年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

アドベント・キャンドル

2014-11-30 21:28:45 | Weblog
 「希望」の1本目のキャンドルは「預言のキャンドル」。真っ暗闇の中を光り輝く。今日が1週目の1本。4本に明かりが灯るとクリスマス。

希望のロウソクの灯りへと続く道もメタセコイヤの大木は紅葉し、道脇にも落葉が積もる。


 妻のオジさんにマサちゃんがいる。20年近く前まで三洋電気本社に勤務し海外を担当していた話を聞いたことがあった。久しぶりにその叔父の好物であるイリコを持って護国神社そばの家にお伺いした。するといつも出迎えてくれる叔母がいない、どうしたのかと・・すると、千葉の実姉の家に行って介護をしているとか・・夫や子供もいなくなった姉のお世話に行ってるとか・・アチャ~
 で、妻の方に向かって相談をしている。近々こちらに連れてくる予定につき、適する施設を探してほしい、などと。

 いつもの野外レストラン。お弁当を食べる場所に選んだのはロシア人墓地の隣、松大御幸キャンパス。プールを下に見おろし階段に座り、城北の街並みを見ながら食べることに。

 オ~ッと。空模様が怪しくなってきた。早く行かねば、アドベントが始まるよ・・・。

今日は一体何を・・

2014-11-29 23:41:52 | Weblog
 この1週間果たして自分は何をやってたんだろう、などと思いかえしてみるのに、弟を見送ったのもずいぶん遠く感じられる。つい先日であったのにもかかわらずであるが。

 バタバタしておる。後始末も妹や妻にも手伝ってもらってやっている。事務的事項は昔から弱いワークである。面倒くさい。万事大雑把な性格と自己中心のものの見方が細やかな目配り気配りを阻害しているんだろう。役所関係の諸手続きは来週から始めようと・・。

 祭壇に飾っている写真、骨壺を撫でておる。起きろや・・などと。先日までは、病院のベッドサイドに立ち、オイッ起きろやと話しかけ身体を突っつくと目を覚まさした。薄笑いをし何やら言ってくる。理解が十分にできないまでも、たぶん体が痒いから掻いてくれ、ということだろうと思い、背中や胸をタワシで摩った。すると気持ちよさそうな顔をしていた。同じように今もしているが・・・。

 歯医者の治療が続く妻である。後遺症により口が大きく開かないのが難点。それを終えると、移動図書館バスが来ているスーパーに行って本を返却、また新しい本を借りる。次は、札幌のS君の誕生お祝いのおもちゃを買うことに。

 便利なもんだ。スマホでいくつかのおもちゃの写真を撮り、札幌の次男に選んでもらうことにする。持っているものと同じものを選んでもまずいしなぁ・・。

 次は妻の時計修理と親戚の叔父さんに食べていただくイリコをもとめようと実家に車を走らす。1級技能士資格を持つW時計店では、いとも簡単に腕時計二つも修理してくれて、妻感激の上機嫌。今日の行事ごとを終えて家にたどり着くと7時前で暗かった。

大井造船作業場覚書

2014-11-28 21:03:37 | Weblog
 塀のない刑務所・大井造船作業場に入る刑余者の数がだんだん少なくなっている。そこには一時は4~50人いたのが今やその半分にも満たない。ここは規律違反なし、かつ受刑生活態度や知的能力など数々の条件をクリヤーした優秀な人が入所できる選抜グループである。船作りが好きだ、だけの理由はない。希望しても入ることができない収容所である。
種子が服にくっつく嫌な草、せんだん草。

 造船所が忙しい。構内にある船台には、船首部分の大きな鉄の塊の造形物が置かれている。それを横目で見ながら友愛寮に入る。今日の面接者Xは罪名が4つついている。刑期も長い。かなり長い。30数才になる他県出身の男性。

