年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

散会する

2014-03-31 00:00:00 | Weblog
 明日からの新年度に向かってそれぞれ帰って行った。朝1で4男が9時のバスに乗りフエリー、JRと乗り継いで大学近くの新しく引っ越したアパートに着いたのは5時過ぎ、10時半に家を出た長男家族・次男家族の8人が二度と乗りたくないと言いながら予約済みの午後のLCCで成田へ。
   
 埼玉の家に長男家族が着いたのは5時過ぎ。成田で乗り継いだ次男が札幌の家に着いたのは夜の9時ころ。やっと皆が明日からの日常生活に無事戻ることができてこちらもヤレヤレ感。多くの友人が話すのに孫がやってきて、来て良し帰って良し・・などと揶揄して話しているけれど、私も実感あり。でも4人兄弟たちが一同に顔を合わしたのは、何年ぶりだろうか・・私の母親の88のお祝い会の時以来だから4年ぶりになると思う。

結婚式

2014-03-30 00:00:00 | Weblog
 私たち夫婦のそれぞれ子供の結婚式への要望について考えることは、厳粛とか、けじめとか、愉快にとか、普通にとか、立派にとか・・・まったくない。ましてや家のしきたりとか、なども深く考えたことはない。自分たちが30数年前に経験したこととして、親が横やりを入れることだけは慎んでいよう、ということだけ。式の有り様を決めるのは若い二人の事。その決めたことは、今まで私たちが育ててきた結果の評価だと思う。おかしければそれは私たちの子育てがおかしかったことだけ・・・と思いながら本日3男の結婚式が挙げられた。
 
  式を司っていただいたのは、H牧師。今日の牧師はいつもと違って声の張りがある。良い空気が流れていたのではないだろうか、と思う。牧師ご自身の結婚記念日でもあった。結婚式は、披露宴ではない。式が式であることを忘れている現実をたくさん見ることができる昨今ではあるが、目に見えない何かによって式が仕切られることを潔く深く考えたい、と思う。
 
 だから次に披露宴がある。披露宴はお披露目の宴。食べました、おなか一杯食べました。
 今日もっとも自分の口から出たのは、おめでとうの言葉であったかどうか。もしかしておごちそうさんの方が多かったのではないか・・・
 で、評価は、穏やかな家庭的な雰囲気で良かったと思った次第。無事に二人の挙式を終えることができて安心安堵。

孫たちの体験学習

2014-03-29 00:00:00 | Weblog
 札幌の家族4人、埼玉の家族4人と一緒に大三島のF君ちへ。今日の日のためにF君は「清見タンゴール」種のミカンの数本の木を取らずに残しておいてくれた。4人の孫たちにとって木になっているミカンを見るのは初めてのこと。ワイワイ遊びながらミカン取りを楽しむ。4ケースいっぱい取りそれぞれの自宅に送ることにする。レモンも添えて。夏みかんやキンカンはあとでマーマレードなどジャムに加工して送ることにした。

 毎晩お誕生会をやっている。 当日が誕生日ではないが、3月が誕生日であった祖母、4月に誕生日を迎える札幌と埼玉のお嫁さん、次いで5月が誕生日の妻のそれぞれのケーキを3個用意した。毎晩ハッピーバースデイの歌を孫たちが声をそろえて歌い、歌った後にケーキを食べることなる。


 実は、子どもたちの家族が帰松するにあたり、まったく片付いていない、足の踏み場もない自宅に布団を並べるスペースがないことで、ホテルを予約することを勧めていたのは私であったけれど、妻は孫たち従兄弟同士のふれあいの場を提供したかったとか。それで難儀な身体をリハビリを兼ねて2ヶ月もの間片づけ、無事全員泊まることができるようになった。埼玉・札幌の孫たちは幼いので記憶に残ることがないかもしれないけれど、かつて自分たちの幼いころの思い出として多くの従兄弟たちと事あるごとにふれあった楽しい経験があるだけに、自分たちと同じような場を作りたかったとか。
  孫たちは一緒によく遊んだ。楽しかったと思う。

