年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

天気は下り坂

2014-10-31 20:36:10 | Weblog
 妻が6月に植えたピーマンの苗やゴーヤ、またミニトマトの内、ピーマンはスーパーで購入するよりも種や肥料代を計算に入れてみると金額的にも労力を除き完全にプラスであった。ゴーヤはトントンか、でもミニトマトはそれほどでもなかった。理由はいたって簡単。植え過ぎ。失敗したのは虫に食われた小松菜であった。などと妻は初めての農作業を総括をしておる。

 そして次のチャレンジ野菜としてえんどう豆や玉ねぎを植える・・と目ろんでおる。だから今日の午後は、天気が下り坂の予報につき歯医者から帰った後、超狭く小さな家庭菜園の古くなったゴーヤやミニトマトを取り除き次の準備をしておった。玉ねぎの苗をすでに買っているがどこに植えるんやろ?

 HさんとSさんと3人でのお茶。じいさん3人のお茶会も結構盛り上がる。喫茶店を出ようとすると今日がハローウィンの日だったことを思いだした。
 玄関前のポーチに蜘蛛の巣が・・・

 この蜘蛛の巣は悪魔が侵入するのを防ぎ、幸運は網目の間からするりとくぐり抜けてやってくるとか。

10万あればと言う

2014-10-30 20:20:16 | Weblog

 今日の刑余者は仮釈放の予定者Aである。刑期が満期にて終了する前に出ることになる。しかし、それまでにAが規律違反などがあれば即刻取り消しになる。せっかく地方更生委員会で決められた満期前の出所を取り消されることになる。年齢は60を過ぎておる。Aにあとどれほどこの世に生き長らえることができるか、と問えば3年くらいだろうと返事が返ってきた。東京で20年会社を持っていたらしい。が自営する気力も夢も持っていないという。だから仕事を探すのに、ひとつだけ持っている自動車運転免許が利用できる配送などの仕事をして、少しお金を貯めた後は、友人から誘われている漁業をやりたいと言った。どうなんだろうか・・やれるんだろうか。Aの生活は10万円あれば生活ができると言い張っているが、自営していた時の生活費は、本人自身豪遊生活だったと云っているので難しいのではないだろうかと・・

再び考える

2014-10-29 00:00:00 | Weblog

 私のいとこにケンちゃんがいる。昔,かっぱえびせんの会社にいた時、四国88ヵ所の歩き遍路をやった。今でこそテレビで取り上げられブームのようになっているが、ブームが始まる初期の頃であった。43日かけてすべて回った後の感想として云ったこと、家人の理解のもとに送り出してくれることは、お金の問題と体力健康の問題と時間の問題がすべてそろってないと廻り切ることは難しいネ・・と話してくれたことを思い出す。心に何らかの思いを抱える一方、遍路が出来るありがたさがあることを教えてくれた。
 
 東北に行く前に、知人の何人かに、石巻に行ってくるよ、仮設住宅を廻ってくる・・と云うと、大方の人が、エライなぁ・エエことするなぁ・・などの賛辞?が多かった。そのほかは、うらやましいなぁ、と言ってくれた人もいた。また、ひとりからはオマエさんは、どこにでもすぐに飛んでいくのは若い時からのクセやなぁ・・などと笑った50年来の友人もいた。
 でも、自分は良いことをするために行ったわけでは決してない。ましてや家人の理解があるとはいえ、経済的なことと私の体力のことなど考え合わせるとうまくかみ合ったわけでもない。
 イヨカン?
 もちろん3.11東北大震災を経験した人への高みからの見学ではありえない。出かけようとの思いになったのはなぜだろうかと自問自答する。この期間マスコミで多くの人がさまざまな情報を伝えてくれた。プロスポーツ選手や有名芸能人のボランティアから市井の方々、全国の町から海外からも現地に駆け付ける姿を見続けた。
 フェージョア
 「問い」がある。なぜに行こうと思い立ったのか。行かねばと考えたのか。自分の周りの人から受けなかった問い、おまえさんはなぜ行くのか?と聞かれることがなかった。
 しかし、今回ボランティアを申し込んだエマオEMMOUから突然に質問があった最初のことは、あなたはなぜここに来ようと思ったのか?であった。で、朦朧とする頭で絞り切ったのは、① 「絆」が流行り言葉になったが、その意味を考えたいこと。② 生き地獄を経験した方々に自分は何ができ得るんだろうか。③ 極限にある喪失感・悲哀の感情を目の前にして何かを学びたい。 そのようなことを書き置いた。
 ヨシッ、一緒に地獄に行こう・・と数多くの人が決意したに違いない。刻む命に切に向き合うことが今も続いている。復興公営住宅がいたるところで建設されている。でも。こころが立ち直るのにどれほどの時間が必要とされるんだろうか、いや立ち直れないのか・・・
 自分が一つだけ学んだお土産は、過去を振り返る涙より希望を語る笑いの方が力強いこと。である。活字や映像からの学びは所詮頭の中の出来事、本当の学びは接触による実体験によるものであろうか。

