年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

結果と過程

2018-06-29 19:44:19 | Weblog
  ポーランド戦、う~ん・・不可思議な光景ではないか。試合に負けたチームが喜び、そして試合に勝ったチームが勝ちの余韻に浸ることなく消え去る光景が・・。

 終了10分前のこと日本がただ単にボール回しをしたことに対して様々な意見が飛び交っている。試合終了10分前のことセネガルが同じようにコロンビアに1点取られてのこと…計算したところ、コロンビア・セネガル戦がこのまま動かないことを前提にすれば、この時点ではベスト16の中に入ることができる・・・残りの10分間まったくお互いの闘いに変わりがなければ・を前提にした戦い方に違和感を持つ人が多かったんだろう。

 16強に残るために博打のようなずるがしこい選択をした日本は果たして次の闘いをどのようにやるんだろうか・・。
 今までの試合で勝ち得たフェアープレーがこのような試合でクローズアップされるのもなんだかおかしいが・・。

闇夜でスイッチを付ける

2018-06-28 00:00:00 | Weblog
 今年の3月以降睡眠が満足に取れていないようだ。朝も昼も眠たい。今日も受刑者の相談での50分間がたまらなく眠たくなり、質問して相手に応えてもらうのにイエス・ノーの短時間で終わることのなきよう、〇〇についてどのように考えているの?のことでは聞き役のこちらは半分眠っており、それでも、「続けてください」と話を継続してもらうようにして自分は聞き役に徹しながら寝ていた・・ちょっと悪かったかナァ。

 夜の2時過ぎついついトイレタイムもあり、再度眠るのにラジオをつけっぱなしで眠ろうと暗闇でラジオ深夜便をつける。と昔懐かしい唄が聞こえた。

 この唄が流行っていたのは自分が大学生時代だったろうか。前を向いて歩いて行かねば・・と思い立たせられてた唄だったろうと・・懐かしく思い出した。

今日のフルコース

2018-06-27 00:00:00 | Weblog
 4月からほとんど利用しなくなったスポーツジム、以後2~3回は行ったが風呂に入ったのと水中歩行を試みたものの25mも歩くことが出来なくて途中リタイヤ。まして、ジムの2階の筋トレなど痛む足腰に腕が加わり利用するなど考えることもできなかった。

 二つの考え方がある。痛みが出るのは炎症を起こしているんだからヤスミが大切、もう一つは痛くても鍛える方がエエという二つのこと。そこで、互いに相反する考え方を解消する方法として、アウフヘーベン・弁証法を思いついたワケ。つまり矛盾する両極端のものをもう一段上にあげて考えてみようかと・・・。

 で、今日の一日の計画とその結果。
 午前10時;朝ご飯の後の睡眠を取ろうとソファに横になると(近頃夜のノンレム睡眠時間と回数不足で起きてても眠い)奥様に叱咤される。お買い物に言って欲しいとのこと。たねものやさんで堆肥にピーマンとトマトの苗を買いたいという。農業女子に生き甲斐方面を見つけた奥様はめったやたらと注文を付けてくる。アレしてコレしてのことゆえ畑作業を一切拒否しておる自分としては逃げ場を失うことが多い。力仕事ができないんだったら買いものくらい手伝えと。渋々重い堆肥を車に積み込む・・・右手はつかめない左足踏ん張れないのことで・・イテテ。
 午後の時間、ヨ~シジムに行こうではないか、マシーンを使ってやろう・・などと虚勢を張って、まず準備運動のストレッチから・・すると筋肉がないのか硬いのか、曲げることができない頭も腕も腰も足も、アッチャ~。で5分そこそこでout。次以前は難なくペダルを漕いでいたのに負荷のレベルを下げて今までの15分から5分でバイクを降りることに。背中や腰の筋力マシーンも負荷を下げて回数少なくして終了。30分ほどで嫌になった。嫌になった一番の理由は、横を見ればみんな「終わった人」が懸命に運動する姿をみてトホホホと。水中歩行も「終わった人」に交じって10分で終了。少し出た汗を「終わった人」たちといっしょに風呂で流して、次はジムの前にある整形外科でいつものコース。電気をあて首を吊りいつものマッサージとなる。もちろん周りの患者さんは「終わった人」のみ。ベッドの上で施術師とのバカ話が一番心が和む。

