年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

どうなってるんやろ?

2015-09-30 00:00:00 | Weblog
 10日あまり遊んでたツケが回ってきているのか、何だかんだと電話で呼び出され、相談業務に振り回されている・・様な感じ。今日は、刑務所とこころ塾のダブルヘッダーあり。今朝の朝焼けは、二本立て(ちと古い言い方か)ドラマの始まり。

 私の父方の兄弟の連れ合い、つまり叔母に元教員がいる。その叔母は学歴に対して特別とも思えるような見方を大変重要視している。どのように大切かといえば、高学歴者ほど人格も豊かで人間性が優れている、という確固とした考えを外すことがない。だから、平然と教え子の○○さんは優秀であったから、大学も行き、どこそこの社長さんになっているという、明治時代にさかのぼった錯覚を覚えることが何度かあった。もしかして叔母本人は短大出身であり、小学校中学校と同じ敷地に校舎があるような瀬戸内海の小さな島の小学校の教員をしていたのでそのコンプレックスによるものかもしれない。島の素朴な人を相手に、先生というポジションを得て、少しおかしく感じるくらいに評価をする癖が付いたのもそこから得た経験かも知れない。だから難関大学出身の人が悪いことをするわけがない。。と言い切る。
 
 今日の刑余者相談室に連行されてきた青年Wの学歴は高かった。いわゆる旧7帝大の一つ。西日本の優である。小中高と学習塾によく通った、といった。そしてストレートでその難関大に入り4年で卒業をした。卒後大変難しい国家資格を取るために、再び勉学にいそしんだが、失敗が続いたのをきっかけに志を倒した。それからアルバイトの延長のようなファーストフードの従業員になり、やがて店長を任されて、結婚もして家庭を築き、就労生活を数年継続した。そうして事件を起こした。罪名は県迷惑防止条例違反、刑期1年6月。
河東碧梧桐はここで生まれていたとは知らなかった。

 正岡子規の門下生であり、俳句界では保守本流の高浜虚子に対して、ひょろひょろ青臭く常識を破りたい気構えの河東碧梧桐。
 Wの書いた履歴書のみを見れば、Wが帰住する土地柄は学歴重視の土地柄につき大方通るだろうと思う。立派な大学を出てるから問題はないとみられるだろう。
 そこから、Wの難関大卒でのプライドは、いかなるものかについて質問をした。そうして聴きおわった後、私は、一方的に、アンタが最もいやだと思う質問だったろう・・と聞くと彼は、小さくうなづいてハイと言った。釈放後、Wのプライドをかけた人生が始まるのだろうか・・・。
 「こころ塾」相談室で待っていられたのはXさん。継続して相談している。前回の内容を踏まえて、今回は彼女の成育歴が自分の家庭の基礎になっていないかの検討。つまりXさんが結婚するまでの26歳まで、彼女自身の家庭はどうであったか・・と。やはり、もの心つく幼少期から26歳までの実父の実母に対する暴力的体質、実父のギャンブル依存など、少なくとも幸せには見えない家庭を経験している。その辛さをわが娘に聴いてもらっている。その嫌だった逆恨みをご主人さんにあてている。あらゆる理不尽なことを自分以外のところに責任転嫁している傾向が見えてきた・・。約束の60分が過ぎる頃、Xさんは何かに気づいていた言葉を話した・・、ところで終了。私には咳が出始めて止まらない。

お仕事の再開

2015-09-29 00:00:00 | Weblog
 一度は孫たちの成長を見ておきたいと考えていた。私の友人たちは、孫に会いに行くのに一番遠いところで東京・横浜、関西方面、あるいは九州福岡である。よって、運動会だ、ピアノ発表会だなんだかんだと度々出かけているが、札幌に孫がいる友人はいない。松山・新千歳への直行便のない不便さがある。私たち夫婦にとっての子供は地元に一人いてあと3人が北海道に埼玉に九州に住んでいる。つまりバラバラに散らばっていることが特徴であるが、たぶんもしかして孫たちは日本を出て世界のどこかで生活をするかもしれない。。などと思ったりもする。
 手がかかる、手こずる年頃なんだろう

