暘州通信

日本の山車

◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 四

2012年07月08日 | 日本の山車
◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 四

  大津繪の 筆のはじめは なに佛

 芭蕉が近江の大津で詠んだ句であるが、岩佐又平という画家が出て一躍世間にひろまつた。
 与謝蕪村も岩佐又平から多くの啓示を受けたようで、

  又平に あふやおむろの はなさかり

 の句と画がある。東海道を上り下りする旅人が多く買い求めたものが世間に広がったが、この大津繪にちなんだ俗曲が江戸でもてはやされたが、なかでも【梅川と忠兵衛】をあつかったものが有名で、大正から昭和初期がぜんせいであった。忠兵衛が想いをかけた梅川とむすばれるため、店の大金五〇両に手をつけてしまい奈良に逃れるがやがてそれも使い果たしてしまいのこるはあとわずか。そんな有様を唄ったものでいわゆる心中ものである。
 この唄が飛騨地方でも盛んに唄われるようになったのも【ひんだのをどり】の旋律があったためであった。戦前の結婚式になるとおよそ考えられないような奇怪な話であるが、この【心中ものの大津繪】が必ず歌われたものであった。
 ひんだのおどりの系譜はそれくらい根深く息づいたものであった。しかし、いまはひんだのおどりが伝承されているとおろはないのではなかろうか。 

◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 三

2012年07月08日 | 日本の山車
◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 三

 基礎も現在のようにコンクリートなどない時代だから、礎石とする小は数百キロから時には二〇トンにもおよぶ自然石や岩を山や谷から曳きだしてきたが、これにはムラびとたちが全員であたり、采振りの合図で、【木遣り唄】にあわせて唱和し、雪国では冬に行なうのが普通であった。一見たいへんな重労働に思えるが、時に数百人にもおよぶ人たちが曳く【だいもちひき】は案外のんびりした長閑なものであり、共同作業はムラ人にとっては大きな娯楽でもあった。ときにせっかく途中まで曳いてきた大岩が道下落下してしまうというようなことも間々あったが一向に悲観することもなかった。そのような岩は放置されるのであった。建材となる木材も同じようにして曳き出された。
 こうして普請をはじめるときは、【墨壺、手斧、釿(ちょうな)、規矩尺(曲尺)】の三種を飾って安全祈願、無事落成を祈願する。墨壺は中国伝来との説もあるが、日本古代の竪穴式住居の棟飾となっていた【御物石器】が基本形で、この形をもとに作られている。御物石器は飛騨地方から北陸の富山県から石川県にかけてきわめて限定された地域から出土する。こうしていよいよ上棟となると、施主_(建築発注者)は、総出で工匠、工人をねぎらう上棟式を行なうが、新築の棟の下で両者がそろって祝福する。酒肴が整えられると、【めでた】とよぶ祝い歌が歌われ、酒が回り、座が盛り上がり始めると唄われたのが【飛騨おわら】で、これにあわせて踊られたのが【ひんだのおどり】であった。七七七五調の【くどき】で延々三〇分以上も続くものがあった。佐渡の、【相川音頭】、近江の【江州音頭(ごうしゅうおんど)】などはその流れを引いている。

◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 二

2012年07月08日 | 日本の山車
◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 二

 では、社寺建築を発注するときはいちいち飛騨の高山まで頼みに行くのかといえば、かならずしもそうでもなかった。たいがいのムラ(村、邑)には、すでに神社があるのは普通であって、特に新規の社殿の下命を受けるときは別だが、小規模から中規模の建築物であれば、すでに土地に定着している斐太ノ工がいたし、ない場合でも少し足をのばせば、ほとんどの場合間に合った。斐太ノ工は一種のテクノクラート(技能集団)で、一定の徒党を組んだ斐太ノ工たちが巡回していたので、通信手段、交通機関もなかった往古でも、技能者たちが不足するときはその人らを介して他に応援を頼むということは普通であった。また、こうして応援に来た斐太ノ工たちが地元の匠たちの前に出ることは決してなく。多くの場合胸札にもその名が記されることはめったになく、ただ伝承として、「この社殿は斐太ノ工が腕を奮った建築物である」との伝承のみが伝えられてゆく。名人左甚五郎の物語は真偽沢山伝わるが、記名のあるものはまずないであろう。
 しかし、社殿の建立は思い立ってから竣工までは長年月を要した。建設地が決まると、修祓から、敷地の造成、これには村中が総出で【土搗き】とよばれる地固めにかかる。声のよい頭領が音頭をとって、土搗き唄の第一節を唄いあとは一団の男女が綱を曳きながら唱和する。各地にはこの土搗き唄が民謡として沢山あった。

◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 一

2012年07月08日 | 日本の山車
◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 一

 【舞臺藝能】は職業緒もなっている磨き上げられた藝能の極地といえるが、自然発生的に生じて演じられてきた【民衆藝能】といわれる藝能がある。その中間的存在に【巡業藝能】がある。巡業藝能には人が演じるものと人形が演じるものに大別されるが、それは音曲を伴うものがある。
 津軽のじょんがら、越後の高田謷女(ごぜ)、長岡瞽女。角兵衛獅子、西宮のゑびすかき、淡路、鳴門の人形浄瑠璃、文楽人形、正月に地方回りする縁起物の秋田萬歳、伊豫萬歳などはよく知られる。これらはを演じるひとたちは、ひとくちに【旅芸人】ともよばれるが、その影響が地方に定着した例も多い。
 六世紀に建造された大阪の四天王寺は日本最初の佛教寺院であるが、かげに千年あまりにわたり、建立以後補修や維持管理あるいは再建などにかかわってきた金剛家の存在があった。古代以後日本の社寺建築には大なり小なり【斐太ノ工】が関わっている。現在は各地に立派な社寺建築の会社が存在するが、その草創期の淵源をさかのぼればその多くはなんらかのかたちで【斐太ノ工】にかかわりがある。
□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇『八月納涼大歌舞伎』第二部
2007/8/12(日) 午後 8:33
... 去年は襲名巡業でお休みだった勘三郎さんの出演!納涼歌舞伎 ... 人形遣いバージョンは 黒子姿で指し物の先に付けたすみれ丸人形を動かして ます(笑) 勘三郎さんに「変な喋り方しやがって」と突っ込まれ ... 存在自体が結構謎だけど「ホホー ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/hanamarupandano2/49487784.html

◇王の男
2007/1/3(水) 午後 9:31
... 旅芸人の一座で巡業を重ねるチャンセン(カム・ウソン)とコンギル(イ・ジュンギ)。 一座の中でもふたりは花形といえる存在。 ただ、女形のコンギルはその美しささえも座長に売り物にされていて ... コンギルが王の前で人形でしばいをしている時ですね。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/no_jszy/44988987.html

◇便利屋エニー⑨
2006/10/7(土) 午前 9:55
... どさ回りと言われる地方巡業で 有った。横浜にそれらの歌手が来る ... 島野修一は阪急球団のマスコット人形を1998年まで続けて、その道の草分け的 存在として、子供達に夢を与えまた、各球団のマスコット人形からも崇められている。 両氏はまだ50の半ば ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/syocyu1175/40772738.html

◇大鳴門橋記念館
2006/10/4(水) 午前 5:36
... 淡路島のみならず、日本全国を巡業して発展してきたそうだ。 大阪の文楽、徳島の阿波人形なども淡路から伝わったものだという。 淡路人形は、一体の人形を、三人の人形遣いが黒子を着て遣い ... 大鳴門橋記念館は存在価値がある。 もっともっと工夫 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tadashikage/42111162.html

◇この恍惚! 内臓は語る
2006/2/16(木) 午後 4:44
... 美少女の死体がモデルとなった鑞人形は、 ボッティチェッリのヴィーナスさながら真珠のネックレスをつけ ... 彼女はイギリスに渡り見世物小屋的巡業を始めました。 今では、王族のみならず ... 日本にも内臓系アーティストは存在いたします。 確か、CGで出来 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/alamofest/26848890.html

