◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 四
大津繪の 筆のはじめは なに佛
芭蕉が近江の大津で詠んだ句であるが、岩佐又平という画家が出て一躍世間にひろまつた。
与謝蕪村も岩佐又平から多くの啓示を受けたようで、
又平に あふやおむろの はなさかり
の句と画がある。東海道を上り下りする旅人が多く買い求めたものが世間に広がったが、この大津繪にちなんだ俗曲が江戸でもてはやされたが、なかでも【梅川と忠兵衛】をあつかったものが有名で、大正から昭和初期がぜんせいであった。忠兵衛が想いをかけた梅川とむすばれるため、店の大金五〇両に手をつけてしまい奈良に逃れるがやがてそれも使い果たしてしまいのこるはあとわずか。そんな有様を唄ったものでいわゆる心中ものである。
この唄が飛騨地方でも盛んに唄われるようになったのも【ひんだのをどり】の旋律があったためであった。戦前の結婚式になるとおよそ考えられないような奇怪な話であるが、この【心中ものの大津繪】が必ず歌われたものであった。
ひんだのおどりの系譜はそれくらい根深く息づいたものであった。しかし、いまはひんだのおどりが伝承されているとおろはないのではなかろうか。
大津繪の 筆のはじめは なに佛
芭蕉が近江の大津で詠んだ句であるが、岩佐又平という画家が出て一躍世間にひろまつた。
与謝蕪村も岩佐又平から多くの啓示を受けたようで、
又平に あふやおむろの はなさかり
の句と画がある。東海道を上り下りする旅人が多く買い求めたものが世間に広がったが、この大津繪にちなんだ俗曲が江戸でもてはやされたが、なかでも【梅川と忠兵衛】をあつかったものが有名で、大正から昭和初期がぜんせいであった。忠兵衛が想いをかけた梅川とむすばれるため、店の大金五〇両に手をつけてしまい奈良に逃れるがやがてそれも使い果たしてしまいのこるはあとわずか。そんな有様を唄ったものでいわゆる心中ものである。
この唄が飛騨地方でも盛んに唄われるようになったのも【ひんだのをどり】の旋律があったためであった。戦前の結婚式になるとおよそ考えられないような奇怪な話であるが、この【心中ものの大津繪】が必ず歌われたものであった。
ひんだのおどりの系譜はそれくらい根深く息づいたものであった。しかし、いまはひんだのおどりが伝承されているとおろはないのではなかろうか。