 うがった見方をするのは私だけかもしれないが、刑余者に対して本人の口から放す言葉をそのまま受け取ることより、その言葉の背景を読み取ることを優先する。
 松山刑務所大井造船作業場は、塀のない比較的実社会に近いところで刑を執行していることが特徴である。彼らは、仕事場である造船所内で下請け会社の職人さんたちと一緒に仕事をしていて、いわば専門家とど素人が一緒に作業をしている構図だろう。だから素人は現場ではよく叱られるようだ。溶接など一応資格を持っているもののヘタクソ・・と頭ごなしに職人さんからどやされること数年。比較的器用で知的水準もそれなりに備わっている刑余者が否定され続ける。毎日毎日へたくそな奴とどやされる。逮捕される前まで、事件を起こす前までは強がりを言っていたのかもしれない。が、だんだんと弱音を吐く・・自分はいくら頑張っても人並みの仕事ができない・・などと落ち込む。自分の殻が鍛えられるのはこんな時かもしれない。
 やがて、溶接技術もそれなりに上手になったある日、シャバの職人さんからポロッと言われれた言葉がうれしい。オ~ッきれいにできるようになったやないか・・などと。その時の受刑者の化学反応は、身にまとったタイルがボロボロっと地面に落ちるような感じだそうだ。やっと自分も素の自分であるがままに生きられる・・、地道に努力をしていけば何とかこの世で生きていくことができる、どんなに人様から悪しざまに言われようと必死にマジメに努力をし続けると何時かは認められる日が来るってことが、自分に理解できたとき、スット~ンと人が変わるのだそうだ。見事なまでに。

 今朝は造船所の構内の片隅でフォークリフトの技能者講習会が行われていた。一般の人の中に刑余者も混じっている。忙しい最中である。下請け会社の班長さんがやってきて、「うちの子」といわれながら、さっさと講習を終えて現場に戻ってくれ・・遅れているから・・などと。職人さんが刑余者などと区別することなく仲間として迎えてくれている。○○歴などと人を形で見ることのない、手にした仕事の有り様だけを見て仲間を判別する「職人」である。口汚く時には手を出して指導する職人さんである。もしかして今後教えることの意味や仕事を伝承することの出来る先生は、立派な学歴を持つ人ではなく、名はなくもコツコツと仕事をやっている不器用な職人さんかもしれない。

ケンちゃんが来た

2014-11-27 00:00:00 | Weblog
 高倉ケンさんではない、弟のケンちゃんでもない、私に数多くいる従兄弟の中で1学年上ではあるが同じ年であるケンちゃんがいる。そのケンちゃんの履歴が面白い。関西の某大学を出て大きい証券会社に勤めるようになったものの、毎日の満員通勤電車で考えたそうな。一生これが続くようなサラリーマン生活でいいのかどうかと。希望を見出すことができなかったとか。仕事が自分に合っているのかどうかの仕事内容ではなく、社内の人間関係によるまずさでもなく、単に満員電車に押し込められて一生過ごすことに全く夢がないとの気持ちで即退社した。それから与論島に渡り、のんびりと暮らしたが、やがて始まった大阪千里の万博でどっかの国のパビリオンでバイトをやった。万博が終わると再び与論島に舞い戻り、玄関ドアのない小屋を島で知り合った友人と借り、寝袋で寝て、火をたく設備がない小屋につき、いつも外食をし、島で適当なバイトをしながら1年間暮らしていた・・・将来の生活設計など深刻に考えることはなかった。まぁなんとかなるやろぅ・・のおおらかな気持ちで。

 出世とか、地位とか、金持ちとかの権力志向や欲望など普通にいう上昇志向ゼロ人間。立派とは何かの哲学を持っているような・・万事( ^)o(^ )ニコニコ顔して20代から今まで送っている。
 でも40年ほど前にまともな仕事がしたくなり、俄然やる気を出して、神戸の現在は震災でなくなった実家近くに住む、当時のスーパー業界風雲児トップリーダーのダイエー・中内社長宅に行き、応接室で直談判をしたそうな。オレを雇ってくれと・・・。また、現在菓子業界の雄である江崎グリコ・江崎社長にも会ったそうな・・・。で、ご縁があったのは、カルビーのかっぱえびせんの会社。その会社に長らく数年前まで勤務していた。今日の午後、弟の遺影に参った後、ポテトチップの由来話など面白そうに話してくれた。