 今日はもう一つ予約をしてるところに行かねば・・。 鍼を打つ。びっしりと手や腰足に雨嵐のごとく鍼を打つ。
 本日は鍛えつつ治療し弁証法的止揚の鍼と云うゴールドコースよ。

 4男が嬉しそうな声で話しておる、母親がニコニコしながら聞いておる。5月以来武者修行で東京の墨東病院やら板橋の病院やら岐阜の山奥の診療所やら出かけて、「たのもう~」と道場に通う侍のごときでいろんな病気の患者さんのいる病院で研修している様子、直接診るケースもあるそうで実地の学びの場。今週は大学病院でと思っていると県内の別な病院でアパートからの通いではなく病院宿舎に泊まり込みらしい。問題はご飯のこと、晩ごはんは近くの食堂で食べようかと思っていると、事務方から弁当をくれたそうな。

 しかも若いからたくさん食べるだろうと、二つもくれたそう。それでニッコニコらしい。笑いながらの息子と母のスマホ会話を横で聞く。

 家の前の田んぼはすでに田植えも終わった。

それでも続けなさい

2018-06-26 00:00:00 | Weblog

 今年度に入っても相も変わらず受刑者が出所するにあたり就職活動のお手伝い係をやってる・私の方に回ってくる人に(もう一人私と同じような仕事をしてる支援員もいる。)近頃目立つのが高学歴の人、幼児時代からネグレクト状態であった人、罪名が性犯に関するものが目立つ。彼らを社会復帰させるについて、同じ衣に包んで出すのはいかがなものかと思うけれど、生活者の視点からはどうしても経済的生活方面での支援が重きを置き、内的生活であるメンタル方面の支援が後回しになっている。

 再犯者は再び逮捕された時に定職のない人、もしくは仕事をしていない人が7割だという。だから対応策として彼らに仕事を与えることが再犯のない社会を作るうえで大切なこととしている。

 でも、先日のローカル新聞には、昨年懸命に保護観察所さんや事業者機構さんにハローワークさんといっしょにスタッフが職を与えたDの名前が5面の下、事故事件の小さな記事中にあった、窃盗の活字とDの名前。


 このようなことは初めてではない。釈放後の就労定着については、こちらが関わった件について常にチェックをしている。その実態はあまり芳しいものではない。特に仮釈放での保護観察中は法の監視下にあるためだろうか、おとなしく生活をしているが刑期終了の満期が来ると豹変する出所者が後を絶たない。困っている。どう対応すればよいかのことで・・・

 Dは累犯者となる。一段と上に上がる施設に行くんだろうか・・。
 イヤになるが・・それでも支援をし続けなさい・・の声が聞こえる。 

“終わった人”が「終わった人」を観ると

2018-06-25 21:02:57 | Weblog
 内館牧子「終わった人」の第2弾である。

 うちのお隣の人が舘ひろし主演のこの映画は腹を抱えて笑えた・・と笑いながら説明してくれた。原作からおおよその見当はついていたが、午後暇な時間が3時間ほどできたのを幸いに、今日突然行ってみようかと思い立った。