 仕事休みの日はもちろんイクメン

 Y君は美術方面に才能を見せる
 絵を描いたりなんやら工作物をつくったりと。これは埼玉に住むW君と似てるかなぁ。

 でも本日は、網走ではなく松山刑務所へ行かねばならない。私が北海道にいる時でも、ひっきりなしで電話連絡があり、それらの用事ごとがある。今朝の石鎚方向の朝

 参ったなぁ・・本日の刑余者は、Ⅰ刑Ⅱ刑Ⅲ刑併せて数年の刑期がついているも規律違反が多く仮釈放が出ることなく満期での釈放者。人間関係がうまくいかなくて職業を転々としている。せいぜい長くて1年の就労。この手の人の特徴は職業能力が形成されていないことに特長がある。よって訓練方面に情報提供しようと思うが、目の前のお金欲しさに建設現場作業員を希望する、という。
それを済ませて、次は保護観察所と打ち合わせ・・。そして別件でハローワークへ。そして今日の最後の仕事は、キャリコン協会仲間のUちゃんから頼まれた刑余者A。実はこのようなAさんは多い。つまり元○○組員さんで全身に文身あり、恐喝や傷害を反復して収容され満期にて釈放されている人。出所時の保護カードを利用することを放棄して保護観察所で身柄を保護されることを拒否。このAのような一人で何とかしのいでいこうと考えている刑余者に時々会うことがある。
 Aさんの話によると。自分は施設で育てられて親を知らない、でも自分には事件を起こし刑務所に収容された際に離婚をしたが娘がいる、その娘が自分の血がつながった唯一の人間だと。娘を何とか幸せにしてやりたい。会うことができないその娘にせめてお金を送ってやりたい。そのために仕事をしたいから・・・支援をして欲しい。このような依頼であった。businessでもjobでもなくworkのお仕事これで終了すると咳が出る、熱が出始める。コリャやばい、早く帰って7時には寝ることにしよう。

ついに・・・

2015-09-28 00:00:00 | Weblog
 昨日で体力的限界点を超えた、と思う。

 大きな段ボールに衣服関係にお土産関係の荷物も送ったことだし、私のsapporo秀岳荘20ℓザックも、妻のデイバックも軽くして帰ることにした。上の孫は、8時半に幼稚園お迎えのきかんしゃトーマスのバスに乗って行った。その前の時間には、パパが出かけた。じゃぁ、われわれもおいとまをしようと・・

下の孫とお嫁さんにJR新札幌駅まで見送ってもらい、新千歳空港へ。

 関空経由で帰る。着いたのは20時。空港からリムジンバス、市駅から電車、最後に難行苦行の徒歩によって自宅へ。タクシーを拾って帰りたいと思うが、本日は散歩をしていないために歩いて帰ることに。20分かけて夜道を歩く。とにかく猛烈に疲れました。ダウンです。

やっぱり年には勝てぬ

2015-09-27 00:00:00 | Weblog

 羅臼から網走まで110㌔くらい、そしてあとは特急に乗り込んでおけば、楽だろうと・・これくらいの移動だと、別に体力を使うこともないし、ましてや現職時代にはJR特急に5時間以上揺られること、当たり前だったから、これくらいは別に・・・と思っておった。

 で、昨日は知床から4時に網走に帰りレンタカーを返した。係員さんから熊に遭わなかったですか・・?と尋ねられた。エゾシカやキタキツネには遭遇しましたがヒグマには遭わなかったけれど・・やっと、今、黄色いTシャツ姿の熊さんに遭遇しました・・・と。大きく健康的なお嬢さんに話しかけると、・・奥さんから叱られてしまったワイ。