全員集合

2014-03-28 00:00:00 | Weblog
 朝一番にやってきたのは奈良から義母。フェリー乗り場までお迎え。次にやってきたのは、札幌から次男家族の4人。その次は九州から帰宅した4男。これで北海道から九州にいたるまで集まったことになる。今日は良い天気につき皆が集まる前の寸時をお弁当持参でツインドーム公園で孫と遊ぶことにした。

  
 そして孫たちと晩御飯。
 いつのまにか家の中は保育園化してしまった。妻は嬉しそうに裏方仕事に徹する。

にぎやかな夜

2014-03-27 21:17:37 | Weblog
 
 ぐんぐん気温が上がっている。バレエスクールの駐車場に植えているソメイヨシノも一気に蕾から開花し始めた。2分咲きくらいであろうか。昨日は一本の木に開花したのは7輪であったけれど今日はもう数えることができないほど。満開までにあと数日・・・
  長男の家族4人がやってきた。夫婦二人だけの静かな日常が、いっぺんににぎやかになる。にぎやかな声の主は1歳と3か月を経過したM君の泣き声である。力の限り泣き声を上げる、かと思うといつの間にかニコニコ顔になってくる幼児のマジカにみる光景、しばらく忘れておった。明日は次男の家族4人が札幌からやってくる。義母が奈良からやってくる。4男が九州から帰ってくる。さらににぎやかになること間違いない。皆がいることの具体的な幸福を思う。

春の雨が降る

2014-03-26 20:44:56 | Weblog

 3月下旬は新入社員を対象にしたマナー研修の時期になった。テレビのニュースとなって流れてくる。そのたびごとにいつも疑問に思うことがある。中には知人の講師が何やら指導している姿も映ったりする。挨拶のお辞儀のやり方、電話の掛け方や受け方、言葉の使い方、名刺の交換の方法、はたまたネクタイの締め方からスーツの着こなし方などなど、講師が懸命に指導している姿が映っている。ふと思う、新入園児、新入学生に対するオリエンテーションのごとき。講師は地方百貨店での講習と同じやり方で接遇マナーを教えているに過ぎないのではないか、接客販売員としてのマナー、客との対面礼儀を教えているに過ぎないのではないか、と思ったりする。中小企業の社員がみんな百貨店内で遭遇するのと同じようなお辞儀をされたのでは、なんだかお尻の方がムズムズしてくるようだ。
  そのような慇懃無礼なマナーや、友人でもないのにやたらニコニコして相手の目を見て・・ではなくて、もっと若者らしいすがすがしい挨拶を教えてもらえないだろうか、と・・・やたら丁寧語、尊敬語、謙譲語の羅列ではなくて、身体の折り曲げ方ではなくて品位ある立ち居ふるまいの一端だけでも伝えてほしいと思う。一人一人の個性に合わせた、その人の人間性が浮かび上がるような、凛とした振る舞いを社会人としてスタートする入り口に立ちはだかってチェックしてもらいたいと思うが・・・マナー研修なぞイベントに過ぎない・・といつもこのような研修を見るたびにげんなりする。

 今日面接した刑余者もちょうどそのような研修を受けている人たちと同年代のひと。入室する時にドアをノックすることはない。職員に促されてやっとドアの横に立ち、職員の指示で頭を下げ、職員の指示により一歩二歩と歩き、私が椅子にどうぞ、と促してやっと着席となる。
マナーなどあったものではない。付け焼刃のようなマナーなぞすぐに荒波の中で剥がされてしまうだろうけれど、もう一度市民生活に戻っても剥がされないようなマナーを教えることができないだろうか、と。少し無礼であっても、もう少し話をしたいと思えるような仕種、もう一度会ってみたいと思えるような仕種を持つことができないだろうか・・
 強い雨の中、弟を連れて耳鼻科へ。まだ耳が普通に治らない。妻は明日からみんなが集まっても座ることができるよう、みんなが布団に入って横になることができるようにゆっくりしたペースで家の片づけをしている。