 花束贈呈やら退社における現社員のお別れの言葉などは珍しいものではなかった。



 仕事を生き甲斐にしていた人は多いだろう。自分はこれを生き甲斐とみるか、仕事に寄りすがって生きてるのか、によって見方が変わるんだろうと思う。たとえ仕事を生き甲斐にしていない人でも毎日することが決まってるだけで朝何時に起きて、何時に出勤して・・職場に着けばアレしてコレしてなどのすること、やらねばならないことがルーティン化されておる。本人のやる気がなくとも今の時間からこれからの数時間向こうまでの走るレールが好き嫌いに関わらず敷かれていることで、心は安定している。ところが、定年退職を含め、いったんレールが行きどまりとなる、あるいは外れると。。どうなるか・・・定年=継続していた同じ時間や、継続していた居場所がなくなることからどのように自分の態勢を整えるか。先ゆきが決まらないってことが不安を増大する。

朝起きても目標がないからすることがない。周囲はそれぞれ各人は目標に向かって歩いているが自分にはないことを喪失的に体験する。

キョウヨウとキョウイクのことを考えるもさしあたっての用事もなければ行かねばならない所がない。
仕事が生きがいだった故、所詮夢も趣味もないので、周囲から好きなことをすればと云われても、それが見当たらない。
家庭の中でポツンと孤独感に入り込む、もしくは疎外感を覚える。
これじゃアカンやろと動くことを考えると、そうや・家事がある。掃除がある。お茶碗洗いがある。洗濯がある。洗濯物干し。洗濯物取り込みの折り畳みがある・・の日常的家事を思いつく。
仕事人間と云うより会社人間=社畜となった人間がある日を境に家事をしてみても様にはならない。今までそれが重要な仕事であることを認識してはいない。そして新たな目標探しに次は外での活動にチャレンジする。
定年後に趣味を見つけようと・・取ってつけたように趣味のサークル・文化カルチャーセンター・スポーツジムに顔を出す・・も自分にはしっくりいかない。自分はすでに廃人?レベルの老人であることを受け入れることができない。何かをしなければならないっていう意欲は見えるが何かをやる能力とのアンバランスを本人は解っていない。女性と恋方面に生きる幅をもとうとするも老齢臭の加齢臭がする老人など相手にされないことを実感する。
家庭の中では奥さんや子供たちからも距離を置かれる。⇒ますます疎外感に襲われる。これから「どのように自分を創るべきか」・・の壁が厚い。つい定年前までは部下からちやほやされおべんちゃらの声が心地よく耳に入ってたものが、肩書がなくなり素っ裸になった自分の真の姿が現れる。

映画では、旧きを尋ねることとなり、旧友との交わりを再開する。そこから自分の再生を試みることになる。

 エ~ッと・・・これは私の物語でもあるなぁ・・今中学校時代の友人や高校時代の友人、大学時代の友人とつるんでるから。新しい人との関係を遠慮してるしなぁ。
 この映画は自分のヒストリーでもあるワケよ。終わった人、終わりつつある人。終わってるのに吾を忘れてる人みんなおんなじ行く道。でもボクは10数年前にクリアーしてると思うから過去の自分のお話よ。それより今は終活が忙しいぜ。

今日の計画

2018-06-24 00:00:00 | Weblog

 とりあえず晩ごはんを19時までに終えて、とりあえず20時には寝ようと思う。近頃横になるとすぐ眠ってしまうので何時であろうが寝ることができる。そして24時カッキリに起きてロシアW杯サッカーを見ることにする。コロンビアに勝っているので予選2試合目のセネガル戦も勝てるという根拠は何もないが負けるという根拠もなさそう。引き分けでの勝ち点1取ればオンの字だろうと・・・

お斎(おとき)

2018-06-23 00:00:00 | Weblog
 
 つじつまを合わせるようなことかもしれないが・・・・
 5月12日に父親の25回忌を計画していた。自分が母親に一緒に行こうかと誘うと、イヤあんた達だけでやりなさい・・と布団の中から返事が返った。
 母親のこの数年の口癖は二つ、ひとつは「私はこれからどうしたらエエんかね~」と老人ホームで身動きが取れずかと言って一人では生活が不可能、私のところに来るかと云うも、迷惑だからと云う。年金などすべて嫁さんに預けて一緒に暮らすことも選択肢にあったが、交通事故により身体に障害を持つようになると、母親もこれ以上嫁さんに負担をかけたくないとの気持ちがあった。母の矜持でもあったんだろう。

