年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

11月の終わりに

2009-11-30 21:01:52 | Weblog
 たしか、私の小学3年生の時であった。担任に足立先生がいて、先生は、同じ教員をしていた私の叔母と友達であったことで、余計に私に目をかけられていたように思う。なにせ、家庭内での私の行状をよく知っており、いつもからかうように話し掛けられていた。その足立先生から教えてもらったことで、今でも役に立つことがアル。
 教室が瀬戸内海が広がる西に面して窓ガラスがあり、授業中はいつもぼんやりと海を眺めていたことが多かった。先生は、月によって31日以外の月があり、それは、西向く侍だと教えてくれた。ちょうど黒板の方向を見ず、西の海方向を見てぼんやりしていた時、足立先生は私に問われた。ニシムクサムライの意味を言ってみろ、ということで、私はとっさにお侍さんが海を見ていることです・・と答えて、クラス全員から笑われたことを今でも思い出す。50年を過ぎた今も、11月はサムライ月だから、今日の30日で終わりだと確認しておる次第。
 今月も有効求人倍率が低い。事務系などは0.2以下である。その事務系の求人をめがけて、応募をしたいという50才を超える求職者3人が、相談に来られた。話をお聞きしていると、ほかに能力がなく、ジムクライシカ出来ない・・・などと話されたので、私は何も話すことが出来なくなった。意気消沈する。求職者にとって、仕事の意味はどうなんだろうかとお聞きしたかったけれど、止めた。明日から師走に入る。今年は矢のように時間が飛び去ってゆく。

睦月島へ

2009-11-29 21:41:25 | Weblog
 忽那七島の島巡りをしている。本日は睦月島の高松山・218mへ登山。今日のお相手していただいた方は、吾が山岳会のIさんである。近頃Iさんとじっくりとお話をする機会がなかったので、是非に一緒に行って頂きたかった。先日からIさんの今日の予定を伺っていたところ、私が気にかけていたIさんの仏事関係も本日は、何もなく今日はOKだという。Iさんと9時過ぎの中島汽船東回りフェリーに乗船して、中島本島と野忽那島の間にある睦月を目指した。11時前にフェリーを降りて、目の前にあるこの島で最も高い山を目指す。名前も道順もわからないのは、いつものことである。早速島の人に尋ねると、指を指しながら、高松と呼ぶ山の行き方を教えてくれた。この島は8の字を書くように軽トラが走りやすい4メーターのコンクリート道が走っていてみかん農家が多いことを示している。教えられた通りに港から真っ直ぐパラボナアンテナが見える才の上峠を目指して歩く。15分で到着して、そこからみかん運搬のためのモノレール索道に沿って急坂を登ることになった。途中山道があるものの竹が生い茂り歩ける状態ではない。失礼ながら急な段々畑のみかん園を注意しながら歩かせていただいた。時折振り返りごご島方面、釣島方面へと目を走らせると一幅の絵のようだ。きれい・の一言。Iさんも思わずキレイですね~などとカメラを取り出してシャッターを押していた。どの島であろうと、島に住む人は小島の山には昔よく登られていただろうけれど、今では誰も登ってはいないだろうと思われる。港近くで訊ねた老婦人は、山頂にあったお大師さんを下に移したので最近は、山頂に行くことはない・・・などと話していた。道なき所を二人で歩く。休憩のために座り込んでいるとメジロやウグイスの鳴き声も聞こえてくる。小鳥の鳴き声に詳しいIさんが、ジャッジャジャと鳴くのがウグイスでチーピーと鳴いているのがメジロです、などと解説してくれた。突然、みかんをくわえたカラスが飛んでいるのを見つけた。この島のカラスはみかんを食べるのだ。索道の終点がみかん園のもっとも高いところである。そこから先は、潅木をぬって歩くとすぐそこが頂上であった。頂上にはテレビアンテナが立っており、シダが胸元まで茂っていたので、少し空間のある場所で、昼食を取ることにした。出発が11時、到着が12時10分であった。睦月島は勤勉な農家が多い島である。急な傾斜地に散水用のパイプを張り巡らせて、しかもきちんと摘果作業をしていられて、真面目にみかんを作っている人が多い。放置園がないのも勤勉誠実な人が多いことを見せていただいた。下山は40分。山を降りると大きなくすのきが目に入る。玉善寺境内の夫婦楠と名前があった。二人や三人では両手広げてもおっつかない太さであった。
 Iさんと歩きながらおしゃべりする。兄弟の仲がすこぶる良い。Iさんにとって兄二人姉1人ともご健勝の様子である。どうして仲がいいんですか、と訊ねると、Iさんは貧しく育ったからでしょうね、と返事をされた。貧にして品があるIさんである。

