で紡ぎだす作業は、多くの身にまとわりついた異物を取り払う、自分が自分に出す設問を自分が自分に答えるために、例えば鍛冶屋が鉄を鍛えるのに火床に鞴から風を送り続けて高温にして鉄を焼くプロセスを想う。
午後4時半の石鎚も一刻ぼう~っと眺める時間もあり。
こんな時に思い浮かべるのは、山頭火ではなく尾崎放哉の句 「咳をしても一人」「いれものがない両手で受ける」孤独の極みを思い浮かべる。
自分の身体と心にいつの間にかまとった飾り物であったり、無意識に付いてしまった異物の余計なものをどのように削ぎ取るのか。それらを剥がしていく作業の中には、まず欲望と希望の二つの引き出しを準備することから始めようと思っているが・・・・。
なんだか年の初めの決意としてこんなこと言うのもおかしいが・・シュウカツのことで。
ブロッコリーも中心の芽を切ると脇から子が出てくるようで・・。
先日のキャリコンの古老が集まっての新年会のことで、話題として自分が覚えているのは、一つには(男性4人に女性1人という構成ではあったが)、誰もが納得する良い女性とは?というのがあった。なにせ私をのぞいて男性3人とも現職時代は多くの女子社員を束ねていた経験がある。よっていずれも上司の立場からして性格が良くて仕事ができる人の話が盛り上がった時に、元BK支店長職の長かったSさんやHさんは自信を持って、共通の知人の名前をあげて、〇〇さんのような人を奥さんにすれば、旦那さんはうらやましいよなぁ・・などと話してた。そして断言することに、長年多くの女子社員を見てるので自信があると云った。ひるがえって自分はお三方のようにたくさんの女子社員の上司であった経験はない。私の現職時には個性的で難しそうな男性が多かった・・・そのようなことを私の経験としてテーブルに乗せると…あんたはエエなぁ、ソリャ男性よりも女性を部下に持つ方がいくら難しいことか!と勝ち誇るような笑い声で話しておった。どうも今覚えているのはSさんやHさんが推薦してた〇〇さんは、素直さと笑顔と頭の切れがあったかなぁと・・。
もう一つ新年会の場所を変えて話題に出たのが、もうそろそろ真剣に終活を考えなければならない・・と云う話であった。つまり自分の“死”を社会的に家族的に個人的にどう向き合うか・・というものである。
朝日新聞が調査してる。
これによると自分が孤独死することに対して心配の度合いが10年前に比べると増加してる。これはいろんな見方ができるだろうけど・・私の周りの友人たちは昨日今日に始まったことではなく以前から考えてる輩がほとんど。と云うのも私から老後と死について質問することが多いので。
どのように自分の死を迎えるのか、あるいは迎えたいのかと云うことでは近年マスメディアに登場する機会が多いこと、TSUTAYA、紀伊国屋・ジュンク堂などの本屋さんに行っても結構この手の本が多く平積みされてるところを見れば市民の関心事が増えてることもうなづける。仏教関係の偉い人は死をどう迎えるかと云うことは、これから死までどう生きるかと云うことです・・などと有り難い啓発マークを振ってくれる。
孤独死することが「心配」と答えたのは、「大いに」13%、「ある程度」37%を合わせて50%。現在一人暮らしの人に限ると、67%が「心配」と答えた。
老後に家族が「頼りになる」は48%で、「あまり頼りにならない」の44%と割れた。60代は「あまり頼りにならない」が51%と多かったのに対し、70歳以上は54%が「頼りになる」と答えた。
一人暮らしの世帯は増え続けており、国の推計では、2040年に全世帯の4割が一人暮らしになる。老後に一人暮らしになった時、家族以外で頼りになる人を択一で聞くと、「誰もいない」が13%。女性の10%に対して男性が16%と多く、50代の男性は4人に1人が「誰もいない」と答えた。
家族以外で頼りになる人で最も多かったのは「福祉サービスの人」の36%で、続いて「友人」の26%。「近所の人」は16%と比較的少なかった。
そこで私も思う。死を動物から学んでみようかってこと。自分の生きて来た足跡をいかに残すかなどは、迷惑になる愚の骨頂。例えば多くの財産を残せば争いの元になるだろうし、後に続くものの力の原動力になるかどうかは疑わしい。そんなことより自分には財産を形成してる実績が全くないのでこりゃ心配ないしこれから財産を形成することも考えられない。名声など求めたことはない・・う~む。餌は自分で探す・・ってことは動物の世界では当たり前のこと。死を前にする動物は群れから離れるのではないだろうか、足手まといにならないためにも。やっぱり理想的なのは、没した後の5~6年後に、「あいつ今頃どうしてる」の話題が友人知人の誰かから出た時に、「そういえばあいつ、もうこの世にいないんじゃないかナァ」のレベルが最もいいんじゃないか・・と。
