先月まではしきりに病院から家に連れて帰ってくれと私に怒鳴り散らしていた。ウソツキ~と叱られた・・。温厚な弟の人格が壊れているかのようであった。11月5日に一時帰宅した朝から夕方まで自分の部屋のベッドで横になったのが最後である。
こんな弟の顔を見るのは10年振りだろうか。ひきつった顔でもなく、どす黒い中の青白い肌色であった昨日までの弟の顔色がそうでもなくなった。やっと一安心したようだ。もう週3回5時間かけての透析をすることがなくなった。昨日も透析の日であったはずがその前に、介護タクシーではなく葬儀社の寝台車で自宅に連れて帰った。おんぶして連れて帰った前回に比べて今回は担架である。もう二度と病院に帰ることはないのだ。やっと落ち着くことができる。入院が大嫌いな弟である。弟の人生の中で何度入院したのか、何回手術したのか数を数える指を折ったことはないが・・・。
空
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうじゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平の方までゆくんか
弟が好きであった山村暮鳥の「空」の詩である。
これが好きであったと知ったのは弟が大学受験前である。机の上のノートの表紙に鉛筆で走り書きをしていたのを見つけて、あとで聞くと、大好きな詩であると云った。
そして大阪での学生生活を送る4年間、最後の4回生になった時卒業までに単位が一つ足りなかった。そして休学し1年間入院退院を繰り返し、やがて復学をした。
どうして腎臓が悪くなったのか、医学的な原因は知らない。ただ、二つ年上の私も大学時代に大阪の弟のアパートを訪ねて行ったことが一度ある。昼間でもうす暗い3畳の部屋であった。机と本箱の横に置いていた段ボールと万年布団。段ボールの中は当時発売された「明星チャルメラ」の即席ラーメンのケース。これが毎日3度の食糧だと笑いながら話してくれた。そうだった、私の家は、私と弟と妹の3人が高校を卒業しそれぞれ進学していたために国家公務員である父親と学校給食の手伝いをしていた母親の収入だけが教育資金であり満足できるものではなかった。でもその中から捻出して送金していたが、空腹を満たす青年時の食生活足り得なかった。やがてすべての調子が悪くなったと思う。
それでも学生生活を終え、地元の会社に職を得て仕事をし、途中楽しい時期もあった。
例えば、車の好きな弟が買い換えた車は7台を超える。免許を所有しない私や両親、妹も車に乗せてドライブに連れて行ってくれたし、後に福井県武生市に嫁いだ妹の家にも父と母を連れて数回遊びに行っていた。近県にも一泊の小旅行を数回していた。
例えば二人で好きな女性の話も良くした。弟はなぜかよくモテていたけれど透析仲間の女性とも仲良くなり先方の両親から挨拶を受けていたこともあったが、腎臓が悪いことを考えると結婚を決意するには至らなかった。自分には家族がいないと最近よく嘆いていた。
また私と妻との結婚する時の話も懐かしい。私のアパートで私の帰りを待つ弟と婚約前の妻とが二人っきりで鉢合わせをしたそうだ。弟からもらったパイオニアのステレオの調子を見るために来ていた。話をする話題もなく黙っている二人であったが、突然弟が妻に言ったそうだ。兄貴の弟ですと。妻は慌ててしまったそうだ。家族には何も話をしていなかったので・・。でも、私の息子たち、東京では長男の結婚式、札幌では次男の結婚式を挙げた時には現地で透析をする病院を探して出かけた。しかし、今年3月の3男の結婚式には、3男から出席して欲しいと願っていたけれど、入院中につき体がきついから、と出席をすることができなかった。かわりに式場から料理膳を病院のベッドまで持ち運び、ニコニコしながら食べたそうだ。結果、看護師さんからお叱りを受けた。患者さんに勝手に食べさせてはならないと・・・。
趣味は何かといえば、プラモデル収集。ブリキで作った車、ショベルカー、クレーン車などの働く車やラジコンヘリなどかなりの数である。そのためにもう一つの趣味であるアンティーク西洋家具を取り寄せて飾った。次々と西洋家具を購入しコーヒーカップ、備前焼など一客いくらするのか聞くのも聞けないほど集めた。それを眺めるのが外に出ることのできない弟のこころの慰めであった。
人様から何かをしてもらう有り難さがある。感謝の気持ちを相容れて。反面自分から何かを人様にさせていただく有り難さもある。感謝の気持ちを相容れて。弟は晩年それができない辛さがあったのだろうか。私の孫たちが弟の家に行くたびごとに、透析から帰った弟がニコニコしながら、私の孫たちに、好きなものを好きなだけ持って帰っていいよ・・と声をかけていたことは、もらってくれる幼子がいることが心底うれしかったのだろう。
今日は通夜である。顔面に白布をかけることはない。好きであったコーヒーやたばこ、いつも私に命令をしていたジャムパンやクリームパンにおはぎをいつものように顔の横に置いた。いつでも食べることができるように。時折涙ぐむ母親も思い出しながら笑っている。そう、すべての弟の苦しみがやっと解放されたのだ。だからいい顔をして眠っているのだろう。
幼少時から中学生までは、家の前の坂道で買ってもらったグローブを手にキャッチボールをしながら兄ちゃんと呼ばれた。高校生から大学生をすぎ青年時までは、都会で過ごした雰囲気の弟から地方しか知らない私をアニキと呼んだ。それから、新車のハンドルを持ちながら隣に座る私にオマエと呼んでいたが、透析生活が続くといつの間にかニイサンとさん付け呼ばわりされた。会話ができていた夏前まではそれにオをつけてオニイサンと呼んで好きな菓子パンやタバコなど要求されていたが、オニイサンと呼ばれると自分は少し恥ずかしかった。もう弟から目の前で呼ばれることはない。早く家に帰りたかった弟から最後に怒鳴られた、ウソツキ~の声は今の自分の頭に残っている。だから天国から、キサマ~・・と呼んでいるのかもしれない。