クラブの後輩達と

2009-11-28 00:00:00 | Weblog
 1年に1回の顔を合わせる。大学時代に入っていた部活動で時は違うにせよ、同じ部室を使い、同じテントや同じ鍋や同じストーブを使っていたので話は通じるのも面白いし、何しろ、汗のすえた腐った匂いのする部室を使っていたので、時を10~20数年違えても話題が尽きない。家からの仕送り額に多少の差はあっても、それほど豊かさを感じられる生活ではなく、貧しさが宝物であったという共通認識を持っている。今夜の参加者の中では、私が最長老のようだ。20人ほど集まっていただろうか、顔は見覚えあるけれど、さっぱり名前を思い出すことが難しい。同時代の年代の後輩は覚えているけれど、もう10年も違うと名前を思い出せないでいる。名刺をもらうと、ア~そうだった、○○会社の役員をしてたんだとか、ア~あそこの責任者をしていたんだとか思い出す。近況報告するに至っては、ほとんどの後輩達は、会社を任されたり責任ある部署に就いていたり、またまた最近新聞記事に人物評として取り上げられたりして、各人活躍している様子に、自分自身も勇気をもらった感じである。出席予定のマンダリンパイレーツ社長のY君が急用で来れなくなったと会の途中で聞かされたけれど、又、以前のように不祥事があり、TVで頭を下げることのないようにと・・・思う。

今日は少し暖かく寒い日でした

2009-11-27 20:20:54 | Weblog
 自宅近くに150㎡ほどの畑がある。10数年前までは稲を植えていたが、そこの主人が亡くなり息子さんもこちらにいないので、知り合いの人がその畑を借りて農作業をしている。発掘調査を仕事にしている45歳くらいの人である。彼の夢は、畑いっぱい大きな向日葵をいっぱいに咲かせることであった。今年の夏に、念願が叶い、いっぱいの向日葵の花を咲かせた。夕方、毎日車でやって来て、散水を終えると、テルモスからコーヒーをカップに注ぎ、畑脇に設えた木の椅子に座ってタバコをくゆらせ、満足感溢れる顔していられる姿をよく見かけた。季節が変わり、つぎは何を植えるのだろうかと見ていると、野菜であった。ニンジン・お多福豆、牛蒡、高菜、サラダ菜などなど。それらの野菜が次々と芽が出て大きく育ち始めると、どのように処分すればよいか迷っている様子である。自宅で消費するのも限界があるし、朝出勤前に採りに来ているものの余ってしようがないらしい。もちろん私の家の周りの人にも配っていられた。そして、私が提案したのは、100円市を作ろうではないか、というものであった。先週の土曜日から畑脇に、みかん箱を置いてその上に、ナイロン袋に取れたての高菜やニンジンなど、また紅アズマのサツマイモとか、生落花生など、丁寧に100円ではなく、50円・30円などの値札紙を貼って販売している。私も、そそのかした手前、買うことにして100玉で二袋頂いている。今日の夕方、暗くなっているものの、ヘッドランプをつけて畑内をウロウロしておった。声をかけると、おかげさまで、今日の売上は230円にもなりました・・・と喜んでいた。ナニナニ種代があれば良いんですよ、と笑っておった。
 今日は、旧知の経営者に会うために、刑務所を出所した40歳になる男性を面接に同行した、椅子に座るとすぐに、経営者は顔色を変えて、そのような人を雇うほど落ちぶれていない・・・と怒りを露わに語気鋭く話された。居場所がない、過去に罪を犯した人が社会に戻る場所がことごとく拒絶される。事業主の気持ちもよく分かるだけにつらいと感じる。外に出てすぐに彼は、私に対して、済みませんでした。ご迷惑をかけて、とうつむき加減に背を丸めて上目使いで言った。

