暘州通信

日本の山車

◆23922 竹林の七賢

2009年09月19日 | 日本の山車
◆23922 竹林の七賢
 中国の魏の時代、世俗を避けた七名の賢人は、阮籍(げんせき)、□康(けいこう。□けいは文字なし)、山濤(さんとう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、王戎(おうじゅう)を言う。その言行は『世説新語』にのこされているが、たとえば、母親の死を知らされた一人は顔色ひとつ変えず、囲碁に興じていたと言われ、常人ばなれしている。
 山車の彫刻によくとりいれられている。

□参考
・玉匣社(ぎょくこうしゃ)山車 静岡県磐田市久保町。
 遠州府八幡宮の祭に曳かれる。
・半田乙川 浅井山 宮本車 愛知県半田市乙川(おっかわ)。
 壇箱彫刻に、諏訪の立川和四郎富重作の竹林の七賢人がある。
・保楽車 愛知県常滑市
 前山の蟇股に竹林の七賢人が彫られている。
・竹生町山車 愛知県豊田市 
 挙母祭(ころもまつり)に曳かれる山車の大幕に竹林の七賢人が描かれている。

□外部リンク
半田 乙川 浅井山 宮本車 (詳細あり)
2005/5/22(日) 午後 7:22
... 地縁によって分割した山車組の地域の中に氏神が所在地を含まれている場合に付けられる名称である。従って巡業の際は山車の先頭を行き、前山で三番叟を奉納する。  浅井山宮本車の壇箱彫刻『竹林七賢人』は安政6年(1859)に立川和四郎富重が彫っ ...

◆23891 菊慈童

2009年09月19日 | 日本の山車
◆23891 菊慈童

  山中や 菊は手折じ 湯のにほい

 松尾芭蕉はみちのくの旅を経て加賀の山中温泉にひたり、「扶桑第一の名泉なり」と名湯を讃え、中国の菊慈童に思いを馳せながら一句を残した。菊慈童は中国の周の穆王に仕える童子だったが。穆王の枕をまたいで咎められて宮廷を辞す。
 時代はさがり、魏の文帝のとき、霊力のある水が流れるという川があり、それが文帝の耳に入る。文帝はいぶかしみ、使いを差し向けると、上流で異様な人物に出会った。その人物の話を聞くと、菊慈童だと名乗り齢は七百歳あまりだという。かつて穆王より法華経のうちより二句の偈を賜ったが、これを菊の葉に認め、宿る露を飲めば不老不死の仙薬となるのだと話し、また奥山へと戻ってゆく。能楽に「菊慈童」があるが、物語は流派により差異がある。
 熊本県八代市の十一1月に齋行される「妙見祭」に、宮之町から「菊慈童」の傘鉾が出る。

□外部リンク
◇中国の名勝旧跡-山東省
2007/8/22(水) 午後 2:05
... 長清県の東南20kmにあり、五峰あり、金・元代に山中に道教寺院が建てられる 霊巌寺 泰山の西北麓、長清県の東南部 ... 斉の桓公を補佐した人物 四王冢 臨 区 河村の南部にあり ... (BC431)に楚に滅ぼされるまで漢代文帝(BC202~BC157)が[朱虚候劉章]を城陽王に ...

