年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

暮れる

2015-12-31 00:00:00 | Weblog

 今年も終わった。通常終わることは次の新しいことがやって来ることと同じ意味があるんだろう。では次の新しい何かを待ち望む器量をどれほど持ち得るか・・と思うと、年々否定的な考え方が肯定的な考え方を凌駕しているようにも思う。こんなに考えるといけないョ・・とささやきも聞こえてくるが声は小さい。どうやって生きていけばいいんだろう。

 冬いちごを山辺の小道に見つけた。


 4男が家に居てのんびりしているのかと思いきやPCを一日中開いて難しそうな勉強をしている。母はタブレットを開いて何やら調べておる。おせち料理のことか?コタツに横になり二人に話しかけようにも、邪魔をされたくなさそうで・・すると、今頃何をやってるのか、札幌の家族は?とビデオ通話をすることに。札幌の孫たちは家の裏にある公園に降り積もった雪の上でそりをして遊んでいる・・元気な笑顔が映る。爺婆もタブレットに向かいお話を。考えもつかなかったlineで今を追いかける。

 妻は朝から一日中台所に立ちお節を次々と作っておる。事故入院をしていたことを考えると驚異的な回復だと思う。
 独り住まいの母親のところで年越しそばを二人で食べる。我が家で食べようと誘いに行ったものの腰が痛いから
じっとしているとのこと。で、夕方から遅くまで母親の話を聴きながらソバを頂く。紅白歌合戦もTVから流れてくるが耳が聞こえない母親は無声映画を見るかのようで興味がなさそう。そしていつもの寂しいネの愚痴を聞くことになる。そして私のスマホにもショートメールが入る。ウツ病で今年1年難儀をしているお二人からである。一行だけ、孤独な大晦日です、今年はお世話になりました。と、もう一人は冷たい雨が降る年末は寂しいです。と書かれたあった。ともあれ新しい年は好むと好まざるとにかかわらずやって来る。どのような心持で迎えることがいいんだろう。

つごもる

2015-12-30 00:00:00 | Weblog
 昨夜は、イヤ日付が変わった時間帯に3男がやって来た(そうだ)。しばらく後に4男が帰ってきた(そうだ)。

 昼前に布団を抜け出て、用意していた朝ご飯も冷えてしまい温め直してから食べている子供の声は疲れ気味の声。話を聴くと3男は小学生の時のソフトボールチームの仲間に20年ぶりに会ったとか、昔と変わっていないので会った途端小学生時代に戻ったよ・・などと楽しそうに話しておる。で、誰それ君のお父さんが数年前に亡くなったとか、誰それ君はまだ独身みたいとか、誰それ君は子供が3人もいてるとか説明をしてくれる。当時私は広島に単身赴任中であったけれど試合のあるたびに戻って応援をしてスコアブックを書き記すのが楽しかった。3男の場合ソフトボール部を終えた公式戦の通算打率が6割を超えるほどであったことを覚えている。特に高知・春野での最後の四国大会決勝戦で香川県代表の試合、0-4で負けていた最終回、満塁でバッターボックスに立った4男がレフトオーバーの走者一掃の3塁打で1点差まで詰め寄ったが、次の4番バッターがアウトになり優勝することができなかった。その後の3男のスポーツはこの試合を最後にサッカーに転じて行った。
 初めてその当時の仲間4人が居酒屋に集まったらしい。

 朝から家を出掛けた4男は、1年ぶりに帰省して浪人中の仲間や高校の同級生に会って盛り上がってるんだろうと思いきや、そのようなことではなく、やらなければならない病理学の勉強をしてきたとか、逆に、留年すると余計に学費がかかるやろう、それに国費を使って医学の勉強をさせてもらっているので遊ぶわけにはいかない・・・などと全く両親から受け継いだDNAとは相違しているような人格で話しかけてくる。
 お正月の準備をしている。お隣さんのしめ飾りは手作り。おばぁちゃんが藁で縁起物のえびの姿で綯いナンテンや橙など庭にあるものを利用して作っていた。

 とりあえず年がつごもる。墓掃除をしたいと妻と二人で車を1時間ばかし走らすことに。墓地がある小山から瀬戸内海を眺める。今日は風一つない穏やかな日和である。つい何年か前までには、昨年亡くなった弟と一緒に年末の墓掃除に来ていたことを思い出した。月日はめぐる、めぐりながら自分たちは変わる。「わたし」と「わたし」の周囲が時間が止まることなく変わっていく。変わっていくがこの海の景色は、島影は60年過ぎた今も変わらないでいる。「わたし」の原点となっている情緒的な景観である。