 そして、もう一つの口癖は毎日オトーサンやケンサクに早く迎えに来て頂戴とお祈りしているのにいっこうに迎えに来てくれない・・と云うものであった。

 ちょうどそこで母親は25回忌の行事に相乗りしたのかもしれない。オトーサンが来てくれる・・12日だったらその時に都合がエエ・・と、10日に亡くなり父親の12日の法事をキャンセルして当日が母親の葬式に代った。つじつまを合わせるような感じがしないでもない。

 今日は雨が降ってる。雨のなかでの納骨式。石碑の下に父と母と弟の骨壺を仲良くくっつけて収めた。納骨の前にはお寺さんで月遅れの父親の25回忌の法要も行った。妹の家族4人と3男の家族3人のあわせて8+1で。

 で、・・お楽しみは「お斎」の膳のこと。今回は奥さんの注文によるご飯。場所は動物園の裏にある砥部オーベルジュリゾートで。

 噴水の上がる向こう側に動物園のゾウ舎が見える。








 みんな一人一人おじいちゃんやおばあちゃんの思い出を語ってもらったのは、他所ではこのような法要で故人の話をあまりしないような経験をしているので、、思い出話として今日はそれを発表するということで・・。

 それにしてもナァ。。足腰が疼き固まり辛いが・・今夜は公民館の役員会があり・・欠席してこのまま寝たい気持ちが99%あるのに、役員会の議題を見れば、体レク部が真っ先にしゃべらないといけない議案が刷られておるワイ。トホホ

もう何もかも面倒くさくなった

2018-06-22 00:00:00 | Weblog
 「唐川ビワ」をパック入りで大量にいただいた。タカシちゃんにもおすそ分けをしようと思う。お~い・生きてるか・・すると返事は元気な声が聞こえるが言語不明瞭。自宅に持っていくよ・・と告げたものの、豪邸タカシちゃん宅の門扉のインターフォンを押せども出てこない。門扉を開けドアまでの飛び石沿いを歩きドアをノックするも反応なし。アッタマ来て、また電話。今玄関前に来てるんやけど、出てこいよ…と話しかけると言語不明瞭の声で、いつものところで待ってる・・と云うではないか。ナニ?100円コーヒーのところ?、いや、がんセンター7階の談話室・・だという。なんじゃいな抗がん剤治療が再び始まったんか・・と。  暇を持て余すタカシちゃんと同じフロアのご婦人患者さんが何やら喋っている。どうやらご婦人の息子さんも旭川に住んでいられるとか、、私も仲間入りして小時間の談笑時間。

 3人共に同じ年齢。人生最後まで何事もなく穏やかに過ごすのはむつかしいことかナァ、1回や2回は明日の命の行方知れず、悶々と戦う機会が誰しもあるんだろうね・・自分だけの闘いが・・などのお話。

 明日の納骨やら法事のことでお寺さんと打ち合わせ。あれとこれとそれらを持って来いとか骨壺は白布で包んできなさいとか一々面倒くさい。さらに、もうどうでもエエ・・と思うことに、何やら料の黒水引不祝儀袋の枚数が半端じゃない。「大迫選手半端ないって」が流行っているが、透明に近いほどの仏心しか持ち合わせていない自分にとっては、寺の取り立て半端ないって・・の感覚。このお寺さんは裕福な方が檀家総代として率いていられるのだろうと・・
 もう面倒くさくなった、何もかも。何人かは、このような稚拙なブログを上から目線で読んでいただき評価をしている人もいるんだろうなどと想像すると、これまた書くのも面倒くさくなった。どうでもエエ。お寺さんへの〇〇料などと意味の解らない名前はどうでもエエ、まとめていくら納めればエエの・・のことだけでこと足りる。