 網走を17:18発札幌行オホーツク号に乗車。
  
 札幌に着くのが10時半過ぎの行程である。オホーツク号は北見、遠軽、旭川を経由する。このルートだと岩見沢で乗り換えて次男宅に行く方が便利だろうと・・、

 岩見沢駅ホームに降りる。そうだった、ここはばんえい競馬であった。
 夜中の11時過ぎに家族が寝静まっている家にそろっと入る。
 ここまでは昨日の出来事。これが本日、身体に現れてしまった。キツイキツイの一言。しゃべるのもしんどいが、2歳と5歳の孫の顔を見ると、しんどい・・などと云ってはおれん。遊ぶことにする。今回、北海道に来たのは孫とのスキンシップが目的であるがゆえに。 結局、本日、家を出たのは、なぜか札幌の「丸亀製麺」。どこに行ってもお店の中はおんなじだから、それもまたいい。
 それくらいが私の体力的限界線・・。あとは、「森林公園♨きよら」にドボン。
 次男の家は、新築して4年になるだろうか、私たちが過ごせる部屋も1室用意してくれてる。ありがたい。でも電気系統など自動化されてる家につき、老人には慣れるまで大変である。そして雪降る場所だから玄関ドアの前にも雪よけようの玄関があるのも積雪期には過ごしやすいだろう。

 次男が私たちと一緒に生活をしていた高校卒業までの時間と家を出て札幌で6年間学び、そして働くようになった時間と同じ時間が経った。

知床へ

2015-09-26 00:00:00 | Weblog
 知床-アイヌ語で「シレトク」(大地の行き詰まり)、知床半島のアイヌ語地名である。世界遺産の知床である。知床へ行ってどこを見たいか、何を経験したいのか?と妻に聞くと、答えたのは露天風呂に入りたい・・・だけ、と言う。知床五湖や、○○の滝、遊覧船に乗って見物・・・などおなじみのコースは写真で見るほうがきれいだろう、映像で何度も見たことがあるから、興味がない、行かなくとも良い、と言う。
 気持ちの良い朝である。朝のお散歩コースは海辺。

 オホーツク海に向かって砂浜から竿を出している人がたくさんいる。釣竿5本も仕掛けている人に、何が釣れるんですか?と。

 秋アジが釣れるんだとか。つまり鮭が回遊して海岸部に近付いているのを釣上げる、7~80cmの鮭が釣れるんだとか。・・・で、同年輩と見て、しばらくお互いの暇な時間のつぶし方のお話となった。家にいると女房に疎んじられる、パチンコに行けば負けるから行かない、酒はほどほどたしなむ程度、一番いいのはやっぱり釣りぐらいかなぁ・・・今日のようなお天気だと釣れなくとも気持ちいいよ~・・だと。今朝釣上げた鮭は50cmクラス。メスだから卵を抱えているのでイイよ~・・などと砂の上に座り込んでアホな話で盛り上がる。全国、みんな年を取ると時間のやり過ごしに苦労をしている。
 この海辺近くに遺跡があった。

 モヨロの人の生活の歴史がそこにあった。 狩猟や漁労生活中心の続縄文時代までさかのぼる、と説明書きにある。約1300年も前になる。野生動物を捕りアザラシや鮭、カニなどを捕って暮らしていた・・・と 。だからモリを使うのに腕を痛めたり腰を痛めている骨格である・・のは、エ~ッ私と同じく長年の職業生活により腕の骨や背骨が歪み腰痛もちかよ~、昔の人も。
 
 道草を食ってしまった。早く行かねば・・知床へ。今日の希望は、ただただ“露天風呂”だけ。釧路から乗ったレンタカーでトウフツ湖脇を走り斜里町を走る。道路幅も広く直線が多いのでついついスピードが・・・監視カメラに近づくと現地ナンバー北見の人はスピードを緩めてくれるので安心したり・・天気も上々でドライブは最高。
 馬も自由に動いておる・・
 オシンコシンノの滝は、道路脇から見ることにして  ・・・鮭の遡上が見られる遠音別川河口でちょっと一休み。
   
 ウトロヘ向けて。 早く行かねば。

羅臼岳が見えた。

 羅臼岳にガスがかかり始めると・・コリャやばいナァ。でも視界30mくらいになると山道につき、ライトをラージにしてゆっくり走ることに・・そして、目指すところがありました。
 念願が叶いました。 混浴ではなく男女別々の湯船あり。奥さんも大変気に入った様子・・。




