暘州通信

日本の山車

◆28887 久米仙人

2009年09月19日 | 日本の山車
◆28887 久米仙人
 久米仙人は備前の国のひとだったが、吉野で修行して仙力をつけ、天平年間に大和国吉野郡龍門寺の近くに住まい。ときどき雲に乗って出かけたが、久米川の辺で洗濯する美女の脛(はぎ)に見惚れて神通力を失い、墜落したとされる人間臭い仙人で、ここまでの話はよく知られる。しかし、その後の久米仙人の行跡は案外知られていない。
 その後のお話をかいつまんで紹介すると、美女に見とれて雲から落ちた久米仙人は、美女とめでたく夫婦になり幸せに暮らしていたが、ときに都の造営が盛んに行われていて、斐太の工も大勢従事していた。しかし肝心の材木の到着が遅れるばかりで工事は大幅に遅延するばかりで、困り果てていた。
 久米仙人が雲から落ちてきた仙人であることを知っている工事現場の官吏が揶揄って、久米仙人に「お前も仙人の端くれなら何とかしたらどうだ」と声をかけた。
 久米仙人は女房と語らい、一頭の神馬をつくり、大和と山城境の木津の湊にあがった材木を瞬く間に橿原の地まで運搬し工事の遅れはたちまち取り戻すことができた。人々は感嘆して「これは斐太ではなく飛騨だ」とうわさしたという。これ以来斐太は飛騨とも書かれるようになったという。久米寺のちかくに飛騨町がある。
 飛騨高山の秋祭・櫻山八幡宮の祭には下二之町の山車「仙人臺」と「神馬臺」が曳かれるが、久米仙人の伝説に因んでいて、創建時は一組であったといわれる。高山の屋臺はしめやかに、荘厳に曳かれるが、江戸時代にはこの神馬臺はしばしば暴れ騒動を起こし、他の山車組は腫れ物に触るように近寄るのを遠慮したという。神馬臺が暴れるのは神馬のせいだといい、ひと癖ありそうな神馬を屈強の馬丁ふたりが立ってしっかり手綱を引き締めている。
 都の造営になぜ吉野の材木が使われず距離のある木津川から材木を運んだのか。吉野下市と、橿原のあいだに峠があるというのは理由にならない、奈良には平城坂(ならさか)がある。ともに平坦ではない。理詰めで考えないところが伝説の面白いところだろう。
 久米仙人の伝説は、『久米寺流記』、『徒然草』、『発心集』、『今昔物語集』、『扶桑略記』、『七大寺巡礼私記』、『元亨釈書』そのほか多数の書に紹介されている。

□外部リンク
●八幡祭(秋の高山祭り)
2005/10/12(水) 午後 11:57
... 3枚目:金鳳台(きんぽうたい)神功皇后・武内宿禰人形 ★4枚目:仙人台(せんにんたい)久米仙人人形 ★5枚目:行神台(ぎょうじんたい)役の行者人形 ★6枚目:神楽台 ... 三町には素敵なお店がいっぱい☆ ★12枚目:神馬台(じんまたい)神馬・馬丁人形 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/daidaiiro_memory/13809154.html

最新の画像もっと見る

コメントを投稿