◆28887 久米仙人

2009年09月19日 | 日本の山車
◆28887 久米仙人
 久米仙人は備前の国のひとだったが、吉野で修行して仙力をつけ、天平年間に大和国吉野郡龍門寺の近くに住まい。ときどき雲に乗って出かけたが、久米川の辺で洗濯する美女の脛(はぎ)に見惚れて神通力を失い、墜落したとされる人間臭い仙人で、ここまでの話はよく知られる。しかし、その後の久米仙人の行跡は案外知られていない。
 その後のお話をかいつまんで紹介すると、美女に見とれて雲から落ちた久米仙人は、美女とめでたく夫婦になり幸せに暮らしていたが、ときに都の造営が盛んに行われていて、斐太の工も大勢従事していた。しかし肝心の材木の到着が遅れるばかりで工事は大幅に遅延するばかりで、困り果てていた。
 久米仙人が雲から落ちてきた仙人であることを知っている工事現場の官吏が揶揄って、久米仙人に「お前も仙人の端くれなら何とかしたらどうだ」と声をかけた。
 久米仙人は女房と語らい、一頭の神馬をつくり、大和と山城境の木津の湊にあがった材木を瞬く間に橿原の地まで運搬し工事の遅れはたちまち取り戻すことができた。人々は感嘆して「これは斐太ではなく飛騨だ」とうわさしたという。これ以来斐太は飛騨とも書かれるようになったという。久米寺のちかくに飛騨町がある。
 飛騨高山の秋祭・櫻山八幡宮の祭には下二之町の山車「仙人臺」と「神馬臺」が曳かれるが、久米仙人の伝説に因んでいて、創建時は一組であったといわれる。高山の屋臺はしめやかに、荘厳に曳かれるが、江戸時代にはこの神馬臺はしばしば暴れ騒動を起こし、他の山車組は腫れ物に触るように近寄るのを遠慮したという。神馬臺が暴れるのは神馬のせいだといい、ひと癖ありそうな神馬を屈強の馬丁ふたりが立ってしっかり手綱を引き締めている。
 都の造営になぜ吉野の材木が使われず距離のある木津川から材木を運んだのか。吉野下市と、橿原のあいだに峠があるというのは理由にならない、奈良には平城坂(ならさか)がある。ともに平坦ではない。理詰めで考えないところが伝説の面白いところだろう。
 久米仙人の伝説は、『久米寺流記』、『徒然草』、『発心集』、『今昔物語集』、『扶桑略記』、『七大寺巡礼私記』、『元亨釈書』そのほか多数の書に紹介されている。

□外部リンク
●八幡祭(秋の高山祭り)
2005/10/12(水) 午後 11:57
... 3枚目:金鳳台(きんぽうたい)神功皇后・武内宿禰人形 ★4枚目:仙人台(せんにんたい)久米仙人人形 ★5枚目:行神台(ぎょうじんたい)役の行者人形 ★6枚目:神楽台 ... 三町には素敵なお店がいっぱい☆ ★12枚目:神馬台(じんまたい)神馬・馬丁人形 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/daidaiiro_memory/13809154.html

◆28883 鉄拐仙人

2009年09月19日 | 日本の山車
◆28883 鉄拐仙人
 鉄拐仙人(てっかいせんにん)は李鉄拐とも言う。華山で老師に会うため、身体を置いて魂だけになって行くことにして、弟子に体の番をさせた。出かけるとき鉄拐は弟子に七日経っても帰ってこなければ身体は焼いてもよいが、それまでは身体に触れないように言い残して出立した。ところが出立六日目に弟子の母親が死去したため、弟子は急遽家に帰らねばならなくなって鉄拐の身体を燃やして家に戻ってしまった。
 七日目になって還ってきた鉄拐は、自分の身体が焼かれて存在しないことに驚木。困惑するが、たまたま道端に餓死者の遺体があったので、その身体に入って蘇生できた。
 山車彫刻に鉄拐仙人を扱った例がある。

・亀崎潮干祭、田中組の神楽車 愛知県半田市。

□外部リンク
◇安息日を守って聖としなさい。
2009/4/26(日) 午後 0:24
... 「しかし七日目は‥‥主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」(旧約・出 ... そして、身体を休ませるだけでなく、神を礼拝し神と交わる時間を ... イエスはご自分の死を目前して弟子たちに言われました。 “わたしは平安を ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/657548.html

◇◎並んで・・同じ。。。
2009/3/18(水) 午後 6:13
... 布地の衣にした方がいいな 身体も大切にして 食事に招待された時は行け ... 入滅されたとき マハーカッサパは五百人の弟子を率いて遊行中でした 道中 人伝に聞いてクシナーラーに駆けつけた時は もう七日が経っていたのです しかし 幸いな事に ...   http://blogs.yahoo.co.jp/kakuteruminto/12612440.html