 本日の「こころ塾」の相談者は継続的に関わっている人。次月パートでの専門職を受けることが決まった。上手くいって良し、うまくいかなくともまた良し。

対象者

2014-10-28 00:00:00 | Weblog

 刑余者支援に戻る。今日の面接者は、人が言うところの「オタク」。しかも鉄道オタク。聞けば撮り鉄ではなく純粋に乗り物に乗ってお弁当を食べたり景色を眺めたりすることが大好きなのだそうだ。  動くものが大好きな刑余者が目指す仕事は、なにか移動する乗り物がある業種、例えばバス、船、飛行機、鉄道などの業種で職種は切符販売でも、運転でも、お掃除でもなんでもよくお客さんがマジカに見える、あるいは接客サービスなどを言ってきた。

 いつものように情報を提供しながら、仕事の選び方やハローワークの利用方法などを説明する。満期釈放者につき、どの道を選ぼうともこちら側の指示はいかようにでも、相手はできるが、再犯の道に進まぬようにアドバイスを送る。関西にある実家には寄り付きたくないらしい。新しい場所で人生を作りたいとも言ってきた。

ワークを終える

2014-10-27 00:00:00 | Weblog

  石巻市大震災被害状況(26年8月現在)
直接死 3,274名、関連死 260名、行方不明 433名、倒壊家屋 53,742棟、港被害 市の管理港34か所、県の管理港16か所、船の喪失85.5%、仮設住宅133か所(世帯数7122戸) 人口16万→15万

聞き覚えのこと
 ※行方不明の家族が出てきて、やっと気持ちが落ち着いた。
 ※行方不明者のいる家族は「お茶っこ」に出てこない。
 ※高齢者支援、過疎支援が問題点となる。
 ※忘れたい気持ちもある。→観光地にしてほしくない。すべて撤去。
 ※何時までも覚えて欲しい。→残骸を保存してほしい。
 ※支援するワーカーの二極化→観光客的、興味的ワーカーOR心に傷を受ける二次受傷者
 ※耳が遠いために放送が聞こえなかったが消防団の人が家の中に入り連出してくれた。
 ※波が来ていることを知らなくて車で高台を目指した。後ろを振り返ると波が迫ってきた。
 ※津波の中に人が流されていた。
 ※荒浜地区では5mの嵩上計画があり埋めるというが、2歳の子供が見つかっていない。
 ※8月に山の方で木の茂みから不明者が見つかった。
 ※波に自宅が流されているのを見ていた。
 ※(食堂経営者)妻が使っていた料理用ヘラが偶然に見つかった、それを使い移動販売車で  焼そばを売っている。
 ※(ワーカーに向かい)あんた達は帰る家がある。また、ここに来るの?もう来ないんでしょう。子供も大人も同じことを言う。別離の不安感が強い。離別の悲哀。
 ※日本製紙石巻工場では人員整理なしで再稼働をした。
 ※人海でやる作業はほぼ終わった。今は重機での作業だが運転手が不足している。
 ※ご遺体の穴の部分はすべてヘドロで詰まっている。
 ※津波は海底の泥を巻き上げて運んでくる。ヘドロの匂いはきつい。
 ※津波は押し寄せる波と引き波の二つがある。
 ※エマオは米国・メソジスト派教会(UMCOR)からの献金6億円で運営をしている。
 ※ワーカーさんは若い人、学生は休みになるとたくさん来る。定年後の中高年も多い。
 ※この前は台湾からも学生さんが来てくれた。
 ※お茶っこに韓国からのワーカーさんも来ていた。
 ※閖上地区の高齢者介護施設では責任者の指図があいまいになり指示に従った方が流され、車いすを押すヘルパーの自己判断された方が助かった。
 ※裁判をしているケースがいくつかある。
 ※東から日本製紙工場の物や住宅からのガスボンベが流れてきて爆発火災になった。関脇中学校の3階が出火、2階に避難していた方がローカを伝って窓から逃げた。日和山公園へ逃げた。これは校長の指示。
 ※被災者という言葉を使うことに抵抗がある。人々や方々と言いたい。                                         