帰省する

2015-12-29 00:00:00 | Weblog

 穏やかな年末である。ものぐさな自分には珍しく私に与えられた年末の仕事の窓ふきや溝掃除など先週から少しずつやっていた甲斐もあり、計画表のメモも終了の横線を引いた箇所が増えた。しかし風呂掃除とか墓掃除などは手つかずである。

 朝の空気を破るように百舌鳥の集団がやってきてピーピー喋っておる。何が楽しいのか、何が不満なのかは、山鳥の言葉を理解しえない自分にはわからない。しかし何かしら集まって相談しているようには映る。

 夜に帰る、とメールがあった4男が朝早く6時頃帰ってきた。何でも福岡から九州地区の同郷の友人6人が集合してレンタカーで山陽道・しまなみ海道を走ってきたのだそうだ。4男の母親も、アレレと云いながら私と妻の二人分の朝ごはんを三等分しておった。
 1年ぶりに帰省する4男に手伝ってもらい残りの掃除をやろうと考えているものの、コタツに入ってノートPCを開くと

 さっそく糖尿病に関する細胞を説明してくれるが、こちらはさっぱり理解できない。理解できる範囲は、医学を勉強中の4男が今のところ落第することもなく試験も低い点だろうがクリアーしていることだけ。
 そしてひと眠りをコタツの中でやっている。昼頃起きると今度は高校時の友人に会うために街に出かけて行った。晩ごはんはどうすんの?と母が訪ねると、4男は、食べない、たぶん朝帰りになる予定、と急ぎ足で出かけた。

世界で一番貧しい大統領のスピーチ

2015-12-28 17:57:51 | Weblog

リオデジャネイロで開かれた国際会議でのウルグアイ大統領のスピーチ

(全文コピー)

ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダノ(西: José Alberto Mujica Cordano, 1935年5月20日 - )はウルグアイの政治家。2009年11月ウルグアイ大統領選挙に当選し、2010年3月1日より同国大統領。第40代大統領。

出典yurukuyaru.com

ホセ・ムヒカ

世界で一番貧しい大統領 120万円ほどの大統領の月収から9割以上を寄付し、10万円ほどで生活する。

「会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?」

「質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。」

「私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。」

「消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。
このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。
石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。」

「昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。」

「根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。」

「私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。」

 この絵本は、大人が読む絵本。  

忙しいサンタさんが4日遅れてやってきた。拙宅にお越しいただいた H牧師からのプレゼント。


猿に会う

2015-12-27 00:00:00 | Weblog
 自宅から久万に上がる時国道33号線を砥部町から上がるより久谷の急坂を上がる方が最短距離になる。行きかう車はもちろん少なく、知っている人がよく使うルートになるんだろう。道幅も狭く急坂をすれ違うともなれば下る車もスピードを落としてすれ違うこととなる。

 今日の午後上がっていると静寂な山道をお猿さんが私の車の前を遠慮することなく横切っていた。

 久万高原教会の日曜礼拝の出席者はいつも10人前後である。いつだったか“ベテルの家”を訪ねて北海道の日高地方の浦河町に行った際、久しぶりにお会いした浦河教会のT牧師が、何時も10人ほどで礼拝を守っているなどと話されていたが、大きな教会に比べるべくもない同じ様な人数である。この少ない人数で毎週の礼拝を守り通しているH牧師は元教師。20歳代の若い時には兵庫県で教えていたとか。今日の午後、一年に一回出席される人で、元生徒さんのお一人であったTさんが来られた。ご主人さんは西宮にある大学の教授である。T教授ご夫婦を交えて私たち夫婦と牧師夫婦にIさんの7人で礼拝終了後の談話の時間を持つ。

 Iさんが引きこもりの時“祈る”時間を持つことにより自分を見つけることができた・・などの話題が出ると、Tさんが、私の娘が大学時代からウツにより一歩も自宅を出ることができなかったけれど、このたびやっと家を出て働きたいなどといい、面接に行きアルバイトではあるが採用されたと、笑顔でお話をしていられたのが印象深かった。
 Tさんがご結婚された時、Tさんの父親代理として式に出席された昔の思い出話からご主人さんの話す今の大学生の姿に至るまで話が盛り上がる。