 カルビーの会社を懐かしんでいる。決して会社の悪口を聞くことがない。私がいつも前社の出版社の愚痴を妻に話すのとは大違い。楽しく充実した仕事生活であったことが推測される。面白くなきゃ辞めりゃいい・・と。将来は何とかなるやろぅの楽観姿勢がいい。今こんな人が若手にいたら、面白いだろうと思うが・・チマチマして計算ばかりしたうえで仕事をしている人ばかりいるようで・・

 ケンちゃんは今までに弟のケンちゃんの病気見舞いに来てくれたこと再三再四であったけれど、ジツハこのブログを見て弟が亡くなったのを知ったそうだ。で、本日早速、線香をたむけようとわが家にやって来たワケ。サンキュー。

20歳代の男性と30歳代の女性

2014-11-26 00:00:00 | Weblog
 先日の松山刑務所矯正展は今までの中で最も多くのお客さんたちがやって来たのだそうだ。私も妻を連れて行こうと考えていたけれど日曜日の葬儀で行くことができなかった。

担当の職員さんに、今年来られる人多かったのはどうしてだろうか?と訊ねた。すると彼は、高倉健さんの影響だろうと答えてくれた。先日から高倉健主演の映画が、私はテレビを見ていないが民放で放映されていたとか。その時、テレビ局が矯正展の案内を流してくれたのだそうだ。職員さんは、その影響だろうと、そして忙しかったです・・などと苦笑いをして話してくれた。所内を区切り、立ち入り禁止区域を設けて市民に開放して見学させたところが一番人気よかった・・・などと話してくれた。

 今日は、その市民が入ることの出来ないエリアで面接を行う。振り込め詐欺犯、刑期7年6月。手口からもそうだが、IQ指数も100をゆうに超える、知力ありとみた。彼と釈放後の相談をする。仕事についての相談中も、胸や二の腕からから見える文身が気にかかる。いつものように1時間足らずの面接を終える。

 次は女性の相談。ウツにより就労から遠ざかること3年になる。医師から仕事GOのお墨付きをもらっているが、スタート地点に立ってみるものの踏み切ってジャンプしたあとの着地点のことを考えると、それだけで気持ちが萎縮してしまう。したがって背中をポンと押すことの押し方を彼女の話を傾聴しながら考える50分。

 20歳代の男性も、30歳代の女性も生き切る負荷を押しのけて、そよ風のように走ってもらいたいと・・・願っておる。

お疲れさん

2014-11-25 00:00:00 | Weblog
  いつも言っている「お疲れさん」。唯一毎週見ているTVの「ドクターX~外科医・大門未知子」でも手術後、助手、看護師さんが大門先生に云っている。「お疲れ様でした」
 無論、私に対して誰かが言うことはあまり聞かないのは当然。自分は疲れるほどに動かないし、結構手抜きをしてるし・・。
 弟からではなく、いつも私が弟に言っておる。