推薦入学

2009-11-26 21:43:57 | Weblog
 今読んでいる本で、妻が面白い、と言ったのは、三浦綾子の「朝あり夕あり」。明治時代の波乱万丈な生き方について、金銭欲が強い考えからやがてキリスト教に目覚めるまでの様々な場面を経験しながら辿り着く、その話が面白い、と台所で晩ご飯を作りながら背中越に話しておった。多くの人は、波乱万丈の過し方を迂回して平穏さの続くルートを求めるんだろうけど・・・なんでうまくゆかないんだろう・・・などと珍しく7時過ぎに帰宅した妻としゃべりっこ。
 次々と推薦で進む大学が決まっているらしい。晩ご飯を食べながら、4男がサッカー部の同級生が推薦で合格しているんだと教えてくれた。フォワードの誰々君は同志社とかK君は、福岡大とかDFの誰々君は立命館に決まったなどと、ご飯を口に入れてモグモグと喋っていた。国立志望のMFの誰々君などは来月愛大に決まるだろう・・・などとのんきに話していた。本人は、正規ルート?でセンター試験を受けて自分の望んでいる学部にチャレンジするようだ。サッカー部の何人かは、年末から始まる全国サッカー選手権に向けて残っており、練習に熱が入っている、などと話してくれた。
 私にとって受験生を持つ機会も4人目ともなると、それほどやきもきすることもなく、なるようになるものだと思っているが、さぞ本人は、イライラしているに違いない。4男には、常にどのように生きたいのか、そのためにどのようにして具体的に仕事をしたいのか、などと話している。しかし4男は、どうも親はきちんと僕の話を聞いてくれてない・・・などと愚痴っておった。さてと。

お誘い

2009-11-25 21:46:02 | Weblog
 一昨日までの寒さに比べて雨上がりの今日は、少しは温かな日である。昼間には少し晴れ間も見えた。
 夜の10時過ぎに東の空に真正面に浮かんだオリオン座が、今朝5時過ぎには西の空に大きく展開している。これらの星たちが見えなくなると、夜が明けた。夜が長い今のような季節になると、自分の気持ちがなんとなく落ち着くように感じられるようになって何年になるのだろうかと思う。若い時節には、明るい時間の長い夏時間の方が楽しみであった。無論外で遊ぶ時間が多い理由によるものだ。しかし、夜の帳が早くおりて、何時の間にか星たちが瞬き始める冬の方が、自分には、落ち着くように感じられるようになった。昼間の喧騒を終え、暗闇の中で小さく光る星が今日の業のゲームセットを知らせてくれる、早くオヤスミと囁いてくれるような錯覚を受けて、誰にも邪魔されることなく自分の時間を過せるようになるからだ。生来いろんな人とつるむことが苦手な性分であったけれど、何時からであろうか、ワイワイと皆で騒ぐ時間も嫌いではなくなった。数年前までは、誘われても多くの人が集まる機会は、パスすることが多かったし、1人で暗い夜道をトボトボと歩くことの方が、自分としてこころが落ち着くようであった。ジブンも年を重ねていっているのだろう、ついつい皆ではしゃぐ時をパスすることがなくなった。だから、これからの時期の忘年会も、誘われるまま、参加するよ、と答えることが多い。今日もお誘いがあり、OKと返事をした。これが7件目である。それらの集まる顔ぶれが、それぞれまったく異なることが楽しみではないか。とりあえず今週の土曜日がスタート、毎年11月の最終土曜日に学生時代のクラブ員が集まることになっている。