風邪

2015-12-26 00:00:00 | Weblog
 もう一月も咳が止まらない。もちろん医師に相談をし、聴診器を背中にあてたり胸にあてたりしてして診てもらったことはある。そして咳止めの薬を出してもらう。でも止まらない。

 今朝6時過ぎの西の空にはお月さんが煌々と輝いておる。

 1週間前には欅もまだ葉っぱを残していたが今日は同じ欅も葉っぱが少なくなっている。

 身体の調子が悪くとも朝早く目が覚める習慣は変わらない。

 窓の外が真っ暗な5時前の少しのまどろむ瞬間NHKラジオ深夜便をつける。今日の誕生日の花はナンテン、花言葉にナンテン「 福をなす よき家庭 」と聞こえた。

 近頃私の周りはお喜び方面の話が耳に入ってくる。一人はご近所のHさん。長男さんがご結婚のために先方のご両親と初対面のお食事会をしたのがこの前の休日。二人目は従兄弟の長男さんが6歳年上の女性を先日行った佐世保で紹介されたとか、近々入籍をする予定とか、式を挙げるつもりはないと本人たちが考えてるなどの悩みがあったり、そして今日はキャリコン仲間の娘さんである25歳のお嬢さんをたまたま知り合いの男性に紹介したところ順調にゴールに向かって進んでいると電話報告を受けたりと・・

散歩を再開する

2015-12-25 00:00:00 | Weblog

 今年の4月10日に猛烈な腰の痛みに襲われた。その日は大阪から私を訪ねてこられた人と一緒にご飯を食べカラオケを歌い気分よく過ごしていた。10年以上刑務所に入っていた人である。刑余者の就労支援担当者として、60歳もとっくに過ぎた彼をどのようにすれば住居とご飯が食べることができるだろうかと考えた。「わたし」は追い込まれた。どうすれば出口が見つかるだろうかと。過去に犯した大きい罪をもつ彼に対してどのように寄り添うことが人としていいのだろうかと・・。唯一救われたことは「わたし」より年齢が上の彼が明るく「わたし」に対して振舞ってくれることであった。

 結果、何とかいろんな人の協力を頂いて大阪の協力雇用事業主さんにお世話になり住む所と食べるための「しごと」にたどり着くことができた。たどり着いた後も彼は、以前と同じく明るい表情でよく冗談を言っていた。南国生まれがそうさせるのだろうか。4年も前のことである。
 4月10日は飲み過ぎたのだろう。かかりつけの医者からは暴飲暴食禁止と宣告されて20年以上の時間が経つ。でも、彼の表情を見ると「わたし」の方がうれしくなり飲めないお酒をたくさんいただき、スナックでは彼と競うように昔の歌をうたった。そしてついに腰が・・・。
 夜半這う這うの体で家にたどり着き、妻に担がれるようにして横になりマッサージしてもらったまでは良かった。けどそれから立っても横になっても激しい痛みが続いた。夜も眠れないまま整形外科に行くと先生から脊柱管狭窄症だと説明を受けた。その時の先生の表情は、なぜか「わたし」に勝利宣言をしているかのようであった。「わたし」に敗北感を受容させるかのようであった。痛み止めのロキソニンを出してもらい、電気治療などの日々を送った。少し下半身の痛みが薄れたのが夏頃、並行して痛みの代わりにしびれ感が増してきた。今も変わらない。

 そして、ほとんどの私の友人知人ご近所さんが「わたし」に忠告してくれる。痛くともそれに抗って身体を動かしなさい、散歩をすればよい・・と。でも4~50m歩くごとに腰と足を伸ばしてしびれを取るようにしながらではあるが、先日から妻を伴い散歩を再開している。妻が2本の杖を持ち歩き、私も山歩きようのmonbellトレッキング杖の2本を持って40~60分歩いておる。私の方が置いてきぼりを食うほどに歩くスピードは遅い、途中道路に横になりたい衝動に駆られることがしばしばある。「わたし」を嵐の中に放り込み一瞬の痛みを忘れさせるようにして自然の息吹に自分を向わせることになる。