 朝の便で大阪に戻らねばならない。しかし、早めに起きて空港に行こうと考えていたが、4時半に目が覚めて二度寝をしたために7時に起床・・・あわててザックに荷物を放り込んで仙台駅に向かう。でもあいにく濃霧のために電車が遅れているとか。これではお土産を買う時間もないではないか・・・。
 阿部野橋で妻と落ち合う。自宅には7時半に着く。

伊東豊雄設計の

2014-10-26 00:00:00 | Weblog
 仙台市・定禅寺通りに位置する仙台メディアテークは注目を集めている建物だということを、今年5月に夫婦で訪れた3男から聞かされた。

「芸術や映像文化の拠点であると同時に、すべての人が、さまざまなメディアを使いこなし、メディアを通して自由に情報のやりとりができるようお手伝いする公共施設、せんだいメディアテーク・・」説明書きにあるとおり、ちょっと入ってみようか、のちょっとがその面白さに捕まってしまった。結果3時間も館内にいた。もちろん東北大震災のコーナーも一角にある。美術展の数か所ある、本のコーナーもあり、向こうの隅で音楽が演奏されている所では子供たちが集まって何かしらワークをやっているし、その隣ではDVの学習会が開かれているような、その場所の横を人々が歩いている。メディアテークを出ると、アレレ、全国大学女子駅伝が始まっている、しかもあと30分すれば目の前が5区のコースで6区の最終ランナーは数百メートル先の仙台市役者所がゴールだとか。おおぜいの応援する人が手旗を持ち沿道に立ちひっきりなしにパトカーも通る。
 松山も出ておるではないか。
 
 市役所ゴール前のコーナーで待ち構えていると松山大の最終ランナー6区の選手は、先頭の立命館から数えて4人目でゴール。


石巻から女川を走る

2014-10-25 00:00:00 | Weblog

 この地区がこれほどに。
女川では






 東松島を通り過ぎ女川へ。当時テレビの画面でよく見た光景である。しかし瓦礫もほとんど片付いて、建設重機械、ダンプがひっきりなしに大きい音を出して、高台から眺めるとさながら蟻の動きを見ているようである。けたたましく鳴り響く槌音高い光景は、何事もなかったようであるが、とてつもなく人々の心を一瞬にして凍りつかせた時間を経過している。自分が立っているのは、元医療センターの駐車場。この下の方には建物が横倒しになったままである。しかも3月11日のあの時津波がこの高さまで押し寄せて、しかも高台の地域医療センターにも私の背丈より高い波が押し寄せてきたことに言葉が出ない。自然はむごいことをする。そう思った。海岸部をずいぶん下に見通せる高台には、女川中学卒業生が東京で募金活動を行い、たくさんの石碑を作る計画があるとか。碑文には素直な中学生の人を愛おしむ文が千年先に向けて彫られてあった。


