先日までに比べると少しは寒さも治まった。急いで窓ガラスと電球を拭く。ザ~ッと拭くだけ。外の壁に張り付いているツタが見苦しいと言いながら、Hさんが剪定鋏を手に持ちやって来て徒長枝を切る、そして溝掃除をする。ありがたい助っ人。
作業を済ませて、元旦の石鎚山・成就社山行の打合せをし、また二人で今年の反省会となる。反省会より愚痴の会となってしまうが・・・
今年を振り返る。
4男ががんばって医学の勉強をすることが決まった。次に3男がかわいいお嫁さんと一緒になった。続けて緊張の糸が緩んだと思っていると、その次は妻の大けがである。この後半の半年は、妻に付き添うことが自分の生活のすべてであった。緊張した24時間が続いた。そして今年の最後の月にまたしても母親が、妻と同じく大腿骨を折り手術をした。緊急で弟も入院せざるをえなかった。私の一番近い3人が入院することになり、自分の24時間が一段と緊張感を増してきた。
毎日緊張感を持って日々を送ることの辛さを支えてくれたのは、大つごもりの今日あらためて振り返ると、人である。例えば仲間。こんなにも人は優しいものかと思う。いつも私に声をかけていただいた仲間、YさんやKさん、H君やT君は、初めて会う妻のベッドサイドまで来て声をかけていただいた。そして横たわる妻に笑みを送っていただいたからこそ妻も笑みを返すことができるようにまでなった。堀口先生もご夫婦で何度もベッドサイドまで足を運んでいただいたからこそ、生きる勇気を掘り起こしていただいた。妻の仲間もたくさんいる。骨折した頭に包帯を巻き、骨折している足には錘をつけて牽引、右手の骨折も包帯を巻き、しかも顔面骨折もして麻痺した顔になった妻に励ましてくれた妻の友人Tさんは、日用品持参で遠くJRに乗って何度も病院まで来てくれた上に、メールを何度も送っていただいた。仕事を通じた人もたくさん来ていただいた。千羽鶴を病室に持ってきて頂いたのは、救急救命センターの病室から一般病棟に移動した時であった。かろうじて口だけが動いていた。何人来ていただいたのだろうか、妻の仕事仲間と仕事の利用者さんは。数えたことはない。感謝することしかできない。
治療中心の病院から、リハビリ病院へ移動した頃から妻が落ち込んだ。大きな外科手術を繰り返し頑張っているとその向こうには「治る」の希望があったにもかかわらず、リハによる身体の現実を受入れざるをえなかったが、前を向かせてくれたのは、やっぱり多くの人の力であると思った。埼玉に住む孫の写真、札幌に住む孫の写真は痛みを瞬時忘れることのできる魔法の薬であった。従妹のH子も従兄弟のケンちゃんもありがたい。妹も何かと私の体調を気遣ってくれた。私に漢詩を作っていただいたMさんにも涙腺が緩んだ。事故現場の町内に住むユタカちゃん、またタカシちゃんの同級生は、私の方までもいつも注意をしてくれていた。最後の町長であったミノルさんも妻の状態をいつも気遣ってくれた。ミノルさんの奥さんも手術入院していたにもかかわらずである。
自分自身も落ち込んだ日々が続き、もがく毎日であったけれど支えてくれたのは、いつも声をかけてくれた人である。そして最も私自身を支えてくれていたのは、実は必死に生きる妻からのメッセージであった。自分の底を支えてくれた周りの人にありがとう・・・の一年が今日終る。そして新たな日が明日から続く。サンキュウ。
作業を済ませて、元旦の石鎚山・成就社山行の打合せをし、また二人で今年の反省会となる。反省会より愚痴の会となってしまうが・・・
今年を振り返る。
4男ががんばって医学の勉強をすることが決まった。次に3男がかわいいお嫁さんと一緒になった。続けて緊張の糸が緩んだと思っていると、その次は妻の大けがである。この後半の半年は、妻に付き添うことが自分の生活のすべてであった。緊張した24時間が続いた。そして今年の最後の月にまたしても母親が、妻と同じく大腿骨を折り手術をした。緊急で弟も入院せざるをえなかった。私の一番近い3人が入院することになり、自分の24時間が一段と緊張感を増してきた。
毎日緊張感を持って日々を送ることの辛さを支えてくれたのは、大つごもりの今日あらためて振り返ると、人である。例えば仲間。こんなにも人は優しいものかと思う。いつも私に声をかけていただいた仲間、YさんやKさん、H君やT君は、初めて会う妻のベッドサイドまで来て声をかけていただいた。そして横たわる妻に笑みを送っていただいたからこそ妻も笑みを返すことができるようにまでなった。堀口先生もご夫婦で何度もベッドサイドまで足を運んでいただいたからこそ、生きる勇気を掘り起こしていただいた。妻の仲間もたくさんいる。骨折した頭に包帯を巻き、骨折している足には錘をつけて牽引、右手の骨折も包帯を巻き、しかも顔面骨折もして麻痺した顔になった妻に励ましてくれた妻の友人Tさんは、日用品持参で遠くJRに乗って何度も病院まで来てくれた上に、メールを何度も送っていただいた。仕事を通じた人もたくさん来ていただいた。千羽鶴を病室に持ってきて頂いたのは、救急救命センターの病室から一般病棟に移動した時であった。かろうじて口だけが動いていた。何人来ていただいたのだろうか、妻の仕事仲間と仕事の利用者さんは。数えたことはない。感謝することしかできない。
治療中心の病院から、リハビリ病院へ移動した頃から妻が落ち込んだ。大きな外科手術を繰り返し頑張っているとその向こうには「治る」の希望があったにもかかわらず、リハによる身体の現実を受入れざるをえなかったが、前を向かせてくれたのは、やっぱり多くの人の力であると思った。埼玉に住む孫の写真、札幌に住む孫の写真は痛みを瞬時忘れることのできる魔法の薬であった。従妹のH子も従兄弟のケンちゃんもありがたい。妹も何かと私の体調を気遣ってくれた。私に漢詩を作っていただいたMさんにも涙腺が緩んだ。事故現場の町内に住むユタカちゃん、またタカシちゃんの同級生は、私の方までもいつも注意をしてくれていた。最後の町長であったミノルさんも妻の状態をいつも気遣ってくれた。ミノルさんの奥さんも手術入院していたにもかかわらずである。
自分自身も落ち込んだ日々が続き、もがく毎日であったけれど支えてくれたのは、いつも声をかけてくれた人である。そして最も私自身を支えてくれていたのは、実は必死に生きる妻からのメッセージであった。自分の底を支えてくれた周りの人にありがとう・・・の一年が今日終る。そして新たな日が明日から続く。サンキュウ。