◆03772 甲子神社祭典 更新

2012年07月08日 | 日本の山車
◆03772 甲子神社祭典 更新
□社名 甲子神社
□所在地 静岡県富士市平垣
□祭神
オオナムチノミコト 大己貴命
□祭
□山車
山車の形態(呼称)は、屋臺。
・国久区 国久天王太鼓保存会
・富士本町
・富士町
・平垣三町
・銀座町
□汎論
 甲子神社の創祀は大正十五年(一九二六)、地区の有志らが出雲大社(島根県)に参詣して分祀を受け、オオナムチノミコト(大己貴命)を富士市内に「甲子神社」として祀ったのを始まりとする。
 国久区(くにひさく)は東海道線富士駅の北に位置するが、国久区の山車(屋臺)は、いわゆる「手作り屋臺」とよばれるものであるが、基臺の臺枠は、二トン車のシャシー。臺輪は、自動車のゴムタイヤ。この上の単層の平臺をたちあげ、六本の素木(しらき)の各柱が唐破風屋根を支える、基壇は腰板張り、初層は前後にわかれ、中柱が前部を二、後部を一に分けている。前部はさらに張り出し部があって、ここに小太鼓二、大太鼓一が据えられている。山車前部は囃子座にあてられ、面をつけた山車藝、や、鉦子、笛による演奏などが行われる。
 驚くのはこの立派な山車(屋臺)が、専門職の手を借りず、青年団員の団結で完成までこぎつけていることで、山車を納め保存する山車蔵までもが、青年らの奉仕で整地から初めて立派な蔵を完成さていることである。
 この山車(屋臺)および山車蔵の建造奮闘記は、下記に詳細に報じられているがまさに感動ものである。
 http://web.thn.jp/kkk/sub1.htm
 山車の建造には、国久青年会の会員のなかに大工さん、塗装屋さん、電気屋さん、金物屋さん、板金屋さん等の専門職の方たちがあったということも幸いしたであろうが、一九九八年からおよそ五年をかけ、二〇〇三年に完成。その年の例祭に曳いたという。
 地区には、古くから祀られている庚申があり、詳細は不明ながら、「天保十五年甲辰正月 国久村」とあり、地域の住民から篤く敬われてきた歴史がうかがえる。青年団の祭の法被にも背に「庚」の文字を染め抜いたものがある。
□参考
次を参考にさせていただきました。
・http://web.thn.jp/kkk/sub1.htm



◆00279 吉原祇園祭 更新

2012年07月08日 | 日本の山車
◆00279 吉原祇園祭 更新
□社名 
八坂神社
木之元神社
天神社(天満宮)
八幡宮
山神社
五社の合同祭。
□所在地 静岡県富士市吉原地区
□祭神
□祭は六月中旬。
□山車
山車の形態(呼称)は、山車、屋臺。
各神社に所属するさまざまな態様の山車が二〇数臺曳かれる。
□汎論
 富山県の越中おわらでは、

  越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山 三国一だよ

 と唄われる。まさに富士山は三国一の霊峰であるが、日本が世界に誇る名山であり、その美しい山容は四季を通じて日本人の心に深くよびかけてくる。東西南北、遠近を問わず富士山に寄せる思いはひときわ深いものがあり、その愛着は静岡県のみならず千葉県、東京都、埼玉県、群馬県、長野県、山梨県、神奈川県などには【富士見】とよばれる名称になっている。東京都、埼玉県の旧武蔵とよばれた地域の神社には社域にちいさな山を築いて【富士】とよび、祭神を祀り、この小山に登ることでせめての富士登山をしたとする富士山遥拝信仰がおこなわれてきた。
 富士市吉原地区は、その富士山の南麓の東海道街道筋の宿場町として発展してきた。蒲原から由比、羽衣の松で名高い三保の松原。南東には伊豆半島が延び海と山の調和美が展開する美しい風光に恵まれた町である。
□参考
次を参考にさせていただきました。
・吉原祇園祭
 http://blogs.yahoo.co.jp/rnksr047

行政コード番号は従前のままです。 
20120708 更新
□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇江戸天下祭に集まった山車の数々!=その1
2007/10/9(火) 午後 1:55
... (おきなににんだち)」 長い間赤坂氷川神社において9台の山車が保存されていましたが、「NPO法人赤坂氷川山車保存会」の尽力のもとに山車の復興が進み、このたび最初に ... 60周年にあたる昭和57年に白木造りで建造されました。 文中、間違いがござい . http://blogs.yahoo.co.jp/kanda_club/51783545.html

◇【八王子まつり/山車編】
2006/8/19(土) 午前 8:28
... 「横山町三丁目の山車」 ~昭和20年(1945)8月、戦禍により大鳥神社内の山車蔵で焼失してしまう。 6年の歳月と総事業費約1億2千万円の巨費を投じて、平成6年7月復元建造された由。 構造は三層鉾山車(三層目はせりだし)、内輪四つ車。総体白木彫り ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/qazxswedcvfr2004jp/40338153.html