《動物学者が死ぬほど向き合った「死」の話 生き物たちの終末と進化の科学》ジュールズ・ハワード
「死なないように進化できないのはなぜか?」ある動物は大人としてたった2時間だけ生きたり、ある動物は時間が来たら自ら命をたつ特徴をもっていたりします。一方で、何百年もの間生きる動物もいます。動物に取り付いて残酷な死に方をさせるような寄生虫もいれば、長く健康な人生を送らせるために取り付く寄生虫もいます。
ブロッコリーも中心の芽を切ると脇から子が出てくるようで・・。
先日のキャリコンの古老が集まっての新年会のことで、話題として自分が覚えているのは、一つには(男性4人に女性1人という構成ではあったが)、誰もが納得する良い女性とは?というのがあった。なにせ私をのぞいて男性3人とも現職時代は多くの女子社員を束ねていた経験がある。よっていずれも上司の立場からして性格が良くて仕事ができる人の話が盛り上がった時に、元BK支店長職の長かったSさんやHさんは自信を持って、共通の知人の名前をあげて、〇〇さんのような人を奥さんにすれば、旦那さんはうらやましいよなぁ・・などと話してた。そして断言することに、長年多くの女子社員を見てるので自信があると云った。ひるがえって自分はお三方のようにたくさんの女子社員の上司であった経験はない。私の現職時には個性的で難しそうな男性が多かった・・・そのようなことを私の経験としてテーブルに乗せると…あんたはエエなぁ、ソリャ男性よりも女性を部下に持つ方がいくら難しいことか!と勝ち誇るような笑い声で話しておった。どうも今覚えているのはSさんやHさんが推薦してた〇〇さんは、素直さと笑顔と頭の切れがあったかなぁと・・。
もう一つ新年会の場所を変えて話題に出たのが、もうそろそろ真剣に終活を考えなければならない・・と云う話であった。つまり自分の“死”を社会的に家族的に個人的にどう向き合うか・・というものである。
朝日新聞が調査してる。
これによると自分が孤独死することに対して心配の度合いが10年前に比べると増加してる。これはいろんな見方ができるだろうけど・・私の周りの友人たちは昨日今日に始まったことではなく以前から考えてる輩がほとんど。と云うのも私から老後と死について質問することが多いので。
どのように自分の死を迎えるのか、あるいは迎えたいのかと云うことでは近年マスメディアに登場する機会が多いこと、TSUTAYA、紀伊国屋・ジュンク堂などの本屋さんに行っても結構この手の本が多く平積みされてるところを見れば市民の関心事が増えてることもうなづける。仏教関係の偉い人は死をどう迎えるかと云うことは、これから死までどう生きるかと云うことです・・などと有り難い啓発マークを振ってくれる。
孤独死することが「心配」と答えたのは、「大いに」13%、「ある程度」37%を合わせて50%。現在一人暮らしの人に限ると、67%が「心配」と答えた。
老後に家族が「頼りになる」は48%で、「あまり頼りにならない」の44%と割れた。60代は「あまり頼りにならない」が51%と多かったのに対し、70歳以上は54%が「頼りになる」と答えた。
一人暮らしの世帯は増え続けており、国の推計では、2040年に全世帯の4割が一人暮らしになる。老後に一人暮らしになった時、家族以外で頼りになる人を択一で聞くと、「誰もいない」が13%。女性の10%に対して男性が16%と多く、50代の男性は4人に1人が「誰もいない」と答えた。
家族以外で頼りになる人で最も多かったのは「福祉サービスの人」の36%で、続いて「友人」の26%。「近所の人」は16%と比較的少なかった。
そこで私も思う。死を動物から学んでみようかってこと。自分の生きて来た足跡をいかに残すかなどは、迷惑になる愚の骨頂。例えば多くの財産を残せば争いの元になるだろうし、後に続くものの力の原動力になるかどうかは疑わしい。そんなことより自分には財産を形成してる実績が全くないのでこりゃ心配ないしこれから財産を形成することも考えられない。名声など求めたことはない・・う~む。餌は自分で探す・・ってことは動物の世界では当たり前のこと。死を前にする動物は群れから離れるのではないだろうか、足手まといにならないためにも。やっぱり理想的なのは、没した後の5~6年後に、「あいつ今頃どうしてる」の話題が友人知人の誰かから出た時に、「そういえばあいつ、もうこの世にいないんじゃないかナァ」のレベルが最もいいんじゃないか・・と。
《動物学者が死ぬほど向き合った「死」の話 生き物たちの終末と進化の科学》ジュールズ・ハワード
「死なないように進化できないのはなぜか?」ある動物は大人としてたった2時間だけ生きたり、ある動物は時間が来たら自ら命をたつ特徴をもっていたりします。一方で、何百年もの間生きる動物もいます。動物に取り付いて残酷な死に方をさせるような寄生虫もいれば、長く健康な人生を送らせるために取り付く寄生虫もいます。