◇韓国ドラマ・太王四神記 第13話(あらすじ)
2008/3/9(日) 午前 0:12
... ホゲ軍 ヒョンゴの弟子がタムドクの作戦を知らせに行っている。ホゲはタムドクがチョルロ部族との連携を ... キハがふらふらと崖の先み崖から身を投げるがキハの身体を火がつつみ、空中で止まりサリャンが吹き飛ばさ ... 七日で三つ、二十日で十の城塞を落とす。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/purarikoutan/3740880.html

◆23778 梅福仙人

2009年09月19日 | 日本の山車
◆23778 梅福仙人
 梅福仙人は、中国漢代の人物もと官吏であったが俗を嫌い、職を辞し仙人となった。鳳凰に乗る姿で彫刻されることが多い。山車にも多くの作例がある。社寺の屋根の上に飾られる例もある。

□参考
・日光東照宮陽明門彫刻 栃木県日光市
・宇都宮市大久保町の屋臺 栃木県宇都宮市
 初代山車の鬼板は三代目磯部儀兵衛の彫刻だったといわれる。
・亀崎中切組の山車・力神車 愛知県半田市
 前山懸魚に梅福仙人が彫られる。
・桑津の地車 大阪市東住吉区桑津
 明治十三年に泉大津市下之町が建造した地車だと伝えられる。
・獅子講の地車 大阪府泉南市樽井地区
 茅淳神社の祭に曳かれる。

□外部リンク
◇知多の山車彫刻その4
2008/6/21(土) 午後 8:26
田中組 神楽車 ↑檀箱「蘭亭の庭」立川常蔵昌敬作 ↑蟇仙人 立川常蔵昌敬作 ↑鉄拐仙人 立川常蔵昌敬作 ↑蹴込み「唐子に犬子」立川和四郎冨昌作 ↑脇障子左「趙雲に阿今日斗」立川常蔵昌敬作 ↑脇障子右「張 」立川常蔵昌敬作 次の記事へ続きます
 http://blogs.yahoo.co.jp/kjntt928/43132121.html

◇【八王子まつり/山車編】
2006/8/19(土) 午前 8:28
... 正面懸魚の彫刻「わにに乗った仙人」が印象的である。 * 「本町の山車」 ~八王子市指定有形文化財。三層鉾台形式の構造は、八王子の山車としては初めてだったという。昭和6年頃建造。前柱の彫刻「昇龍・降龍」、天井の蒔絵「雲龍・水龍」などが見られる。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/qazxswedcvfr2004jp/40338153.html

◇飛騨の彫刻家 谷口与鹿6
2006/5/17(水) 午後 2:19
... この頃、仙人台の彫刻には、珍しく吉兵衛、与鹿、浅井一之と三代の彫刻師が関わっているが、年齢や仕事を行った年度から推定すると弘化四年(一八四七)頃ではないかと思われる。 ... 信州諏訪神社拝殿(諏訪)・亀崎八幡山車の「力神の間にいる鶏」(半田)など ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sendaimo2012/35891499.html

◆23778 梅福仙人

2009年09月19日 | 日本の山車
◆23778 梅福仙人
 梅福仙人は、中国漢代の人物もと官吏であったが俗を嫌い、職を辞し仙人となった。鳳凰に乗る姿で彫刻されることが多い。山車にも多くの作例がある。社寺の屋根の上に飾られる例もある。

□参考
・日光東照宮陽明門彫刻 栃木県日光市
・宇都宮市大久保町の屋臺 栃木県宇都宮市
 初代山車の鬼板は三代目磯部儀兵衛の彫刻だったといわれる。
・亀崎中切組の山車・力神車 愛知県半田市
 前山懸魚に梅福仙人が彫られる。
・桑津の地車 大阪市東住吉区桑津
 明治十三年に泉大津市下之町が建造した地車だと伝えられる。
・獅子講の地車 大阪府泉南市樽井地区
 芽淳神社の祭に曳かれる。