「家族」を考えた

2018-06-21 00:00:00 | Weblog
 すべてのものは、生まれ、発展成長し、そして消滅するという法則にのっとれば、まさしく家族にも当てはまるんだろう。


 小野川も一昨日の雨で増水した。堰から落ちる水の音が大きいにもかかわらずウグイスの声はそれを突き破りホ~ホケキョとやかましい。朝の5時半、まだご近所さんは朝の日常生活をスタートしてはいない。
 川のそばに立ち公民館活動で区割りされているわれわれ1班の家を眺めてみるとご夫婦二人だけの家が増えた。ついこの前までそれぞれのご家庭にお子さんが二人三人といられて、背中にランドセルをしょい学校に行ってたものの、いつのまにか「巣」から離れて飛び去っている。

 チュンチュンとスズメの家族だろうか、軒下から聞こえてきた飛んでは戻り、また飛んでは戻る姿を眺めていると親が餌を探しに行ってるんだろうか、チュンチュンの声も朝の空気を突き破る。

 生成⇒発展⇒消滅の法則は家族の歴史にも当てはまるんだろう。

 とーちゃんとかぁちゃんがいて、そして弟と妹の5人家族がいた。4つ離れた妹はフラフラと遊びまわる子だったので一緒に遊んだという記憶がないが弟とはよく遊んだ、よく話していた。ま~るいちゃぶ台を囲み家族でご飯を食べたが台の上のご飯は何品もおかずが出ることはなかったと思う。海のそばだったから魚をよく食べてた。焼き魚であったり煮魚であったり、1~2品でごはんをかき込むようにして3~4回のお代わり。当時の話題は何だったかさっぱり覚えてはいない。笑いあいながら食べてた記憶もない、叱られながら食べてた記憶もない。たしか、早く食べて外に遊びに行く・・ことが大きかったと思う。海に山に近所の友達誘い合い遊んでおった。夏休みになると決まったように大阪のいとこ達がやってきてさなが小さなわが家が海の家と化した。とーちゃんがいてかぁちゃんがいてぶつぶつと何かと文句を言われながら遣り過ごしていたんだろう。それが発展の踏み台。

 その風景が「こころの風景」になってしまった。父が亡くなり、弟が亡くなり、そして母が亡くなった。自分を育んでくれた家族が消滅し、次に私は自分の家族を作った。生成し発展する歴史を踏む。6人家族が形成されてたが、やがて子らは一人の医学生を除きそれぞれが家庭を築いた。我が家はいつの間にか夫婦二人だけになった。つまり自分で作った家族がいつの間にか消滅した感覚。


 奈良の亡くなったおじおばの子供たちもそれぞれ独立離散。いとこの長男は数年前に亡くなり今、次男と三男がいる。でも次男と三男は行き来してはいないと聞く。だからなのだろうか、突然スマホに入った三男の声。三男は岐阜の山奥に所有していた別荘(川魚釣り用の山小屋)を改装して一人で住んでる。Yちゃんである。何年かぶりに聞くYちゃんの声。アニキ、調子が悪いネン、うつ病が再発してなぁ、会社と喧嘩して辞めたんや・・どうしたらエエ、、のこと。病んでおる。

 私の方、受刑者との面接をやってる。社会復帰がスムーズにいくように身柄の面接を繰り返してる。今日は中国地方からの協力雇用事業主さんに来所いただき、採用面接を行う。70分の面接時間は最長であった。ツカレタが採用の許しを得た。

「終わった人」

2018-06-20 00:00:00 | Weblog
  終わった人、終わってるのに終わってない顔する人、終わりつつある人、様々の人が自分の周りにいる。私も自ら思うことに、終わってる人に属する。ジツハ・・・私も10数年前に花束をもらった人、終わった人である。