ついで、知床横断道路を通り、羅臼へ。ここは当然森繁久弥さんでしょうネ。

 この漁港向こうに水平線上うっすらと国後が・・。
 ここは、実家近くの公園と同じ名前がついていた。
 漁師さんにお話を聞くと、ここは裕福な漁師さんが多いとか・・どおりで大きな家、外車が走っておるワ。

走る走る

2015-09-25 20:26:02 | Weblog
 今日の行程は?
釧路の空が明けるのは早い。

①朝早5時に起きて幣舞橋までのお散歩。(橋の名前のヌサマイはアイヌの言葉からきているんだとか)

 何か天気が悪くなると、例えば台風状況などは、いつもこの橋がNHKのニュースに出ている。日本の気にかかる橋のひとつである。

②その後、釧路東部漁協において、秋鮭の水揚げの見学を朝の6時過ぎに。ホテルの部屋にチラシがあったので早速連れて行ってもらうことにした。
 
 鮭のオスとメスを若い人に教えてもらうことに

③石川啄木が青年時の76日間、釧路新聞社に勤務したことがあり、そのときに詠んだ句が釧路市内に石碑となって跡を残している。
  その石碑を見る。

 石川啄木が釧路で就労生活をしたのがたったの76日、そういえば夏目漱石も松山中学で教鞭をとっていたのは1年足らず、後に赴任した熊本が4年ほどであったから、短いほど土地の人から見れば愛おしいのだろうか・・

 今では厚労省が「若サポ」を全国に作って若い人の迷い道にいる人を手取り足取りどこかに導いていこうとしているんだろうけれど・・啄木さんが今いれば ここに案内するんだろうか?私には、若サポは立派な大人の就労場所であることのほうに意味があるんだろう・・などと思っているワケで・・。
 啄木さんが今生きていれば、周囲が強引にダメ烙印を押し、とんでもなく辛抱のない人だとか意欲がどうだとか根性がないとか言いながら指を指すんだろうと思う。現代はゆっくりと青年を温かい目で見るには物差しが少なすぎる。
④駅前の宿泊ホテルで朝食を取る。腹いっぱいの朝飯およびお昼の分の朝カレーもついでに

⑤レンタカーで摩周湖へ 摩周街道をひたすら走る・ジラルトル沼を過ぎ、やっと到着。
   
⑥布施明「霧の摩周湖」を歌うも、残念、歌詞を忘れてる。奥さんと二人で口ずさむ歌は、なぜか♪森とんかつ泉にんにくかこまれてんぷら・・♪・・困ったものである。布施明の顔は思い出せるが歌詞が出てこない。周りは中国からの団体さん二組、計30人ほど。摩周岳がくっきりと見える。あんな遺産さんにお聞きすると、今朝早く霧が湖面に立ち込めていたんだとか。
⑦屈斜路湖へ移動。クッシー現れず。
  
⑧の①少し肌寒い。美幌峠で一休み。名物のうまくないらしい熊笹ソフトではなく、熊笹アンパンとコーヒーで1時過ぎに昼食。
 
⑧の②途中女満別の畑に立ち寄る

⑨網走番外地へ移動し、網走監獄所へ。じっくりと見学。
 
 「五寸釘の寅吉」は晩年に更生したからこのように表の世界に現れるのだろうけれど・・・
 
    

  
⑩オットトット・・早く行かないと日が沈む・・と昨日の愛冠岬に続いて、本日はオホーツク海の能取岬へ車を飛ばす。途中キタキツネに2度遭遇。
  
⑪網走駅前のホテルに投宿。晩御飯を求めて市内の居酒屋でオホーツク海の魚を食べる。妻は、もうイクラは食べたくない・・いくらなんでも・・等と言いながら食べていた。
⑫年齢からして本日は車の飛ばしすぎ。
⑬早く寝たい・・・
⑭でも保護観察所から電話連絡あり。続いて先々月釈放前の就職に成功した刑余者が仕事を休みがちになってるが、どうしたもんだか・・の相談が会社の担当者から。
⑮つ・か・れ・た。