□外部リンク
◇知多の山車彫刻その4
2008/6/21(土) 午後 8:26
田中組 神楽車 ↑檀箱「蘭亭の庭」立川常蔵昌敬作 ↑蟇仙人 立川常蔵昌敬作 ↑鉄拐仙人 立川常蔵昌敬作 ↑蹴込み「唐子に犬子」立川和四郎冨昌作 ↑脇障子左「趙雲に阿今日斗」立川常蔵昌敬作 ↑脇障子右「張 」立川常蔵昌敬作 次の記事へ続きます
 http://blogs.yahoo.co.jp/kjntt928/43132121.html

◇【八王子まつり/山車編】
2006/8/19(土) 午前 8:28
... 正面懸魚の彫刻「わにに乗った仙人」が印象的である。 * 「本町の山車」 ~八王子市指定有形文化財。三層鉾台形式の構造は、八王子の山車としては初めてだったという。昭和6年頃建造。前柱の彫刻「昇龍・降龍」、天井の蒔絵「雲龍・水龍」などが見られる。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/qazxswedcvfr2004jp/40338153.html

◇飛騨の彫刻家 谷口与鹿6
2006/5/17(水) 午後 2:19
... この頃、仙人台の彫刻には、珍しく吉兵衛、与鹿、浅井一之と三代の彫刻師が関わっているが、年齢や仕事を行った年度から推定すると弘化四年(一八四七)頃ではないかと思われる。 ... 信州諏訪神社拝殿(諏訪)・亀崎八幡山車の「力神の間にいる鶏」(半田)など ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sendaimo2012/35891499.html

◆29114 東海の三神仙

2009年09月19日 | 日本の山車
◆29114 東海の三神仙
 東海には、蓬莱、方丈、瀛州の三神山があり、そこには仙人が住み不死の霊草が生じると信じられていた。中国の秦始皇帝が、不老の薬草をもとめて徐福を使わせ、徐福が紀州(和歌山県)の南部に来朝した。真偽はとにかく、日本には各地に徐福伝説が残り北は青森に達している。
 山車を蓬莱山に見立て、あるいは蓬莱山に向かう神仙の乗物とする思想も各地にある。 福井県の今立の御莱祀、石川県の白峰には蓬莱山を曳く神事があり、飛騨高山の屋臺も神仙の仙界に見立てている。
 一般に山車の装飾である、彫刻、幕、見送圖などに神仙が描かれる山車は長寿と繁栄、平和を願う趣旨がこめられている。
 御舟祭もやはり神仙の住む海への信仰がこめられている。
 夏祭で病疫を忌避するために曳かれる山車とは一線を画している。


◇29114 東海の三神仙

2009年09月19日 | 日本の山車
◇29114 東海の三神仙
 東海には、蓬莱、方丈、瀛州の三神山があり、そこには仙人が住み不死の霊草が生じると信じられていた。中国の秦始皇帝が、不老の薬草をもとめて徐福を使わせ、徐福が紀州(和歌山県)の南部に来朝した。真偽はとにかく、日本には各地に徐福伝説が残り北は青森に達している。
 山車を蓬莱山に見立て、あるいは蓬莱山に向かう神仙の乗物とする思想も各地にある。 福井県の今立の御莱祀、石川県の白峰には蓬莱山を曳く神事があり、飛騨高山の屋臺も神仙の仙界に見立てている。
 一般に山車の装飾である、彫刻、幕、見送圖などに神仙が描かれる山車は長寿と繁栄、平和を願う趣旨がこめられている。
 御舟祭もやはり神仙の住む海への信仰がこめられている。
 夏祭で病疫を忌避するために曳かれる山車とは一線を画している。


◆26647 くんち

2009年09月19日 | 日本の山車
◆26647 くんち
 「くんち」は、祭が旧暦九月九日の重陽の節句(ちょうようのせっく)の行われるから。神前にお供えものをする日。の二説がよく知られ流布しているがいずれの説もとりがたい。
博多おくんち 福岡県福岡市櫛田神社
唐津くんち 佐賀県唐津市唐津神社
長崎くんち 長崎県長崎市諏訪神社
 はよく知られる日本三大くんちである。九州に集中する。