濃霧が

2015-12-24 00:00:00 | Weblog

 昨日の雨が地面を覆い、雨が上がると急に気温が上がった。すると朝から霧が立ち込めた。

 視界が10~20mだろうか。車もライトをつけて走っているが、仕事場に向かう道路にも極端に車が少ない。

 今年最後の相談業務を終えると、ハローワークへ年末のご挨拶。来年の刑余者支援をお願いすることになる。でも、なぜか担当の担当員さんから怒鳴られた。どうしたんだろう、一般求職者が多いので・・と理由をつけているが、できないことの理由付けが激しい。担当員さんの仕事ぶりは単なるやっつけ仕事のようだ。流れ込む一瞬の人たちを処理するだけの様に、話を聴きながら思ったワケで。担当員さんにこの仕事の本質は何かを、ぜひとも聞きたいと・・・。
 次は「こころ塾」へ年末のご挨拶。珍しくのんびり顔の塾長と雑談す。内容は家族のこと、姑とご自身の親を同時に看ている塾長の愉快な対応策をおもしろく聞く。

 先の見えない中での動き方、何を灯りとするか、灯りを持っているか、強い光かなど、相手からわかるように理解できるように濃霧の中でも事故らないように。
 おっとっとっと・・今日は24日のクリスマスイブだった。

来客あり

2015-12-23 00:00:00 | Weblog
 10年前に厚労省と経産省の横断的な予算で全国の中で数県に創設されたのがジョブカフェである。当地は全国数カ所の内の一つである。若年者の就労支援を行うためである。この地は若年者の離職率が全国の中でも高い特徴を持っている。(今も資料によると変わりばえがしないようだが。)
 当県では一度「ジョブカフェ」の名前に代えて南予の高校生が名付け親となった「愛ワーク」のみの呼称としていたが、本省からクレームがあり現在のような「ジョブカフェ愛ワーク」と呼ばれるようになった。設立当時に縁を頂いて私も相談ブースを頂いた。若年者にターゲットを絞ったジツハ初めての大がかりな「ハタラク」相談コーナーであることで各方面から期待されていた。今も同じであるが。

 当時のこと、大手企業の工場が県南にありそこが閉鎖され、若い人が職を失った。そこから2時間以上かけて1週間に1度私のところに就職相談に来ていた若い人がいた。Kさんという。働かない父親、糖尿病で入退院を繰り返す母親、うつ病で休職しがちな弟、アルバイトで生計を立てる兄がいる家族の中で心根の優しいKさんは必死に南予の地で何を仕事とするのか・・家族の面倒をどのように見ようかなどと苦労をしていた。その後、ある会社で非正規社員としての就労を数年間していたが、ある時正社員になる条件を付けられて会社側から転勤を言われた。K青年は、親を見捨てるようにして転勤に従うか、どうかと悩んだ。でもよくよく相談回数を増やすと、本当のところは都会に出ることの不安が最も大きいことが分かった。K青年はPCのハード、ソフトが詳しい。それは前社での実務経験が豊富であったからである。非正規社員として就労していても会社側からは正規社員よりも能力面で高い質の仕事を要求されていた県外出張も多かった。つまり彼なしではPC関係の仕事については回らない情況になった。会社のトップが突き付けた条件は、マンション家賃はすべて会社が持つこと、給料は2倍に引き上げることなどで遠い県南から引っ越してきて欲しいことであったが家族思いの彼は悩んだ。当時は、夜遅くまで相談時間が伸びると家に帰る時間も遅くなり再三私の家に泊まるなどしての相談であった。それは相談者と一線を引くことができなかった私の性格であっただろうか。しかし、

 10年という時間は志を高く持つことで人を確実に変えた。
 自宅を手に入れた。妻を娶った。子供ができた。つまり苦悩の淵から脱出して家族を作るための準備期間が10年必要であったことになる。新たに私に今日相談を持ちかけてきたことの一つに東京本社の転勤のことであった。
 最後の忘年会は医療生協の食事会・猪鍋会である。

