暘州通信

日本の山車

◆左甚五郎 甚五郎稲荷

2011年04月03日 | 日本の山車
◆左甚五郎 甚五郎稲荷

 陸奥の國、津軽の細道を旅していた左甚五郎、黄昏も迫るというのにまだ宿に行き着けなかった。宿どころかあたりには一軒の民家すら見当たらない。これは困ったぞと思いながらしばらく歩いていると、ふと古ぼけた赤い鳥居が眼についた。どうやらお稲荷さんが祀ってあるらしい。しめた、今夜はここで泊まることしよう。御堂の中に入ると正面にはへたくそな字で「倉稲魂ノ命」と書いた神符が張られており、床には古びた筵(むしろ)が二枚敷かれている。「やれやれ……」ほっとするとこんどは無性に腹が減ってきた。
 困ったときというのは何とかなるもので、気がつくと薄暗い御堂のまえに御神酒と稲荷寿司が供えてある。どうやらこのような辺鄙な田舎にもお参りする人はあるらしい。
 これはこれは、お稲荷さま、どうか眼を瞑っていてくださいよ。左甚五郎、御神酒すずに口をつけるとぐいぐいと呑み、稲荷寿司を口に運んだ、あっというまに平らげると昼間の疲れが出てそのまま寝入りこんでしまった。
 翌日、外に人の気配を感じて甚五郎は眼を覚ました。ぼそぼそとなにやらお祈りをしているらしい。「……これはこれは、お稲荷さま、お供えを召し上がってくださりありがとうございます。どうか爺の願いをお聞き届けになり、娘に良い婿が迎えられますように……」。どうやら一心に拝んでいる様子。御堂の中でこれを聞いていた甚五郎黙っていては悪かろうと思い鼻をつまむと「そちの願いを聞き届けてつかわそう」と言ったから、外にいた爺さんはこれを聞いて腰を抜かさんばかりに驚いた。「へへえ、ありがたいことで……」。中にいた甚五郎「今日夕方にもう一度、娘を連れてここに来るように、そのとき必ず稲荷寿司と御神酒を持ってくるように。とくに酒は多ければ多いほうが良いぞ」言い終わったとき、爺さんの禿頭に日が射し、甚五郎は思わず大きなくしゃみをしたが、このときいっぱつ大きな音のおならまで洩らしてしまった。そとに異臭が洩れてくると、御堂の外にいた爺さんはこれを聞いて首をかしげていたが、首をかしげながらも、何度も頭を下げて帰っていった。
 しばらくして、爺さんの姿が見えなくなると、甚五郎は、外に出て、岩木川の河畔まで行って曲がりくねった流木を拾って帰ってきた。夕方までにかわうそとも泥鰌(どじょう)ともつかぬ彫り物を彫り上げ待っていると、両手にいっぱいお供えを下げ、娘を連れた爺さんがやってきた。爺さんと娘は神妙にお祈りをしたがそれも済むと甚五郎は声を掛けた。ここに賽銭箱を作っておいたからこれで、堂守りをするように。言い残すといずこえとも瓢然と立ち去ったのだった。
 賽銭箱に賽銭を投げ込むと、なぜか狐が嬉しそうに「コン」となくのである。
 それから三日後のことだった。昼前はよい天気だったのに午後から急に雨になった。と、そこへひとりの若い侍が飛び込んできた。「しばらく雨宿りさせてくれ」。娘はぬれた衣服を乾かし、御茶の接待をしているとやがて雨も上がり侍は礼を述べて立ち去った。
 さらに数日すると今度は騎馬姿の身なりのよい老人が、供をしたがえて訪ねてきた。用件は、津軽の若殿がこちらの娘御をたいへんお気に召され、ぜひ室に迎えたいと申されているというものだった。
 爺さんと娘はひたすら恐縮したが、所望されたものを断る理由は無かった
 津軽のお殿様からは良縁を感謝して立派な鰐口一口の奉納があった。
これが評判となり稲荷良縁を願う参詣人があとからあとから押しかけた。この稲荷堂の隣には爺さんが越してきて茶店をひらいたが、稲荷うどんが名物になった。
 ここに、裕福だが強欲な太兵衛という大地主がいた。縹料の良い一人娘がいたが、人々は関わりあいになるのを嫌がって避けるので、適齢期になったのに婿の来手がなかった。
 かみさんにせきたてられて太兵衛も参詣にやってきた。稲荷堂の前に立って、「どうか、うちの娘に良い婿が来てくれますように」と祈ると、お堂の中から、
 「来ん、コン!」
 とお告げがあった。
 人々は尾の稲荷を「甚五郎稲荷」とよんだ。

 「甚五郎稲荷」は、現在の五所川原のあたりだそうでございます。
 ご存知、「甚五郎稲荷」の一説はこれにて読み切りとさせていただきます。お粗末でございました。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
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◇癌封じの寺(鎌倉名越の上行寺)
2007/7/11(水) 午前 9:47
... (写真は七福神にお祈りされるお爺さん)           (写真はお雛様のような七福神)           (写真は病気除け ... 総ての病を治すという「疱守稲荷/かさもりいなり」と鬼子母神が祀られています。 ... 左甚五郎の作と云われているそうです。 ...


論攷 斐太ノ工 六五

2011年04月03日 | 日本の山車
論攷 斐太ノ工 六五
 巷説に、【飛騨は古来下下の下の国といわれる貧しい国で、律令が定められたときには、貢租三項目、つまり、「租、庸、丁」のうち租、庸の二項目を免じ、「丁」のみ適用され人足が徴用された。これらの人足は都に集められ、その造営に関わった。これが斐太の工のはじまりである」とあり、いろいろな文献芋引用されている。
 しかし、この説には誤りがある。
 斐太の工は日氏を構成する氏族で、大和朝廷成立以前、すでにに海神族(綿津美氏)、出雲氏らとともに前世紀から各地に進出し、スサノオノミコト、オオナムチノミコトなどの祖神を祀る神社の造営に関わっている。これらの普請が無い平時は農耕に従事していた。これらの伝統は近年まで続いている。日本を代表するような建設会社の系譜の中には斐太の工を祖先とする会社がいくつもあり、その代表を務めるような人物も、若いときは飛騨で修行していて、田植えから稲刈りまで従事するのは普通のことであった。
 都を遠く離れた鄙びた土地を、「いなか(田舎)」というが、これは、もともと斐太の工の一氏族である「イナ(伊奈)氏」の住む土地のことである。飛騨地方には「稲」の姓がつく旧家があるが、それらぼなかには斐太の工の末裔である家計である例がしばしば見られる。
 つまり、飛騨は誇り高い田舎なのである。