今、
 遺影に向かって喋っておる。27年間の透析病院通い、お疲れさんってこと。自分には到底出来っこなさそう。一日おきに病院のベッドで横になること。それでもシャントの手術を受けた30年前の日赤病院では、大きな、まるで器械工場の中にいるような透析器械があり、ゴ~ッと低い音で唸り声を出し、細いチューブの中を真っ赤な血液を循環させていたものが、先日までの南松山病院では、透析器械の性能がずいぶんと良くなり、洗濯機ほどの大きさになった。そこに一昨年までは私の車で病院へそれから車椅子で透析室まで連れて行き、透析後はいつも止血バンドをきつく腕に巻いて車に乗せて連れて帰る日が続いていた。ある日、止血バンドを外した途端、天井まで血が噴き出したことがあった。最初に遭遇した時、私は青ざめたが弟は、アララと表情を変えることなく腕を押えた。周りは血で汚れた。このような光景は数回あった。それができたのも、弟が自分の足で歩くことができていたレベルであったから。また、いつか夏の暑い昼下がり、透析後のきつい身体のさなか、シートベルトをつけることなく33号線を下っていると丁度南警察署の前で停止させられた。お巡りさんはシートベルト着用義務違反という。しかし、透析後のこと、シートベルトをつけると体がきつくなること、まくった腕に激しいデコボコの凹凸を見つけると、理解ある警察官は、お気をつけてお帰り下さい・・と。
 しかも昨年からは自分の足で立つことが困難になり、従って病院の送迎は介護タクシーにお願いをした。ずいぶん障害者に理解のある若い人であった。Mさんという。障害者に寄り添う優しい気持ちを持った、元高校野球の選手であった。介護タクシーを利用するのは自宅にいるからである。入院中は利用することはない。今年の5月までの入院中は、週1回病院から別の病院へ治療に出かけた。耳鼻科にかかるためである。耳が聞こえないもどかしさから私が通院のお伴に。そして帰り道は何かおいしいものを食べようと・・かといって車いすのある場所しか選択できず、入院中の母親のいた松リハの8階が定番、それとがんセンターの食堂が比較的障害者の利用しやすい食堂であった。それでも弟の身体は私が支えることの出来る範囲であればいいが、9月も過ぎれば、私一人では支えることができなくなりベッドのままの生活に移行。耳鼻科通院も出来ず。南松山病院は耳鼻科を持たないので仕方がない。耳は聞こえない上に体は全身痒くなる・・そのような下降曲線が続いていた。

 もう弟はそれらの難儀さを抱えることはない、捨てることができた。やっと安静になれた。お疲れさんでした。

それでも幸せであろう

2014-11-24 00:00:00 | Weblog

 先月末には弟の様子を見ながら1週間3.11の被災地である仙台市若林区荒浜と石巻・女川町に行ってきた。そして被災者の方々と仮設住宅の集会所で「お茶っこ」支援という名の支援で多くの方々に寄り添うてきた。

瓦礫の間に、今は雑草が生い茂る住宅地であった場所からも多くの犠牲者が見つかった。


 
 でも、である。ご遺体が見つからないご家族さんも今もって多数いられる。被災者の人が、何気なく放った言葉に頭をたたかれた。家族の遺体が見つかれば気持ちが落ち着くんですよ。ホッとするんです。見つからない間は心が休まることはありませんでした・・・などと自分たちワーカーに話しかける言葉に、生きる意味を重ねてみた。確かに一昨日弟は亡くなったが、27年に及ぶ透析痕はすさまじい。腕の表面が凸凹になっている。色も変色している。そのようにして弟は生き切ったが顔は穏やかであった。今にも目を覚まして、ニイさんコーヒーを飲ませて・・たばこを吸いに連れてって・・という顔をしていた。そのように考えることができることは自分は幸せであると、そう思った。

 やはりいくらかの試練を乗り越えて自分たち家族も生きる必要がある。

 その行く先には希望の明るい光があるのではないか。
 今日は朝から子供たちの見送りに空港へ二度行ったり戻ったりして子供3人と孫一人を明日からの生活地に舞い戻らすべく車を走らす。

送る

2014-11-23 00:00:00 | Weblog
 東京から長男と孫のM君が飛んできた。札幌からは次男が飛んできた。そして4男は解剖実習を終えた足でやって来た。そしてこちらにいる3男夫婦と母親と妹の家族4人にH子を合わせて13人で送ることにした。そう決めたのは生前のまだ耳が聞こえて会話ができていた弟と母親が願っていたこと。弟の家の近くの葬儀社でやることにした家族葬である。極々弟に最も近い者が集まっての野辺送りである。