 市民にとって受刑者をどのように見れば良いのだろうかと、網走監獄所にいて考える。犯罪とは何だろう?ってこと・罪の意味を考えたい。

今日から旅行です

2015-09-24 19:52:02 | Weblog
 ジイとバァがわがもの顔にして部屋に陣取っていると孫の二人もハイテンションとなりなかなか興奮が鎮まらない。お嫁さんや次男も何かと気を使ってくれている・・・ことが私たち夫婦には反って気づかれがする・・・ことになる。二男夫婦にもお休みをさせなければならないと・・・で、行先は道東へ。朝一の電車に乗る。朝早くからお出かけ。

そして札幌駅で釧路行の「おおぞら1号」に乗車。
 車窓の景色は、やっぱり北海道はデッカイドウだわ。

4時間も座ると、経験上前立腺の調子が悪くなって尿の出方に問題がある・・・のでデッキに出てオイチニオイチニサンシと運動をすることに。やがて頑張ったおかげで釧路に・・
  到着する。

そして奥さんの要求通りに釧路湿原へ行くために「のろっこ号」に乗り換える。
 
 ラムサール条約に批准されている釧路湿原である。大切に守りたい・・湿原

 でも鉄道から眺める湿原よりも、ここはやっぱりカヌーに限る・・と思う。

かつてカヌーイストの野田さんは、車道や鉄道からの川面の眺めと違う川の上からの目線、水上からの目線のっ素晴らしさを説いたが・・

 上からの目線ではなく下からの目線のこと・・。
奥さんは車窓から野生の大きなエゾシカ3頭を見つけたヨ・・とはしゃいでおったが、


 次・・どこいこか?と「のろっこ号」の若い車掌に相談すると、厚岸のカキがうまい・・というではないか。即決定する。なぁ~も考えていないのである自分は。気分しだいで西東に北に南へとおもむくままに。谷村シンジが歌うのに、「わ~れはゆ~く青白い…命ずるるママに~」だったか、まぁ適当に行っている。
 あっけしへレンタカーを走らすことにする。昼飯はやっぱりコンビニ弁当・・途中の厚岸湾を見下ろせる遠望台で。



そして愛冠岬へと。


 何やら幸せの鐘はカムリの祈りが込められているとかで、ならしてみたが私の鐘の音は寂しげであったが奥さんの鐘の音は高い音でキンキンカンカンと鳴っておった。

 とまぁ・・明日と明後日と道東でフラフラする予定。

今日の公園

2015-09-23 19:05:08 | Weblog
 所用があり、友人に電話をする。すると電話口で旅行はどうか?・・・などと話しかけてきた。エ~ッと少し思惑違いな気分になって・・・。
実は、今回の道行きは、孫とのスキンシップを図ることが最大の目的である。よって、遊興の類ではない・・などと思っていたので、友人からの電話で違和感を覚えたわけで・・・。
でも、毎日孫たちと行き先の違う公園に行き遊んでおる。ちょうど親の傍に子供が住みそして孫がいて、四六時中孫の顔を見ることができる条件にないために、例えば自分たちが元気に暮らしていて孫の成長を常に見守ることができる・・には条件がきつい。なぜならば遠く離れているためでもある。だから、孫といる時間は、濃密な時間を作らなければならないと思っておるワケで。
 で、本日の公園は、大通り公園。  ちょうど、大通り公園では「さっぽろオータムフェスト2015」の開催中であった。

数多くの屋台が出ている。



 歩き疲れてしまった。婆バは目が痛くなり、目薬をさすもS君が心配そうに

 そして爺様は芝生の上に横になる。

孫たちがその周りを走り回る・・・いたって幸福な時間。

国営滝野すずらん丘陵公園

2015-09-22 18:53:42 | Weblog
 孫のY君は、きのこを見つけることが好きである。一緒に公園を散歩していてもすぐに見つける。




 ベニテングダケは毒があるよ・・と教えてくれる。












 白樺の木や松の木の下に昨日まで降った雨も上がるとニョキニョキと出てきた。
 連日の公園行きに少し疲れておる。しかし、今回の札幌行きは、孫たちとスキンシップを図ることが主な目的であるが故、腰痛とかすむ目と戦いながらの連日となっている。自分の身体を休めるために、ついついおもちゃ屋さんに行き孫たちの気分転換を図ることに。
 いまどきこれが人気だとは知らなかった。「ライオンハオー」がお気に入りだとか・・・
・・・で、本日の公園は、支笏湖に抜ける道の途中にある国営滝野すずらん丘陵公園に。連休のさなか、人が多かった。

















