暘州通信

日本の山車

◆谷口與鹿 柿のお礼

2011年04月23日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 柿のお礼
 與鹿の悪戯盛りの子供のころの話である。
 高山町の南部、宮川の西は昔は大灘(おおなだ)といっていた。ここに徳兵衛と呼ばれた旧家があったが、畑に大きな柿が実るのであった。大きな果実の甘柿で、近在の人は次郎柿とよんでいた。今と違って菓子などない時代だから、秋になると皆うらやましげに見上げるのだったが、この家の主人というのが稀に見るけちで、この柿を口にした人はめったになかったのである。
 柿が実るころになると高山の町のほうから商人に雇われた若者が二、三人やってきて、天辺に一個を残し、すべてもいで町に運んでしまうのが常であった。
 この柿に目をつけたのが、例の鐡(のちの山岡鐡舟)と五郎(のちの谷口與鹿)である。
 主人の不在を狙って、この柿の木によじ登り、次から次ともいで、たらふく食った後は「あじか」とよぶ小籠につめこみ、ちぎった柿をこれに要れ、しめしめと柿の木を降りてきたまではよかったが、地上に下りたとたん、大きな怒号が飛んだ。いつの間にか主人が帰り、おりてきたら縛りあげようと、丈夫な荷縄を二筋、手にさげて待ち構えていたのである。
 悪いところで捕まってしまった二人は、頭を張り飛ばされ、しこたま背中をどやされ、柿木を背中にしてがんじがらめに縛り上げられてしまった。約半日ちかくも縛られていた二人は、あたりに宵闇が迫り、あたりが暗くなってくると、さすがに心細い。山の秋は日の暮れるのも早く、やがて、星が瞬き始めると、気温も下がってきて、寒いのと心細いのとで、めそめす泣いていると、ころはよしと、徳兵衛の親父がやってきて、
「こら、懲りたか」
 と聞き、こっくりすると縄を解き、また二、三発張り飛ばして、やっと許してくれたのだった。

 今の若いかたらには想像もつかないだろうが、昔の農家は山沿いに家を建てることが多く、しかも厠は、家から張り出した懸崖のような造りで、下を小川が流れていて、二、三階の高さから用を足すというような家が結構あったのである。言うなればこれも昔の水洗トイレかもしれない。

 鐡(山岡鐡舟)と五郎(谷口與鹿)がこのまま黙って引っ込むはずがない。
 しばらくたって、ほとぼりの冷めたころ、二人は相談してなにやらこそこそ細工をしていたようだったが、やがてそれもすんだと見え、ふたりは顔を見合わせてにっこり笑うと意気揚々と引き上げて行った。
 徳兵衛の家の異変は翌日に起こった。
 肥満の徳兵衛が厠に入ろうと一歩踏み込んだところ、左足がめりめりめりという大きな音とともに床板を踏み抜いてしまい、あわてて下ろした右足も同じようにめりめり、便器には尻を突っ込むとそのまま動けなくなってしまった。
 しかも床を踏み抜いたときの床板がささくれだって、脛から腿にかけて無数の棘となって突き刺さり、赤い血がぽとりぽとり……。
 おかみさんと娘は、実家の祭で山田の在所に里帰りしていて、呼べど叫べど誰もきてくれない。
 あせれど、もがけど、ついに出ることができないまま助け出されたのは、翌日の昼過ぎ、裏道を通りかかった農夫が、血に染まった脚が二本上からぶら下がっているのを見つけたときだった。
 鐡(山岡鐡舟)と五郎(谷口與鹿)が、便所の踏み板を裏を削り取って二分(五、六ミリメートル)ばかりの厚さにしてしまっていたのだった。
 徳兵衛の脚は腫れあがり、ひりひり、ちくちく、うんうんうなりながら三、四日ばかり寝込んでしまったのだった。 
 「忌々しい、くそがきめ……! 今度見つけたらただではおかんぞ……!!」歯噛みしながら心に誓ったのだった。
 しかし、狭い町である。師走、二十四日市の雑踏で賑わう高山の町へ出かけときこのくそがき二人を見つけたのであった。
 「このくそがき!」
 思わずこぶしを振り上げ思いっきり二人の頭を殴りつけたときだった。
 「何をしている!」
 見ると立派な武士が三名この様子を見ていたのである。
「お代官様の若さまを何で殴っておるのじゃ。ちょっと番所まで来てもらおうか」
「ひえーっ」
 徳兵衛はまっさおになって震え上がり、その場にへたりこんでしまった。
 高手小手に縛り上げられ、引っ立てられた徳兵衛、もう命もないものと思うと口惜しいやら、悲しいやらで、顔は涙でぐちゃぐちゃ。お白洲に引き立てられ神妙にうずくまっていると、無念さがこみ上げてくる。正面の襖が開けられ、小野朝右衛門代官(郡代)が正座に着いた。
 「これ、そのものの縄をとけ」
 配下に命じると、声をかけた。 
「これ、徳兵衛とやら、うちのせがれが申し訳ないことをしたのう」
 徳兵衛は声も出ずその場にひれ伏してしまった。
小野朝右衛門は笑いながら
「菜根譚にのう、柿は十個もらったら三つはひとにあげるのがよいとあるぞ」
「へへえ……、恐れ入りましてございます」
結局、何のお咎めもなかったのであった。

 谷口與鹿の幼少時は、相当な悪戯好きで、周りを閉口させることがしょっちゅうだった。師匠の中川吉兵衛が、
「お前の親は左甚五郎のように立派な大工にあるようにとおまえに五郎と名前をつけたが、どうもろくでもないことばかりして……わしがお前にもうひとつ足して六にしてやろう」といった。
 それ以来、与六というようになり、長じてからは與鹿と書くようになった。