 特に3年前から緩い角度で下がってきているのを感じていたが、それでも今年の5月に入院した時からはそのゆるい角度にさらに傾斜が下がっているのを感じていた。耳が聞こえないもどかしさが弟にあったのだろう。覇気が薄らいでいく日々であった。

 でもいい顔して眠っている。いつものように突けば起きてくる顔である。苦痛の過ぎ去った優しく穏やかないい顔である。

 横谷の斎場では最も早く行ったにもかかわらず、他のご遺族数家族の方が早く収骨に向かった。弟が最も遅かったのは、最も若かったからだと職員が教えてくれた。
 妻と話す。

 人工透析歴27年。透析を始める前にもいろんな病気を持ち手術入院を繰り返した。もの心ついて以来人生の大半を病気と暮らした。が、65歳まで身体障害手帳を持って生き切った。
 妻が言う。身体の弱い人に寄り添うことの大切さを教えてくれたケンちゃんである。そしてその寄り添い方を私たち4人の子供にきちんと教えてくれたケンちゃんであった、と。
 収骨しながら4男が今週の解剖実習のおさらいの様に、これは何とか、こちらの骨は何とかと別に聞かれるわけでもなく独り言のようにつぶやいておった。最後の最後まで自らを焼いて自らの甥っ子に教えている。

家に帰る。二度と病院に戻ることはない。

2014-11-22 00:00:00 | Weblog
 先月まではしきりに病院から家に連れて帰ってくれと私に怒鳴り散らしていた。ウソツキ~と叱られた・・。温厚な弟の人格が壊れているかのようであった。11月5日に一時帰宅した朝から夕方まで自分の部屋のベッドで横になったのが最後である。

 こんな弟の顔を見るのは10年振りだろうか。ひきつった顔でもなく、どす黒い中の青白い肌色であった昨日までの弟の顔色がそうでもなくなった。やっと一安心したようだ。もう週3回5時間かけての透析をすることがなくなった。昨日も透析の日であったはずがその前に、介護タクシーではなく葬儀社の寝台車で自宅に連れて帰った。おんぶして連れて帰った前回に比べて今回は担架である。もう二度と病院に帰ることはないのだ。やっと落ち着くことができる。入院が大嫌いな弟である。弟の人生の中で何度入院したのか、何回手術したのか数を数える指を折ったことはないが・・・。


 
 
 おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうじゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平の方までゆくんか

 弟が好きであった山村暮鳥の「空」の詩である。
 これが好きであったと知ったのは弟が大学受験前である。机の上のノートの表紙に鉛筆で走り書きをしていたのを見つけて、あとで聞くと、大好きな詩であると云った。
 そして大阪での学生生活を送る4年間、最後の4回生になった時卒業までに単位が一つ足りなかった。そして休学し1年間入院退院を繰り返し、やがて復学をした。