 






そして 水遊びも



さぁ4時半になったよ~カエロ~か



幸福の黄色いハンカチ

2015-09-21 20:37:09 | Weblog
 いつの日だったか、高倉健さんの訃報を聞いて、TSUTAYAに行った。するとすでにお店の一角の目立つ場所に高倉健コーナーが設けられていた。そして出演作のDVDがズラ~ッと並べられていたが、ほとんど借り出されていた日が何日も続いていた。その中の一つに山田洋次監督「幸福の黄色いハンカチ」がある。
 今日の行き先はその撮影地・夕張に行くことにする。次男の家から車で約1時間の行程。
  幸福のシンボルカラーは、9月の風にはためいていた。







 この車に武田鉄也さんと桃井かおりさんが乗ってそして出所直後の高倉健さんを乗せる、のが筋書きであったと思う。



  監督が伝えたかったことは、このことであったろう。
 3.11ですべて流された仙台市若林区荒浜の忠魂碑傍に数箇所、黄色いハンカチが今日と同じように風に揺れていたことを思い出す。
 札幌市から夕張市へと抜ける途中の栗山町、そこに流れる川が
 ヤリキレナイはアイヌ語だと説明書きにある。
 特に夕張市からの帰り道であったから、なおさらだったのかもしれない。「平家物語」ではないが、おごれる者久しからずや・・・。かつて(1892年・明治25年)北海道炭鉱鉄道会社夕張採炭所として生産を開始した。厚い炭層、緩やかな傾斜、優良な原料炭など採掘条件が有利であることを背景に昭和に入り、西の三池炭鉱、東の夕張炭鉱として隆盛を極めていたが、諸条件の悪化により昭和52年に閉山した。(以上資料による)かつてのヤマで働く人の多かった時に比べると、今の夕張は栄枯盛衰を思わざるを得ない。
メタセコイヤの堆積した化石が、博物館の前にある。





「五千万年にわたる自然の営みの上に、百年に及ぶ石炭生産の痕跡があり、わずか三十年で終わった観光開発の結末がある。」(そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト2015)の資料より。夕張市は19年に財政再建団体に指定された。炭鉱から観光へとシフトする予定がそれすら頓挫することになった。炭鉱の記憶が破却されたうえにレジャーランド施設も開発を途中で止めた。石炭の歴史が残る残骸とその上を覆いかぶせるようにして建設した娯楽施設も残骸となっている。夕張駅から見える街筋は、ゴーストタウンのようであり、大きなホテルの背後にみえるスキー場だけが威容な姿を誇っている。この街は、つい、この間まで炭鉱で就労する人たちで賑わい汗が飛び散っていたんだろうと・・想像をする。
 現代の人たち、また未来の人たちは、過去に寄り添って生きて行かなければならないのだろうか・・・と思いながらのヤリキレナイ川に道3号線が続く。
 終着駅の夕張駅


駅には異様な景色として映るホテルマウントレースイがたつ。そしてやっぱりここでは
  でしょうね。
 でも途中で北海道88ヶ所のお寺の隣に「坂本九思い出記念館」を見つけた。ハテな?

 この施設は、障害者が就労する施設である。



 知らなかった。今日初めて知ったのは、坂本九さんは障害児に対して各地で寄り添い支援をしておられた方だとはじめて知った。歌い手坂本九、日航墜落で亡くなった坂本九、くらいの知識しかなかったけれど、見えないところで障害者に対してサポートしていられた方であったことに自分は恥じた。こころねの優しい人であったことが館内の展示物で理解できた。