□外部リンク
◇くぐつ 傀儡子
2008/2/29(金) 午後 5:38
... 古要神社・同じく福岡県豊前市古表神社の「細男舞い(さいのお・まい・神相撲ともいう)」、および福岡県玄界灘の志賀海(しかのうみ)神社などに残存する。 いずれも人形百体にこだわり ... 武力の神とされ全国へ流布、武士が愛用した漢音の「はち ...   http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/41164787.html

◇神社 玉敷神社 その4 ―葦毛の馬に乗ることを忌む神―
2008/2/9(土) 午前 1:55
... 東を向いているのが雷電権現、いずれの神も葦毛の馬に乗ることを忌みきらうので ... 金子氏が流布した伝説と考えられないこともない。)  以上のような伝説もまた、久伊豆神社が頼朝と結びついた名称であることの証左といえるのではなかろうか。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/2148958.html

◆28557 仁田四郎

2009年09月19日 | 日本の山車
◆28557 仁田四郎
 仁田四郎は、仁田忠常ともいい、平安末期から鎌倉初期にかけての武将。新田忠常、日田忠常の名もある。大阪府南部、和泉地方の地車に好んで彫刻の題材に多く取り上げられている。伊豆国仁田郷(現静岡県田方郡函南町)の出身。治承四年(一一八〇)、源頼朝の挙兵に応じて家臣となり、以後頼朝に従った。各地を転戦し、文治五年(一一八九)には、源義経の追捕に従い衣川の合戦で武勲をたてている。
 建久四年(一一九三)、曾我五郎、曾我十郎兄弟の仇討ちのとき、兄を討ち取ったのは仁田四郎である。
 頼朝死後は源頼家に仕えたが、比企能員の乱が起きたが、北条時政の命に従い、比企能員を謀殺した。一時危篤に陥った頼家が回復し、こんどは逆に頼家から時政を討てとの命が下った。忠常は頼家の命を受けながらも、比企能員を討った恩賞を受けるため、時政邸へ行ったが、時政を討つ命に服しなかったことから謀反の疑いをかけられ、帰途、加藤景廉に殺害された。三十七歳だったという。

□外部リンク
◇城前寺と曽我兄弟
2008/2/12(火) 午後 10:14
... 箱王は出家を嫌い箱根神社を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらっ ... 兄弟はここで10人斬りの働きをするが、遂に兄十郎が仁田忠常に討たれた。弟の五郎は、頼朝の館に押し入ったところを取り押さえ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/taishininomiya/52706709.html

◇山歩きで巡り合ったある物語
2008/1/24(木) 午後 8:36
... 縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し ... 兄弟はここで10人斬りの働きをするが、遂に兄十郎が仁田忠常に討たれた。弟の五郎は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tanrei70/54386804.html

◇河津桜~!
2007/2/17(土) 午前 6:45
... 兄弟はここで10人斬りの働きをするが兄十郎が仁田忠常に討たれた。弟の五郎は頼朝の館に押し入ったところを取り押さえられた。頼朝の館に押し入ったことは謎とされ、兄弟の後援者「北条時政」が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件だという ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/w1919taka/28883049.html

◇1月27日、実朝忌
2007/1/27(土) 午後 11:56
... 北条時政(1138~1215) 北条政子の父 初代執権  源頼朝が ... 有力御家人であった梶原景時や源頼家の 外戚に当たる比企能員(ひきよしかず)らを大江広元・仁田忠常らと共に殺害。1200年旧暦1月 執権就任。  また、源頼家を将軍から廃したうえで ... http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/27681351.html