 雨の中のアジサイになぜかホッとしてる。
 土曜日に母の納骨を予定している。で、奥さんが墓地の草引きをヤラネバ・・とせっつかれて1時間ほど車を走らせた。その道中の話を奥さんがやってる。ネタは「終わった人」の話。昨日もソファに寝転んでクスクスッと笑ったかと思うと、ニヤニヤしてる。と、突然声を出して笑い出した。何を読んでるのか・・と問えば「終わった人」内館牧子の文庫本だという。
 そして、車の中でその面白い話を解説してくれた。この主人公はオトーサンそっくり、言ってる話も全くおんなじヨ・・と。

「毎日が大型連休」になった男の悲哀が苦しい。仕事一筋の男だったため、友達もいないし、趣味もない。やりたいこともない。やりたいのは仕事だったのに・・来る日も来る日も何とか時間をつぶさなければならず、見たくもない映画を見に行ったり、スポーツジムに入ったり、カルチャースクールに通ったりする。それでも「自分は老人ではない」という矜持があり、老人の溜まり場と言われる図書館には行かない。歩数計をつけて散歩もしない。昼間のジムは爺さん婆さんばかりだが、一線を画して仲よくしない。それでもやがて気づく。「傍から見たら、俺も単なる爺さんなんだろな」と。激しい落ち込みの中、悶々と日々を送る。
  そのようなトーサンと同じ。よく言ってるじゃないの・・ジムは暇を持て余す爺と婆ばかりョ、話し相手ではない・・とか、病院に行っても爺さんと婆さんが電気治療や首吊り、マッサージやってる・・とよく言うじゃない・・と。でもトーサンは近所付き合いはやってるし地区の役員もしてるから、この本の主人公よりかは半歩進んでる方かナァ・・となぐさめてくれる。それも腹を抱えて笑いながら・・であるが・・。

 この文庫本の表紙と同じ光景を自分は経験したのが15年前になる。
  大阪・キタの繁華街で退職祝いをしてもらった。そして大きな花束をいただいた。持って帰るのを遠慮して、女性の事務員さんにあげようとしたが、事務員さんから、持って帰って奥さんに差し上げて下さい・・などと云われた。でも問題は飛行機で帰ることで、面倒くさく荷物になるのでどこかに置いて帰ろうとしても伊丹空港内でゴミ箱探そうにもない。ゴミ箱に花束と云うのもなんだか気まずいではないか・・などとずるずるしながら結局機内に持ち運んだ。そして、オーバーヘッドビンの共用収容棚にも入り切れないほどの大きい花束だったのでCAさんにこれ貰ってよ~と言っても、意を察したCAさんが、大事なものですから到着地までギャレーでお預かりします・・などと云われあずかってもらい、結局自宅まで持ち帰った。事務員さんに言われた通り、奥さんにあげて写真を撮った。。事を覚えている。

 「終わった人」がその後どう再生していくのかに焦点を中てたい。息子に家業を譲った人が、いつまでも監視役として登場し、譲れないような人もいるだろうし、自分の周りの多くは孫が残された余命を長らえる起爆剤となってるような「終わった人」が多い。あるいは腹の突き出た人のジム通いの痩せたマッチョマン志向癖、朝からカラオケ方向の音痴族の人。高尚なる趣味?とする俳句方向や短歌族、私の出身高OBで作る連歌派にハマる人もいる。また地域貢献として「笑いヨガ」をやる元校長先生もいたりして「終わった人」の次の終わり方を模索してる人もいる。私のように1週間の内の2~3日仕事する人は、「終わった人」の内館牧子先生は、輝くほどのうらやましい存在だと云うかもしれない・・

 自分の今歩いてる道は、15年前に大阪キタの街で宣言したこととずれてないだろうかと・・PCの倉庫を探してみた。

株式会社〇〇出版社の退社挨拶
大阪支店の人前で(飲屋の喧騒の中で)