ある求職者

2009-11-24 21:27:23 | Weblog
 実は、ふとしたことで相談を受けたのが先々月であった。依頼者は82歳の婦人である。59歳の娘のことで悩んでいる、と私の知人を介して相談があった。結婚している娘さんの旦那さんは、アル中で昼間っから酒を飲み、仕事らしい仕事をここ数年していないのだそうだ。それでも以前は、建築関係の仕事をしていて、ビルなどのサッシを扱っていて娘夫婦とも順調にやっていたけれど、ご主人さんのほうが体調を崩し、仕事に行かなくなって、それ以来酒ばかり飲んでいると話を聞いた。娘夫婦の子供さんは、1人は他県に嫁いでいて、もう1人の子供さんは県内に住んでいるとか。それで相談の内容は、何とか59歳の娘に仕事を与えてくれないか、というものであった。82歳になる母親の年金をあてにしているようで、82歳の老婦人は、死んでも死にきれない、と涙ぐみながらの相談であった。いっそ生活保護を申請しようかなどと娘さん夫婦は話し合っているらしい。
 で、とにかく59才の娘さんを、私の所に来るように言付けして置いた。娘さんの方が、先週から時時私の前に座って、私が提案する求人を検討し、出来そうな仕事を選び、応募している。応募した会社は、併せて5件になる。しかし、すべて、面接の時間になると、風邪を引いたとか、めまいがするとか、やっぱり通勤に遠すぎるとか・・・なんらかの理由をつけて面接に行く前に断っている。そして今日の面接も本人から電話連絡があり、都合が悪くなったので面接にはいけません・・・などと。娘さんの気持ちとしては、母親の年金がある限り働く気持ちがないのかもしれない。ちなみにご主人の方は、天涯孤独の人で、両親はなく、兄弟もなく、親戚もないと聞いた。きっと娘さんの気持ちは、母親のためにハローワークに来ているのかもしれない。娘さん夫婦の方は、年金がないらしい。親は年を取り、自分の子供は自立が出来ない状態で、暗闇の中で歩いているように映る。

3分の3

2009-11-23 20:23:51 | Weblog
 昨日とうって変わって、今朝の天気は、はれ。青空が広がっている。それでは今日も島に上がろうかと考えた。昨日は家族のための時間を、一昨日はウツ病の人の支援をしたから連休3日目の今日は、自分自身の日にする、と大げさに宣言した。妻はいつものように今日も仕事に行くと言ったし、3男は睡眠中だし、4男は学校へ行くと言ってるし、私が皆に、今日は島に行って参る・・・などとほざいたところで、皆からは、自由に遊んでイイナァなどと皮肉を言われるのが落ちだから、誰に宣言するでもなく、自分に言っただけ。相手を誰にしようかと考えた。Hさんは低い山が嫌いだし、フェリーの帰りの時間が遅いため今回は、釣り道具持参につき、やっぱり山海両刀使いのSさんを誘うことにしたものの、Sさんは友達と佐田岬に釣りに行くらしくダメ、県庁のIさんを誘って行こうと思ったものの出発時間が30分もないほど、連絡しても失礼だろうと思って、結局いつものハラちゃんに連絡する。行くよ~、どこに~、しまに~、ワカッタ~で決定。中島汽船西回り9時25分発に乗船。乗船後30分足らずで、釣島に上陸する。この島には灯台がある。人口80人ほどの島。この島の山は標高152メートル平山(たいらやま)。頂上まではくねくねした4メーター道路がついており、山登りというよりハイキング。まずは港から800m先の白い灯台を目指して歩く。道路わきにはイヨカン、せとか、ポンカン、温州みかんなどがきれいに手入れされていて、たわわに実をつけていた。この島の人たちの勤勉さが見て取れる。15分で到着。旧官舎・倉庫の石の建物が建ち異国風情緒あり。その灯台をやり過ごしてコンクリートの農道をハラちゃんといつもの馬鹿話をしながらテレンコテレンコ歩く。今日はタンカーや貨物船など大きな船が島のすぐ沖を西に東に走っていて、さながら海の中の国道状態。気持ちの良いなだらかな坂道を30分足らず歩くとビニールハウスにはさまれた水槽タンクで行き止まりになった。ここが頂上のようだ。蜜柑園が頂上まで作られていてゆっくり眺められるような場所がなかった。この島は天まで耕してみかんを作っている真面目な島である。20分で下山する。11時過ぎには港に着いたものの船は3時47分までない。そこで、島の登山を始めてから初の釣りをすることになった。道具は準備しているし、ジャミも2個買っておる。とにかく釣ろうぜ、と防波堤から釣り糸を垂らす。するととにかく釣れまくり、20センチ大のアジが入れ食い状態。二人で100匹以上は釣っただろうと思う。クーラーに入りきれず、島の人にトロ箱をもらっていれてちょうどいっぱい。釣れすぎて興奮気味に疲れたけれど、近所に配って何とかなるだろうと・・・
 釣島には小学生が6人いる。その小学校のグランドで子供達がボール遊びをしていた。いくら過疎の島になったとはいえ、やはり子供達の声が聞こえる島には明るい空気がある。島は、涙の形をしていた。