◆00200 粉河祭

2009年09月19日 | 日本の山車
◆00200 粉河祭
和歌山県紀の川市(旧粉河町)粉河
産土神社
祭は七月下旬。
燈明臺を曳く。

□山車(燈明臺)
・本町
・中町
・東町
・北町
・葵町
・根来町
・天福町
・這上り町
・鍛冶町
・石町
・蔵之町
・松ヶ枝町

□汎論
粉河街道
泉佐野市から和泉山脈の灯明岳、三峰山を越え、紀の川谷に通じる街道は、粉河寺への参拝街道として古くからにぎわった。
粉河町
紀の川の北岸に粉河寺の門前町として発達し、伊勢と淡路街道の分岐点で、高野大門にいたる西高野街道にいたる河港だった。
粉河寺
風猛山粉河寺といい、七七〇年(宝亀一)の創建と伝えられ、天台宗の西国三十三所霊場第三番の札所である。鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北共四キロ余りの広大な境内地があったといい、寺領四万余石を有していたが、天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の兵乱にあい焼き払われた。このとき多くの寺宝を焼失したが、再建され、江戸時代は紀州徳川家の保護や信徒の寄進によつて徳川時代中期に現在の諸堂が完成した。那賀郡第一の大郷といわれる町となった。古来釣鐘の鋳造がおこなわれ、粉河鍛冶町ともいわれた。粉河寺の多宝塔は国宝の指定を受け、八暢神社、大日堂などがある。
有名な粉河寺縁起絵巻、絵巻物の一巻が伝わる。粉河寺縁起絵巻は鎌倉時代初期、十二世紀後半に絵巻に描かれたという。絵巻は粉河寺の縁起と本尊千手観音の霊験説話を描く。もとは二巻だったが、いまは一巻にまとめられている。火災で巻頭部を失った。第一の説話は、宝亀元年(七七〇)に大伴孔子古が千手観音を祭り、粉河寺を開いた由来、第二の説話は河内国の長者の娘が観音の加護をえて難病から救われたという霊験絵物語である。粉河町では、燈明台と呼ぶ丈の高い独特の山車(燈明臺・だんじり)を曳く。

□問い合わせ
紀の川市商工観光課
電話0736-73-3311

□外部リンク
◇今昔物語------道成寺
2009/8/24(月) 午前 7:51
... この寺の縁起絵巻に見える安珍、清姫伝説を基に、この物語が今昔物語に 記録されたのではないかと思われる。 ... 怖ろしげな大蛇が毒液を 吐きながら街道へ出たかと思うと鎌首を持ち上げて街道を京へ目指して疾走してゆく。 あまりの恐ろしさに ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/t3814102/54949501.html

◇「京の夏の旅」千本えんま堂~北野天満宮~六道珍皇寺
2008/7/19(土) 午後 9:10
... かつて街路や街道の要所にあった道祖神のようなもの。怖い表情の中にも可愛らしさがあり、見に行った甲斐がありました。ヒューレッドパッカード社による、国宝「北野天神縁起絵巻」のデジタルコピーも必見。色彩鮮やかというだけではなく ...
1
 http://blogs.yahoo.co.jp/tarere3/34610247.html

◇0月28日、「国宝 信貴山縁起絵巻」の特別公開
2007/10/28(日) 午前 5:00
... 10月28日は、「国宝 信貴山縁起絵巻」が特別公開されます。  「信貴山縁起絵巻」は、朝護孫子寺にまつわる物語を表し、寺を再興した命蓮上人が興した数々の奇跡を、3巻の絵巻物に納めています。 ... 道中、街道沿いの民家で命蓮の消息を聞く尼公の姿があり ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/37740714.html

◇歩いて・・温故知新(^O^)
2006/7/18(火) 午後 1:48
... ③信貴山朝護孫子寺 国宝の信貴山縁起絵巻は、源氏物語絵巻と並び称されるほどの傑作。 年2回(春と秋)、一般に公開される。 ... 石標が点在するとおり、信貴山詣で賑わった往時の恩智街道が偲ばれ黒壁の民家も風情。恩智神社境内を抜けて ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/dhr122006/12652239.html

◇石山寺縁起絵巻〔いしやまでらえんぎえまき〕
2006/7/3(月) 午後 5:48
... 14世紀前半に成立した『石山寺縁起絵巻』は、寺の創建の由来と、本尊である如意輪観音にちなむ霊験説話を集成したもので、国の重要文化財に指定されています。 1、街道をゆく馬借 近江国石山寺の縁起や信仰を伝える、鎌倉時代末期成立の「石山寺縁起絵巻」に ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/hehualu2000jp/38744370.html