内館牧子「終わった人」の第2弾である。
うちのお隣の人が舘ひろし主演のこの映画は腹を抱えて笑えた・・と笑いながら説明してくれた。原作からおおよその見当はついていたが、午後暇な時間が3時間ほどできたのを幸いに、今日突然行ってみようかと思い立った。
花束贈呈やら退社における現社員のお別れの言葉などは珍しいものではなかった。
仕事を生き甲斐にしていた人は多いだろう。自分はこれを生き甲斐とみるか、仕事に寄りすがって生きてるのか、によって見方が変わるんだろうと思う。たとえ仕事を生き甲斐にしていない人でも毎日することが決まってるだけで朝何時に起きて、何時に出勤して・・職場に着けばアレしてコレしてなどのすること、やらねばならないことがルーティン化されておる。本人のやる気がなくとも今の時間からこれからの数時間向こうまでの走るレールが好き嫌いに関わらず敷かれていることで、心は安定している。ところが、定年退職を含め、いったんレールが行きどまりとなる、あるいは外れると。。どうなるか・・・定年=継続していた同じ時間や、継続していた居場所がなくなることからどのように自分の態勢を整えるか。先ゆきが決まらないってことが不安を増大する。
朝起きても目標がないからすることがない。周囲はそれぞれ各人は目標に向かって歩いているが自分にはないことを喪失的に体験する。
キョウヨウとキョウイクのことを考えるもさしあたっての用事もなければ行かねばならない所がない。
仕事が生きがいだった故、所詮夢も趣味もないので、周囲から好きなことをすればと云われても、それが見当たらない。
家庭の中でポツンと孤独感に入り込む、もしくは疎外感を覚える。
これじゃアカンやろと動くことを考えると、そうや・家事がある。掃除がある。お茶碗洗いがある。洗濯がある。洗濯物干し。洗濯物取り込みの折り畳みがある・・の日常的家事を思いつく。
仕事人間と云うより会社人間=社畜となった人間がある日を境に家事をしてみても様にはならない。今までそれが重要な仕事であることを認識してはいない。そして新たな目標探しに次は外での活動にチャレンジする。
定年後に趣味を見つけようと・・取ってつけたように趣味のサークル・文化カルチャーセンター・スポーツジムに顔を出す・・も自分にはしっくりいかない。自分はすでに廃人?レベルの老人であることを受け入れることができない。何かをしなければならないっていう意欲は見えるが何かをやる能力とのアンバランスを本人は解っていない。女性と恋方面に生きる幅をもとうとするも老齢臭の加齢臭がする老人など相手にされないことを実感する。
家庭の中では奥さんや子供たちからも距離を置かれる。⇒ますます疎外感に襲われる。これから「どのように自分を創るべきか」・・の壁が厚い。つい定年前までは部下からちやほやされおべんちゃらの声が心地よく耳に入ってたものが、肩書がなくなり素っ裸になった自分の真の姿が現れる。
映画では、旧きを尋ねることとなり、旧友との交わりを再開する。そこから自分の再生を試みることになる。
エ~ッと・・・これは私の物語でもあるなぁ・・今中学校時代の友人や高校時代の友人、大学時代の友人とつるんでるから。新しい人との関係を遠慮してるしなぁ。
この映画は自分のヒストリーでもあるワケよ。終わった人、終わりつつある人。終わってるのに吾を忘れてる人みんなおんなじ行く道。でもボクは10数年前にクリアーしてると思うから過去の自分のお話よ。それより今は終活が忙しいぜ。