暘州通信

日本の山車

◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 二

2012年07月08日 | 日本の山車
◆34487 斐太ノ工と巡業藝能藝能 二

 では、社寺建築を発注するときはいちいち飛騨の高山まで頼みに行くのかといえば、かならずしもそうでもなかった。たいがいのムラ(村、邑)には、すでに神社があるのは普通であって、特に新規の社殿の下命を受けるときは別だが、小規模から中規模の建築物であれば、すでに土地に定着している斐太ノ工がいたし、ない場合でも少し足をのばせば、ほとんどの場合間に合った。斐太ノ工は一種のテクノクラート(技能集団)で、一定の徒党を組んだ斐太ノ工たちが巡回していたので、通信手段、交通機関もなかった往古でも、技能者たちが不足するときはその人らを介して他に応援を頼むということは普通であった。また、こうして応援に来た斐太ノ工たちが地元の匠たちの前に出ることは決してなく。多くの場合胸札にもその名が記されることはめったになく、ただ伝承として、「この社殿は斐太ノ工が腕を奮った建築物である」との伝承のみが伝えられてゆく。名人左甚五郎の物語は真偽沢山伝わるが、記名のあるものはまずないであろう。
 しかし、社殿の建立は思い立ってから竣工までは長年月を要した。建設地が決まると、修祓から、敷地の造成、これには村中が総出で【土搗き】とよばれる地固めにかかる。声のよい頭領が音頭をとって、土搗き唄の第一節を唄いあとは一団の男女が綱を曳きながら唱和する。各地にはこの土搗き唄が民謡として沢山あった。

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