暘州通信

日本の山車

◆27119 長唄 外記猿

2012年07月09日 | 日本の山車
◆27119 長唄 外記猿

 【長唄】には、音曲の長い歴史の上に立って練り上げられた修練の技がこめられていて、聴けばきくほどその薀蓄の深さと、これを支持した方たちの研ぎ澄まされた感性が伝わってきて、尊敬の想いがつのる。一時期もてはやされた音曲も、やがて消滅していったものも多く、録音という技術のなかった過去の歌謡は想像だにできないが、長唄にはそれらをもしっかりとりこんで伝習するその藝の深さがあって驚嘆する。
 【長唄 外記猿(ながうた げきさる)】もそのひとつといえよう。江戸時代初期に、【外記節】があった。外記節とは、【江戸古浄瑠璃】として一時もてはやされた謡曲のひとつであったが、外記猿とは、外記節のうちの【猿】の意である。各地に神社仏閣の建造を手がけた斐太ノ工らは、地方の武家屋敷の建築を請け負うことも多かったが、猿は山王さまのおつかいで、しかも馬の病気を治療すると信じられていて、武家屋敷の棟上のお祝いには、猿に三番叟を演じさせることが行なわれた。したがって、猿引きといわれる人たちは斐太ノ工と一緒に行動することが多かった。
 よく知られるように江戸の町は大火災が多く、罹災のつど復興に取り掛かったがその建材は陸奥(青森県)のアオモリトドマツ(オオシラビソ)とアスナロが多くを占め、舟便で江戸送りされてていた。大きな声ではいえないがこれがいずれも実によく燃える木材であった。
 家屋が燃えれば復興・再建となり、棟上には去るが三番叟を演じる外記節は、江戸の町でも方々で見られたはずである。
 これらの藝人なかには、踊り、三弦に巧みなものも生まれ江戸に定住するようになった。外記節の猿は文政七年(一八二四)に、杵屋三郎助が、当時すでに行なわれることがなくなりつつあった外記節の【猿】、【石橋】、【傀儡師】の外記節三曲を長唄に取り入れたが、謡い出しの、

  罷り出でたる某は ずんど気軽な風雅者 日がな一日 小猿を背に背負からげてな 
  姿如法やなん頭巾 投頭巾 夜さの泊りは どこが泊りぞ 
  那波か 名越か 室が泊りぞ 室が泊まりぞ 
  泊りを急ぐ後より 小猿廻わせや猿廻し おおいおおい と招かれて 立もどりたる半町あまり 
  玄関構えし門の内 女中子供衆取々に 所望所望の言葉の下 猿の小舞を始めけり 
  やんら 目出度やめでたやな 君が齢は 長生殿の不老門の御前を見れば 
  黄金の花が咲きや乱るる……

 この、
 「小猿を背に背負からげてな」 の【からげてな】 
 「夜さの泊りは どこが泊りぞ」 の【夜さ】
 がじつは【飛騨地方の方言】である。
 おそらく杵屋三郎助も、それにいまも歌い続けておられる面々もこれはご存知ないかもしれない。無意識に飛騨がとりこまれているところに興がある。