少しお時間を頂戴してご挨拶をさせていただきます。今日で最初で最後となりますが、先ほど会議中にお出ししたお菓子は、松山名産?の一六タルトです。 ここの社長は玉置さんという方で、お菓子の会社の「一六本舗」以外にも車の「ネッツトヨタ愛媛」や「スーパーセブンスター」、「レストラン北斗」など経営しておられます。更にもう一つ会社があります。それは「伊丹プロダクション」という会社です。俳優さんは故伊丹十三さん、宮本信子さんです。その伊丹十三氏の妹さんに「ゆかり」さんって方がおられます。彼女のご主人さんが大江健三郎さんです。私の故郷の隣町の方です。ここからが今日の私の話です。

ノーベル文学賞を受賞された大江健三郎さんは難しい本をたくさん出しておられますが、最近若い人達に向けて優しくアピールしていることがあります。その一つに皆さん方の中にも読まれた方がいらっしゃるでしょうが、「『自分の木』の下で」という題名の本があります。
大江さんの実家は、両側を山に囲まれた狭い谷あいにあります。愛媛県喜多郡内子町大瀬という地区です。その地区に古くから言い伝えられている話しにこういうのがあります。おばあさんから何度となく聞かされた話、つまり、それぞれに自分の木があって、人は生まれた時に、山の高みの森にある自分の木の根元から魂が螺旋形に飛んできて赤ん坊の体内に入り、逆に死んで逝く時には魂が身体から抜け出て、再び山の高みにある自分の木の根元に螺旋状に戻っていくものだ、という言い伝えです。
 そこで少年時代の大江さんは不登校時に、山の中の森に入り何十年ヶ後の大人になっている自分に会うために,たくさんある中から自分の木を探し出してこのように尋ねたかったと、 「あなたはどうして生きてきたのですか」 と。  そして、60歳の半ばを過ぎた今、再びあの山間の森に行くと10歳の時の大江少年が待っていて、おじいさんになった大江さんに 「あなたは60数年もどうして生きてきたのですか」 と尋ねられる質問に対する答えとして 「『自分の木』の下で」という本を出版されたんだろうと私は思います。

 その本を読みながら、私は自分流にこう考えました。 少年時代の大江さんが60歳もとっくに過ぎた大江さんに 「僕はどのような大人になり、老人になるんでしょうか?」 と尋ねた時、自分の木を見つけることが出来るかどうかはわかりませんが、大江さんが再び大瀬の山間の森に入って自分の木の下で大江少年に「ぼくは あなたのそのままの人ですよ」 と答えると同時に、おじいさんが少年に, 「あなたの持っている夢や希望に沿っているおじいさんに見えますか」 更に少年に 「あなたはどんなふうにこれから生きていきたいのですか」 とお話をするのではないだろうか と思うんです。中井君や香取慎吾やキムタクの,私は個人的には慎吾が好きなんですが,スマップの 「ヨゾラノムコウニ」 という歌のなかにもありますように ♪あのころの みらいに ぼくらは たっているのかなあ♪ という、つまり、ずっと前の自分と今の自分とがどうつながっているのかなあ、ということだと思うんです。

私も皆さんも会社にいる限り、ころもへんに刀を添えての初めがあって、糸へんに冬と書いての終わりがあります。私の初め,〇〇出版社に入った動機といえば昭和47年4月の,ちょうど30年前の24歳の時でした。当時の自分は魂が定まらない青春の彷徨時代でして,デラシネ、根無し浮草状態でした。ころもはボロボロ,刀の刃もボロボロ、しかし先っぽだけは,とんがっていたように覚えています。 悩んでおりまして…・、これからどうやって生きていこうかと。それで ヨッ~シ!この根無し浮草状態から脱出して大地にしっかりと根を張って生きていこう、その為には、自分の中に住み着く保守性をどうやって追い出そうか、というものでした。 なぜならば、守るべきお金も力も何もないくせに保守的に閉じ篭りがちであったからです。 折よく朝日新聞の人事募集欄に,〇〇出版社の募集記事があり、募集条件として書かれておりました〓小乗的サラリーマン不可〓という文字に魅せられて入社した訳です。