買い出し

2014-03-25 21:49:09 | Weblog
24歳の青年が連行されて面接室にやってきた。入ると同時に耳が痛くなるほどの大きな声で称呼番号と氏名を名乗った。元気な人である。Ⅱ刑での執行猶予中にまた事件を起こしⅠ刑で裁判所から判決が下る。そして拘禁中の身となった。遠い他県でお寿司屋さんで働いていた期間が4年あるという。他アルバイトを少しやっただけ。さてどうしようか・・・と。青年の目標を聞く。中学生の時までしか経験のなかった家庭の味を仕事をして将来自分で作りたいのだという、そのために支援をしてほしいと・・そして就職するに当たり自己開示して、つまり罪名刑名をすべて伝えたうえで採ってくれるところに行きたいと述べた。私の目標は、その青年の採用通知をどこからか得られるまで道案内することである。

 あさってから我が家には足の踏み場もないくらいの人数が集まる予定。子供や孫など、ピーク時のご飯は14人分となる。よって食材を確保しなければならない。早めにと思い、妻と二人でスーパーを3軒回って野菜・肉関係を調達。後の魚関係は鮮度から当日調達することにした。多人数につき、メニューを考えるも妻は手っ取り早いものを作りたいとか。結局スーパーの大きめの袋を車に詰め込むこと9つ。

 高校野球、妻の母校が負けた。県内では強くても全国に一歩出ると脆い。どうしてだろう。県内で通用しても全国では通用しない事実はいかばかりか。

小野省子さんの詩

2014-03-24 20:24:10 | Weblog


『愛し続けていること』 詩/小野省子

いつかあなたも
母親にいえないことを
考えたり、したりするでしょう

その時は思い出してください
あなたの母親も
子供にはいえないことを
ずいぶんしました

作ったばかりの離乳食をひっくり返されて
何も分からないあなたの細い腕を
思わず叩いたこともありました
あなたは驚いた目で私を見つめ
小さな手を不安そうにもぞもぞさせていました

夜中、泣き止まないあなたを
布団の上にほったらかして
ため息をつきながらながめていたこともありました
あなたは温もりを求め
いつまでも涙を流していました

わたしは母親として
自分を恥ずかしいと思いました
だけど苦しみにつぶされることはなかった
それは小さなあなたが
私を愛し続けてくれたからです

だから もしいつか 
あなたが母親にいえないことを
考えたり、したりして
つらい思いをすることがあったら
思い出してください

あなたに愛され続けて救われた私が
いつまでもあなたを
愛し続けていることを


 気温がぐんぐん上がった昼中。少し汗が滲んだ。陽が降り注ぎ 空は真っ青。頭の中はすっからかん。ただただ汗が出る。な~んも考えずに鉢植えの花の移植、株分け作業。今年に入って下半身のしびれが治まってくれない。手の関節が固まっている。それに抗するように動かしてみる。仕事オフの日は、雑事オンの日となる。午後の松リハ、2階のリハ室では母親がPTさんの指導の下92歳の身体を動かしておった。

どうやってどのように

2014-03-23 21:01:43 | Weblog
 青年期には、いかにどう生きるべきか・・などと友人と授業のない時間、たわいない議論していたことが多かったと記憶している。周りがそのような時代だったんだろう。それでは振り返ってみて、友人たちと昔しゃべったように私も友人も以後今までそのように実行してきたか、と問われると、それは全くないと答えるかもしれない。それよりどのように・・と自ら問題を掲げていたのかさえ忘れておる。右往左往しながらあがらうこともなく流されるままに「今」にしがみつき、現在に至っているように思うからだ。
 現職を終え仕事が暇になると自然の中にドップリ浸かって余生を送りたい・・などと当時考えたかもしれない。しかし自分の場合それはない。自分はないが、石鎚山系にドップリ浸かっている素人写真家がいる。その写真展に同じように退職即自然に入り世を捨てる系のHさんから誘われた。同行に建設会社を息子さんに引き継いで毎日の仕事が愛犬の散歩のみという、ご近所のFさん。Fさんも70才になるも全国の山に時間の余裕に任せて登っている。
    四季を通して山に上がり、ファインダーをのぞき、一瞬を切り取る作業には再度がない。無常。同じ表情を自然は映してはくれない。だから毎分毎秒、刻一刻と変わる自然に立ち向かうには、大量のエネルギーが必要になる。油彩にも似た写真や水墨画にも似た写真を見ながらそのように感じた。そして、シャッターチャンスを待つ時間、どれほどの寒さを堪えていたのだろうと、いかほどの風に吹かれていたのだろうと思いを寄せる。
 