もう来ないんでしょう

2014-10-25 00:00:00 | Weblog


 今日のワークは仮設関ノ入団地4号棟のお茶っこから。仮設団地集会所で前もってパンフを配り,何人かに来てもらってお茶やお菓子を食べながらの四方山話の会。今朝は幼稚園園長である宮島星子先生にも来てもらって支援側4人と参加者お二人のお茶っことなる。私の横に座っているのは80を過ぎた方である。そして前の席には山内さんという水産会社で経理をしていた人。80歳の土門さんは愉快な方、耳が少し遠いのは致し方ない。ご主人さんは亡くなられているが、ご主人さんと同じ仕事、船に乗っているという。今日は徳島港に係留しており明後日石巻港に息子が帰ってくる・・などと楽しそうに話してくれる。ところでご主人とはお見合いネ、それとも恋愛ネ?などと聞くと土門さんが言うことに、インヤ、私らはバッタリ婚ダ~などとみんなの笑いを誘う。一方山内さんは、とにかく経理の仕事一切私がやっていた。資金繰りや税金関係など私一人でやっていたから神経を使う仕事だったヨ~などと誇らしく話してくれる。でも従業員さんが100人ほどいた3階からなる水産加工工場もすべて波で流されてしまって跡形もない。従業員は青森や新潟、山形の工場に行った・・と。いい会社、いい社長さんだったヨ~と3年7か月前までの会社を懐かしんで話してくれた。そして別れ際には、土門さんが、今日は楽しかった・・でもアンタもう来ないんでしょ・・と。スタッフさんに聞くと、たくさん来てそしてみんな帰っていくワーカーさんに、大人も子供も同じようにもう会えないんでしょう・・と話しかけるのだそうだ。震災がもたらした人との邂逅について石巻の方々はそのように感じている、と説明をしてくれた。
 次の仮設南境団地集会所は20人ほどの集まりであった。今日は落語会を予定している。



 熊本からボランティアで回っている中村文翔さんの落語。東北大出身で落研の人。結構皆さん笑ってくれたのがうれしい。でも参加者のほとんどが女性、男性はお二人だけ。自治会長さんにお聞きすると閉じこもっている人が多いとか・・。


石巻へ移動する

2014-10-24 00:00:00 | Weblog
 被災者支援センターエマオは仙台と石巻に基地を設けている。それぞれに専従スタッフさんがいられて国内にとどまらず海外ボランティアさんも受け入れている。この夏休みには30人の台湾の学生さん達もやってこられたとか。


 石巻まで仙台から1時間ちょっと。道中はエマオ専従スタッフであり副牧師のSさんと一緒の車。Sさんは大学を米国で4年終えた後北大の院へ進んだとか。研究者の道に自分の適性を見つけることができなくなり、ちょうど北大の寮に入っていた時に進路変更をしたそうな。・・・もしかして汝羊寮?とお聞きすると・・・エッどうして・・・?いや実はうちの息子も数年前までそこに6年間住んでたから・・・、じゃ○○君を通じてわかるだろうね・・直接一緒に大学に行ってない年代だから。などの奇遇な出会いがある。
 

 一戸建ての住宅を購入してここを拠点に石巻地区では活動を繰り広げている。
 で、本日の1件目の支援は、個人の家でのピアノとバイオリンの二重奏コンサートのお手伝い。

 ○○フィルハーモニー交響楽団の第一ヴァイオリニストやピアノの演奏者がこの地区に来て無料で演奏会を開く姿勢に音楽、文化の力を強く感じる。今朝はご近所さん20人ほどが1階の胸の高さの泥水の痕が残る座敷でお茶っこを交えての音楽会。
 コンサートが開かれたOさん宅の庭にももちろん花が咲いている。
  そして干し柿がぶら下がり、全国どこにでも見つけることの出来る何気ない普通の風景がある。