 ところで、先ほどの大江健三郎さんの本に沿っての話しに戻ります。 
 30年前の24歳の入社した新人時代の自分と55歳の退社する今の自分とが, どのようにつながっているか・・・です。 55歳の私が24歳の私に問いかけます。「あなたの30年後の私の姿を見て想像した通りになっていますか、どのように感じますか?」「大地にしっかりと根を張って生きていますか?」「その根っこはあなたにつながっておりますか?」 と。
 仕事を30年丁度やってきました。自分の実績として おそらく会社の歴史51年間を通して10本の指の中には入るだろうと思います。 皆さん、私は決して自慢をする為に言っているのではありません。反対です。私に仕事のために支援をしていただいた21,000人の見知らぬ沢山の人達から栄養分を頂いて、私の姓でもありますが高木という木の根をのばして頂いた、しかも、妻と子供4人。家族6人が生きていくための滋養分を貰ったということです。感謝の一言です。
 このことは決してお客さんとばかりつながっているものではありません。今までに数え切れないほど辞めていかれた方,ご指導を頂いた上司や先輩,同僚ともつながっておりますし既に亡くなられた同志ともつながっております。今、こうやって私の話を聞いている皆さんともつながっております。厳しい仕事をしながらも 笑顔を見せてくれた人とも、電話などで叱咤激励してくれた人とも、いつも嫌がらず無理を聞いてくれた事務の人とも、若い人達ともつながっております。 この30年間の,不可思議とも思えるそのつながりにもう一度感謝をしたいと思います。長い間、本当にありがとうございました。心より感謝を申し上げます。
 さて、今後の私ですが,少しボヤ-ッとした時間を もちたいと思っています。が、食っていく為にあと10年を最低に15年を目標に仕事をしたいと考えております。そのために勉強をしたいと思っていることがあります。長年、自分と人とを相手にやって参りましたので、それに基つくものであればいいなあと思いますがどうなりますことやら。
九州支店に弓道を趣味にしてらっしゃる方がおられますが、何かの本の中にこのような言葉がありました。「矢は弓の力なり 男の仕業は女の力なり」の一文 です。矢は自身では飛びませんよ、弓の力によって飛ぶんですよ、同様に男の人のしわざは女の力によりますよ、ということでしょうが、所詮,男の私一人では, たかが知れたものでしょうから妻の協力を得ながら、未だに充分な根を張っているとは,到底思いませんので、24歳当時の私と同じようにこれからも 苦しくとももがきながらも、先ほど申しましたように後10年、15年と仕事をしていきたいと考えております。おんなへんに台を書いて、それが私の始まりです。

今朝、空港に向かうために家を出ながら狭い我家の庭の木を眺めておりますと今年の寒い季節で すっかり葉っぱを落とした木の枝からも,ヒガンザクラですが小さな芽がたくさん出て膨らんでおりました。まもなく開花するでしょう。自然の摂理です。 今、仕事の環境は寒く厳しい状況にありますけれども先ほどの自然の摂理でいうと、芽がたくさん出ている時だと思います。どうか皆さん自分を信じて進んで行って花を咲かせて下さい。終わりになりますが、このような送別会を開いて頂いた支店長、皆さん方ありがとうございました、皆さんのご健康とご家族の方々の幸多いことをお祈りして 私の挨拶といたします。長々とお聞き頂きありがとうございました。

3月吉日 〇〇〇〇



 漫談の綾小路きみまろのセリフではないが、あれから15年・・という話し。きみまろさんは面白おかしく夫婦のその後を展開するが。。こちらは15年前の自分と自分の約束事を守っているかどうかのこと。でも歩む方向は狂いはないが、身体的な衰退は予想してなかったワイ。