 どうして腎臓が悪くなったのか、医学的な原因は知らない。ただ、二つ年上の私も大学時代に大阪の弟のアパートを訪ねて行ったことが一度ある。昼間でもうす暗い3畳の部屋であった。机と本箱の横に置いていた段ボールと万年布団。段ボールの中は当時発売された「明星チャルメラ」の即席ラーメンのケース。これが毎日3度の食糧だと笑いながら話してくれた。そうだった、私の家は、私と弟と妹の3人が高校を卒業しそれぞれ進学していたために国家公務員である父親と学校給食の手伝いをしていた母親の収入だけが教育資金であり満足できるものではなかった。でもその中から捻出して送金していたが、空腹を満たす青年時の食生活足り得なかった。やがてすべての調子が悪くなったと思う。
 それでも学生生活を終え、地元の会社に職を得て仕事をし、途中楽しい時期もあった。
例えば、車の好きな弟が買い換えた車は7台を超える。免許を所有しない私や両親、妹も車に乗せてドライブに連れて行ってくれたし、後に福井県武生市に嫁いだ妹の家にも父と母を連れて数回遊びに行っていた。近県にも一泊の小旅行を数回していた。
 例えば二人で好きな女性の話も良くした。弟はなぜかよくモテていたけれど透析仲間の女性とも仲良くなり先方の両親から挨拶を受けていたこともあったが、腎臓が悪いことを考えると結婚を決意するには至らなかった。自分には家族がいないと最近よく嘆いていた。
 また私と妻との結婚する時の話も懐かしい。私のアパートで私の帰りを待つ弟と婚約前の妻とが二人っきりで鉢合わせをしたそうだ。弟からもらったパイオニアのステレオの調子を見るために来ていた。話をする話題もなく黙っている二人であったが、突然弟が妻に言ったそうだ。兄貴の弟ですと。妻は慌ててしまったそうだ。家族には何も話をしていなかったので・・。でも、私の息子たち、東京では長男の結婚式、札幌では次男の結婚式を挙げた時には現地で透析をする病院を探して出かけた。しかし、今年3月の3男の結婚式には、3男から出席して欲しいと願っていたけれど、入院中につき体がきついから、と出席をすることができなかった。かわりに式場から料理膳を病院のベッドまで持ち運び、ニコニコしながら食べたそうだ。結果、看護師さんからお叱りを受けた。患者さんに勝手に食べさせてはならないと・・・。

 趣味は何かといえば、プラモデル収集。ブリキで作った車、ショベルカー、クレーン車などの働く車やラジコンヘリなどかなりの数である。そのためにもう一つの趣味であるアンティーク西洋家具を取り寄せて飾った。次々と西洋家具を購入しコーヒーカップ、備前焼など一客いくらするのか聞くのも聞けないほど集めた。それを眺めるのが外に出ることのできない弟のこころの慰めであった。
 人様から何かをしてもらう有り難さがある。感謝の気持ちを相容れて。反面自分から何かを人様にさせていただく有り難さもある。感謝の気持ちを相容れて。弟は晩年それができない辛さがあったのだろうか。私の孫たちが弟の家に行くたびごとに、透析から帰った弟がニコニコしながら、私の孫たちに、好きなものを好きなだけ持って帰っていいよ・・と声をかけていたことは、もらってくれる幼子がいることが心底うれしかったのだろう。
 今日は通夜である。顔面に白布をかけることはない。好きであったコーヒーやたばこ、いつも私に命令をしていたジャムパンやクリームパンにおはぎをいつものように顔の横に置いた。いつでも食べることができるように。時折涙ぐむ母親も思い出しながら笑っている。そう、すべての弟の苦しみがやっと解放されたのだ。だからいい顔をして眠っているのだろう。
 幼少時から中学生までは、家の前の坂道で買ってもらったグローブを手にキャッチボールをしながら兄ちゃんと呼ばれた。高校生から大学生をすぎ青年時までは、都会で過ごした雰囲気の弟から地方しか知らない私をアニキと呼んだ。それから、新車のハンドルを持ちながら隣に座る私にオマエと呼んでいたが、透析生活が続くといつの間にかニイサンとさん付け呼ばわりされた。会話ができていた夏前まではそれにオをつけてオニイサンと呼んで好きな菓子パンやタバコなど要求されていたが、オニイサンと呼ばれると自分は少し恥ずかしかった。もう弟から目の前で呼ばれることはない。早く家に帰りたかった弟から最後に怒鳴られた、ウソツキ~の声は今の自分の頭に残っている。だから天国から、キサマ~・・と呼んでいるのかもしれない。

行き逝く

2014-11-21 00:00:00 | Weblog
 早朝病院看護室からの連絡あり妹夫婦と一緒に病室へ見舞う。4時過ぎの巡回ではいつもの状態であったものが、5時過ぎの巡回では心臓の鼓動がなかった、と説明を受ける。
 私のたった一人の弟が、今日亡くなった。私の二つ年が下の弟である。仲が良かった弟である。私より先に独りで逝った。