 前回は男料理としてソバ打ち会であったが私は不覚にも欠席せざるを得なかった。しかし今回はぜひとも猪を食べようと。

今日の出席者25人分を並べ
 
アレレ春菊を早く入れ過ぎたネ~などと言い合いながら
 
結構猪も柔らくてうまいナァ・・・。

餅をつく

2015-12-22 00:00:00 | Weblog
 今日の相談業務を終えて塀の外に出る。そして駐車場に置いてある車に乗り込みスマホを開くと妻からのメールが入っていた。スマホなどは規則により塀の内側には持って入ることができない。よって何か用事ごとや緊急の連絡がある時には、直接私に連絡を入れることができないのだ。メールには、帰るときに、もちとり粉を買ってきて!とあった。そして自宅に帰る途中にあるスーパーに行って食料品の棚にある粉を探す。なかなか見つからないので店員さんに聞くことにした。すると店員さんは、もち粉を持ってきてくれた。ウヌ・・お餅をつくときにこれでいいですか?と聞く。すると店員さんは困った顔をした。もちとり粉ともち粉の違いについて私にはわからない。だから尋ねるも、店員さんにもわからないらしい。店員さんは私の家は小さい時からお餅をついたことがない、お餅はいつも買っていた・・、との返事が返ってきた。

 私がもの覚える時期から実家でも年末にいつも父は、杵と臼でペッタンペッタンついていた。私も杵を振り下ろす力が付くようになると、つまり中学生のころからは私と父が杵を、母が臼の横に立って取り、弟妹が丸める作業をワイワイ言いながらやっていた思い出がある。
 さらに昔、その父の実家では、朝の3時起きで家族総出で早朝から夕方までの一日をかけた年末行事であったらしい。男衆が数十もの餅をつく、合の手を打ちながら臼で手で取る。そしてつきあがったお餅を丸めるのは女の人・・というように役割分担があった。私も小さなとき、父親に連れられて何度か朝早く行ってお手伝いをしたことがある。小さな私にも役割を与えられたのは、もちとり粉を台の上にパラパラとふりまく係である。手はもちろんのこと着ている衣服が真っ白になった。もう一つ与えられた仕事は大きな釜から蒸気が力強く上がるように薪を竈(かまど)であるおくどさんに入れることであった。( 書きながら・・・おくど・竈などは消えた言葉になってると実感するが )今はいないがバァちゃんと何やら話しながらかまどの前に座り込み、おき火になったところでスルメを焼き香ばしい匂いが辺り一面に広がっていた。
 で本日、家で奥さんと二人で、昔から使っている「もちっこ」で餅つきをしようと。

 先日購入したもち米10kgを蒸してお餅を作ること、開始時間2時半でも終了したのは夜10時・・マイッタよ。不揃いのお餅は私が不器用に。

 午前中の連行されてきた刑余者は30歳の青年。成育環境を見る。父は有名大学の教授、母は元高校教員、妹は米国の大学留学中、その下の妹はフランスで結婚生活している。本人はラグビーで強豪校に入学するもレギュラーにもなれず、勉強の方も芳しくなく、両親から常に否定されながら生きている・・と記入されている。ぐれた時期もある。それでもがんばってある国家資格を取得し仕事をしていたが、職種を変えることはなかったが会社は1~2年で変わっていった。更に両親から馬鹿者扱いが続いた。自分の本当の気持ちを分かってもらったことはないという。今日私の前で吐き捨てるように話したことは、父とは思はないが、一度でも、私にすまなかった、と頭を下げてくれたら、と云った。アルコール依存、や薬物依存による犯罪かもしれない。多くの市民は、その青年に甘ったれんじゃない!などとカツを入れるんだろう。きっと。でも、家族の中で通常の「優秀」な家族の中にあって一人だけ否定され続け陰に居場所を見つけざるを得なかった人が、どのような叫び声を上げているのかの聴き分ける耳を持つことができなかった群の中にいることの不幸を想像せざるを得ない。本人が私に語ってくれることの一つに、自分は発達障害です・・と。そして父から刑務所に送ってくる荷物は毎回発達障害の本だけですとも。この家族は一人息子にどう対応しようとしているのだろうか・・。本人は私に満期を迎えるまでは帰住先を自宅にしています。引受人が母親になってますから・・と。そして以後は家を出ます、と。両親に対して逮捕され刑務所に収容されるまでは恨んでましたが、5年間の囚役生活で恨みの感情が無くなり感謝する気持ちになりました、とも。そして世間一般の人が言われるような、両親の様に立派な人間にはなれませんが、親とは離れたところで感謝しながらも、たぶん連絡取ることもなく親に頼ることもなく多くの人の助けを借りながら生活をしたいと考えています・・と明るい顔をして話してくれた。気がつくと予定の50分を過ぎていた。