平凡な日常が、視覚的には映るところもある。
 演奏会の途中で抜け出して次に向かう先は、仮設元浦屋敷団地でのお茶っこ支援。
 波に流されたご家族の奥さんとおしゃべりをする。もちろん話に花が咲く。いや、咲かす。震災の前は「お寿司屋」だったとか。日本製紙の方々に利用してもらっていて繁盛をしていたとか、お店のいっさいが無くなったけれど、かろうじて暖簾だけは手に持って逃げたことなどを懐かしさではなく昨日の話のような感覚である。聴く方は、当たり前であるが当時の震災の話をこちらから質問をすることはない。相手の気持ちを考えると高みから聞くことはない。でも奥さんは、気丈にご主人さんの話や3人のお子さん、またお孫さんの話をしてきた。お孫さんの話は祖父祖母に共通する楽しい話になる。なぜか?それはきっとお孫さんの話は未来の話に、希望の話につながるからであろうかと思う。私と同年生まれのご主人さんは、結婚当初自動車整備士であったけれど、事故に遭い以後寿司屋に転身されたなど何気ない話で盛り上がる。「今日は楽しかった」と言ってくれたのを合図にお茶っこ終了とする。

今日もワーク

2014-10-23 00:00:00 | Weblog
 肉体的な泥かきや瓦礫の片づけは、できないと申し出ている。腰が疼くからである。にも関わらず、朝のミーティングでは農作業に出かけるというではないか・・アッチャ~。

 場所は仙台市若林区仙台東部道路の東側。この南北に走る高さ5メートルの道路が津波を遮ったと聞かされた。つまり、この道路の海岸部に面する東側が大きく災害を受けたことは、ほとんどの人がテレビニュースでの映像を覚えている。特に夏の海水浴で賑わっていた近くは荒涼として雑草が生い茂るばかり。震災前には家が立ち並んでいたとスタッフさんからの説明。
 ワークはビニールハウスの横に溝を掘る作業。地震で軒並み地盤沈下しているので先々月の台風などでは水が溜まりなかなか引かなかったそうだ。黙々と土を掘りそして運ぶ。ハウスの持ち主は、家族がいなくなったヨーイチさん、74歳の野菜作りの名人だとか。エマオの一日の基本的なワークは朝の10時から12時までと昼の1時から3時までの作業がワークの基本スタイルである。しかし、作業をしながらでも話が弾むと、急に座り込んでのお茶っこになる。私の好きなパターンである。ハウス内で座り込み、ジュースを飲みながら3年7か月前を語ることもなく農業の先行きの話になる。これがまた素人の私にも面白い。ヨーイチさんは土をじかに舐めて味見をするそうだ。酸性の土はやはり酸っぱく、鶏糞を入れて作った土壌は甘いのだそうだ。このビニールハウスで小松菜、ほうれん草などを作って産直市に出しているそうだ。
 今朝のワークは早かった。仮設住宅の集会所でラジオ体操をやり、そのあと皆さんと一緒にお茶っこをする。難を逃れた高齢の人たちとどこにいてもどのような話でも笑いありの話に花が咲く。
 フト思う。ある日ある時間を境にすべてなくしたあと、家も家族も、連れ合いも子も孫もみんな流されたばかりか、見つかった人、また未だ行方不明の人の多さにとどまらず、今朝私たち4人のワーカーと一緒にラジオ体操をし、イチニ・サンシの掛け声よりもみんなで声を合わせて、ヨイショ・ヨイショの掛け声をかけあいながらの体操をした方々は、見たくもないご遺体をかつての道端や瓦礫の下から、ヘドロに埋もれた中から見た経験を持つ人ばかりであることにすぐ気がつく。自分はそのような人たちと一緒に泣くか、笑うかしかないのだ。涙を一緒に流すのは過去を振り返る時、そして笑い合う時は、これからの未来に向かう希望のこと、いや、今のこの時間を切に生きるとき、この瞬間瞬間を刻むように生きる工夫であろうか。

 今日のワークを終えると東京へ帰るミズキさんを誘い仙台名物牛タンの利休へ。
 航空会社勤務に関わらず夜行バスで帰っていった。一期一会の出会いとお祈りあり。