 写真家は久万高原町在住の事業家でもある秋本さん。力みなぎる作品であった。余生をどのように過ごすか・・と考えると、秋本さんは自然の中にドップリ入り込んだ生活を送っている方だと思った次第。

 久万高原教会の日曜礼拝に妻と二人で出席する。来週の日曜日にはH牧師のもと3男とA子さんの結婚式があるために、式の前の挨拶をしたいためでもあった。

近頃面白いもの

2014-03-22 23:07:08 | Weblog
 
 昨日今日の大相撲大阪場所の結びの二番は面白くて観る方もついつい力が入った。日頃ほとんど相撲のテレビなどは見ないが、ちょうど6時前は夕ご飯を作っている妻がいつも台所のラジオを聞きながら料理をしている。遠藤を応援しているらしく今日も負けた・・と残念そうに言う。面白いからテレビを見ろという。結びの前の横綱の2番には昨日といい今日といい鶴竜の上がる土俵には館内に座布団が飛ぶほどであった。昨年の秋の県武道館での大相撲巡業には3男夫婦から招かれて桟敷ならぬ2階席から見物した。それぞれ力士を真近に見させてもらった分記憶に新しく思い入れがある。今日の鶴竜の土俵も横綱に真っ向から立ち向かう姿に真剣勝負の面白さがあった。勝ってもニコニコともしない。感情を押し殺している姿は、「武士道」:新渡戸稲造の世界から出てくるようだ。饒舌な力士はいない。寡黙な力士にほれぼれする、と言ったのは、脚本家であり、かつて日本相撲協会横綱審議員でもあった内館牧子さん。その内館さんが大好きだったのは水戸泉関。心の夫であると位置づけていたほど。その水戸泉関を見かけたことがあった。鳥取駅のプラットホームを一緒に階段を下りたことがあった。話しかけたことはないが、大きな体でゆったり雪駄で歩く姿とびんつけ油の匂いを思い出す。地方巡業に来ている時であった。
 
 もう一つ、IKEDA。いけこう、三好市池田町の池田高校が久しぶりに甲子園で逆転勝ちしたこと。これも面白かった。ほとんど負けていたゲームをひっくり返した。相撲に負けて勝負に勝った・・とでも言えようか。池高は池田の町の小高い丘にある。校内には春夏に優勝した当時の選手などが書かれた碑があった。丘の下に当時の名物監督、蔦文也監督の家があった。現職時代に私は、監督の家の真ん前にある監督の身内になる蔦税理士にお会いするために毎年訪問していた。色紙がある。わしはこの子らに大海を見せてやりたいんじゃ、と書かれてあった。山の中の狭く小さな町の高校生に大海原を見せる、経験させる、と。やっぱり蔦先生は、教育者であったと思う。細かなあざとい野球ではなかった、イケイケの野球が見るものを熱中させた。校歌に「ひかり ひかり ひかりを呼ばん・・・平和 平和 平和の空に」とある。
 ミモザも盛りに
 池田の町にかつてあったJTタバコ工場が閉鎖されて数十年たつ。当時は活気があった駅前の商店街も人通り少なくなった。多くの全国の町に見られるように今は活気を取り戻すために頑張っている、と聞く。